猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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甲府の赤壁に猫耳ピクリと動く事 【山梨県】

東京からの特急あずさは、山ばかり走って退屈極まる。甲府へ着くと、梅雨の晴れ間とかでべらぼうに蒸し暑い。駅の前で所在なく突っ立っていると、後ろから「お待たせ」と、妙にのんびりした声がした。振り返ると、猫又おかゆが妙な格好で立っている。いつもはだぼだぼの寝巻きみたいな服を着ているくせに、今日は透けるシアーシャツに桃色の短いプリーツスカートだ。首には太い銀の鎖を巻いている。おいおい、どこの不良ギャルかと思ったら、これが驚かせようという洒落だというから呆れる。本人は「驚いた?」と喉の奥でふふと笑って、桔梗色に光る目を細め、薄紫の猫耳をピクリと動かした。これではまるで、人を化かす気満々の狐、いや猫である。

 

「そんなに見つめられると、さすがの僕もちょっと照れちゃうな。ほら、バスが来ちゃうよ。行こう、おにぎりゃー」

 

おにぎりゃーというのは呼び名だ。彼女の歩き方は音もしない。厚底のスニーカーなのに、まるで浮いているようだ。

 

山梨交通のバスはガタゴトと揺れて冷房ばかり効いている。窓の外を流れる貢川の濁った水面を眺めながら、しばらくの間、どちらからともなく押し黙った。じっと座っていると、冷気でシアーシャツの袖が冷えたのか、おかゆは細い指先で桃色の生地を小さく引っ張るようにして、身を縮めている。その無防備な仕草のまま、彼女はふいにこちらへ顔を向けた。

 

「ねえ、おにぎりゃー。美術館ってさ、なんだか大きな静寂の箱みたいだよね。でも、僕はあの静けさの中で、他人の頭の中を覗き見するのが好きなんだ」

 

バスを降りると、芸術の森公園の向こうに赤茶色の重厚な城塞が見えた。昭和五十三年に前川國男という建築家が建てた、レンガ色の山梨県立美術館の本館だ。コンクリートの打ちっぱなしがやけに頑固そうだ。

 

「うわあ、大きいねえ。おにぎりゃー、あれ見て。何あれ」

 

庭にあるヘンリー・ムーアのブロンズ像『四つに分かれた横たわる像』を指差している。

 

「あれさ、僕たちが部屋でだらだらポテチを食べてる時の形に似てない? ほら、ここが頭で、こっちが足」

 

とんでもない解釈だ。大きなガラス扉を押し開けてエントランスホールに入ると、高い吹き抜けの天井から自然光が降り注いでいる。床のタイルを踏み鳴らし、おかゆはさっさと二階のミレー館へ上がっていく。照明の加減で、彼女の藤色の髪が妖しく色を変えた。

 

第一室は通常の白い壁ではなく、ミレーの絵が最も引き立つように計算された深い赤色の壁だ。その中央にあの有名な《種をまく人》が飾られている。夕暮れの薄暗い畑の中で、力強く種をまく農民の姿が荒々しい筆致で描かれている。

 

「……ねえ、おにぎりゃー」

 

おかゆの声がいつもより一段と低く囁くように響いた。

 

「この種をまく人さ、どんな気持ちで種をまいてると思う? 明日、芽が出るかどうかもわからないのに、ただ信じて、体を使って、一歩ずつ進んでる。なんだか、僕たちの活動にも似てるよね。最初は誰も見てくれなくても、ただ面白いと思う種をまき続けるしかないんだ」

 

珍しく真面目な顔をしてこちらを見つめてくる。

 

「でもさ、この人、よく見るとめちゃくちゃ筋肉質だよね。毎日こんなに種をまいてたら、腕の筋肉すごそう。ころねとおにぎりの奪い合いをしたら、絶対この人が勝つよ」

 

ころねというのは、おかゆのよく知る犬のような友人だ。いきなり冗談を挟んでこちらの顔を覗き込んできた。

 

次は《落ち穂拾い、夏》の前へ進む。真夏のまばゆい光が画面全体に満ちあふれている。しかし、おかゆはそのまばゆい光の描写からふっと視線を外し、床のタイルの鈍い照り返しをじっと見つめた。二人の間に、次の言葉が見つからないまま、ただ静かに床の光を見つめ合う五秒間ほどの贅沢な空白が流れる。彼女は小さく息を吐き出し、再び画面に目を戻した。

 

「あ、これ好きだなあ。この光の色、今の外の暑さとそっくり。ミレーって、きっとすごく不器用で、優しい人だったんだろうね。ただ綺麗に描くんじゃなくて、そこに生きている人の汗まで全部残しようとしてる。……うん、僕もおにぎりゃーのそういう、ちょっと泥臭くて一生懸命なところ、嫌いじゃないよ?」

