僕たちが 嘘の外套を纏うのはその肉体が
あまりに容易く 融けてしまうから
夏が、僕たちの首筋に刃を宛がっている。
常磐自動車道から磐越自動車道へ折れ、いわき三和インターを過ぎたあたりで、車のエアコンの効きが急に悪くなった。年季の入った軽自動車のファンが、高熱の唸りを上げて足元からぬるい風を吹き付けてくる。
「……あ、途中の四倉のコンビニでトッポ買っておけばよかったな。なんか小腹空いちゃった。おにぎりゃーは、お腹空いてない?」
唇から溢れた音は、いつもより奇妙に高い位置へと撥ねた。調律を狂わせた弓が、空気を切り裂いたかのような冷ややかなトーン。だけどその語尾には、少し気の抜けた生っぽさが微かに混ざる。バックミラーに映った自分のマヌケな呟きを振り払うように、アクセルを少しだけ踏み込んだ。大久町の深い緑の隘路を抜けた先に、その建造物は沈黙していた。いわき市アンモナイトセンター。八千九百万年前の剥き出しの時層を、コンクリートとガラスの檻で強引に包み込んだ過去の墓標。
助手席からこちらの横顔を盗み見る気配を察し、指先で伊達メガネの黒いセルフレームを小さく押し上げた。レンズの厚みが陽光を乱反射させて世界を二つに断ち切る。今日の僕は、画面越しによく知る、部屋の隅でジャンクフードを齧りながらコントローラーを握りしめている猫ではない。
身に纏ったのは、深い紺色のサマーウールスカート。歩くたびに規則正しいプリーツが足首を隠し、そこだけが周囲の眩い夏から切り取られたように暗い。トップスには、首元を厳格に締め上げる白いノースリーブのブラウス。鎖骨の窪みを覆う小さなシェルボタンたちが、僕の呼吸を一定の規律の中に閉じっ放しにしている。かつて世界の終わりを予感させていた物語の中で、静かに崩壊を待っていた少女たちの残像。それを僕の身体に精巧に模写し、おにぎりゃーの前に差し出す。
「変、かな。……なんてね。ちょっと格好つけてみただけだよ」
語尾を短く切り落とす。おにぎりゃーの瞳の奥で、僕という存在の解像度が揺らぎ、戸惑いの影が色濃くなっていく。相手の出方を、その感情の歪みを、正確に値探るために言葉を選び、行動を配置する。
おにぎりゃーの沈黙の質量だけが、風を重くしていく。言葉を失うということは、僕の仕掛けた罠が、その皮膚を正確に貫いたということの証明だ。車を駐車スペースに滑り込ませると、アスファルトの照り返しがフロントガラスを白く焼き尽くした。
「ふふ。いいよ、何も言わなくても。おにぎりゃーの目は、いつも僕の欲しい答えを、僕が求めるより先に差し出してくれるからさ」
ドアを開け、足を進める。硬質なローファーの底が、センターへと続くアスファルトを冷酷に踏み鳴らす。エントランスの自動ドアの手前、施設の案内看板の「アンモナイト」のフォントが、昭和の特撮番組みたいに少し古臭くてカクカクしているのが目に入った。さっきまでの張り詰めたシリアスな気分が、ほんの少しだけ削がれるのを感じる。
なぜ、今日、この場所だったのか。理由なら、あの深夜の配信の残響にある。画面の中の仮想の地層を掘り進め、一時間もの間、ただの一片の珍しい化石すら掘り当てられずにコメント欄のおにぎりゃーたちに散々からかわれた、あの夜の屈辱。画面を埋め尽くしたあの無数の文字の羅列が、僕の胸の奥に、消えない棘のように刺さっていた。あの時の敗北感を、僕は忘れない。だから、僕はここに連れてきたのだ。おにぎりゃーを、この本物の、誰も言い訳のできない絶対的な世界の深淵へと。どちらが真実を掘り当て、どちらがその螺旋に呑み込まれるのかを、完全に決着させるために。
自動ドアが左右に開いた瞬間、世界から熱が剥ぎ取られた。受付の女性が「こんにちは、発掘体験の予約の方ですね」と、妙に愛想の良い、絵に描いたような観光地の声で迎えてくれる。その現世の平穏な響きが、僕たちの全身を容赦なく侵食していくひんやりとした静寂と混ざり合う。
