フォドラの喉元におけるパルミラ軍の迎撃戦が終結して数時間。
急造の防衛線を支え切ったツィリルとヒルダ、そして後方支援に回っていた灰色学級の面々は、ゴネリル家当主の居城へと足を踏み入れていた。
廊下に漂うのは、戦場の砂埃の匂いではない。煮詰めた薬草の青臭い蒸気と、得体の知れない湿潤な熱気だった。
案内された最奥の寝室。その両開きの重厚なオーク材の扉が開かれた瞬間、部屋の内側からぬるりとした濃密な湯気が廊下へと溢れ出た。
「……うわ、何この匂い。部屋中が蒸し風呂みたいになってるんだけど……」
ヒルダが鼻をつまみ、顔をしかめて寝室の中へ踏み込む。
部屋の中央、四本の支柱に支えられた巨大な天蓋付きベッドの上に、その巨躯は横たわっていた。
レスター諸侯同盟において『一騎当千の勇将』と謳われる男、ホルスト・ジギスヴァルト・ゴネリル。
普段ならば鍛え上げられた分厚い胸筋と獰猛なまでの覇気を放つはずの大男が、毛布を腹まで掛け、顔面を土気色に変色させていた。額には大粒の脂汗がびっしりと浮き、呼気を吐き出すたびに、その毛穴という毛穴から白い湯気がもうもうと立ち昇っている。
「おお……ヒ、ヒルダ……! 無事か……っ!」
ホルストの太い首筋の筋肉が痙攣し、軋むような音を立てて上体を起こそうとする。
「ちょっと兄さん、起き上がらなくていいから! 完全に顔が青菜を茹でたみたいになってるじゃないの!」
ヒルダが駆け寄り、ベッドの脇に置かれた水差しから濡れタオルを取って兄の額に叩きつけるように置いた。
「もー、兄さんたら! 出陣の前に変なキノコ食べて当たるなんて、馬鹿じゃないの!? ゲッソリやつれちゃって……」
「ぐ……め、面目ない……。新種の美味そうなキノコに見えたのだ……。だが、口にして半刻で胃腑が裏返るような激痛が走り、手足の自由が奪われ……不覚、まさに一生の不覚……っ」
ホルストは巨大な手のひらで自身の腹部を強く圧迫し、苦悶の表情を浮かべた。
だが、その混濁しかけた瞳が、妹の五体を上から下へと検分するように見つめる。
「しかし……報告は届いているぞ。パルミラの精鋭部隊が喉元の要塞に取り付いたところを、お前が見事に迎撃し、防衛線を死守したとな……! 我が妹ながら、見事な采配と武勇だ。ゴネリル家の血は、伊達ではないな……!」
「だから、違うってば。あたし一人の力でどうにかなる相手じゃないことくらい、兄さんだって知ってるでしょ」
ヒルダは小さく息を吐き、肩越しに背後へと視線を向けた。
「みんながあたしを助けてくれたおかげだし、前線を支え切った一番手は……この子だよ」
ヒルダはそう言って、自身の背後に控えていた小柄な少年を前へと促した。
手斧の刃の血を拭い、衣服にまだ微かな泥と焦げ跡を残したツィリルが、ベッドの上の勇将と真っ直ぐに視線を交差させる。
ツィリルが身に纏う薄汚れた外套には、先刻の戦闘で浴びた砂塵と、僅かに焦げ付いた火薬の跡が残っている。腰には使い古された鉄の手斧が提げられ、背中にはゴネリル家の兵士から借り受けた規格品の弓が背負われていた。
「彼が、手紙に書いたツィリルくん。……今回、誰よりも泥だらけになって前線を走り回って、あたしのことも、領民のことも、全部護ってくれたんだから」
ヒルダの言葉を受け、ホルストの眼光が鋭く細められた。
病床にありながらも、数多の修羅場を潜り抜けてきた一騎当千の将の圧力が、寝室の空気を物理的に重くする。
「……お前が、ツィリルか。妹の手紙に、幾度となくその名が記されていたな」
ホルストの低く濁った声が、部屋の空気を震わせる。
