蝉の鳴き声がうるさくて、耳の奥がずっとジリジリと鳴っている。
アスファルトの照り返しは容赦なく靴底を熱し、Tシャツの背中はとっくに汗で肌に張り付いて気持ち悪かった。二〇二〇年、八月の終わり。あと数日でこの地上から消えてなくなるという豊島園の地面は、踏みしめるたびに乾いた砂埃が舞った。世界中が妙な病気でマスクを強いられ、誰も彼もが他人の吐き出す息に怯えていたあの夏、ここだけは別の種類の熱気に浮かされている。最後のお別れに滑り込みたい人間たちが吐き出す、泥臭い執着みたいな熱。それが、ねっとりとした風になって首筋を撫でまわしていく。
「んー、やっぱり暑いねぇ。君、顔が茹でダコみたいになってるよ?」
隣から、外れた音階みたいに平坦な声が降ってきた。
猫又おかゆは、古いコンクリートの縁に腰をかけて、ストローの先を小さなお口でせわしなく弄んでいる。
いつもの大きな紫のパーカーはさすがに脱ぎ捨てたらしくて、今日の彼女は驚くほど薄着だった。ノースリーブに近い、透けるような白いブラウス。首元には、外したリボンが少し斜めに結ばれている。いつも見慣れてる、爽やかな夏服そのもののはずなのに、目の前で実際に動いているのを見ると、なんだか見てはいけないものを見ているような、座りの悪い居心地のなさがあった。ブラウスの脇の隙間から覗く、うっすらと汗をかいた白い肌。デニムのショートパンツから伸びる太ももは、古びたタイルの冷たさを求めるように、だらしなく投げ出されていた。
ポケットの中で、家の鍵と小銭がジャラリと擦れ合った。
そのわずかな金属音に、彼女の頭頂部から生えた紫色の猫耳が、片方だけピク、と反応する。視線は相変わらず、遠くの古びた売店の看板に向けられたままだ。お尻の後ろから伸びる長い尻尾が、アスファルトの熱を嫌うように、ゆっくりと空中で半円を描いた。
「ねえ、次は何に乗る? 僕はねー、君が汗をかきながら悩んでる顔を見るのが、一番楽しいから何でもいいんだけどね」
そう言って、おかゆは手にしたプラカップを揺らした。中の氷がカランと情けない音を立てる。
一音一音の語尾が、鼻の奥に引っかかるようにして、少しだけ間伸びする。急いでお喋りをする気なんて更々ないという風に、ぬるい空気の中に融けていく。
ふらふらと、あてもなく歩き出す彼女の背中を追う。
彼女はときどき、錆びついた柵のボルトや、路面に落ちたポップコーンの袋に視線を留めて、猫のように立ち止まる。自分はその歩調に合わせて、ただついていくことしかできなかった。
「あ、おにぎり。君、お腹空いてない?」
売店のガラスケースの前に、おかゆが完全に張り付いた。
覗き込むようにしてこちらを見てくる、黄紫色の瞳。マスク越しでも分かるくらい、彼女の口元がふにゃりと緩んでいる。相手が財布を出すのを確信している、確信犯の顔だ。ポケットから千円札を取り出すと、彼女は待ってましたと言わんばかりに、腕をぐいと引っ張った。
「ふふ、さすが話がわかるねぇ。じゃあ、ツナマヨと、鮭。あ、でも、君が買ったやつを一口もらう方が、なんか美味しそうに見えるんだよね。……なぁんて、冗談冗談」
手渡されたコンビニのものより少し小ぶりなおにぎりを、おかゆは両手で包むようにして持った。
近くの、ベンチに二人で腰を下ろす。座った瞬間、太ももの裏が木のささくれに擦れて、ちくちくと痛んだ。おかゆはそんなこと全く気にしていない。小さなお口を大きく開けて、おにぎりをハムリと齧る。
「んー、おいしい。やっぱりおにぎりは正義だねぇ」
もぐもぐと顎を動かしながら、彼女の視線は、遠くで錆びついた金属音を響かせているフリュームライドのレールに向いていた。水飛沫が上がるたびに、遠くから若い悲鳴が聞こえてくる。
「ねえ、君さ。人間って、すぐにいろんなことを忘れちゃう生き物でしょ? こういう古い場所のことも、いつの間にか記憶の隅っこに追いやっちゃう。……でもね、たとえば君がうんと年老いて、今日のことも、僕の格好も、全部あやふやになっちゃったとしてもさ。僕っていう猫がいたこと、僕のこの声のことだけは、脳みその一番奥っこに、ちゃんと残しておいてね。約束だよ?」
おにぎりを飲み込んで、おかゆが突然、顔を近づけてきた。
近すぎる。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。耳の奥の蝉の声が、一瞬だけかき消される。彼女の身体から、真夏の熱気とは明らかに違う、甘くて、少しだけすずらんに似た青臭い匂いが、鼻腔を直撃した。