受付を済ませ、順路に沿って薄暗い通路を抜けると、突如として視界が垂直に跳ね上がった。館内を大胆に貫く、吹き抜けの観覧デッキ。その眼前に広がっていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な質量を持った壁だった。
白亜紀系双葉層群。
およそ八千九百万年前の海底が、地殻の変動によって押し上げられ、そのままの角度で現代に直立している。それは剥き出しの過去であり、時間の巨大な腐骸だった。僕はデッキのレーンにゆっくりと近づき、冷たい金属の手すりに、指先を吸い付けられるようにして寄りかかる。前傾姿勢をとり、自分自身の体重をその金属の細い線に預けることで、この圧倒的な時の崖から、自分の存在が削り落とされるのを防ぐかのように。手すりの端には、誰かが置き忘れたらしい、干からびた小さな売店のレシートが風もないのにひっそりと張り付いている。
「……見てよ、おにぎりゃー。あそこに埋まっている、あの不格好な円。あれが、全部アンモナイトだ」
視線を固定したまま、人差し指の背で伊達メガネのブリッジをさらに押し上げる。レンズの屈折が、崖の表面に露出した無数の化石たちの輪郭を、残酷なほどクリアに僕の脳幹へと送り込んでくる。
大小さまざまな、渦巻きの死骸。それらは、かつてこの地が、太陽の光も届かない深い海の底であったことの、紛れもない刻印だ。無数の生命が、その殻の螺旋の中に己の生を閉じ込め、そのまま石へと変質していった。一度巻き始めたら元の直線には戻れない螺旋の底を、ただじっと見つめることしかできなかった。まるで、自分のついた嘘の深みにはまっていくみたいに。
「僕たちはさ、いつも今この瞬間が世界の全てだと思って、大声で笑ったり、泣いたり、ゲームの画面に一喜一憂したりしているけれど。この石たちの前では、僕たちの生なんて、ほんの一瞬の、瞬きすらできないほどの火花みたいなものなんだよね。……ねえ、そう思わない? なんちゃって、僕らしくないか」
おにぎりゃーの気配が、僕のすぐ後ろ、右肩の後方へと滑り込んできた。僕は決して振り向かない。ただ、ノースリーブから露出した肩の皮膚が、おにぎりゃーの着ている衣服の擦れるかすかな音と、その体温を正確に感知していた。
僕の喋り方は、依然としていつもより高いトーンを維持している。それは、この冷徹な記号を完璧に演じ切るための、僕が僕に課した防犯装置。だけど、その言葉の端々、息を吸うタイミングの僅かな遅れに、おにぎりゃーを翻弄し、その精神の境界線を侵食しようとする、いつもの猫の残滓が滲み出てしまう。
「今、この時代に僕たちがここに並んで立っていること自体が、なんだか、世界が起こしたエラーみたいだね。……あ、ほら、あっちに大きなのがあるよ」
常設展示の奥へと進む。薄暗い展示室の空気は、さらに密度を増していくようだった。壁面に投影されているのは、このセンターが最も力を入れているプロジェクションマッピングによる、白亜紀の海の完全なる再現。
暗転した空間の中、僕たちの身体は、水底を模した青い光の粒子によって瞬時に染め上げられた。頭上を悠然と泳いでいくのは、巨大な首長竜・プレシオサウルス。その長大な首の影が、僕の紫色の髪を、あるいはおにぎりゃーの顔を、ゆっくりと、世界の終わりを告げる秒針のように横切っていく。
「冷たいね、この光」
僕の声は、青い光の中に溶けて、そのまま消えてしまいそうだった。いつもより高いそのトーンは、今や可憐さを装うためではなく、この暗闇に押し潰されまいとする、僕の喉の細い悲鳴に似ていた。遠くの展示室から、小さな子供が「ママー、恐竜の骨おっきい!」と叫んで母親に静かに叱られている声が微かに響いて、現世の重力が僕の足首を引っ張る。
