祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
窓辺に立ったまま、ノアは、しばらく動けなかった。
エヴリンに、まだ何も伝えていない。その事実に気づいた瞬間、彼の中で、これまで積み上げてきた計算とは違う焦りが生まれていた。
朝の光が、部屋を白く染めている。彼は、外套を掴んだ。
◆◆◆
デュヴァル伯爵家へ向かう道のりは、これまでで最も長く感じられた。
馬車の中で、ノアは、何を話すべきか考え続けた。ヴェルナー・ロスのこと、母の告白、グレイヴズ将軍との過去――そのすべてを話すべきか。それとも、彼女には関係のないことだと、飲み込むべきか。
答えが出ないまま、屋敷に着いた。
◆◆◆
庭で、エヴリンは、花壇に水をやっていた。ノアの姿を見つけると、彼女は水差しを置き、駆け寄ってきた。
「無事だったのね」
その一言に、ノアは、わずかな驚きを覚えた。
「心配していたのですか」
「当たり前でしょう」
エヴリンの声には、隠しきれない安堵があった。
「三日後に、危険なことをすると言っていたのに、あれから、何の知らせもなかった」
ノアは、彼女の表情を見た。そこには、これまで見てきたどの貴族の表情とも違う、飾りのない心配があった。
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃない」
エヴリンは、首を振った。
「何があったのか、話してほしいだけ」
ノアは、しばらく迷った。だが、彼女の目を見て、迷いを止めた。
「歩きながら、話します」
◆◆◆
二人は、庭の外れ、屋敷の裏手にある小さな果樹園を歩いた。
ノアは、ヴェルナー・ロスとの対面を、順を追って話した。評議会承認制の考案者であること、母への知識の提供、グレイヴズ将軍との過去、そして、軍に踏み込まれたこと。
エヴリンは、口を挟まず、最後まで聞いた。
「あなたのお母様は」
彼女は、話を聞き終えたあと、静かに言った。
「あなたを、復讐のために育てたのね」
「はい」
「それを聞いて、あなたは、どう思ったの」
ノアは、その問いに、すぐには答えられなかった。
「分かりません」
彼は、正直に言った。
「怒りたいのか、悲しみたいのか、それとも、当然のことだと受け入れるべきなのか――自分の感情に、名前をつけられないのです」
エヴリンは、しばらく、ノアの横顔を見つめていた。
「私にも、似たようなことがあったわ」
彼女は、ふと言った。
「父が、私の縁談を進めようとしたとき、私は、父を憎めなかった。父も、選択肢がなかったと分かっていたから。でも、悲しくないわけじゃなかった」
「それは、どういう感情ですか」
「名前は、ないのかもしれない」
エヴリンは、小さく笑った。
「でも、感じることをやめる必要は、ないと思う」
その言葉が、ノアの中に、静かに落ちた。
彼は、これまで、感情を、恐怖という一つの分類に整理して扱ってきた。だが、名前のつかない感情を、そのまま抱えていていい――そう言われたのは、初めてだった。
◆◆◆
果樹園の奥、古い木の下で、二人は足を止めた。
「もう一つ」
エヴリンが、ふと、声を落とした。
「話しておきたいことがあるの」
ノアは、彼女を見た。その表情に、これまでとは違う緊張があった。
「レジナルド家からの縁談は、公式には立ち消えになった」
エヴリンは言った。
「でも、昨日、父のところに、また使者が来たの。今度は、縁談ではなく、別の話」
「別の話、とは」
「デュヴァル伯爵領を、レジナルド家の後ろ盾にすることを条件に、財政援助を続けるという申し出」
ノアの背筋が、強張った。
「婚姻ではなく、政治的な従属関係を、求めているということですか」
「そう思う」
エヴリンは頷いた。
「父は、まだ、返事をしていない。でも、ヴァンサン公爵様の援助案だけでは、財政の立て直しに、時間がかかりすぎるとも言っていた」
ノアは、頭の中で、素早く状況を整理した。
ヴァンサン公爵の税軽減案は、確かにデュヴァル伯爵家を助けている。だが、それは、あくまで評議会での議論の結果であり、即効性のある支援ではない。レジナルド家の申し出は、婚姻という直接的な形ではなくなったが、別の形で、伯爵家を取り込もうとしている。
「レジナルド家は、諦めていないのですね」
「たぶん、あなたが思っている以上に」
エヴリンの声に、初めて、恐れに近い響きがあった。
「私、また、何かの取引の材料にされるんじゃないかって、怖い」
ノアは、彼女の不安を、正面から受け止めた。
「私が、何かできることはありますか」
「分からない」
エヴリンは、首を振った。
「でも、あなたが、こうして話を聞いてくれるだけで――少し、楽になる」
