伊勢崎の駅舎をかすめて吹く風には、まだ昼の熱がまとわりつくような湿気が残っていた。高架下が落とす濃い影のなかに車を滑り込ませれば、まばらな人波の向こうから、両毛線の錆びた鉄粉の匂いが夜気とともに鼻腔を突いてくる。そこへ、改札口の灯りを背にして、藍色の細いノースリーブのチェックシャツが音もなく滑り込んできた。猫又おかゆ。首元に巻いた黒いチョーカーに白い指先が触れ、リネン地の黒いパンツから伸びる足首が狭い足元で静かに交差する。上着を持たぬ細い肩の皮膚は、盤面が放つ緑色の計器の光を浴びて、どこか実形を欠いた硬質な白さを帯びていた。座席の背に深く身体を預けるその一連の動作には、風が草をなでるようなしなやかさがあり、車の機関が低い唸りを上げるなか、ゆっくりと、視線だけがこちらへ注がれる。
「んー……なんかさ、夜の匂いがするね」
低く、耳の奥にへばりつくような声であった。語尾の響きがわずかに引き延ばされ、密閉された車内の空気を均一に満たしていく。急ぐでもなく、待つでもない。世界の時間を自分の脈拍に引きずり込むような独特の間が、言葉の背後に居座っている。紫の瞳が、横からこちらの視線を捉えた。いたずらっぽく細められたその双眸が、計器類の微光を反射して、底の知れない硝子玉のように光る。見つめられた側の喉の奥が、乾いた音を立てて収縮した。
「ねえ。お腹、空かない?」
車は北へ、前橋の平坦なアスファルトを切り裂いて進む。街灯の間隔が広がり、窓外の暗闇が濃さを増していく。助手席がわずかに位置を退くたび、収納の鍵が小さく軋んだ。その弾みに、わずかに開いた隙間から一枚の紙片が覗く。茶色の犬の耳をつけた、見慣れた少女のブロマイド。それが夜光に浮かび上がった瞬間、おかゆの細い指先が、鍵のあたりを無言でなぞった。爪がプラスチックを引っ掻く、かすかな音が静寂に刺さる。紫の瞳が細められ、こちらに向く視線の温度が一段と低くなった。向けられた眼差しには、凍りつくような密やかさがある。言葉はなく、ただじっとその紙片を見つめた後、彼女はゆっくりと首元をさすり、ふう、と息を吐き出した。その横顔に浮かぶ、一瞬の冷ややかな陰。それが、車内の空気を刺すような重さで満たしていく。
「こういう夜ってさ、なんか悪いことしたくならない?……冗談だけどね」
吐き出された言葉の切れ端が、ぬるい風にさらわれて消える。おかゆの唇の端が、ななめになだらかな弧を描いた。声は一切漏れない。ただ、喉の奥をかすかに震わせ、肩を小さく揺らすその仕草だけが、無言の笑みを室内に満たしていく。その横顔の、肉の薄い耳たぶの輪郭に、引き返せない境界の冷たさが張り付いていた。おかゆは窓を三センチだけ下ろし、流れ込む夜の草の匂いに、静かに目を細めていた。
中央前橋の駅舎から漏れる蛍光灯の光は、湿った夜気の中で澱んでいる。駅前を流れる広瀬川の水音が、誰もいない夜の街に不気味なほど低く響き渡っていた。駅前広場から折れた一本の路地。ひび割れたコンクリートの雑居ビルが、闇のなかに口を開けている。錆びついた手すりを伝い、湿気と古い煙草のヤニが層をなす階段を地下へと下りる。
地下の空気は、カビと過熱した電子基板の死臭が混ざり合っていた。並ぶのは、数十年前のタイトーやセガの縦型筐体。剥き出しのブラウン管が、ジジジと低い電子音を立てながら、青白い原色の光を狭い空間に撒き散らしている。静寂が、耳の奥の鼓動を鋭く尖らせた。
「わあ……すごい。タイムスリップしちゃったみたい」
