猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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大河を束ねる平坦な夏に、キミと 【埼玉県】

アスファルトが白く爆ぜている。埼玉の国道16号沿い、ガランとした空が広がる庄和排水機場――「龍Q館」のガラス窓は、容赦ない真夏の陽射しに炙られていた。

 

自動ドアが開くと、サウナみたいな熱気が一瞬で削ぎ落とされ、乾いた冷気が皮膚を刺す。平日の館内に人の気配はほとんどない。静まり返ったロビーの床タイルを、二足のスニーカーがただ淡々と踏み鳴らしていく。

 

半歩前を歩く背中。白いノースリーブパーカーの大きな袖口から、日焼けした肩のラインが覗いていた。フードの根元、そこから突き出た紫色の猫耳が、微かな空調の風を拾ってピクリと動く。ショートパンツから伸びる細い脚が、ステップを刻んで二階の展示室へと上がっていく。

 

青と白のパネルが並ぶガランとした空間だ。首都圏外郭放水路のメカニズムを解説するアクリルの模型。その前に、短い紫色の髪が止まる。

 

「にゃはは、見て見てキミ。あそこにある模型、ボタンを押すと水がぶわーって流れるんだよ。おもしろいねぇ」

 

低く、鼓膜の裏側に直接触れてくるようなウィスパー。母音が少しだけルーズに伸びる独特のテンポが、張り詰めた室内の空気を緩ませる。紫色の瞳が、模型のプラスチックの川をじっと見つめていた。

 

「んー、なるほどなぁ……。この江戸川とか中川とかの水を、ぜんぶこの地下の太い管で集めちゃうわけだ。キミ、知ってた? 僕はね、さっき説明を読んで、ぜんぶ完璧に理解しちゃった。すごいでしょ」

 

不意に振り返った顔。細められた紫色の瞳が、こちらの視線を真っ直ぐに捕らえる。息が届くほどの距離。

 

「ほら、こっちには中央操作室があるよ。ガラス越しだけど、なんか秘密基地みたいでワクワクするねぇ。キミ、こういうの好きでしょ? 男の人のロマンってやつ?」

 

ポケットから抜かれた指先が、こちらのシャツの袖口をちょんちょんと引っぱった。軽いコットンの擦れる音がする。

 

ガラスの向こうには、いくつもの巨大なモニターと、規則正しく並んだグレーのデスク。蛍光灯の平坦な光の中に、無数の計器類がただ静まり返っている。

 

 

壁一面に投影された江戸川流域の等高線を示したプロジェクションマッピングが、うねるような青い光を放っていた。その人工的な光が、彼女の顔の輪郭を冷たく切り取る。彼女は展示されたタッチパネルの画面に指を滑らせ、川の流量の数値を次々と切り替えていった。画面が点滅するたび、紫色の瞳の奥にネオンのような光彩が浮かび、また消える。淡々と指先を動かし続けるその横顔には、地上の気の抜けた暑さとは完全に遮断された、別の時間が流れているようだった。

 

しばらく画面を叩いていた彼女が、ふと動きを止め、こちらを振り返る。波打つ青い光が、彼女の首元から鎖骨の窪みへと滑り、白いノースリーブパーカーの影を深く際立たせた。薄暗い空間の中で、その紫色の瞳だけが、湿った熱を帯びて発光しているように見える。彼女は何も言わず、ただこちらの目をじっと見つめ、唇の端をわずかに釣り上げた。電子音だけが小さく鳴り響く狭い空間。彼女の胸元が呼吸に合わせてかすかに上下する。不意に強くなった視線の質量に、こちらの喉の奥が引き締まる。

 

「ふふ、キミ、ちょっと顔が赤いよ? 暑いから? それとも……僕の顔に何か、おにぎりの具でもついてる?」

 

視線が外され、紫色の髪がふらりと別のパネルへと移動していく。自分の前髪を指先でいじる、いつもの仕草。ショートパンツの後ろ、鮮やかな紫色の尻尾が、等間隔で左右に揺れていた。足音は変わらない。