二人の間に、静かな沈黙が流れた。それは、これまでのような、緊張を含んだ沈黙ではなかった。
◆◆◆
王都に戻る馬車の中で、ノアは、エヴリンから聞いた話を、改めて整理していた。
レジナルド家が、政治的な従属関係という、新しい形でデュヴァル伯爵領に接触してきた。これは、ヴァンサン公爵の援助案への、明確な対抗策だった。
ノアは、この情報を、公爵に伝えるべきだと判断した。だが、同時に、一つの疑問が浮かんだ。
自分は、なぜ、この情報を、公爵のためだけに使おうとしているのか。
エヴリンの不安を消すためではなく、評議会の駆け引きの材料として、扱おうとしている自分に、ノアは、わずかな違和感を覚えた。
◆◆◆
館に戻ると、執事が、思いがけない知らせを持っていた。
「西塔から、使いが来ている」
執事の声には、これまでにない緊張があった。
「お前の母君が、体調を崩したそうだ。急ぎ、来てほしいと」
ノアの心臓が、強く打った。
「重いのですか」
「詳しくは、分からない」
執事は、首を振った。
「ただ、看守の口ぶりは、穏やかではなかった」
ノアは、すぐに西塔へ向かった。
◆◆◆
塔の階段を、これまでにない速さで上った。最上階の小部屋に着くと、母は、寝台に横たわっていた。
顔色は、いつもより青白い。だが、目は、しっかりと開いていた。
「ノア」
イゾルドは、息子を見て、かすかに笑った。
「大袈裟に呼んだと、思っているでしょう」
「母上」
ノアは、寝台のそばに膝をついた。
「何があったのですか」
「ただの、熱よ」
イゾルドは、力なく言った。
「この塔は、湿気が多い。長く生きていれば、体も弱る」
ノアは、その言葉を、すぐには信じなかった。母の目の奥に、単なる体調不良以上の何かがあると、彼は感じ取っていた。
「本当に、それだけですか」
イゾルドは、しばらく、答えなかった。
「ヴェルナーのことは」
彼女は、ようやく、話題を変えた。
「聞いたのね」
「はい」
「彼は、どうだった」
「軍に、連れて行かれました」
イゾルドの表情が、わずかに動いた。それは、悲しみでも、安堵でもない、複雑な色だった。
「そう」
彼女は、それだけ言った。
「彼が、お前に、何を話したか、聞いてもいいかしら」
ノアは、迷った。だが、ここで隠すことに、もう意味はないと判断した。
「制度を、あなたと同じ考えで作ったこと。グレイヴズ将軍との過去。そして――私を、評議会の健全性のための、保険として育てるよう、あなたに提案したこと」
イゾルドは、目を閉じた。
「そう。全部、話したのね」
「あなたは、その提案を、受け入れたのですか」
「受け入れた」
イゾルドは、目を開けた。
「でも、それは、彼の目的のためだけではなかった」
「では」
「私自身が、お前を、ただの復讐の道具として育てることに、いつからか、耐えられなくなっていた」
その言葉に、ノアは、息を止めた。
「ヴェルナーの提案は、私にとって――お前を育てる理由に、復讐以外の意味を持たせるための、言い訳だったのかもしれない」
イゾルドの声は、震えていた。
「私は、弱かった。復讐だけでは、お前を愛する理由に、ならなかった。だから、彼の言葉を借りて、自分の行動を、正当化した」
ノアは、その告白を、静かに聞いていた。
これまで、母の行動を、復讐という一つの動機で理解しようとしてきた。だが、その理解は、単純すぎたのかもしれない。母もまた、自分の中の矛盾と、答えの出ない場所で、ずっと向き合い続けていた。
◆◆◆
「母上」
ノアは、しばらくして、口を開いた。
「一つ、伝えなければならないことがあります」
「何」
「デュヴァル伯爵領に、レジナルド家が、新たな接触をしています。婚姻ではなく、政治的な従属関係を求める形で」
イゾルドの目に、鋭い光が戻った。
「詳しく」
ノアは、エヴリンから聞いた内容を、正確に伝えた。イゾルドは、寝台に横たわったまま、しばらく、考え込んでいた。
「ヴァンサンに、すぐに伝えなさい」
彼女は、ようやく言った。
「これは、評議会のバランスに関わる、重要な動きよ」
「はい」
「だが」
イゾルドは、息子の目を、まっすぐに見た。
「お前は、この情報を、誰のために使うつもりなの」
ノアは、その問いに、すぐには答えられなかった。
「公爵様のためです。評議会を、荒れさせないために」
「本当に、それだけ?」
イゾルドの目に、鋭い観察の色があった。
「その娘のことを、お前は、道具として見ていないでしょう」
ノアは、返答に詰まった。
「否定は、しません」
「それなら」
イゾルドは、静かに言った。
「その感情を、隠さなくていい。ただ――評議会という盤面の中で、その感情が、お前の判断を鈍らせないように、気をつけなさい」
その忠告は、これまでの母からは聞いたことのない、複雑な優しさを含んでいた。
