将来の夢が決まった瞬間を覚えているだろうか。俺はよく覚えている。
小さい頃、俺は生粋のじいちゃんっ子だった。長い連休がある度に海沿いの祖父母の家に遊びに行っては祖父の釣り船に乗り沖に漕ぎ出す日々を送っていた。凪いだ海、白波が立つ海、眩しく美しい朝焼けの海、静まり返った夜の海、祖父は小舟を手足のように操りまだ幼い俺に大海原の持つ様々な表情を見せてくれた。
内緒で舵輪を握らせてくれたことも一度や二度じゃない。
でも海は綺麗なだけではなく恐ろしい場所でもあることを俺はまだ知らなかった。
それは霧の濃い日だった。いつものように祖父の操船で長崎の入り組んだ細道を抜け沖に漕ぎ出したまではよかった。簡単な物見遊山、慣れないことはしない安全な航海になるはずだった。
だったのだが陸が見えなくなってすぐ、俺たちはトラブルに見舞われた。
賊の一団に絡まれてしまったのだ。いや正確には半グレの海賊被れといったところか。いずれにせよ標的にされたらひとたまりもないことを分かっている祖父は母港に向けて全速力で逃げた。船から今まで聞いたことのない悲鳴のようなエンジン音が鳴り船首が少し持ち上がる。
祖父が逃走を図っていることを察した海賊船も速度を上げる。
しばらくは追い縋る海賊を50年培った巧みな操船で寄せ付けなかった祖父だったが相手のプレジャーボートはエンジンを違法チューンしているのか速力差に少しづつ距離が縮まってきた。
迫りくる海賊たちの手にボロボロの使い込まれた拳銃が見える。
振り切れない…!祖父の傍で恐怖に震えていた俺がもう駄目かと思ったその時、大きな汽笛の音が空気を震わせた。同時に濃霧を切り裂いて巨大な影が俺たちと海賊船の間に割って入って来た。
主砲とミサイルを備えたグレーの船体、マストに掲げられたシロイルカのシンボル。すべてが俺の目に焼き付いた。
一瞬だった。一瞬で状況が変わった。
突然の戦闘艦の出現に面食らった海賊船は俺たちを追うことを止め一目散に逃げ散った。俺たちを助けてくれた軍艦は祖父に発光信号で針路そのままと告げると機関を唸らせ海賊を猛然と追いかけていく。
「じいちゃんあの船が戦ってるよ!」
俺が言うと祖父は舳先から視線を動かさず言った。
「貴一よあれが『たかつき』だ。日本の男の船だ。忘れないようによく見ていろ」
普段は決して耳にしない祖父の硬い声だった。
「たかつき…」
その時だったんだと思う。俺があんな風に誰かの盾に、目の前の人を守る人間になりたいと決めたのは。
ーーーーーーーーー
ーーーーーーー
ーーーーー
「はぁーエセックス級はやっぱりかっこいいなぁ」
俺、
「いつかああいう船を動かせるようになるんだよな俺たち」
俺たちにはまだ航海と言えるほどの経験がない。
横須賀女子海洋学校との合同海洋実習に参加するための佐世保から横須賀までの道中は大規模改修工事直後の初航海ということもあって操艦の大部分は同乗していた教官たちが細かな調整とたかつきの持つ癖の洗い出しをしながら行い、俺たち生徒はその動きを見学し簡単な仕事を手伝うに留まっていた。
既に教官は引継ぎを終え船を降りている。実習が始まれば自分たちで航海中に起こる様々な事象を解決していかなければならない。その事実が俺の気分を憂鬱にさせ作業の合間にこうしてデカい船を見て気を紛らわしていた。
少なくともこれから一緒に生活する『たかつきクラス』のみんなは良い奴だ。男女の確執も変な派閥もないし行き過ぎたトラブルメーカーもいない。
だからといってもとても安心はできなかった。だって俺はこのクラスの…_
「かんちょー!」
下からの大声に俺はウイングの手すりから身を乗り出した。声の聞こえた先では1人の半袖制服と短髪の男子生徒が前甲板の主砲横で手を振りながらこっちを呼んでいた。
「野中か、どうしたー!」
「副長とはぐれたんだってー!」
「なに~?」
「ふくちょーが迷子ー!」
見ると艦の左舷が接している波止場でバツが悪そうな顔をした女子生徒が後ろ頭をかいていた。
「ウチが目を離したらデカいトラ猫について行っちゃったんだ」
「えぇ…?」
「あの子ネコには目がないから」
参ったねーと笑う航海科1年たかつき航海長の鷹司エリに「笑ってる場合じゃねー」と突っ込みつつ俺は緩めていた詰襟を締め直した。
「航海長、俺の代わりに出港の準備進めといて。ちょっと探してくる」
「りょ!サクラっちはヨコジョの航洋艦が繋がれてる第三埠頭ではぐれたから多分そのへん」
「第三だな分かった」