「パルミラ出身だと聞いていたが……同郷の者を相手に斧を振るうことに、ためらいはなかったのか?」
ツィリルは、微塵の瞬きもせず、澄んだ橙色の瞳でホルストを見つめ返した。
「ためらいは、あります」
「……ふむ」
「同じ言葉を喋る人が死んだり、血を流して倒れるのを見るのは気持ちのいいものじゃないです」
「……」
「でも、ボクがパルミラにいた頃、父さんも母さんも戦争で死んで、誰も助けてくれませんでした。王様も何もしてくれなかったし、生きていくためには自分でどうにかするしかなかった。パルミラにいた時の方が、今よりずっと大変でした」
ツィリルは手斧の柄に無意識に指先を触れさせ、静かに言葉を重ねる。
「フォドラに来て、レアさまに拾われて、大修道院で仕事をもらって……ヒルダはいつも怠けて掃除を押し付けてくるけど、ボクをパルミラ人だからって遠ざけたりしなかった。……パルミラの連中が攻めてきて、ヒルダの領地を荒らして、ヒルダが怪我をして血を流したら、ボクはすごく嫌だし、悲しいです」
静かな寝室に、少年の平坦な声が響き渡った。
少年の両足は、床の上に寸分の狂いもなく均等に体重を乗せている。
「だから、ボクはヒルダを守ります。相手がパルミラ人でも、どこの誰でも関係ない。ヒルダを傷つけようとする敵は、ボクが全部殺します。……ヒルダは絶対に死なせないから、ホルストさんは安心して寝ててください」
静寂が、寝室を支配した。
ホルストがツィリルの瞳を凝視したまま、数秒間、微動だにしなかったからだ。
「……ふっ、はははははッ!! ゴホッ、ゲホッ……! あいたたた、腹が……ッ」
ホルストが突然大声を上げて笑い出し、直後に激しくむせて腹を押さえた。
「ちょっと兄さん! 無理しないでよー!」
「いや、素晴らしい! 報告で聞いた見事な戦いぶり、そして今の迷いのない目……。ツィリル、お前の意思はこのホルストがしかと見定めたぞ!」
ホルストは痛む腹を押さえながらも、確かな熱を帯びた眼差しをツィリルに向けた。
「お前は、妹の背中を任せるに足る、立派な男だ」
「……はい。ヒルダの背中は、ボクが守ります」
ツィリルは首を縦に振り、事実としてそれを肯定した。
「……そうだ、ヒルダ。お前にも渡さねばならないものがある」
ホルストはベッドの脇、サイドテーブルの下に置かれていた細長い桐の木箱を引き寄せた。
厳重に巻かれていた封印の布が解かれ、蓋が開かれる。
その瞬間、室内の空気が異様な重圧によって軋んだ。
姿を現したのは、鈍い鉛色と赤黒い骨のような装甲で覆われた、異形の巨大戦斧。
刃の中央部には、まるで心臓のようにドクン、ドクンと一定のリズムで蠢く有機的な組織が埋め込まれており、そこから禍々しい紫色の魔力光が脈打つように漏れ出していた。
「英雄の遺産、魔斧『フライクーゲル』……。ゴネリルの紋章を持つお前に、これを正式に託したい。此度の戦いを見るに、お前も立派に戦場に立つ覚悟ができたようだからな」
「えっ……」
ヒルダは渡された巨大な斧を受け取り、その腕にのしかかる圧倒的な重量と、掌に伝わる不気味な脈動の感触に顔をしかめた。
(こ、こんな物騒で可愛くない斧、あたしには似合わないっていうか……。重いし、ピクピク動いてて気持ち悪いよー……)
ヒルダの表情筋が嫌悪感で歪む。だが、彼女はフライクーゲルを抱えたまま、隣に立つツィリルの横顔へと視線をスライドさせた。
ツィリルの腰にあるのは、刃こぼれした鉄の斧。
彼には紋章がない。英雄の遺産を握れば、その身はたちまち魔獣へと変異し、命を奪われる。彼は通常兵器と、自身の身軽な肉体だけを頼りに、あの苛烈な戦場へ飛び込んでいくしかないのだ。