弾むような、しかしトーンの低い声。おかゆは自身の爪を軽く弄びながら、二階建ての筐体の列を品定めするように歩く。その足取りには、迷いという澱みがない。藍色のノースリーブから伸びる、肉の薄いしなやかな腕が、筐体の放つ冷たい光を反射して妖しくきらめく。
「これ、やろうよ。格闘ゲーム。もぐもぐおかゆおにぎり塾の門下生としては、負けられないよね?」
凹みのついた百円玉が、汚れたプラスチックの筐体の上にコトと置かれた。指先が手垢で変色したレバーに触れた瞬間、彼女の纏う風調が凪から密やかな獣のそれへと転じる。向けられた視線の鋭さに、こちらの右手の指先が強張る。手のひらにじっとりとした油脂が滲んだ。コインが落ちる重い音が、筐体の腹の底で反響する。画面の中でドット絵の塊が踊り出す。おかゆの手首は驚くほど柔らかく、しかし冷徹な正確さでレバーを弾いた。ボタンを叩く音が、静かな地下室に一定のリズムを刻んでいく。古い機械の歯車が噛み合うような、一切の無駄を排除した息づかい。
「ほら、そっち。隙だらけだよ?」
唇の端を吊り上げたまま、声だけがのんびりと、春の海のように流れる。緊迫した画面の動きと、その声の弛緩。その致命的な乖離に、手元のレバー操作がわずかに狂う。呼吸を一つ忘れるたびに、ドットのキャラクターは画面の端へと追い詰められていった。キャラクターが彼女の繰り出す正確無比な連続技に沈む。KOの文字が画面で赤く明滅する中、おかゆは喉の奥をかすかに鳴らし、静かに肩を揺らした。声を出さずに、目を細めてこちらを見つめるその口元は、研ぎ澄まされた刃物の輪郭に似ている。
「あーあ、勝っちゃった。やっぱり僕、天才かもしれない」
淡々とした口調のまま、紫の瞳がこちらの顔の皮膚を這うように覗き込んでくる。その瞳の奥にある冷たい光が、こちらの脈拍を不自然に跳ね上げた。頭の芯が、麻痺していく。ゲームセンターを出ると、夜風は鋭さを増していた。おかゆは藍色のノースリーブの腕を少しだけさすり、ふう、と白い息の残滓を吐き出した。空気は、どこまでも乾き始めている。
「次はさ、あそこに行きたいな。ほら、車で少し行ったところにある、あのお店」
指差された方向は、先ほど通り過ぎてきた伊勢崎の、あの平坦な闇だった。
再び夜の国道を走る。窓から入る風はぬるいが、皮膚の表面を冷やすには十分だった。助手席のおかゆは、シートに深く身体を預け、流れる外の景色をぼんやりと眺めている。時折、完全に己の世界に沈み込んだかのように静まり返るその横顔は、言葉をかける隙を一切与えない。その沈黙は、深く、暗い。おかゆは小さく肩を震わせ、声を出さずに愉しそうにくすくすと笑みを深めている。その横顔を見つめるこちらの心臓が、衣服を押し上げるほどに激しく硬い音を立てる。伊勢崎の駅前を通ったときの、あのまばらな人影と錆びた鉄の匂いが、いまも車内の隅に沈殿しているようだった。
車は伊勢崎市の、明かりの落ちた静かな通り沿いにある「自販機食堂」に滑り込んだ。プレハブ小屋のような建物の前に、こう々と灯る自動販売機の群れ。それは現代のコンビニエンスストアとは一線を画す、昭和の遺物たちが放つ、うらぶれた光だった。剥げかけた蛍光灯が、彼女の顔を死人のように青白く、しかし妖しく照らし出している。店内に一歩足を踏み入れれば、古いコンプレッサーの唸り音が鼓膜を震わせた。オレンジ色のパネルが剥げかけた富士電機の麺類自販機、太平洋工業のトーストサンド自販機。絶滅の危機に瀕した機械たちが、ここではまだ現役の臓器のように息づいている。追っ手の目を晦ますには、この死に絶えたような空間が、これ以上ない遮蔽物となった。
