フォドラに新たな時代が訪れてから、数年の月日が流れた。
かつて激戦の舞台となったアミッド大河の畔。新設された『フレゲトン辺境伯領』の中心には、軍事砦としての堅牢さを残しつつも、生活の匂いが満ちる広大な館が築かれていた。
館の最上階。分厚いオーク材の机が置かれた執務室で、一人の青年が山積みの羊皮紙と格闘していた。
長身に引き締まった体躯、そして深い色を宿した金色の瞳。かつて教団の小間使いであり、今やフォドラ全土にその名を轟かせる「大司教直属・特務騎士団長」にして「フレゲトン辺境伯」――ツィリルである。
彼は羽ペンをインク壺に浸し、カリカリと乾いた音を立ててパルミラとの交易路の整備予算案に署名を書き入れていた。
「ツィリル」
執務室の分厚い扉が開かれ、イングリットが歩み入ってきた。
彼女は銀色の甲冑ではなく、動きやすいが質の良い革の執務服を纏っている。彼女はツィリルの机の前に立つと、整理された書類の束を音を立てずに置いた。
「西の農村部からの陳情書です。私が事前に精査して、対応案を三つに絞っておきました」
イングリットは、ツィリルの横顔を真っ直ぐに見据える。その緑の瞳には、かつての騎士としての忠誠と、一人の女としての深い熱が混在していた。
「ありがとう、イングリット。助かるよ」
ツィリルは視線を書類から動かさず、左手でその束を受け取った。
「ツィリル! イングリットにばかり頼っていては駄目です!」
パタパタと軽い足音を立てて、リシテアが執務室に入ってきた。
彼女はツィリルの机の反対側に回り込むと、自らが作成した交易路の効率化案の図面を広げた。彼女の頬は微かに朱に染まっている。
「こちらの物流網の再構築案、私が完璧に仕上げておきました。ですから……その、今夜は、私の部屋で……これの、説明を……」
リシテアの言葉が尻すぼみになるのと同時に、執務室の窓際から、甲高い笑い声が響いた。
「オーッホッホ! 庶務ごときで筆頭の座をアピールするとは、浅ましいですわね!」
コンスタンツェが、日除けの傘を閉じてバルコニーから室内へと足を踏み入れる。
「わたくしは、新しい領地の魔道防衛網の最終調整を終えましたわ! これでどんな外敵からも、わたくしたちの領地は完璧に守られますのよ!」
コンスタンツェは鉄扇を広げ、ツィリルの背後に立ってその肩にそっと手を置いた。
「あの……」
マリアンヌが、開け放たれた扉の枠に寄りかかるようにして立っていた。
彼女の両手には、丁寧に折り畳まれた上質な布地が抱えられている。
「エドマンドの義父様から、新しい農業用の魔道機材を取り寄せておきました。……あと、ツィリルさんの新しい冬着も。後で、採寸を……」
マリアンヌは、伏し目がちに、しかし確かな独占欲を滲ませた視線をツィリルへと向ける。
「ちょっとちょっと、みんなお仕事ばっかりでツィリルくんが息詰まっちゃうでしょー?」
ヒルダが、マリアンヌの横をすり抜けてツィリルの背後へと回り込む。
彼女はツィリルの首に両腕を回し、その豊かな胸部を彼の背中に柔らかく押し当てた。
「ねえ、ツィリルくん。お仕事なんて放り出して、アタシとお昼寝しよ? 今日は特別に、ずっと撫でててあげるからさ」
ヒルダの甘い声が、ツィリルの耳元をくすぐる。
「ツィリル様! 私も、不審な侵入者がいないか、お屋敷の周囲を見回ってまいりました! 今日もツィリル様の絶対の安全は、このモニカが保証いたします!」
モニカが、部屋の隅で背筋を伸ばし、狂信的な瞳で敬礼をする。
インクの匂い、高価な香水の香り、そして微かに汗ばんだ肌の匂い。
六人の女たちの視線と熱気が、ツィリルの座る執務机の周辺に濃密に絡み合っていた。
「……みんな、順番に話して。頭が痛くなる」
ツィリルは、ヒルダの腕の圧力に身を任せながらも、羽ペンの動きを一切止めずに答えた。
彼の声は平坦で、面倒くさそうにすら聞こえる。だが、彼の身体は、彼女たちの接近を一切拒絶していなかった。
