祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
「もう一度、聞かせてくれ」
ヴァンサン家の使用人頭は、机の向こうで腕を組んでいた。四十がらみの男で、目つきには疲労と苛立ちが混じっている。
「お前は、私の不正を見抜いたつもりらしいが」
七歳のノアは、椅子に座ったまま、男の手元を見ていた。帳簿の端、インクの色がわずかに違う一行。先週の薪の納入記録だけが、他のページより新しい墨で書かれている。
「不正とは申しておりません。ただ……先週の記録だけ墨の色が違います」
ノアは静かに言った。
「だからどうした。書き直すこともある」
「書き直すのは、間違えたときです」
ノアは続けた。
「あなたは、間違えたのではありません。先週、薪の量を実際より多く記録した。そして今、私がそれに気づいたことに苛立っている」
使用人頭の顔から、色が抜けた。
「お前――」
「私は誰にも話しません」
ノアは言った。
「ただ、知っておいてほしいのです。私が見たものを、私はいつでも誰かに伝えられるということを」
男は、しばらく無言だった。やがて、彼は震える手で帳簿を閉じた。
「……何が欲しい」
「何も」
ノアは答えた。
「今は」
その「今は」という二文字に、男の顔がさらに強張った。
部屋を出るとき、ノアは背中に視線を感じた。恐怖の視線だった。彼が初めて、誰かにそういう視線を向けられた瞬間だった。
◆◆◆
廊下を歩いていると、館の老侍女が壁際に立っていた。先ほどの一部始終を、扉の隙間から見ていたのだろう。
「坊や」
彼女は声をかけた。
「お前、今のは誰に教わった」
「誰にも」
「噓を言うな。七つの子供が、あんな駆け引きを自分一人で思いつくものか」
ノアは答えなかった。老侍女は、しばらく彼を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「行くといい。お前の母様が、呼んでいる」
◆◆◆
西塔は、いつも霧の匂いがした。湿った石と、カビと、誰にも嗅がれることのない孤独の匂い。
最上階の小部屋で、母――イゾルドは、机に向かって何かを書いていた。ノアが入っても、すぐには顔を上げなかった。
「お入りなさい」
ノアは入り、椅子に座った。母はようやく筆を置き、息子を見た。灰色の瞳が、ろうそくの光を映している。
「使用人頭のことは聞いたわ」
ノアは驚いた。
「誰から」
「私には、私の耳がある」
イゾルドは、それ以上説明しなかった。
「どうだった。脅すという行為は」
「脅したつもりはありません」
「では何をした」
「彼の恐怖を見せただけです」
イゾルドの口元に、初めて小さな笑みが浮かんだ。それは、ノアがこれまで見たどの笑みとも違う、満足の表情だった。
「それでいい」彼女は言った。
「お前は、もう一つ進んだ」
「母上」ノアは尋ねた。
「私は、これから何をすればいいのですか」
イゾルドは、答える前に、しばらく窓の外を見た。霧の向こうに、王城の尖塔がかすかに浮かんでいる。
「お前、剣を持ったことがあるか」
「ありません」
「持つ必要はない」イゾルドは言った。
「この国では、剣で王座を奪うことはできない」
ノアは、黙って続きを待った。
「先王の代に、内乱があった」
イゾルドの声は、教師が歴史を語るように平坦だった。
「三人の王子が剣を取り、国土の三割が灰になった。その後、貴族たちは二度と同じ過ちを繰り返したくないと決めた。武力による継承を禁じ、評議会の承認を必須とする制度が生まれた」
「評議会とは」
「大貴族の長、宗教の長、軍の長」
イゾルドは三本の指を立てた。
「この三人が認めなければ、王の血を引いていようと、ただの僭称者だ」
ノアは、母の言葉を一つずつ刻むように聞いていた。
「では、王座を得るには」
「評議会を、堕とすしかない」イゾルドは言った。
「剣ではない。お前には、剣も家格もない。だが――」
