祝福されない赤子として生まれました   作:What's 船長

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第10話

 窓辺に立ったまま、ノアは、しばらく動けなかった。

 

 エヴリンに、まだ何も伝えていない。その事実に気づいた瞬間、彼の中で、これまで積み上げてきた計算とは違う焦りが生まれていた。

 

 朝の光が、部屋を白く染めている。彼は、外套を掴んだ。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 デュヴァル伯爵家へ向かう道のりは、これまでで最も長く感じられた。

 

 馬車の中で、ノアは、何を話すべきか考え続けた。ヴェルナー・ロスのこと、母の告白、グレイヴズ将軍との過去――そのすべてを話すべきか。それとも、彼女には関係のないことだと、飲み込むべきか。

 

 答えが出ないまま、屋敷に着いた。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 庭で、エヴリンは、花壇に水をやっていた。ノアの姿を見つけると、彼女は水差しを置き、駆け寄ってきた。

 

 「無事だったのね」

 

 その一言に、ノアは、わずかな驚きを覚えた。

 

 「心配していたのですか」

 

 「当たり前でしょう」

 

 エヴリンの声には、隠しきれない安堵があった。

 

 「三日後に、危険なことをすると言っていたのに、あれから、何の知らせもなかった」

 

 ノアは、彼女の表情を見た。そこには、これまで見てきたどの貴族の表情とも違う、飾りのない心配があった。

 

 「すみません」

 

 「謝ってほしいわけじゃない」

 

 エヴリンは、首を振った。

 

 「何があったのか、話してほしいだけ」

 

 ノアは、しばらく迷った。だが、彼女の目を見て、迷いを止めた。

 

 「歩きながら、話します」

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 二人は、庭の外れ、屋敷の裏手にある小さな果樹園を歩いた。

 

 ノアは、ヴェルナー・ロスとの対面を、順を追って話した。評議会承認制の考案者であること、母への知識の提供、グレイヴズ将軍との過去、そして、軍に踏み込まれたこと。

 

 エヴリンは、口を挟まず、最後まで聞いた。

 

 「あなたのお母様は」

 

 彼女は、話を聞き終えたあと、静かに言った。

 

 「あなたを、復讐のために育てたのね」

 

 「はい」

 

 「それを聞いて、あなたは、どう思ったの」

 

 ノアは、その問いに、すぐには答えられなかった。

 

 「分かりません」

 

 彼は、正直に言った。

 

 「怒りたいのか、悲しみたいのか、それとも、当然のことだと受け入れるべきなのか――自分の感情に、名前をつけられないのです」

 

 エヴリンは、しばらく、ノアの横顔を見つめていた。

 

 「私にも、似たようなことがあったわ」

 

 彼女は、ふと言った。

 

 「父が、私の縁談を進めようとしたとき、私は、父を憎めなかった。父も、選択肢がなかったと分かっていたから。でも、悲しくないわけじゃなかった」

 

 「それは、どういう感情ですか」

 

 「名前は、ないのかもしれない」

 

 エヴリンは、小さく笑った。

 

 「でも、感じることをやめる必要は、ないと思う」

 

 その言葉が、ノアの中に、静かに落ちた。

 

 彼は、これまで、感情を、恐怖という一つの分類に整理して扱ってきた。だが、名前のつかない感情を、そのまま抱えていていい――そう言われたのは、初めてだった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 果樹園の奥、古い木の下で、二人は足を止めた。

 

 「もう一つ」

 

 エヴリンが、ふと、声を落とした。

 

 「話しておきたいことがあるの」

 

 ノアは、彼女を見た。その表情に、これまでとは違う緊張があった。

 

 「レジナルド家からの縁談は、公式には立ち消えになった」

 

 エヴリンは言った。

 

 「でも、昨日、父のところに、また使者が来たの。今度は、縁談ではなく、別の話」

 

 「別の話、とは」

 

 「デュヴァル伯爵領を、レジナルド家の後ろ盾にすることを条件に、財政援助を続けるという申し出」

 

 ノアの背筋が、強張った。

 

