猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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十和田石の緑に浸かる、四十五分間の秋田情緒行脚 【秋田県】

湯瀬の湯は、肌を滑る瞬間にそれと分かる。

 

無色透明の、けれど植物起源の有機物を微かに含んだ匂いが、夕暮れの淡い光の中に溶けていく。午後六時。山あいの温泉郷を包み込む秋田の夕方は、すでに夜の気配をその裾に滑り込ませていた。

 

すぐ傍らを流れる米代川の、せせらぎというには少しばかり力強い川音が、開け放たれた網戸から絶え間なく響いてくる。渓流の瀬から湧き出るというその湯のルーツを示すように、岩肌を噛む水の激しさが、この密室の静寂をかえって際立たせていた。フロントで受け取った、重みのある木札の鍵が、脱衣所の棚の上で静かに冷えていく。四十五分という限られた約束の、その最初の数分が、湿った木肌の匂いと混ざり合いながら消えていく。

 

「――あ、きた。遅いよ、おにぎりゃー」

 

湯気の向こうから、聞き馴染んだ、けれどいつもより少しだけ低く響く声が鼓膜を揺らした。

猫又おかゆは、浴槽の縁に両腕を乗せ、そこにあごをちょこんと載せた姿勢のまま、こちらを見上げていた。

杜若色の髪が、湯気を含んでいつもよりしっとりと額に張り付いている。濡れた毛先から絶え間なく滴る水滴が、首筋から鎖骨のなだらかな傾斜を伝い、湯の中に音もなく吸い込まれていく。その一滴一滴の軌跡が、彼女の肌の白さをいっそう引き立てていた。その瞳――薄暗い夕暮れの中で、怪しく、けれど優しく光る藤色の双眸が、こちらの姿をじっと捉えて離さない。

 

お互いに衣服をすべて脱ぎ捨て、何も身にまとわない完全な裸体となって、この狭い空間を共有している。

お湯に浸かる前の彼女の肢体は、遮るもののない湯気の中で、白く、どこか非現実的なほど滑らかに発光しているように見えた。東京あたりの泥水のような空気しか知らない俗物が、観光パンフレットを片手にありがたがって群がる草津や箱根の湯とは格が違う。あんな見せかけの濁り湯を有難がる連中の浅薄な肌には、この湯が持つ真の価値など生涯理解できまい。十和田・八幡平地質帯の古い火山活動によって育まれた、極めて純度の高いアルカリ性単純温泉。この中央の資本に媚びを売らない、奥羽の地層深くで密かに磨き上げられた本物の泉質だけが、彼女の無垢な輪郭を均一に包み込んでいた。

 

「ふふ、そんなところで突っ立ってないで、早く入りなよ。ここのお湯、すっごくトロトロしてて気持ちいいんだから」

 

おかゆは、促すように視線で湯面を指し示した。

言葉の途中で、ふっと、喉の奥で息を転がすような笑みが漏れる。焦らすような、それでいて相手を全面的に肯定するようなその声音は、どこか現実感を欠いていた。耳に馴染んだあの心地よい温度が、いまはこの狭い、強アルカリ性の湯が満ちた空間のためだけに費やされている。

 

湯に体を沈めると、じわりと芯から染み渡るような熱が全身を包んだ。

pH値の高さを証明するように、肌の表面がたちまちにして、膜を張ったような滑らかさに覆われる。浴槽は十和田石で作られており、濡れると独特の淡い緑色を帯びて、お湯をさらに美しく見せていた。都会の人間が喜ぶような、成金趣味の派手な御影石の浴槽とは異なり、この鈍い緑こそが真に贅沢な静寂を演出する。

湯口からは、地中深くの岩盤の割れ目から自噴する熱い源泉が、絶え間なく注がれている。加水も加温もされていない純粋な湯は、川床の砂礫層を抜けてきたためか、微かに鉄分と硫黄の匂いを残しながらも、驚くほど澄み切っている。浴槽の底には、古い湯瀬の歴史を感じさせる湯の花が小さく沈殿しており、足を動かすたびにそれが静かに舞い上がった。じわじわと皮膚の境界が熱に融かされ、湯と、自分と、そしてすぐ目の前にいる彼女との距離が、均一な液体の中に混ざり合っていく。

 

「ね? すごいでしょ。僕、さっきからずーっとこうして、お湯の中で手をグーパーさせて遊んでたんだよね」

 

おかゆはそう言って、湯の中から自身の白い手を持ち上げてみせた。

指先からぽたぽたと滴る水滴が、夕暮れの光を浴びて藤色の宝石のようにきらめく。手首が動くたび、杜若色の細い毛先が水面で揺れた。彼女は言葉の途中で、自身の首筋を無造作に指先でなぞっている。その仕草には、こちらを意識させるような邪気がまったくない。ただ無垢に、己の心地よさだけを肯定しているようなその無防備さが、かえって歪なほどの引力を持ってこちらの視線を縛りつける。

濡れた前髪の隙間から覗く彼女の顔は、湯気に蒸されてほんのりと赤みを帯び、まばたきのたびに長い睫毛がかすかすに震える。その一連の動きがあまりにも滑らかで、水そのものが彼女の肉体の一部であるかのように錯覚させられた。