「うわあ……これ、テレビで見たことあるやつだ」
おかゆはすぐに、トーストサンドの自販機の前に歩み寄る。財布から古びた百円玉を取り出し、一枚ずつ、丁寧に投入口へと滑り込ませていく。チャリン、チャリン。静かな店内に、金属の音が冷たく響く。
「どれにしようかな。ハムチーズ……うん、やっぱり王道だよね」
ボタンを押すと、自販機の奥でガコンと重い機械音がした。そして、「トースト中」という赤い文字が点滅を始める。おかゆはその文字を、じっと見つめていた。一分、あるいは二分。その沈黙の間、彼女は微動だにしない。ただ、自販機から漏れてくる微かなトーストの焦げる匂いを、静かに、規則正しい息づかいで受け止めているようだった。
「あちち、あちちち」
取り出し口から出てきた、アルミホイルに包まれた熱々のトーストを、彼女は指先で器用に摘み上げた。熱さに顔をしかめながらも、その表情の裏には揺るぎない充足がある。店内の安っぽいプラスチックの椅子に並んで腰掛ける。おかゆはアルミホイルを丁寧に剥がしていく。現れたのは、自販機の熱で少し斑に焦げ目のついた、何の変哲もない食パンだ。しかし、そこから立ち上る湯気は、化学調味料の匂いを含んで鼻腔に刺さる。
「いただきまーす」
彼女は小さく口を開け、トーストを齧った。サクッ、という軽い音が、静かな空間に響く。
「んむ……美味しい。なんかさ、こういうチープな味が、一番染みるんだよね」
咀嚼しながら、満足そうに目を細める。一言喋るごとに、小さな間が空く。そのたびに、こちらの喉の奥がじわじわと干からびていくような感覚を覚える。化学調味料の尖った塩分が、渇いた喉に嫌に刺さった。
「君も、うどん食べなよ。こっちの自販機も気になるでしょ?」
おかゆはトーストを片手に、もう一方の手で隣のうどん自販機を指差した。うどんの自販機にコインが入れられる。ニキシー管のカウントダウンが始まり、二十五秒の後に、プラスチックの器に入った天ぷらうどんが、ゴト、と落ちてきた。器は熱く、少し酸味のある出汁の匂いが一気に広がった。テーブルにそれが置かれると、おかゆは自分のトーストを一口残したまま、こちらのうどんをじっと見つめてきた。
「ねえ……一口、ちょうだい?」
上目遣いで、声を少しだけ掠れさせて。その響きに、胸の底を直接冷たい刃で撫でられたような感覚が走る。箸を受け取ると、彼女は嬉しそうにそれを動かし、ふうふう、と出汁を吹きながら、器用にうどんを啜った。
「んー! この、ちょっと伸びた麺が最高。出汁も濃くて、夜の身体に効く感じ」
スープを一口おもむろに飲み、満足げに息を吐いた。その唇が、出汁で少しだけ濡れて光っている。自販機食堂の明かりの下、おかゆの肌はどこか現実味を欠いた白さを見せていた。彼女は残りのトーストを平らげると、指先についた小さなパン屑を、ぺろり、と舌で舐めとった。その薄い唇の間から覗く小さな舌の動きが、自販機の放つ鈍い光のなかで、ひどく扇情的に網膜へ焼き付く。無防備な仕草から目が離せなくなる。
「あー、食べた食べた。お腹いっぱいになると、眠くなっちゃうね」
おかゆは背もたれに体重を預け、大きく伸びをした。ノースリーブの袖口から、柔らかな曲線が覗く。
「ねえ、まだ帰りたくないな」
おかゆの声が、低く、鼓膜に染み込んできた。紫の瞳が、じっとこちらを見つめている。だが、その瞳がふと、自販機の出す緑色の光の影に隠れた。彼女は小さく、本当に小さく、吐き出すようなため息をもらした。いつもならすぐに浮かべるはずの悪戯っぽい表情が、その瞬間だけはどこにもなかった。