 

「ねぇ、早くあっち行こうよ。キミが遅いから、僕お腹空いちゃったじゃん。終わったらさ、美味しいもの食べさせてよね?」

 

少しだけ声を尖らせる、配信の時と同じ、拗ねたような口調。けれどそのすぐ後、喉の奥で「んー」と満足そうに小さく音が鳴る。

 

展示室の隅にある、地下への連絡口。重苦しい鉄の扉が開かれると、地上の冷房とは明らかに違う、土の匂いを孕んだ強烈なひんやりとした空気が、階段の奥から這い出してきた。

 

「うわぁ、涼しい……! キミ、これクーラー入ってないんだよね? 天然のクーラーだぁ。極楽極楽」

 

首をすくめ、コンクリートの階段を下りていく。

一段ごとに、外の世界の熱気が遠ざかる。百段以上ある灰色のステップは、暗闇の奥へとただ真っ直ぐに伸びていた。

 

階段を数え終わる前に、目の前の空間が信じられない広さで広がった。

 

そこは、光の届かない巨大なコンクリートの底だった。

調圧水槽。長さ177メートル、幅78メートル、高さ18メートル。

天井を支えるために乱立する、59本の巨大なコンクリート柱。一本500トンあるというその巨躯が、薄暗い空間の奥へ奥へと、規則正しく並んで沈んでいる。地底に埋められた、静かな神殿のようだった。

 

「……すご、いね……」

 

声が、湿った壁に反射し、微かな残響となって消えていく。あまりに広すぎるため、普通の声量では言葉が空気の中に霧散してしまうのだ。紫色の瞳が、圧倒的なスケールの天井を見上げている。いつの間にか、隣を歩くその手のひらが、こちらの腕の布地をそっと掴んでいた。地下の冷気のせいで、露出した肌は少し冷たくなっている。

 

天井から不規則に滴り落ちる水滴が、遠くのコンクリートの床でパツン、と硬い音を立てて弾けた。

 

空間の冷徹な静寂が、二人の距離を強制的に狭めていく。音の反響を避けるようにして、紫色の猫耳がこちらへと近づいた。吐息が触れるほどの距離で、低いウィスパーが耳腔を満たす。

 

「ねぇ、キミ。ここに水が満杯になるときって、どんな音がするんだろうねぇ……。きっと、世界の終わりみたいな、すごい音がするのかな。そう思ったら、ちょっとだけ足がすくんじゃった」

 

剥き出しのコンクリートの冷気が、ノースリーブから伸びる細い腕に細かな鳥肌を立てていた。その皮膚の震えが、重ねられた手のひらを通じてダイレクトに伝わってくる。普段の飄々とした佇まいからは想像もつかない、無防備で生々しい体温の交錯。衣服を掴む指先に、微かな力が込められる。

 

水槽の最奥部、第一立坑へと続く闇の手前で、彼女の足が完全に止まった。直径30メートルを超える巨大な筒状の穴が、さらに深い地底へと口を開けている。上空の隙間からわずかに差し込む外光が、水槽内の湿った霧を白く浮かび上がらせていた。彼女はその巨大な虚無を覗き込んだまま、長い間ピクリとも動かない。いつもは退屈そうに揺れる紫色の尻尾が、完全に動きを止め、コンクリートの床にだらりと垂れ下がっている。暗闇の底から吹き上げてくる冷たい突風が、彼女の白いパーカーを激しく羽ばたかせた。その瞬間、彼女の細い首筋に刻まれた黒いチョーカーが露わになり、彼女はまるで世界に一人きり取り残されたかのような、張り詰めた孤独の表情を浮かべていた。

 