 「婚姻ではなく、政治的な従属関係を、求めているということですか」

 

 「そう思う」

 

 エヴリンは頷いた。

 

 「父は、まだ、返事をしていない。でも、ヴァンサン公爵様の援助案だけでは、財政の立て直しに、時間がかかりすぎるとも言っていた」

 

 ノアは、頭の中で、素早く状況を整理した。

 

 ヴァンサン公爵の税軽減案は、確かにデュヴァル伯爵家を助けている。だが、それは、あくまで評議会での議論の結果であり、即効性のある支援ではない。レジナルド家の申し出は、婚姻という直接的な形ではなくなったが、別の形で、伯爵家を取り込もうとしている。

 

 「レジナルド家は、諦めていないのですね」

 

 「たぶん、あなたが思っている以上に」

 

 エヴリンの声に、初めて、恐れに近い響きがあった。

 

 「私、また、何かの取引の材料にされるんじゃないかって、怖い」

 

 ノアは、彼女の不安を、正面から受け止めた。

 

 「私が、何かできることはありますか」

 

 「分からない」

 

 エヴリンは、首を振った。

 

 「でも、あなたが、こうして話を聞いてくれるだけで――少し、楽になる」

 

 二人の間に、静かな沈黙が流れた。それは、これまでのような、緊張を含んだ沈黙ではなかった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 王都に戻る馬車の中で、ノアは、エヴリンから聞いた話を、改めて整理していた。

 

 レジナルド家が、政治的な従属関係という、新しい形でデュヴァル伯爵領に接触してきた。これは、ヴァンサン公爵の援助案への、明確な対抗策だった。

 

 ノアは、この情報を、公爵に伝えるべきだと判断した。だが、同時に、一つの疑問が浮かんだ。

 

 自分は、なぜ、この情報を、公爵のためだけに使おうとしているのか。

 

 エヴリンの不安を消すためではなく、評議会の駆け引きの材料として、扱おうとしている自分に、ノアは、わずかな違和感を覚えた。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 館に戻ると、執事が、思いがけない知らせを持っていた。

 

 「西塔から、使いが来ている」

 

 執事の声には、これまでにない緊張があった。

 

 「お前の母君が、体調を崩したそうだ。急ぎ、来てほしいと」

 

 ノアの心臓が、強く打った。

 

 「重いのですか」

 

 「詳しくは、分からない」

 

 執事は、首を振った。

 

 「ただ、看守の口ぶりは、穏やかではなかった」

 

 ノアは、すぐに西塔へ向かった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 塔の階段を、これまでにない速さで上った。最上階の小部屋に着くと、母は、寝台に横たわっていた。

 

 顔色は、いつもより青白い。だが、目は、しっかりと開いていた。

 

 「ノア」

 

 イゾルドは、息子を見て、かすかに笑った。

 

 「大袈裟に呼んだと、思っているでしょう」

 

 「母上」

 

 ノアは、寝台のそばに膝をついた。

 

 「何があったのですか」

 

 「ただの、熱よ」

 

 イゾルドは、力なく言った。

 

 「この塔は、湿気が多い。長く生きていれば、体も弱る」

 

 ノアは、その言葉を、すぐには信じなかった。母の目の奥に、単なる体調不良以上の何かがあると、彼は感じ取っていた。

 

 「本当に、それだけですか」

 

 イゾルドは、しばらく、答えなかった。

 

 「ヴェルナーのことは」

 

 彼女は、ようやく、話題を変えた。

 

 「聞いたのね」

 

 「はい」

 

 「彼は、どうだった」

 

 「軍に、連れて行かれました」

 

 イゾルドの表情が、わずかに動いた。それは、悲しみでも、安堵でもない、複雑な色だった。

 

 「そう」

 

 彼女は、それだけ言った。

 

 「彼が、お前に、何を話したか、聞いてもいいかしら」

 

 ノアは、迷った。だが、ここで隠すことに、もう意味はないと判断した。

 

 「制度を、あなたと同じ考えで作ったこと。グレイヴズ将軍との過去。そして――私を、評議会の健全性のための、保険として育てるよう、あなたに提案したこと」

 