 

「おにぎりゃー、こっちおいでよ。そんなに離れてたら、お話聞こえなくなっちゃうじゃん」

 

彼女は、湯を軽く撥ねさせながら、浴槽のこちら側へと寄ってきた。

川の音が響くこの個室風呂は、周囲の目を気にする必要がない。あの一過性の流行に踊らされ、他人の目を気にしてばかりいる他県の芋臭い連中には、この完全な排他性の心地よさは分かるまい。外の闇が深まるにつれ、窓ガラスに映り込む室内の光景が、徐々にその鮮明さを増していく。

 

「ふぅ……。なんかさ、こうして二人きりで温泉にいるのって、ちょっと不思議な感じがするね。いつもは画面の向こうにたくさんのおにぎりゃーがいるけど、いまは、目の前に君しかいないでしょ?」

 

おかゆはそう言って、僕のすぐ隣、肩が触れ合うか触れ合わないかという距離で、湯船の壁に背中を預けた。

彼女の藤色の瞳が、水面を見つめている。その視線は、僕を見ているようでいて、同時に、僕の背後に広がる広大な空白を見つめているようでもあった。彼女はいつだって、相手の息遣いや視線の動きを察知し、その一歩先で待っている。いま、こうして距離を詰めてきたのも、こちらの張り詰めた沈黙を、指先で容易く解きほぐすための、彼女なりの、あるいは彼女という存在の習性のようなものなのだろう。

 

「……あったかいねぇ」

 

ぽつりと、彼女が呟いた。

その声は、鼻にかかった、少し甘えるような、けれどどこかこちらを試すような、逆らえないニュアンスを孕んでいた。

彼女の髪の杜若色が、湯気の中でさらに深みを増していくように見える。窓の外の米代川は、かつて多くの旅人がその癒やしを求めて渡ったという。湯瀬という地名が持つ「湧き出る瀬」のイメージ通り、絶え間なく足元から供給される熱が、じわじわと頭を狂わせていく。

 

「ねぇ、おにぎりゃー。何考えてるの?」

 

不意に、藤色の瞳がまっすぐこちらを向いた。

心臓の鼓動を直撃するような、核心に触れる問いかけ。それを、彼女はあくまでもお天気のことを尋ねるかのような軽さで口にする。その無造作さに、こちら側の自意識が揺さぶられる。

 

「何も考えてない、って顔をしてる。でもね、僕にはわかるよ。君、さっきから僕のこと、ずーっと見てるでしょ。僕の体、そういうこと気にするんじゃない?」

 

視線を泳がせると、彼女は「ひゃひゃひゃ」と、あの特徴的な、鈴が転がるような笑い声を上げた。

その笑顔には、一切の計算がないように思える。相手をからかい、手のひらで転がしながらも、決して不快にはさせない。むしろ、そのからかいの中に含まれた底なしの親愛に、こちらはただ思考を放棄して溺れるしかなくなる。

 

「いいんだよ、見てても。だって、そのために一緒に来たんだもんね。……あ、でも、あんまり変なところ見たら、おにぎり没収だからね?」

 

おかゆは、濡れた人差し指を僕の鼻先に近づけて、ちちち、と振ってみせた。

そのとき、私はふと、湯面に映る自分の顔を見た。

 

お湯の熱気で歪んだその輪郭は、ひどく醜悪で、どこか現実味を欠いていた。おかゆはさっきから「おにぎりゃー」と僕を呼ぶ。彼女が「僕」という一人称の優しさで語りかける相手は、この湯船に浸かっている、生々しい肉体を持った私なのだろうか。それとも、地方の閉塞感の中で、何万人もの祈りが凝縮されてできた、「おにぎりゃー」という都合の良い概念の偶像なのだろうか。

外の闇が深まるにつれ、十和田石の淡い緑色と、彼女の白い肌のコントラストがいっそう鮮明になっていく。彼女の藤色の瞳に映っているのは、本当に私という一人の人間なのか。私は彼女の記号を消費しているつもりで、その実、彼女の完璧な優しさと全肯定の記号に、私自身の存在そのものを侵食されているのではないか。

そう気付いた瞬間、湯瀬のトロトロとした湯が、まるで私を底へと引きずり込む泥のように重く感じられた。

私、という単語が脳裏に浮かんだ瞬間、先ほどまで共有していたはずの「僕」という甘やかな同一化が、静かに瓦解する。目の前にいる裸体の少女は、あまりにも美しく、そしてあまりにも記号的に完璧だった。その完璧さが、私自身の持っている現実の汚れを、鏡のように鮮明に跳ね返してくる。

 

「……ん? どうしたの、難しい顔して」

 

おかゆが、首を少しだけ傾げた。

その無意識の仕草が、あまりにも完璧すぎて、逆に非現実的な恐怖を醸し出す。

 

「温泉、のぼせちゃった? 湯瀬のお湯はね、アルカリ性が強いから、あんまり長く入ってると体にくるんだよ。ほら、ちょっとあがって、涼もっか」

 