ツィリルは先程、自分の前に立って盾になると断言した。
ならば、彼が正面の敵を抑えている間に、その死角から迫る大型の魔獣や重装兵の軍勢を、一撃で肉片ごと粉砕するだけの『圧倒的な破壊力』は、誰が用意するのか。
小柄な少年に粗末な手斧を持たせ、自分を守らせておきながら、自分だけが手ぶらで後ろに隠れているなどという選択肢は、ヒルダの心の中に残されていなかった。
「……うーん。重いし、ピクピク動くのが気持ち悪いけど……これからはあたしが持つよ、兄さん」
「そうか。持ってくれるか」
ホルストが満足そうに口角を上げた。
ヒルダはフライクーゲルの柄を右手でしっかりと握り込み、空いた左手でツィリルの腕に自身の腕を絡ませた。
「ツィリルくん。……ツィリルくんがあたしを護る『盾』になってくれるなら、あたしが、ツィリルくんの敵をぶっ飛ばす『矛』になる。……だから、二人で半分こ、ね?」
「……ヒルダが重くないなら、ボクはいいけど。でも、ボクはヒルダの前に立つよ」
「ふふっ、生意気ー」
ヒルダは、ツィリルの肩にコテンと自身の頭を預けた。
重いものを持ちたくない、戦場に出たくないと逃避し続けてきた少女が、目の前の少年の構築する防衛線の中で、最大の火力を担う砲台となることを受諾した瞬間だった。
病室の入り口の扉の隙間からその光景を見守っていたイングリットやメルセデスたち女性陣の肩が、同時にピクリと跳ねた。
(……やられましたわ。忌まわしい遺産を、彼を護るために自ら持つ決意をするなんて……)
(ヒルダちゃん……ツィリルくんとの間に、誰も入れない壁を作っちゃった……)
彼女たちの呼吸のピッチが速くなる。
胸の奥底で燻っていた焦燥感が、静かに、だが確実に温度を上げ始めていた。
***
「……で、なんでアンタらまで完全武装でついて来るんだい?」
大修道院へ帰還するための馬車の前で、カトリーヌが怪訝そうに片眉を上げた。
彼女の視線の先には、ヒルダとツィリルだけでなく、イングリット、メルセデス、コンスタンツェ、モニカ、マリアンヌといった面々が、各々の武器を携えて集結していた。
「ゴネリル領の防衛、わたくしたちも微力ながらお手伝いさせていただきます!」
イングリットが『ルーン』の柄を強く握りしめ、一歩前へ出る。
「ヒルダちゃんたちだけにお任せするわけにはいかないものね~」
メルセデスが微笑みながら治癒の杖を掲げた。
「オーッホッホッホ! ヌーヴェル家の再興のため、パルミラの軍勢などわたくしの魔法で塵に変えて差し上げますわ!」
コンスタンツェが胸を張り、自信に満ちた声で笑う。
「わたくしはただ、学友の支援になればと思い来ただけです!」
モニカが早口でまくしたてながら、分厚い魔道書を胸に抱き抱える。
「わ、私の治癒魔法でも……お怪我の治療くらいなら、きっとお役に立てるはずですから……っ」
マリアンヌが両手で杖を握りしめ、小刻みに肩を震わせながらも、決してその場を一歩も退こうとはしない。
各々が口にする大義名分や建前の裏で、彼女たちの視線は一点、馬車に荷物を積み込んでいるツィリルの背中へと注がれていた。
「……まぁいいさ。戦力は多いに越したことはない」
カトリーヌは肩を竦め、雷霆を背中に担ぎ直した。
「パルミラの残党どもが完全に引くまで、まだ喉元の警戒は解けないよ。大修道院へ戻る前に、もう一回見回りを叩き込む。……行くよ、アンタたち!」
「はいっ!」
ヒルダが重いフライクーゲルを担ぎ上げ、ツィリルと共に歩き出す。
生暖かい湯気の充満する病室を後にし、少年と少女たちは、再び砂塵の舞う国境の砦へと向けて足音を響かせていった。