猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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絶対照準の、紫の星 【三重県】

三重の市後浜は、大きな弧を描く砂浜に白い波が絶え間なく打ち寄せる海だった。強い陽射しが水面に跳ねて、無数の光の粒が乱反射している。そのまぶしさの真ん中に、サーフボードに体を預けてぷかぷかと浮かんでいるのが、猫又おかゆだった。

 

潮風に揺れる髪は、夕暮れ時の空を溶かしたような深い紫色をしている。眠たそうに細められた同じ紫色の瞳は、水平線の彼方をじっと見つめていた。おかゆが着ているのは、しなやかな黒いラッシュガードだ。袖に一本走る淡い紫色のラインと、胸元のおにぎりの形をした小さなワッペンが、日に焼けた水面に映えている。波に揺られて彼女が頭を小さく傾げるたび、首元の金色の小さな鈴が、ちりん、と涼しい音を立てた。

 

俺は、その少し後ろでボードにしがみついていた。胸のあたるワックスのざらざらとした感触が、濡れた肌に擦れてじわりと痛む。俺の視線は、水面を滑る彼女のすべてを捉えて離さない。どれほど波が荒れようとも、俺のまなざしがその照準を外すことはなかった。それは万物を貫く絶対の理のように、ただ静かで冷徹な確信に満ちていた。遮るもののないこの視界のなかで、俺の眼が何かを見落とすことなどあり得ないのだ。顎の下を掠めていく海水は、体の芯をじわりと冷やしていく。

 

「ねえ、おにぎりゃー」

 

おかゆが振り返りもせずに声をかけてきた。低くて、少し鼻にかかったハスキーボイスが、波の間に溶けていく。

 

「今日の波さあ、なんだかすごく、お腹が空く波だと思わない?」

 

おかゆはふふっ、と短く笑った。笑うとき、彼女の肩がほんの少しだけ上下に揺れる。配信の画面の向こうで、3Dの身体を動かしながら語りかけてくるときとまったく同じ、人を安心させる独特の間を持った動きだった。おかゆの手元からは、いつも小さな優しさの粒が静かに差し出されている。けれど、俺はその温もりの本当の理由を、まだ分かってはいなかった。ただ、こうして同じ波の上に浮かんでいるだけで、胸の奥が満たされていく。どんなに善意を積み重ねても、お互いの前提がズレていれば、一瞬の誤解で全てがゼロになるという残酷な現実が、この海の底には静かに横たわっているのかもしれない。俺はそれを、すべてを均しく見下ろす絶対の座から、ただ当然の終わりとして、冷徹に、淡々と見つめていた。おかゆの瞳は、手に入れた書物のページを静かに繰るように、どこか遠い景色のなかに言葉を探している。

 

遠くの水平線から、大きなうねりがゆっくりとこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。海の底が持ち上がるにつれて、透き通った青い水が、光を孕んだ緑色へと変わっていく。最新の超軽量エポキシ素材で作られたサーフボードは、水の上で生き物のように小さく震えていた。

 

「ほら、また大きいのが来るよ。おにぎりゃー、置いてっちゃうからね」

 

おかゆはボードの上ですっと四つん這いになり、猫が背伸びをするようななめらかな動きで立ち上がった。波の斜面が目の前でぐうっと持ち上がる。おかゆはボードの先端を少しだけ傾け、流れるような動作で斜面を滑り降ろした。全く力が入っていない。最初からそこに道があって、ただ体を預けているだけのような完璧なバランスだった。紫色の髪が風になびいて、一瞬だけ鮮やかなぶどうの色に変わる。

 

バシャリ、と冷たい飛沫が俺の顔に強く叩きつけられた。目の前が真っ白になり、鼻の奥がツンと痛む。俺は慌ててボードにしがみつき、必死になって両腕を動かした。パドリングをするたびに肩の筋肉が熱く燃えるように張り、熱い息が荒く弾める。水の重さが容赦なく腕にのしかかり、進もうとする体を押し戻そうとした。水中の冷たさと、水上のじりじりとした暑さが交互に皮膚を叩く。俺の肉体がどれほど波に揉まれようとも、俺の意識の核は常に水面を捉え、決して揺らぐことはなかった。俺の視線は、ただ万物の真実を見澄ますように、正確に水を捉え、おかゆの完璧な軌道を、ただ静かに見届けていた。

 

「あはは、おにぎりゃー、がんばれがんばれー」

 