 

唐突にそんなことを言って、悪戯な笑顔を浮かべる。第二室へ行くと、今度は壁の色が深い緑色へ変わった。コローやルソーの作品が並んでいる。テオドール・ルソーの鬱蒼とした森の絵の前で、おかゆが鼻を鳴らした。

 

「ふーん、緑の匂いがしそう。ねえ、おにぎりゃー。もし僕がこの森の中で迷子になったら、ちゃんと探しに来てくれる? それとも、木の上で寝てる僕を見つけられずに、通り過ぎちゃうかな」

 

見失うはずがない。中央の回廊を渡り、特別展示室へ向かう。

 

二〇二六年の夏、山梨県立美術館では特別展『中西夏之 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』が開催されている。前衛的で思考を揺さぶる現代アートの世界だ。白い壁に巨大なキャンバスが並び、アクリル樹脂の中に様々な物体を封じ込めた『コンパクト・オブジェクト』が、怪しい磁場を放っている。

 

「へえ……これはまた、さっきとは全然違う頭の使い方をしてるね。これさ、無意識の中に転がってる記憶の破片みたい。僕の頭の中にも、おにぎりゃーと過ごしたくだらない時間の破片が、こんな風にたくさん固まってるのかもしれないな」

 

大きな白いキャンバスに繊細な線が何本も引かれた『着地性の絵画』の前で、おかゆは立ち止まった。

 

「緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置、かあ。いい言葉だね。急いで答えを出さなくていい、ただそこに佇んで、じっと見つめていればいい。……おにぎりゃー、最近さ、みんな生き急いでない? 動画は倍速で見られるし、SNSは一瞬でスクロールされちゃう。でも、こうやって一つの絵の前でぼんやりする時間って、本当は一番贅沢なんだよね。僕さ、おにぎりゃーとこういう『無駄な時間』を共有できてるのが、すごく嬉しいんだ」

 

おかゆはそう言って振り返った。前川國男の直線的な近代建築と、中西夏之の抽象画を背負った彼女の姿は、シルバーチェーンを揺らす甘ギャル風の格好でありながら、妙に調和して一枚の絵のようだった。

 

一階のミュージアムショップへ行く。

 

「あ、見ておにぎりゃー! ミレーの『種をまく人』のおにぎりケース……じゃなくて、ポーチがある! これにおにぎり入れたら、絶対に美味しいよ。買って買って」

 

さっきまでの哲学的な様子はどこへやら、完全に食いしん坊の猫に戻っている。

 

ショップを出て、中央広場のガラス窓から外を眺めた。甲府盆地の夕暮れは早い。西の空が茜色に染まり始めている。ガラスに反射した彼女の瞳は、まるで底のない深い沼を覗き込むかのような、冷ややかで、それでいてひどく蠱惑的な光をたたえていた。

 

「楽しかったね、おにぎりゃー。美術館って、なんだか心の洗濯機みたい。嫌なこととか、モヤモヤしたことが、あの広い空間の中に吸い込まれていちゃう。……今日は僕に付き合ってくれて、ありがとう。君が隣にいてくれたから、いつもより絵が優しく見えた気がするよ」

 

おかゆは窓から離れ、背を向けて歩き出した。シアーシャツの裾がふわリと揺れる。

 

「さーて! お腹空いちゃったな。甲府と言ったら、やっぱり『ほうとう』でしょ? かぼちゃがゴロゴロ入ったやつ、おにぎりゃーの奢りで食べに行こーっと!」

 

振り返った顔には、いつもの無敵の笑みが浮かんでいた。菖蒲色を帯びた髪が館内の微かな空気に柔らかく広がった。レンガ色の城塞を後にする影が、甲府の夕日に引かれて、長く、どこまでも伸びていった。

 

だいたいこの甲府という土地のじりじりした光線が、前川建築の打ち込みコンクリートに反射して容赦なく網膜を刺すのがいけない。おかゆの履いた厚底スニーカーのゴム底が、四半半のタイル床を擦る無機質な音を反響させるたび、まるでこの巨大な美術館そのものが一つの巨大な立方体の罠であり、僕たちを閉じ込めるための意図的な動線設計に見えてくるから不思議だ。ミレーの赤壁に潜む十九世紀の泥臭い絵の具の匂いと、中西夏之の冷徹なアクリル樹脂が放つ二〇二六年現在の人工的な死臭。その二つの美術的境界の真ん中で、甘ギャルの鎖をじゃらつかせた猫が、こちらの視線の角度を完全に計算し尽くしたように冷たく微笑んでいる。すべてはこの城塞のような構造物の中で、仕組まれた美の謎に迷い込ませるための、彼女なりの悪戯な演出に違いない。

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