僕の趣味は、世界の観察だ。ゲームの画面の中でキャラクターを操作することも、配信のコメント欄という文字の海からおにぎりゃーたちの本音を釣り上げることも、全ては自分以外の存在が、僕によってどう歪むかを安全な場所から観測するため。あるいは、館内の隅にある自動販売機で、おにぎりゃーが特にこだわりもなく選んだお茶の缶が、取り出し口にゴトンと落ちる、その無骨な音の余韻を測るため。そして今、僕が観測しているのは、この青い擬似的な深海の中で、僕の些細な指先の動き一つに、呼吸を止めて硬直しているおにぎりゃーという名の、僕だけの観測者。
「……おにぎりゃー」
名前を呼ぶ。それだけで、空間の酸素が急激に薄くなるのが解る。
僕はゆっくりと、首を巡らせておにぎりゃーの方を振り向いた。伊達メガネのレンズが、プロジェクションマッピングの青い光を冷酷に反射して、僕の視線を完全に覆い隠すように白く発光する。僕の紫色の瞳は、その光の障壁の裏側で、おにぎりゃーの全てを見透かし、その精神の芯を射抜くように、じっと佇んでいた。
「ここに来た本当の理由、教えてあげる。……行こ?」
僕たちは、常設展示の最奥にある、特別に仕切られた体験発掘スペースへと向かった。現在、このアンモナイトセンターでは、事前に限られた人数のみが予約を許される、屋内での精密発掘ワークショップが開催されている。実際の地層から丁寧に切り出された岩塊と一対一で対峙する時間。
案内された長机の上には、小ぶりの、だけどずっしりと重い金属製のハンマーと、先端が鋭利に研ぎ澄まされたタガネ。長机の端には、前の時間帯の参加者が残していったのだろう、消しゴムの白いカスがほんの少しだけ取り残されて、プラスチックの木目に張り付いている。正式な発掘の手順に従い、僕たちは灰色の泥岩の塊と向き合う。何が含まれているのか、あるいは何も含まれていないのか、外見からは一切の判断を拒絶するその石が二つ、並んでいた。
「これが、過去を開けるための、鍵か」
僕はベンチに腰掛け、サマーウールのスカートの裾を、両手で丁寧に整えた。膝頭を完全に覆い隠す。決して自分の内側を安易に露出させない。それは、自分という脆い領域を、世界の悪意から守るための最低限の結界だからだ。
タガネを右手に持ち、その冷たい金属の感触を確かめる。おにぎりゃーもまた、僕の隣で、同じようにハンマーを握りしめ、目の前の灰色の岩塊を凝視していた。
コン。
ハンマーを振り下ろす。高い、硬質な、精度を持った音が室内に響き渡る。僕の細い腕、そのノースリーブから伸びた白い皮膚の下の筋肉に、金属を伝って岩の強固な抵抗がダイレクトに跳ね返ってくる。その特異な振動が、僕の思考の回転数を、さらに危険な領域へと加速させていく。
岩の中にあるものは、八千九百万年前の生命の記憶。もし、僕が今ここで、目の前のおにぎりゃーの心を、このタガネで正確に叩き割ってしまったら、そこから出てくるのは、どんな形の、どんな美しい化石なんだろう。
コン、コン、コン。
規則正しい、冷徹なリズム。僕はゲームの難解なステージをノーミスでクリアしていく時のように、一切の無駄な感情を排して、ただ泥岩の表面を削り取っていく。
僕の喋り方は、その作業の没入感によって、いつもの、あの低くて平坦な、おにぎりゃーが聞き慣れた猫の喋り方に戻りそうになる。それを察知し、喉の奥の筋肉を緊張させ、無理やり高いトーンの、記号化された声を引きずり出した。
「おにぎりゃー、真面目だね。そんなに怖い顔をして岩を叩き続けたら、中にいるアンモナイトがびっくりして、もっと奥に逃げちゃうよ。……それとも、あの配信の時の仕返しに、僕に圧倒的な実力の差を見せつけたいのかな?」
クス、と喉を鳴らして含み笑いを作る。メガネのフレームを、人差し指の腹でツン、と押し上げる。その、計算された仕草一つで、僕とおにぎりゃーの間の空気の主動権が、完全に僕の手の内に戻ってくる。
だが。僕のタガネの先端が、岩塊の、ある特定の歪んだ筋に触れた瞬間。
パカッ、という、乾いた、だけど驚くほど明確な音が、僕の指先を震わせた。岩塊が、僕の意志とは無関係に、綺麗に左右へと割れる。その割れ目の断面から現れたのは、驚くほど鮮明な、あるいは病的なまでに完璧な、螺旋の紋様だった。