自分の顔が、今どれだけ不格好に強張っているか、考えたくもなかった。汗で前髪が額に張り付いて、絶対に格好悪い。今、自分の顔、絶対に汚い汗かいてるな……と余計なことを考えて一瞬冷める。視線を逸らそうとするけれど、彼女の黄紫色の瞳が、こちらの網膜をがっちりと捉えて離さない。
おかゆは自分の硬直を見ると、ふっと視線を落とし、それから悪戯っぽく肩をすくめた。
「……なぁんてね。ちょっと重たかった? 今のナシ、冗談冗談」
あはは、と気の抜けた声で笑いながら、おかゆはこちらの右腕に、自分の細い腕を絡めてきた。
うわ、と声が出そうになるのを、ベースの歩調を崩さないように必死で噛み殺す。
ブラウスの薄い生地を透かして、彼女の少しひんやりとした、だけど芯の方に確かな熱を持った肌が、ダイレクトに皮膚に触れる。二人の境界線が、汗のじっとりとした感触と一緒に混ざり合っていく。心臓の鼓動がうるさくて、絶対に彼女に伝わっているはずなのに、おかゆはわざと気づかない振りをしながら、さらにぐっと体重をかけてきた。
「次は、あそこ。ほら、水がバシャーンってなるやつ。フリュームライド。あれに乗ろうよ。君のその暑苦しい顔、水浸しにして涼しくしてあげるからさ」
私たちはフリュームライドの列に並んだ。
アトラクションの待機列は、最後の一週間を惜しむ人間たちで、うんざりするほど蛇行していた。
「ねえ、君。あの斜め前にいる男の子、さっきからずっと僕の尻尾を見てる。触りたいのかなぁ。ねえ、触らせてあげる代わりに、おにぎり一個もらったら、それは犯罪になっちゃうのかな?」
くすくすと、喉の奥で鳴らすような笑い声。
「……あ、やっぱりダメ。僕には君っていう、お世話をしなきゃいけない子がもういるもんね。他の子に浮気したら、君、泣いちゃうでしょ?」
自分で言って、自分で満足そうに頷いている。
からかわれているのは百も承知なのに、胸の奥のざわつきが収まらない。
「あ、次、僕たちだよ。ほら、ちゃんと乗って」
丸太をくり抜いたような形の、狭いボート。
先に自分が乗り込み、その後ろに、おかゆが滑り込むようにして座った。
必然的に、身体が完全に密着する。おかゆの胸元が、背中にぴったりと押し当てられた。デニムのショートパンツに包まれた彼女の太ももが、腰を左右からはさみ込む。ブラウスの薄い生地なんて、何の目隠しにもなっていなかった。背中から伝わる、彼女の規則正しい心臓の音が、バカみたいに跳ね上がった自分の鼓動を、ゆっくりと侵食していく。
ガタガタ、ガタガタ、と、レールの軋む音が足元から響く。
ボートがゆっくりと、最初の傾斜を登り始めた。
おかゆの細い腕が、後ろから脇腹のあたりを、ぎゅっと抱きしめる。
耳のすぐ横で、ふぅ、と、彼女の少し熱い息が漏れる。
「ねえ……結構高いね。としまえんが、小っちゃく見えるよ」
首筋に触れる吐息が、たまらなく痒くて、熱い。
安全バーを握る指先に、無駄な力が入りすぎて、関節が白く浮きあがっている。今、自分がどんな顔をしているか、おかゆには見えていないはずだ。それが唯一の救いだった。
ボートが頂点に達し、一瞬だけ、胃袋が浮き上がるような強烈な無重力。
次の瞬間、二人の身体は、白い水飛沫の壁へと真っ逆さまに突っ込んでいった。
激しい破壊音みたいな水の音が、耳の中を蹂売する。
視界が真っ白に染まり、頭の上から冷たい衝撃が容赦なく降り注いだ。
頭から水を被ってずぶ濡れになってボートを降りた。
「あはははは! ひどい顔! 君、前髪が変な海藻みたいになってるよ!」
おかゆはお腹を抱えて笑っていた。
笑っている彼女自身の姿も、相当に大変なことになっていた。
白いブラウスがたっぷりと水を吸って、肌に完全に張り付いている。中のインナーのラインが、夕暮れの光の中で、隠す気もないくらい鮮明に透けてしまっていた。濡れた紫色の髪が首筋にまとわりつき、頭の上の猫耳が、パタパタと小刻みに震えて水を弾いている。
その姿は、あまりにも無防備で、あまりにも生々しかった。
自分の顔が、信じられないくらい熱くなっているのが分かった。暑さのせいじゃない。
おかゆは、自分の服が透けていることなんて、これっぽっちも気にしていない様子だった。
「ねえ、次はあそこ。あのきらきら回ってるカルーセル、並びに行こ。まだ明るいうちに乗っておきたいしさ」
おかゆは濡れたブラウスの裾を指先で軽くつまんでパタパタと煽りながら、人混みの向こうへトコトコと歩き出す。
遠くから微かに、古いオルゴールの音色が聞こえていた。順番を待つ列の最後尾へ滑り込むと、夕暮れの湿った空気が、二人の間で優しく滞留する。