「……あのさ。明日になったら、今の僕のこと、忘れちゃう?」
その声は、いつもの飄々とした調子を完全に欠いていた。ただの一人の少女が、夜の暗がりに取り残されるのを恐れているかとしての、震える響き。掴まれた袖の指先に、かすかな力が込められる。それは、この夜だけの、彼女の本当の輪郭だった。
「冗談だよ、なーんてね。……じゃあ、あいつを消してきてよ」
おかゆはすぐに椅子の背から身体を起こした。先ほどの揺らぎを、まるでなかったことにするかのように。その細い指先が、こちらの胸元をそっと突き放す。そのタッチは羽毛のように軽かったが、残された体温は恐ろしく冷たい。彼女の顔には、すべてを手のひらで転がしているような笑みが戻っている。声を出さずに、喉の奥を小さく震わせて愉しそうに笑う仕草が、自販機の緑色の光の中で明滅した。おかゆの視線は、自動ドアのガラス越し、劇場の舞台袖のように佇む車の、グローブボックスに眠る、あの茶色い耳の少女の紙片へと向けられ、その口元がわずかに、引きつるように冷たく歪んだ。
「次はどこ行こっか。夜は、まだ長いよ?」
彼女はくるりと背を向け、自販機食堂の入り口へと歩き出した。その背中は、先ほどまでの感傷を微塵も感じさせないほど、すっきりとしていた。歩くたびに、藍色のチェックシャツの裾が夜風に揺れる。自動ドアの手前で、彼女はピタリと足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔には、先ほどまでの翳りなどどこにもなく、冷徹なまでの静けさを湛えた悪戯っ子の笑みが張り付いていた。おかゆは声を出さずに、ふふ、と喉の奥を震わせ、満足そうに目を細めた。すべては計算だったのか、それとも一瞬の弱さすらこちらを完全に手玉に取るための罠だったのか。それを確かめる術は、もうない。彼女の細い指先が、今度は手招きをするように小さく動く。
「ほらほら、早く来ないと置いてっちゃうよ? 車、僕が運転しちゃおっかなー」
彼女はキーを指先で回しながら、小さく舌を出した。その視線は、こちらの困惑を完全に楽しんでいる。車のライトが彼女の横顔を照らし出し、影が夜の闇へと長く伸びていく。騙されていると分かっていても、その足は彼女の背中を追うことしか選べない。
「ん、どうしたの? そんなに僕から目を離せない? いいよ、もっと見てて。でも、捕まえられるかな?」
おかゆは声を出さずに胸を小さく上下させ、口元を歪めて笑った。細い首を少し傾げ、髪の隙間から覗く紫の瞳が、こちらの足元を値踏みするように見つめている。その唇は一切の声を漏らさない。ただ、夜風に揺れる藍色のチェックシャツと、時折鳴る車のキーの金属音だけが、彼女の無言の嘲笑を代弁していた。彼女は一度も声を立てて笑うことはなかった。ただその瞳と、細く吊り上がった口元だけが、この夜のすべてを支配していることを物語っている。
「……なーんてね。君、本当にあの子のところへ行っちゃいそうな顔するんだもん」
それだけをぽつりと残し、おかゆは再び歩き出す。夜風が藍色のノースリーブの裾を激しく煽り、チョーカーの黒が首筋の白さを際立たせていた。彼女は一切の声を漏らさず、ただ肩を小刻みに揺らすだけで、闇に同化するように進む。その口元に刻まれた冷徹な歪みは、収納のなかに隠された嫉妬の理由をあらかじめ知悉していたかのようだった。足跡は、音もなく暗がりのなかに吸い込まれていく。