 イゾルドは、目を閉じた。

 

 「そう。全部、話したのね」

 

 「あなたは、その提案を、受け入れたのですか」

 

 「受け入れた」

 

 イゾルドは、目を開けた。

 

 「でも、それは、彼の目的のためだけではなかった」

 

 「では」

 

 「私自身が、お前を、ただの復讐の道具として育てることに、いつからか、耐えられなくなっていた」

 

 その言葉に、ノアは、息を止めた。

 

 「ヴェルナーの提案は、私にとって――お前を育てる理由に、復讐以外の意味を持たせるための、言い訳だったのかもしれない」

 

 イゾルドの声は、震えていた。

 

 「私は、弱かった。復讐だけでは、お前を愛する理由に、ならなかった。だから、彼の言葉を借りて、自分の行動を、正当化した」

 

 ノアは、その告白を、静かに聞いていた。

 

 これまで、母の行動を、復讐という一つの動機で理解しようとしてきた。だが、その理解は、単純すぎたのかもしれない。母もまた、自分の中の矛盾と、答えの出ない場所で、ずっと向き合い続けていた。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 「母上」

 

 ノアは、しばらくして、口を開いた。

 

 「一つ、伝えなければならないことがあります」

 

 「何」

 

 「デュヴァル伯爵領に、レジナルド家が、新たな接触をしています。婚姻ではなく、政治的な従属関係を求める形で」

 

 イゾルドの目に、鋭い光が戻った。

 

 「詳しく」

 

 ノアは、エヴリンから聞いた内容を、正確に伝えた。イゾルドは、寝台に横たわったまま、しばらく、考え込んでいた。

 

 「ヴァンサンに、すぐに伝えなさい」

 

 彼女は、ようやく言った。

 

 「これは、評議会のバランスに関わる、重要な動きよ」

 

 「はい」

 

 「だが」

 

 イゾルドは、息子の目を、まっすぐに見た。

 

 「お前は、この情報を、誰のために使うつもりなの」

 

 ノアは、その問いに、すぐには答えられなかった。

 

 「公爵様のためです。評議会を、荒れさせないために」

 

 「本当に、それだけ?」

 

 イゾルドの目に、鋭い観察の色があった。

 

 「その娘のことを、お前は、道具として見ていないでしょう」

 

 ノアは、返答に詰まった。

 

 「否定は、しません」

 

 「それなら」

 

 イゾルドは、静かに言った。

 

 「その感情を、隠さなくていい。ただ――評議会という盤面の中で、その感情が、お前の判断を鈍らせないように、気をつけなさい」

 

 その忠告は、これまでの母からは聞いたことのない、複雑な優しさを含んでいた。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 塔を出たノアは、王都の空を見上げた。日は、すでに高く昇っている。

 

 彼は、その足で、ヴァンサン公爵の屋敷へ向かった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 公爵は、書斎で、ノアの報告を聞いた。

 

 「レジナルド家が、婚姻ではなく、従属関係を、か」

 

 公爵は、指先で机を叩いた。

 

 「あの家は、諦めが悪い」

 

 「デュヴァル伯爵は、まだ返事をしていないと聞いています」

 

 「時間の問題だな」

 

 公爵は、厳しい表情で言った。

 

 「私の援助案だけでは、伯爵の不安を、完全には消せない。もっと、具体的な保証が必要だ」

 

 「保証、とは」

 

 「評議会の場で、正式に、デュヴァル伯爵領への継続的な財政支援を、決議として通す」

 

 公爵は言った。

 

 「そのためには、他の評議員――特に、大司祭ベネディクトの賛同が必要だ」

 

 ノアの中で、次の課題が、はっきりと形になった。

 

 「大司祭様には、まだ、一度も接触していません」

 

 「そうだな」

 

 公爵は、ノアを見た。

 

 「次は、彼だ。ベネディクトは、ヴァンサンやグレイヴズとは、まったく違う論理で動く男だ。気をつけろ」

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 公爵家を出たノアは、館に戻る道すがら、これまでの流れを、頭の中で整理した。