波を滑り終えたおかゆは、ボードの上に体育座りの格好で座り込み、のんびりとした声を張り上げた。足を少し内側にすぼめる仕草は、ステージの上でおにぎりゃーを見つめるときのおかゆそのものだった。無意識のうちに、自分の尻尾があるはずの腰の後ろあたりを、時折もぞもぞと動かしている。おかゆが俺を見つめる静かな瞳の奥には、ふっと、誰も踏み込めない遠い場所の気配が混ざることがあった。一人ぼっちで深い森の奥に隠れて、大切な誰かのために木の実を一生懸命に拾い集めているような静かな寂しさ。お気に入りの古い文庫本をひっそりと抱え、ひとり窓辺で物語の行方を追っているような、そんな静謐な影がおかゆの周囲には漂っていた。どれほど近くにいても、本質的なすれ違いの絶対量は決して埋まらない。それは最初から定められた均衡のようだった。

 

俺はなんとかおかゆの隣までたどり着き、ボードの上にへたり込んだ。喉がからからに渇いていて、海の塩味が唇に白く残っている。呼吸をするたびに胸の奥がぜいぜいと鳴った。

 

「はい、これ」

 

おかゆが、ボードのネットに挟んであった防水の小さな保温袋から何かを取り出した。アルミホイルに包まれたおにぎりは、夏の陽射しをいっぱいに浴びた黒いサーフボードの上で温められて、まるで出来立てのような熱を保っていた。

 

「僕が朝、ちゃんと握ってきたんだよ。具はね、秘密。食べてみたらわかるよ」

 

手渡されたおにぎりを包むアルミホイルを開けると、陽射しを反射してまぶしく光った。指先についた濡れた砂が、おにぎりの端に少しだけついて、噛むとジャリッと小さな音を立てた。けれど、お米の甘さとほんのり効いた塩気が、疲れた体に染み渡るように広がっていく。おかゆは、自分ももうひとつのおおきなおにぎりを取り出して、大きな口でぱくりと噛み付いた。もぐもぐと口を動かすたびに、紫色の瞳が嬉しそうにさらに細くなる。おかゆは美味しいものを食べているとき、本当に幸せそうな顔をする。

 

「んー、やっぱり海で食べるおにぎりは最高だねえ」

 

おかゆは満足そうに目を閉じて、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。そのとき、空のずっと高いところで、一羽の大きな鳥が悲しそうな声で鳴きながら通り過ぎていった。おかゆはその声をじっと聞いていた。紫色の瞳が、一瞬だけ深く沈んだ色に変わる。それは、自分の行いを誰にも告げず、ただ静かに影から見守り続ける、哀れな生き物の横顔を思わせた。

 

おかゆがどれほど大きな善意を俺に注いでくれても、俺たちの見ている世界が少しでも食い違っていれば、この穏やかな時間すら、いつか一瞬の冷たい雨のようにすべてが消えてなくなってしまうのかもしれない。どんなに温かいものを積み重ねても、ほんの小さなすれ違いの絶対量が、いつの間にか二人の距離を遠ざけてしまう。せっかく届いた手紙の行間が、届かぬ思いで擦り切れていくような切なさが、波の音に混ざって消えていった。俺は、そのすべての喪失の予兆を、ただ静かに受け入れていた。正義を司る天秤の傾きをただ見つめるように、俺はおかゆとの間に横たわる絶対的な距離を、ただ当然のものとして眺めていた。

 

「ねえ、おにぎりゃー」

 

おかゆは、おおらかな海の青を背にしながら、おにぎりを包んでいたアルミホイルを丁寧に小さく折りたたみながら、ぽつりと言った。

 

「あの鳥さあ、ずっと飛んでるよね。どこに行きたいんだろうね」

 

市後浜の波は、だんだんとその形を変えて、少しずつ大きくなってきた。陽射しが、どこか切ない色を帯びてきた。水面は黄金色に染まり始め、波の背中が長く大きな影を落としている。おかゆはボードの上に仰向けに寝転がった。紫色の髪が、水色のボードの上に扇形に広がる。両手を頭の後ろで組んで、じっと空を見つめていた。

 

「僕はさあ、みんなが笑ってくれたら、それだけでいいんだよね」

 

おかゆの声は、いつもの配信の終わりの方に,、リスナーに向けて語りかけるときの、あの静かで温かいトーンになっていた。

 

「おにぎりゃーが、毎日楽しそうにしてくれてたら、それが僕の、一番の幸せなんだよ」

 