彼女はそう言うと、浴槽の縁に手をかけ、ゆっくりと身体を起こした。

湯の中から現れるその姿。滴るお湯が彼女の肌の上で玉のようになり、滑らかな曲線を際立たせている。そのあまりに人ならざる美しさを網膜に焼き付けたまま、私たちは一度湯から上がり、体を拭いて、用意されていた藍色の温泉浴衣に袖を通した。

おかゆは、浴槽の隣にある木製のベンチに腰掛けた。

窓からの夜風が、浴衣の隙間から覗く彼女の火照った肌を優しく撫でる。

 

「ぷはぁー、風が気持ちいい。……おにぎりゃーも、こっちおいでよ。隣、空いてるよ」

 

彼女はベンチの隣を、ぽんぽんと手で叩いた。

その行動には、何の躊躇もない。動画の配信画面という、物理的な距離を超えて繋がってきた歴史が、このリアルな湯瀬の地においても、そのまま適用されている。

ベンチに腰を下ろすと、彼女から温泉の匂いと、微かに甘い体臭が漂ってきた。

 

「ねぇ、おにぎりゃー。今日の夜ご飯、何が出るか知ってる? 僕ね、さっき宿の人にチラッと聞いたんだけど……秋田だからさ、やっぱりきりたんぽ鍋が出るんだって。あと、比内地鶏のお肉も。楽しみだよねぇ」

 

おかゆは、本当に嬉しそうに、目を細めて言った。

過去の感傷に浸るよりも、未来の不安に怯えるよりも、いま、目の前にある美味しいものや、楽しいことに全力で意識を向ける。それが、彼女の持つ最大の魅力であり、こちらを狂わせる救いでもある。

都会の気取ったレストランで、中身の薄い料理を大層な名前で呼んで喜んでいる軽薄な連中には、この滋味の本質は永遠に理解できない。この厳しい風土が育んだ本物の贅沢を、私たちの特権として消費するのだ。

 

「君と一緒に食べるご飯、絶対に美味しいと思うんだ。……あ、でも、僕の分の比内地鶏、盗っちゃダメだよ?もし盗ったら、僕、本気で怒っちゃうからね」

 

冗談めかして言う彼女の横顔を、夕闇が完全に塗りつぶしていく。

午後六時半。空は完全に藍色へと移り変わり、米代川の水面が、宿の灯りを反射してきらきらと輝き始めていた。

おかゆは、ふと口数を減らし、外の景色を見つめていた。

彼女の言葉が止まるとき、そこには深い静寂が訪れる。それは冷たい沈黙ではなく、相手を信頼しているからこそ許される、心地よい空白だ。

彼女は、濡れた杜若色の髪を片手でかき上げ、藤色の瞳を細めて、遠くの山並みを見つめていた。

その横顔は、いつもの配信で見せる賑やかな姿とは少し違う、一人の人間としての、あるいは一匹の怪異としての、深い孤独の影を孕んでいるように見えた。

 

「……温泉ってさ、なんか寂しくなるよね」

 

おかゆが、ぽつりと言った。

その声は、風の音に消されてしまいそうなほど小さかった。

 

「あったかくて、気持ちよくて、ずっとここにいたいって思うんだけど……でも、いつかはあがらなきゃいけないでしょ。お湯から出たら、また少し寒くなって、元の世界に戻らなきゃいけない。それがね、ちょっとだけ、寂しいなって思っちゃうんだ」

 

すべては「貸切風呂の時間内」という限定された猶予の上の出来事であることを、彼女は疾うに知っている。大正時代から続く湯瀬の温泉街の夜が、静かに私達を包み込んでいく。そして、その終わりを誰よりも正確に測っているのも彼女自身なのだ。

けれど、彼女はすぐに、いつもの表情に戻ってみせた。

 

「なーんてね!僕がそんなこと言うの、珍しいでしょ? 温泉のせいにしとこっと。ほら、おにぎりゃー、そろそろ時間だよ。お部屋に戻って、美味しいご飯食べよ?」

 

おかゆは立ち上がり、浴衣の帯を、手際よく結び直した。

その仕草は、どこまでも自然で、けれど僕たちの間に明確な「終わりの合図」を告げるものだった。

彼女は、脱衣所のドアへ向かう途中で、一度だけ振り返った。

湯気と夕闇の境界線の中で、彼女の杜若色の髪から最後にひとしずくの水滴が畳へと落ち、藤色の瞳が、暗がりの中で怪しく揺れた。

 

「先に行って待ってるからね。早く来ないと、きりたんぽ、全部僕が食べちゃうよ?」

 

そう言って笑う彼女の姿は、湯瀬の夜の中に、確かな足跡を残して消えていった。

 

――フロントで受け取った木札の鍵が、デスクの上で静かに冷えていく。画面の中の彼女は、いつも通りの声で「おつおかゆ〜」と配信を締めくくった。私は、冷めきったワンルームのワンカップ大関の温もりを感じながら、彼女の、あの甘い声の余韻を、いつまでも耳の奥で反芻していた。

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