アンモナイトの、完全なる側面。
「あ……」
声が漏れた。それは、僕がこれまで必死に維持してきた、あの高くて可憐な、演技のための声ではなかった。僕の喉の奥から飛び出してきた、剥き出しの、本物の、底知れない驚嘆と、引っくり返るような衝動。
紫色の瞳が、その小さな、だけど無限に続くかのような螺旋の深淵に、一瞬で吸い込まれていく。八千九百万年もの間、光の届かない闇の中で、ただひたすらに自己の形を維持し続けてきた生命の、その圧倒的な正しさが、僕の目の前で、冷酷に呼吸を始めたかのような錯覚。自分の嘘が、自分の仕掛けた悪戯が、この八千九百万年前の真実の石によって、完全に暴かれていくような、圧倒的な敗北感。
そのときだった。
―――ゴ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ。
大久町の真夏の空間そのものが、不気味に歪み、反転した。体験室の蛍光灯が、一瞬でどす黒い漆黒の重圧に押し潰される。何だ、これ。冷たい、冷たすぎる。世界が、凍りつくみたいだ。
僕の視界の端、引き裂かれた空間のひび割れから、それは静かに這い出てきた。人間の情念や魂が堕ちた化物が虚となるのではない。それは、この白亜紀の地層そのものが数億年の時を経て紡ぎ出した、絶対的な『アンモナイトの幽霊』だった。巨大な、真珠光沢を放つ美しくも禍々しい螺旋の殻。そこから伸びる無数の触手が、冷気を含んだ紫色の光を放つ魂の拠り所を撒き散らしながら、僕たちの頭上へと広がっていく。その中心に宿る意思は、あまりに古く、あまりに重い。失われた太古の海そのものの化身が、僕たちの命を削り取ろうと、静かにその顎を鳴らした。この化石の幽霊の周囲には、時間という概念そのものが歪んで停滞しており、かつて現世に存在した生命の記憶が、剥き出しの霊的なエネルギーとなって渦巻いていた。その巨大な殻のひび割れからは、太古の海底で積み重なった無数の魂の結晶が、鈍い光を放ちながら剥がれ落ちていく。
「……嘘、だろ」
声が震える。その太古の幽霊は、触手の先から鋭利な力の棘を形成し、僕のすぐ隣に立つおにぎりゃーを目がけて、容赦なく振り下ろそうとしていた。おにぎりゃーには、見えていない。この世界の裏側にある、圧倒的な歴史の質量が。
「下がれ、おにぎりゃー!!」
叫んでいた。高い声も、文学少女の偽装も、全てをかなぐり捨てた、僕の本物の絶叫。
僕は首に巻かれた細い革の首輪に指をかけた。これはただの装飾ではない。血の記憶を引きずり、魂の物質化を可能にする僕だけの愛着、完現術――フルブリングの核。野良として世界の歪みを渡り歩いてきた僕の、魂の依代。この首輪は、僕がこの現世で手に入れた唯一の『居場所』への執着そのものであり、その内側に秘められた完現術の力は、僕の魂の格そのものを決定づける絶対的な掟だった。その革の表面に刻まれた微細な傷の一つ一つが、これまで僕が潜り抜けてきた数多の戦いと、孤独な魂の彷徨を証明している。その物質に宿る無数の記憶が、今、僕の指先を通じて一気に覚醒しようとしていた。
「――物質に宿る魂を、僕の渇きで引き出す」
僕は持っていた鉄のタガネに首輪から溢れ出た紫色の光を注ぎ、その巨大な殻の中心へと向かって、渾身の力で投げつけた。人間の限界を超えた濃密な魂の力を宿したタガネが、幽霊の放つ冷気のリズムに弾かれ、甲高い音を立てて砕け散る。アンモナイトの幽霊の、底知れない瞳が、今度は明確に僕を捉えた。
―――ゴ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ。
空間を揺らす歴史の咆哮。だが、その触手が僕の喉元に届くより早く、僕の胸の奥で、何かが完全に弾け飛んだ。螺旋の恐怖に怯えていたはずの僕の魂が、おにぎりゃーを守るという、ただ一つの絶対的な意志によって、白く、激しく、燃え上がったのだ。