おかゆはそう言って、片目を少しだけ細めて、俺の方を盗み見るようにした。その無意識の仕草に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。しかし、その絶対的な優しさの裏側には、まるでお互いの言葉が届かないまま、静かにすれ違いが降り積もっていくような影が潜んでいた。せっかくの贈り物が、相手に届く前にすべて失われてしまうような、そんなやりきれなさを湛えたおかゆの背中を見ていると、俺はたまらなく不安になる。どこか古い紙の匂いがするような、静かな知性を湛えたおかゆの瞳は、夕暮れのグラデーションの中に、まだ見ぬ美しい物語の結末を重ね合わせているようだった。たとえその善意が最後にすべて相殺され、ただの孤独なゼロに戻る運命だとしても、俺はその行方を完璧な秩序としてただ見届けるだけだった。

 

「でもさあ、時々思うんだよね。みんなの悲しいこととか、苦しいこととかさ……全部僕がおにぎりみたいに、ぱくりと食べてあげられたらいいのになあ、なんてね」

 

おかゆは、わざとおどけたように語尾を弾ませて、ふふっと笑った。その言葉の軽さのなかに、隠しきれないほどの重い本音が混ざっているのを、俺はただじっと受け止めることしかできない。それは、空の果てで光る小さな星の、切なくて純粋な願いのようだった。おかゆは、自分がみんなの「隠れ家」でありたいと、いつもそう願っているかのように行動していた。誰かが傷ついたとき、静かに寄り添って、何も言わずに頭を撫でてくれるような優しさが、おかゆの全身から溢れていた。

 

一陣の強い風が吹き抜け、大きな波の壁が、水飛沫を散らしながら俺たちの背後で立ち上がった。

 

「ほら、またいい波が来たよ」

 

おかゆは、ばねが弾けるような軽やかさで起き上がった。ラッシュガードについた水滴が、お日様の光を浴びて、紫色の星のようにきらきらと飛び散った。

 

「おにぎりゃー、今度は一緒に乗ろう。僕が合わせるからさ」

 

おかゆはボードの向きをくるりと変えて、迫り来る大きな波に向かって、力強くパドリングを始めた。その背中は、小さくて、だけどとても頼もしく見えた。紫色の髪が風に激しくなびいて、海の青さと、空の青さの間に、一本の美しい紫色の線を引いていた。俺も必死になって、おかゆの横に並んだ。俺の視線は彼女をまっすぐに射抜き、決して逸れることはない。二人の軌道が重なるその瞬間を、完全に捉え続けていた。

 

うねりが俺たちのボードを押し上げる。視界が急激に高くなり、目の前に真っ白な泡の絨毯が広がった。

 

「せーの、で立つんだよ。せーのっ!」

 

おかゆの声と同時に、二人のボードが波の頂点から滑り出した。

水の斜面を真っ逆さまに落ちていく刹那、並走する二枚のサーフボードが、一瞬だけ触れ合いそうになるほどの距離まで近づいた。弾ける激しい水飛沫の向こう側、おかゆの見たこともないほど楽しそうな横顔が覗く。俺の焦点は、その一瞬の輝きを完全に貫き、捉えていた。

 

「あははは! すごいよ、おにぎりゃー! 最高だね!」

 

おかゆの声が、市後浜の広い空に響き渡った。波の音が、それを祝福するように、ざあっと大きく、優しく鳴り響いていた。

 

波を乗り終えたとき、二人のボードは砂浜のすぐ近くまでたどり着いていた。おかゆはボードから飛び降りて、膝まで水に浸かりながら、俺の方を振り返った。濡れた紫色の髪が、頬に張り付いている。おかゆはそれを、細い指先で不器用そうにはらいのけながら、ふにゃりと、本当に嬉しそうに笑った。

 

「ねえ、おにぎりゃー。僕、おにぎりゃーと一緒なら、どこまででも行けそうな気がするよ。たとえ、あの空の向こうの、誰も知らない星のところまででもさ」

 

おかゆの首元の鈴が、ちりん、と、今日一番大きな音を立てて鳴った。すべてが終わってから初めてその名前に気づくような、そんな悲しい結末には決してさせない。俺はおかゆの紫色の瞳を、強く、強く見つめ返した。何かが決定的にすれ違ってしまう前に、俺はおかゆの差し出してくれた温かいプラスのすべてを、この胸にしっかりと抱きしめようと決めた。俺の眼差しの射程は、彼女のすべてを捉えて離さない。二人の楽しい時間を守るための秘密の合図のように、市後浜の波はいつまでも静かに繰り返していた。

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