◆◆◆
塔を出たノアは、王都の空を見上げた。日は、すでに高く昇っている。
彼は、その足で、ヴァンサン公爵の屋敷へ向かった。
◆◆◆
公爵は、書斎で、ノアの報告を聞いた。
「レジナルド家が、婚姻ではなく、従属関係を、か」
公爵は、指先で机を叩いた。
「あの家は、諦めが悪い」
「デュヴァル伯爵は、まだ返事をしていないと聞いています」
「時間の問題だな」
公爵は、厳しい表情で言った。
「私の援助案だけでは、伯爵の不安を、完全には消せない。もっと、具体的な保証が必要だ」
「保証、とは」
「評議会の場で、正式に、デュヴァル伯爵領への継続的な財政支援を、決議として通す」
公爵は言った。
「そのためには、他の評議員――特に、大司祭ベネディクトの賛同が必要だ」
ノアの中で、次の課題が、はっきりと形になった。
「大司祭様には、まだ、一度も接触していません」
「そうだな」
公爵は、ノアを見た。
「次は、彼だ。ベネディクトは、ヴァンサンやグレイヴズとは、まったく違う論理で動く男だ。気をつけろ」
◆◆◆
公爵家を出たノアは、館に戻る道すがら、これまでの流れを、頭の中で整理した。
ヴェルナー・ロスとの対面で、自分の存在の根を知った。母の告白で、その根にある感情の複雑さを知った。そして今、新たな課題として、大司祭ベネディクトとの接触が、目の前にある。
彼は、懐から、五年前に渡された羊皮紙を取り出した。三つの名前のうち、まだ手をつけていない、最後の一人。
ヴァンサン、グレイヴズ――二人の恐怖には、すでに触れた。残るは、大司祭ベネディクトだけだった。
ノアは、羊皮紙を、そっと畳んだ。
教義よりも、教団の存続を選ぶ現実主義者。かつて、自分がノートに書き記した、その人物像を、彼は思い出した。だが、ヴェルナーとの対面を経た今、その理解は、まだ表面をなぞっただけかもしれないと、彼は感じていた。
人の恐怖は、いつも、思っているより深い場所にある。母がそうだったように。グレイヴズがそうだったように。
◆◆◆
その夜、館に、また一つ、知らせが届いた。
執事が、緊張した面持ちで、ノアの部屋を訪れた。
「教団から、使者が来ている」
ノアは、驚いた。「私宛に、ですか」
「いや」
執事は、首を振った。
「デュヴァル伯爵家からだ。伯爵が、大司祭ベネディクト様との面会を、急遽、申し込んだそうだ」
ノアの背筋が、冷たくなった。
「なぜ、伯爵が」
「詳しくは、分からない」
執事は言った。
「ただ、レジナルド家の使者が、教団を通じて、伯爵に、何か新しい提案をしたらしい」
ノアは、すぐに、状況を組み立てた。
レジナルド家は、政治的な従属関係の申し出だけでなく、教団という、もう一つの経路から、デュヴァル伯爵に圧力をかけようとしている。ヴァンサン公爵が動く前に、教団の後押しを得て、話を一気に決着させるつもりなのかもしれない。
「執事様」
ノアは、立ち上がった。
「明日、大司祭様との面会が、行われるのですか」
「そう聞いている」
「私も、その場に行かなければなりません」
執事は、少し戸惑った表情を見せた。
「お前が、行く理由が、あるのか」
「あります」
ノアは、はっきりと言った。
「もし、教団が、レジナルド家の側についてしまえば――評議会のバランスは、一気に崩れます。そして、エヴリン様は、また、誰かの取引の材料にされます」
執事は、しばらく、ノアを見つめていた。
「お前は、いつから」
彼は、ふと言った。
「そこまで、他人のために、動くようになったのだ」
ノアは、その問いに、すぐには答えられなかった。
彼自身、その変化の理由を、まだ、正確な言葉にできていなかった。
◆◆◆
その夜、ノアは、窓辺に立ち、明日の面会に向けて、頭の中で計画を組み立てていた。
大司祭ベネディクト。教義よりも、教団の存続を重視する男。彼を動かすには、信仰の言葉ではなく、教団にとっての利益を、明確に示す必要がある。
だが、ノアの中には、もう一つ、これまでとは違う感覚があった。
これまでの交渉は、すべて、評議会という盤面のために行ってきた。だが、明日の交渉は、初めて、はっきりとした顔を持つ誰か――エヴリンのために行う交渉になる。
その違いが、自分の言葉に、どんな影響を与えるのか、ノアには、まだ分からなかった。
窓の外、夜空には、雲一つない、澄んだ星空が広がっていた。
明日、教団の重い扉の前で、彼は、これまでとは違う自分自身の武器の使い方を、初めて試すことになる。
母の復讐のためでも、ヴェルナーの制度のためでもなく、ただ一人の少女のために。
その一線を越えたとき、彼の武器は、これまでと同じ形を保っていられるのか――それとも、まったく違うものに、変わっていくのか。
答えは、まだ、誰にも分からなかった。