 

 ヴェルナー・ロスとの対面で、自分の存在の根を知った。母の告白で、その根にある感情の複雑さを知った。そして今、新たな課題として、大司祭ベネディクトとの接触が、目の前にある。

 

 彼は、懐から、五年前に渡された羊皮紙を取り出した。三つの名前のうち、まだ手をつけていない、最後の一人。

 

 ヴァンサン、グレイヴズ――二人の恐怖には、すでに触れた。残るは、大司祭ベネディクトだけだった。

 

 ノアは、羊皮紙を、そっと畳んだ。

 

 教義よりも、教団の存続を選ぶ現実主義者。かつて、自分がノートに書き記した、その人物像を、彼は思い出した。だが、ヴェルナーとの対面を経た今、その理解は、まだ表面をなぞっただけかもしれないと、彼は感じていた。

 

 人の恐怖は、いつも、思っているより深い場所にある。母がそうだったように。グレイヴズがそうだったように。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 その夜、館に、また一つ、知らせが届いた。

 

 執事が、緊張した面持ちで、ノアの部屋を訪れた。

 

 「教団から、使者が来ている」

 

 ノアは、驚いた。「私宛に、ですか」

 

 「いや」

 

 執事は、首を振った。

 

 「デュヴァル伯爵家からだ。伯爵が、大司祭ベネディクト様との面会を、急遽、申し込んだそうだ」

 

 ノアの背筋が、冷たくなった。

 

 「なぜ、伯爵が」

 

 「詳しくは、分からない」

 

 執事は言った。

 

 「ただ、レジナルド家の使者が、教団を通じて、伯爵に、何か新しい提案をしたらしい」

 

 ノアは、すぐに、状況を組み立てた。

 

 レジナルド家は、政治的な従属関係の申し出だけでなく、教団という、もう一つの経路から、デュヴァル伯爵に圧力をかけようとしている。ヴァンサン公爵が動く前に、教団の後押しを得て、話を一気に決着させるつもりなのかもしれない。

 

 「執事様」

 

 ノアは、立ち上がった。

 

 「明日、大司祭様との面会が、行われるのですか」

 

 「そう聞いている」

 

 「私も、その場に行かなければなりません」

 

 執事は、少し戸惑った表情を見せた。

 

 「お前が、行く理由が、あるのか」

 

 「あります」

 

 ノアは、はっきりと言った。

 

 「もし、教団が、レジナルド家の側についてしまえば――評議会のバランスは、一気に崩れます。そして、エヴリン様は、また、誰かの取引の材料にされます」

 

 執事は、しばらく、ノアを見つめていた。

 

 「お前は、いつから」

 

 彼は、ふと言った。

 

 「そこまで、他人のために、動くようになったのだ」

 

 ノアは、その問いに、すぐには答えられなかった。

 

 彼自身、その変化の理由を、まだ、正確な言葉にできていなかった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 その夜、ノアは、窓辺に立ち、明日の面会に向けて、頭の中で計画を組み立てていた。

 

 大司祭ベネディクト。教義よりも、教団の存続を重視する男。彼を動かすには、信仰の言葉ではなく、教団にとっての利益を、明確に示す必要がある。

 

 だが、ノアの中には、もう一つ、これまでとは違う感覚があった。

 

 これまでの交渉は、すべて、評議会という盤面のために行ってきた。だが、明日の交渉は、初めて、はっきりとした顔を持つ誰か――エヴリンのために行う交渉になる。

 

 その違いが、自分の言葉に、どんな影響を与えるのか、ノアには、まだ分からなかった。

 

 窓の外、夜空には、雲一つない、澄んだ星空が広がっていた。

 

 明日、教団の重い扉の前で、彼は、これまでとは違う自分自身の武器の使い方を、初めて試すことになる。

 

 母の復讐のためでも、ヴェルナーの制度のためでもなく、ただ一人の少女のために。

 

 その一線を越えたとき、彼の武器は、これまでと同じ形を保っていられるのか――それとも、まったく違うものに、変わっていくのか。

 

 答えは、まだ、誰にも分からなかった。

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