彼女は、息子の顔を、初めて正面から見据えた。
「お前には、言葉がある」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
「先ほど、使用人頭にしたことを、もっと大きな相手に、もっと正確にやれ。それが、お前の武器だ」
ノアは、自分の手を見た。剣を握ったことのない、まだ小さな手。だが、その手は今、別の重さを持ち始めていた。
「母上は、誰を堕とせと、おっしゃるのですか」
イゾルドは、懐から小さく折られた羊皮紙を取り出した。
「ヴァンサン。ベネディクト。グレイヴズ」
三つの名前が、初めて声になって、部屋に響いた。
「この三人が、評議会だ」
イゾルドは羊皮紙を、息子の手のひらに押しつけた。
「いつか、必ず堕とせ」
ノアは羊皮紙を受け取った。薄い紙が、ひどく重く感じられた。
「母上は」
彼は、初めて自分から問いを発した。
「私に、王座を取らせたいのですか。それとも――」
言葉を切った。続きを、自分でも言葉にできなかった。
イゾルドは、その問いに、すぐには答えなかった。彼女の表情に、一瞬――ほんの一瞬、何かが動いた。
それは、躊躇いだった。
ノアは、その表情の動きを、誰よりも正確に読む訓練を、今この瞬間にも積んでいた。だから、見逃さなかった。
「それとも、何だ」
イゾルドは、平静な声に戻して聞いた。
「いえ」
ノアは、その問いを引っ込めた。まだ、母にぶつけるべき言葉ではないと判断した。
「何でもありません」
イゾルドは、息子の頭に手を伸ばし、撫でた。骨ばった指が、ゆっくりと髪を撫でる。
「お前は、私の言葉だけを信じればいい」
その声は、優しかった。母としての愛情に満ちた声だった。
だが、ノアの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
使用人頭の不正を見抜いたとき、彼は、相手の恐怖の輪郭をはっきりと見ることができた。今、母を見ても、その輪郭は見えない。霧の中にいるように、ぼやけている。
それが、母が自分の血を引いているからなのか。それとも、母が、誰よりも見られることに慣れているからなのか――ノアには、まだわからなかった。
◆◆◆
塔を出て、霧の中を歩いて帰る道で、ノアは何度も、母の表情を思い出していた。
『それとも、何だ』
あの一瞬の躊躇い。彼が問いを完成させる前に、母はすでに、何かを答えようとしていた。あるいは、何かを答えないようにしていた。
どちらなのか、まだわからない。
彼は懐から、母に渡された羊皮紙を取り出した。三つの名前。地図上の点に過ぎない、まだ何の輪郭も持たない名前。
ヴァンサン。ベネディクト。グレイヴズ。
これから、彼はこの三人の恐怖を、一つずつ見つけ出さなければならない。母が教えた通りに。
だが――ノアは、足を止めた。
母が、本当にすべてを教えてくれているのか。
使用人頭の恐怖は、彼自身の目で、はっきりと見えた。誰にも教わらず、自分の観察だけで見つけたものだった。
母が与えたのは、三つの名前だけだ。その名前の奥にある恐怖を、母は本当に知らないのか。それとも――知っていて、息子にはまだ渡していないだけなのか。
霧の向こうに、王城の尖塔が、ぼんやりと浮かんでいる。
ノアは、羊皮紙を握りしめた。
武器は、確かに手の中にある。だが、その武器の使い方を、彼にすべて教えてくれる者は、まだいない。母さえも、その例外ではないかもしれない。
彼は、霧の中を歩き出した。
次に西塔を訪れるとき――そのときまでに、彼は決めなければならない。母の言葉を、どこまで信じ、どこから自分の目だけを信じるべきか。
その境界線を引く日が、もうすぐ来る。
そして、その日が来たとき、彼は初めて、母に対しても、自分の武器を使うことになるだろう。
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