彼女はゆっくりとこちらに向き直り、掴んでいた腕の手繰り寄せ方を、ほんの少しだけ変えた。指先がファブリックを離れ、直接こちらの素肌へと滑り込む。冷え切った彼女の指が、こちらの熱を持った手首の脈拍に触れた。彼女は驚くほど小さな声で、言葉にならない吐息を漏らす。その瞬間、巨大な地下空間のノイズがすべて消え失せ、鼓動の音だけが拡大されたように響いた。彼女の紫色の瞳が、こちらの視線を完全に捕らえて離さない。一瞬の、しかし永遠のような膠着。彼女の指先から伝わる微かな震えが、ただの静寂を、ひどく濃密な意味を持つ時間へと変質させていた。

 

「にゃはは! 見てよキミ、あっちの柱の根元、なんか影が人の形に見えない? ほらほら、あそこ。もしかして、地下神殿の守り神だったりして。……冗談だよぉ、そんなにビビらないでよ、キミは可愛いねぇ」

 

冷たい柱の表面に、紫色の爪が触れる。硬質な音が暗がりに響いた。

 

「僕たちのやってる配信もさ、なんかこれに似てる気がするんだよね。みんなが普段、学校とかお仕事とか、色んな日常を過ごしているその裏側で、僕たちはいつでもここにいるよーって、大きな器を開けて待ってるの。嫌なこととか、辛いことがあったら、ここに全部流し込んじゃいなよって、そんな風にさ」

 

ゆったりとした、しかし確固たる質量を持った聲音。

 

「なーんてね! ちょっとカッコいいこと言っちゃった。キミ、今の録音してた? 恥ずかしいから忘れてねぇ」

 

肩をぽんと叩く手のひらの感触。紫色の尻尾が、またいつもの速度で左右に揺れ始めた。

 

地上への鉄の扉を抜けた瞬間に、世界が反転した。湿った土の底から引きずり出され、網膜に飛び込んできたのは、見渡す限りの圧倒的な「埼玉」の平面だ。利根川と荒川、江戸川という無数の大河が何百年もかけて泥を運び、徳川の治水が無理やり一本に束ねて作り上げた、どこまでも果てのない関東平野の最深部。遮るもののない大空の下、中川や倉松川が這う泥臭い田園風景が陽炎の中に溶けている。視界を遮るのは山ではなく、等間隔に並んだ送電線の鉄塔と、大型トラックが砂煙を上げて行き交う国道16号線の味気ないロードサイド店舗の看板だけだ。利根川の、あの狂暴な濁流をすべてこの地底の神殿で受け止め、江戸川へと吐き出す。これほどの巨大な土木事業が必要なほど、この埼玉の低地は深く、果てしなく、そしてただ平坦に、夏の白日夢の中で熱を孕んで膨張していた。

 

「うひゃあ! あついあつい! やっぱり地上は地獄だぁ〜」

 

白いノースリーブパーカーのフードを軽く被り直し、自動販売機へと小走りで向かう後ろ姿。

ガタコン、と重い音が二回響き、冷えた緑茶のペットボトルが二本、取り出し口に落ちた。

そのうちの一本が、こちらの頬に容赦なく押し付けられる。結露した水滴が皮膚を伝って滑り落ちた。

 

「はい、キミの分。……ん、何その顔。冷たくてびっくりした?」

 

キャップをひねるプラスチックの音。ごくごくと喉が鳴り、唇の端からこぼれた一滴の水滴が、白い首筋を伝ってタンクトップの胸元へと消えていく。それを手の甲で大雑把に拭い、紫色の瞳がこちらを真っ直ぐに見据えた。

 

「地下神殿、楽しかったねぇ。でも、やっぱり僕は、キミと一緒に歩く、この暑い地上の方が好きかな。……ねぇ、この後さ、どっかで美味しいおにぎり、食べに行かない? 近くにいいお店、調べておいたんだよね」

 

白いスニーカーが、再びアスファルトを蹴る。

紫色の髪が夏の光を浴びてきらめき、二つの影が、どこまでも平坦な埼玉の道に長く伸びていった。

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