エルドラドの馬が上下するたびに、おかゆの髪からすずらんの匂いが風に混ざって、鼻の奥がツンとした。
そっと伸ばされた指先が、頬に残っていた冷たい水滴を、親指の腹でゆっくりと拭う。
「ほら、びしょびしょ。風邪ひいちゃうよ。……って、この暑さなら、歩いてるうちに乾いちゃうか」
おかゆの黄紫色の瞳が、自分を真っ直ぐに見つめていた。その濁りのない、綺麗なガラス玉みたいな瞳の中に、顔を真っ赤にして、完全にパニックを起こしている情けない自分の顔が、はっきりと映り込んでいる。
「ねえ、君。どうしてそんなにガチガチになってるの? せっかくのデートなんだから、もっとだらしない顔してよ。ほら、僕みたいにさ」
おかゆはふにゃりと口角を上げて、いつもの、おにぎりみたいな緩い笑顔を作った。
空の色が、いつの間にか燃えるような茜色から、深い紫色のグラデーションへと移り変わっていた。
アスファルトの上に、二つのいびつな影が長く伸びている。自分の影と、頭のてっぺんに耳のついた、彼女の影。
歩くたびに、その二つの影は近づき、離れ、やがて境界線を失って一つに溶け合う。
この時間が、永遠に続くわけがないことなんて、分かりきっている。としまえんは消える。来年には、この地面も別の何かに変わって、今日の足跡なんて、綺麗さっぱり消え去ってしまうのだろう。
「ねえ、君。僕がね、もしもおばあちゃん猫になっちゃって、君もおじいちゃんになってもさ」
おかゆが、ぽつりと言った。
その声のトーンが、いつもより一オクターブだけ低かった。
からかうような響きも、間伸びした平仮名の緩さも、そこにはない。
「ほら、僕って猫だからさ。気まぐれだし、明日にはどこかへ行っちゃうかもしれないって、君は時々、不安そうな顔するでしょ? でもね、不思議なんだ。君の隣にいるときだけは、僕、どこにも行きたくなくなるんだよね。ずっとここにいて、君のその、困ったような顔を見ていたいなー、なんて。……これ、猫失格かな。だからさ、僕のこと、ちゃんと覚えていてくれる?」
彼女はこちらを見上げ、少しだけはにかむように笑った。
言葉のあとに、一拍の、ひどく静かな空白。
彼女の頭の上の猫耳が、小さく、後ろの方へと倒れる。
心臓が、痛いくらいに締め付けられる。今すぐ、この華奢な肩を強く抱きしめてしまいたいという衝動が、身体の奥底から突き上げてくる。それを、必死で理性の檻の中に閉じ込めた。
順番が来て、木製のプラットフォームに上がった。
長年の稼働で擦り切れた古い床が、足元でギィ、と小さく軋む。
おかゆは、一番外側にある、一際大きな白馬を選び、その上にひらりと飛び乗った。デニムのショートパンツから伸びる、しなやかな太ももが、木馬の腹をぐっと挟み込む。
「君は、その隣の馬ね。ほら、早く乗らないと、置いていちゃうよ?」
言われるままに、隣の木馬に跨る。
やがて、重厚なベルの音が夜の空気に鳴り響き、ゆっくりと、世界が回り始めた。
古風な、少し音の割れたオルゴールの音色が、周囲を満たしていく。
エルドラドは、徐々にその速度を上げ、外側の景色を、光の帯へと変えていった。
回る、回る。
おかゆは、木馬の手すりを片手で握りながら、もう片方の手を、こちらの方へと真っ直ぐに伸ばしてきた。
迷わず、その手を握り返した。
彼女の手は、少し汗ばんでいて、だけど驚くほど柔らかくて、温かかった。その手の熱が、腕を伝わり、狂いそうだった心音を、静かに、優しく一定のリズムへと落ち着かせていく。ただそれだけの事実が、世界のすべてから自分を救ってくれるような気がした。
「あはは、回るねえ、君! 世界が全部、光になっちゃったみたいだ!」
おかゆの声が、音楽の中に溶けていく。
風を受けて、彼女のブラウスがパタパタと音を立てる。
過去も未来も、としまえんの閉園も、明日の世界のことも、今の二人には関係ない。
繋いだ手は、エルドラドが完全に停止したあとも、しばらくの間、離れることはなかった。
「……ふふ、止まっちゃったね」
おかゆは、最高に満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、お家に帰ろっか、君。今日の晩ご飯は、僕が特製のおにぎりを作ってあげる。……もちろん、君が大好きな具を入れてあげるからさ。期待しててよね」
木馬から降りたおかゆは、いつものように、半歩前をトコトコと歩き出す。
その紫色の尻尾は、夜の帳が下りた遊園地の中で、やっぱり機嫌よさそうに、左右へと揺れていた。