「……そうか。君が、僕の」
メガネの奥の紫色の瞳が、幽霊の核心を真っ直ぐに射抜く。それは、からかいの猫でも、怯える少女でもない。自らの意思で、首輪の力を解放するフルブリンガーの眼光だった。
「僕の真の名を、呼んでよ。おにぎりゃー」
その瞬間、おにぎりゃーの心が、声にならぬ僕の名を確かに紡いだのを、僕の魂が捉えた。
刹那、僕の右手に握られていたはずの、砕けた鉄のタガネが、首輪から吹き荒れる紫色の濃密な光を吸い上げて急速に変形していく。物質の魂が僕の愛着と融け合い、眩い光の中から現れたのは、猫の鋭利な爪を模した、美しくも禍々しい三連の刃。僕のすべてを注ぎ込んだ、完現術の真の形態。
「ーーサイバー・キャッツ」
僕の身体から放たれた圧倒的な力の暴風と、解き放たれた『紫紺』の一閃が、アンモナイトの幽霊を、あるいは体験室を満たしていた太古の闇を、一瞬で、跡形もなく大気ごと一刀両断に切り裂き、消し飛ばした。
美しさとは、そこに何も無いこと。螺旋の底に、君はいない。
静寂が戻る。切り裂かれた空間の隙間から、元の無機質な体験室の風景が融け出すように戻ってくる。手の中にあった『紫紺』は、再びただの冷たい泥岩の破片へと姿を変え、僕の首元には静かに首輪が戻っていた。僕は深く息を吐き、手元に残った、綺麗に割れた本物のアンモナイトの化石を、静かに小さな袋へと収めた。その動作は、もう先ほどまでの虚飾に満ちたものではなく、ただ一つの過酷な現実を乗り越えた、確かな手つきだった。
ワークショップの部屋を出て、僕たちはセンターの外へと足を踏み出した。
外の世界は、相変わらずの、狂ったような真夏だった。大久町の生い茂る木々が、強い日差しを浴びて、濃い、黒い影を地面に落としている。だけど、館内の冷徹な静寂と、世界の裏側で交わしたあの絶対的な交感に魂を削り取られた僕たちの皮膚には、その暴力的な暑さすらも、どこか遠い、別の惑星の出来事のようにしか感じられなかった。
僕はゆっくりと歩きながら、顔を覆っていた伊達メガネを外した。レンズという、世界を安全に切り取るためのフィルターを失った瞬間、いわきの強烈な光が、僕の紫色の瞳を容赦なく刺す。視界が眩み、世界が一瞬、真っ白に反転した。
「ねえ、おにぎりゃー」
僕は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。サマーウールのスカートの裾が、熱い夏の風を孕んで、重々しく翻った。僕が纏っていたあの文学少女のポーズも、おにぎりゃーをからかうための高い声も、全ては僕というフルブリンガーの残酷な本質――いつかこの現世の日常から、君の前から消え去らねばならないという世界の歪み、宿命――を隠すための、精巧な嘘の外套に過ぎなかった。
だけど、僕は今、ここにいる。君が僕の真の名を呼んでくれたから、僕は僕のままでここに立っていられる。
「今日のことはさ、僕たちの……誰にも言えない、秘密にしようね」
声のトーンを、もう一度だけ、高い位置へと引き上げる。だけど、その響きには、もう先ほどまでの無敵の余裕はどこにもなかった。それは、おにぎりゃーに対して、これ以上の戦いに巻き込まないための、冷徹な拒減であり、同時に、最大の愛おしさを込めた最後の嘘。
「配信でも、SNSでも、誰にも言っちゃ駄目だよ。僕の力も、あの化石の幽霊のことも。これは、僕とおにぎりゃーが、あの暗闇の中で、お互いの魂の形を確かめ合うために掘り当てた、ただ一つの……決して消えない、僕たちの『真実』の形なんだからさ」
僕はもう一度、伊達メガネを顔にかけた。黒いフレームが、僕の視界を再び、冷酷に、正確に四角く切り取る。レンズの向こう側で、おにぎりゃーの顔に浮かぶ、言葉にならない、だけど僕の全てを受け入れるかのような深い、深い感情の揺らぎを、僕はただ、逃れられない運命のように、じっと見つめていた。