猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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「画面」の人々

傾いた西日が、剥げかけた漆喰の壁面へねっとりとした血のごとき赤を塗りつけてゆく。七月の暮れ方は、往々にして粘り強い。この東京の片隅に位置する、木造アパートの二階の一室では、空気そのものが澱んだ沼の底のように重く湿っていた。棚の隅に据えられた安物の扇風機が、錆びついた首を不規則に振るたび、生温かい湿気が皮膚を執拗に撫でまわす。私の首筋にたまっていた汗は、じわりと襟元へ染みて、不快な重さを増していった。昭和五十年代の半ば、あの喧騒の時代から引きずってきたような、古びた畳の焦げた匂いが、西日の熱に煽られて室内を満たしている。そもそもこの部屋の家賃は当時としては破格の安さであり、前の住人が残していった古ぼけた文机の引き出しは、湿気で歪んで今や半分も開かない。そのような生活の垢染みた空間に、彼女の存在はあまりにも不釣り合いであった。

猫又おかゆは、部屋の隅の、すでにスプリングのへたった長椅子に、ただ身を横たえていた。

夕闇の迫る光の中で、彼女の頭髪は、不思議な存在感を放っている。古の宮廷人が身にまとった高貴な、あの京紫の深みが、確かにそこには存在していた。伝統の染め師が何度も甕に浸けては干したという、凄艶な色彩である。窓から差し込む陽光の最後の残滓が毛先をかすめるたび、黒い影の中に潜む妖しい紫紺の細波が、網膜の奥へ直接焼き付くように明滅した。

二〇二六年の夏を映したという、この漆黒のサマーニットは、彼女の輪郭を容赦なく浮き彫りにしている。袖を完全に排した仕立ては、肩から腕にかけての、どこか肉感的な起伏を剥き出しにしていた。胸元の深い切れ込みからは、じっとりと汗ばんだ鎖骨の線が鈍い光を放ち、その下に控える確かな肉の質量が、不規則な呼吸とともに小さく上下する。皮膚の表面に浮かんだ微細な汗の玉が、西日を浴びて真珠の粒のように妖しくきらめき、なだらかな傾斜を伝って、ニットの編み目へと静かに吸い込まれてゆく。腰を包むタイトスカートは、さらに深い闇の色を模しており、膝上で裁断された裾からは、しなやかな太腿が畳の上に投げ出されていた。その佇まいは、涼しげでありながらも、見る者の視線を絡めとって離さない生々しさがある。

彼女の指先が、膝の上の平滑な硝子器を滑る。

薄型端末の放つ冷徹な燐光が、彼女の双眸を怪しく浮かび上がらせた。髪と同じ、深く沈んだ伝統的な紫紺の瞳。その瞳孔は、電脳の画面に踊る無数の文字列を追って微細に動いている。配信の向こうにいる何万人もの群衆へ向ける視線と、いま目の前の私を捉える視線の境界は、ひどく曖昧であった。

私は、己の喉が急激に干からびてゆくのを覚えていた。

この女が何を企んでいるのか、その正確な内実は知る由もない。ただ、無意識のうちに己の肉体が放つ熱量を把握し、それを最も効果的な角度でこちらへ投げつけていることだけは、肌裏の戦慄きとして伝わってくる。男を狂わせる己の美質を、呼吸と同じ水準で使いこなしているのだ。首筋から胸元へと伝う彼女の汗の、微かな甘い匂いが、熱気とともに鼻腔を突く。

私の胸中に、ぬるりとした猜疑心が鎌首をもたげる。いま彼女が見つめているのは画面の向こうの衆庶であり、私は単なる退屈しのぎの道具に過ぎないのではないか。そのような焦燥が脈拍を跳ね上げるが、男としての諦念が、それを強引に抑え込んだ。どうあれ、私はこの女の網にかかっている。外の路地を走るオートバイの排気音が、遠くで途切れ途切れに聞こえ、それが妙に私の孤独を際立たせた。

不意に、硝子器の放つ燐光が途絶えた。

おかゆがゆっくりと顔を巡らせ、私を見た。肉厚な唇が、左右に細く裂ける。

「ねえ。さっきから、僕のことばっかり見てるでしょ」

低く、鼻にかかったような声音。現代の街頭で行き交う若者たちが使う、崩れた、しかし妙に耳に馴染む平易な言葉。その軽薄な響きと、彼女の身体が放つ古典的な重厚さとの乖離に、こちらの平衡感覚が削られてゆく。

彼女は端末を伏せると、一切の予備動作なく上体を傾けた。

その刹那、ニットの裾がせり上がり、脇腹の、極めて緊密な皮膚のひだが出現する。そこには薄い汗の膜が張り、夕暮れの光を反射して、まるで濡れた絹のような妖艶な光沢を放っていた。私は思わず視線を床へ逸らし、生唾を深く飲み込んだ。喉仏が上下する無様な様を、彼女の紫紺の双眸は見逃さない。膝がわずかに震え、ズボンの生地が擦れる音が静寂を破った。

「そんなにじっと見られるとさ、さすがの僕も、ちょっとだけドキドキしちゃうなぁ」

声音に動揺など微塵もなかった。

防戦一方に陥っている私の様を、冷徹に見定め、愉しんでいる。彼女の無意識の行動は、私の僅かな反応を養分にして、さらにその艶やかさを増していく。

おかゆは、組んでいた脚を緩やかに解き、左右を入れ替えた。タイトスカートの生地が擦れ合い、乾いた衣擦れの音が響く。彼女の膝頭が、私の膝に触れるかという距離まで接近した。肉の温かみと、膝の裏ににじむ汗の湿り気が、重い大気を媒介してねっとりと伝わってくる。

「君って、いっつもそうやって、何も言わずに僕の次の動きを待ってるよね。そういうずるいところ、嫌いじゃないよ」

その言葉は、私の胸の最も脆弱な部分へ正確に突き刺さった。私は抗う術を持たず、ただ彼女の視線の重圧に耐える。

夕闇は確実に部屋の輪郭を消し去り、私とおかゆの境界さえも曖昧にしてゆく。

彼女が、細い腕を伸ばした。淡い藤色に彩られた爪が、私の視界を遮るように迫る。額に張り付いた髪を、彼女の少し汗ばんだ指先が静かに梳いた。指先から伝わる微かな体温と湿度が、私の思考のすべてを停止させた。

「今夜はさ、どこにも行かないで、僕のそばにいてよ。……ね?」

拒逐を許さぬその甘い響きが、澱んだ空気の中に溶け込み、私を逃れられぬ闇へと引きずり込んでいった。

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