執務室の奥の扉が静かに開き、ワゴンを持ったメルセデスが現れた。
「フフッ、みんな相変わらず元気ね。……でも、ツィリルが疲れちゃったら可哀想でしょ? ほら、お茶が入ったから、少し休まない?」
メルセデスの極上の微笑みと、逆らえない母性の圧力の前に、女たちの牽制の視線がピタリと止まる。
メルセデスはワゴンからティーカップを取り出し、ツィリルの机の端にそっと置いた。
「メルセデス……ありがとう。すごい助かる」
ツィリルは初めて羽ペンを置き、ティーカップを手に取った。
芳醇な紅茶の香りが、室内の濃密な空気を少しだけ和らげる。
「ううん。ツィリルが毎日頑張ってくれてるおかげで、私たちはこうして平和に暮らせてるんだもの」
メルセデスが、ツィリルの頬を優しく撫でる。
ツィリルは、彼女の手の温もりに目を細め、ふと、窓の外へと視線を向けた。
窓の外には、彼の領地が広がっている。
開墾されたばかりの豊かな農地。活気にあふれる街並み。そして、遠く地平線まで続く、パルミラへと至る大街道。
かつて、生きるために弓を引き、ゴミのように死んでいくはずだった孤児の少年。
それが今、フォドラの国境を治める領主となり、これほどまでに強大で、有能な「群れ」を自らのテリトリーの内に囲い込んでいる。
名門貴族の令嬢。天才魔道士。裕福な商会の養女。
かつてなら言葉を交わすことすら許されなかったはずの女たちが、身分も建前もすべて脱ぎ捨て、己の血と肉のすべてを、一人の男に捧げている。
ツィリルは、ティーカップをソーサーに戻した。
カチャリ、という硬質な音が、執務室の空気を引き締める。
「……ねえ、みんな」
ツィリルの静かな声に、七人の女たちが一斉に彼を見つめた。
彼女たちの瞳に、期待と、僅かな緊張の色が走る。
「昔、ボクは……レア様と自分さえ生き残れれば、他のことなんてどうでもいいと思ってた」
ツィリルは、机の上に置かれた膨大な書類の束――彼らが共に築き上げてきた領地の記録――に視線を落とした。
「でも、今は違う」
彼は顔を上げ、自らを囲む七人の女たちの顔を、一人ずつ、真っ直ぐに見つめ返した。
彼の金色の瞳には、もはや少年の面影はない。自らのテリトリーと、そこに属するすべての者を護り抜くという、圧倒的な雄(オス)としての覚悟が宿っていた。
「ボクは……みんなのことが、大事なんだ」
ツィリルの声は低く、しかし部屋の隅々にまで確実に響き渡った。
「誰か一人でも欠けたら、嫌だ。……だから、これからもずっと、ボクの傍にいてよ」
それは、大義でも、政治的な駆け引きでもない。
ただ「自分の大切な群れは、一人残らず自らの手元に置いておきたい」という、純粋で、強欲なまでの事実の提示だった。
イングリットの呼吸が止まり、リシテアの顔が爆発したように赤く染まる。コンスタンツェが扇で口元を覆い、マリアンヌが布地を胸に強く抱きしめた。
ヒルダがツィリルの背中に顔をうずめ、メルセデスが優しく目を細め、モニカがその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。
「……ボク、また変なこと言った?」
ツィリルが、不思議そうに小首を傾げた。
「ツ、ツィリル……っ!」
「もー、ツィリルくんったら、本当に……っ!」
限界を迎えた女たちが、一斉にツィリルの座る椅子へと群がった。
絹の衣擦れの音と、甘い香水、そして微かに汗ばんだ肌の匂いが、執務机を完全に包み込む。
「ちょっと、重い! 痛いから引っ張らないでってば!」
ツィリルは文句を言いながらも、自らの身体に押し付けられる柔らかな質量と熱を、決して振り払おうとはしなかった。
彼は、自らの腕の中に飛び込んできたリシテアの肩を抱き寄せながら、大きく息を吐いた。
澄み渡る青空の下。
アミッド大河の畔に築かれた館には、今日も騒がしくも、濃厚な生命力に溢れた営みが響き渡っている。
戦乱の歴史の裏側で、自らの大切なものをすべて奪い尽くした若き英雄の、これが、一つの確かな決着の形であった。