艦橋のラッタルを降り甲板に出る。砲術長である野中に鷹司の補佐を頼み埠頭に降り立つ。第三埠頭はたかつきの留め置かれている第二埠頭のすぐ近くだ。速足で向かう俺だったがしばらくするとなんとも居心地の悪い視線の的になった。佐世保分校の艦長服である紺の詰襟は白の夏季制服の多い横須賀ではよく目立つ。迷子の副長の目印になればと暑い中脱がずにいたのだがそれが他校生の好奇心をくすぐったようだった。特にここを根拠地にしている横須賀女子海洋学校の生徒にとっては普段目にしない男の船乗りだということも相まって警戒半分興味半分といったところ。
気恥ずかしい感覚に襲われながら俺は副長の名前を呼びながら歩き続ける。そうしていると一隻の陽炎型航洋艦の近くで人だかりができていた。
「むにむにしないでぇ」
「ほっぺもちもちだ」
「市松人形みたい」
「カワイイ~」
中心では日本人形が高校生くらいに成長したようなセーラー服のよく似合う少女がやたら大きな猫を抱きながら頬をつっつかれたりしていた。制服には艦の指揮官クラスであることを示す金モール。間違いない、探してた副長だ。
「おーい
「あ、南雲くんたすけt」
「うわ男子だ!」
「彼氏か⁈そうじゃなきゃストーカー⁈」
「ち、ちが、どっちも違くて」
副官で中学からの知り合いである百武さくらが俺に救助要請を発するより早く彼女を囲んでいた横須賀女子の生徒たちがワッと反応した。そんな不審者見つけたような勢いで言わなくてもいいじゃないか…いや女子高の敷地内に立ち入っているしまんま不審者か。
「えっと、ウチの副長が何か迷惑をお掛けしましたか?」
姿勢を正しできるだけ相手方を刺激しないように尋ねると明るいブラウンの髪をツインテールに結い上げた生徒が両手と首を横に振って否定した。艦長の帽子を被っているところを見るとこの女子生徒がこの陽炎型の艦長なのだろう。
「ううん全然そんなことないよこっちこそ構い倒しちゃってごめんね。もしかしてさくらちゃんのところの?」
「佐世保分校航洋艦たかつき艦長の南雲です。そこでムニムニされてたのは副長です」
「そうだったんだ。私晴風艦長の岬明乃。そっちも実習に参加するんだっけ。お互い頑張ろうね」
人懐っこく笑って敬礼する岬艦長に俺は思わずついていきそうになる魅力を感じた。彼女の放つ不思議な引力に惚けそうになる気を引き締めて答礼する。
「よろしく岬艦長。じゃ船に帰るぞ百武」
「うん、明乃さんたちも頑張って」
百武の腕からすり抜けたトラ猫はこちらを一瞥してひと鳴きすると晴風のタラップを駆けあがっていく。百武は少し残念そうだったがそろそろお暇しないと出港が遅れるし晴風にも迷惑が掛かる。俺たちは急いでその場を後にし、たかつきへと向かった。
「艦長たち遅刻だよー早く上がってきな」
「すまん航海長、進捗は?」
「みんな乗船済みで物資・燃料・兵装・機関・レーダー・通信・位置情報全部オッケーあとは港長の指示を待つだけ」
「ありがとな助かった」
「ふふん寄港先のハンバーガーで手を打とう」
「…お手柔らかに頼む」
艦橋に上がり艦橋要員が全員揃っていることを確認し少し肩の力が抜ける。
副長の百武さくら。
金髪パリピの航海長鷹司エリ。
砲術長の野中
しきりにメモ帳に書き込んだ手順を確認している水雷長の袴田伊織は元クール系アイドル。
なんともまあ個性的なメンツだけど話してみると案外話が合う。気のいい連中だ。俺はそんな仲間たちの’’艦長’’になる。
さてそろそろ時間だ。背筋を正し息を吸う。
「出港用意!」
「出港用意!」
俺の発した号令を百武副長が復唱し艦内に響く。たかつきクラスの全員が待ってましたと言わんばかりに総員配置に着き各々に割り振られた作業に取り掛かる。航海科のラッパ手が出港の合図を吹き艦首旗竿の国旗をしまう。
「港長からの出港許可が出ました」
通信室からの知らせを聞いた野中が前後の甲板でロープを操作する生徒に指示を出す。
「もやい放せ」
陸との繋がりが絶たれ、たかつきは自由の身だ。
今回はタグボートの支援はない。初めての出港は自分たちだけでこなさなければならなかった。
「両舷前進微速、赤黒無し。おもーかーじ」
「両舷前進微速赤黒無しおもーかーじ」
少しづつ慎重に岸壁を離れタイミングを見計らう。左舷見張り員の報告でもう船体が確実に岸壁と擦れないところまで離れたことを確認すると舵を戻し速力を上げる。
「もどーせー両舷前進原速針路150!」
「ヨーソロー!」
命の恩人の船を操り級友たちと大海原を駆ける。
俺は艦長になった。