祝福されない赤子として生まれました   作:What's 船長

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第11話

 教団の本殿は、王城よりも古い建物だった。

 

 石造りの回廊を歩きながら、ノアは、これまで訪れたどの場所とも違う空気を感じていた。ヴァンサン公爵家には権力の匂いがあり、グレイヴズ将軍の執務室には規律の匂いがあった。ここには、静けさそのものが、重さを持っていた。

 

 デュヴァル伯爵は、すでに面会の間で待っていた。表情は硬く、何度も、手元の書類を意味もなく整えている。

 

 「ノア」

 

 伯爵は、ノアの姿を見て、驚いた様子を見せた。

 

 「なぜ、お前がここに」

 

 「エヴリン様のことで、伺いました」

 

 ノアは、率直に言った。

 

 「レジナルド家が、教団を通じて、伯爵様に接触していると聞きました」

 

 伯爵の顔が、さらに強張った。

 

 「誰から、その話を」

 

 「あなたのご息女からです」

 

 ノアは、正直に答えた。

 

 「彼女は、不安を抱えています。私は、その不安を、少しでも減らしたいと思っています」

 

 伯爵は、しばらく、ノアを見つめていた。それから、深く息を吐いた。

 

 「お前は、いったい、何者なのだ」

 

 「ただの、ヴァンサン公爵様の使いです」

 

 「それだけでは、説明がつかない」

 

 伯爵は、疲れた声で言った。

 

 「使いの少年が、なぜ、そこまで、私の娘のことを気にかける」

 

 ノアは、その問いに、すぐには答えなかった。答える必要のある場面だとは、思わなかった。

 

 やがて、面会の間の奥、重い扉が開いた。

 

 大司祭ベネディクトが、姿を現した。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 ベネディクトは、六十代ほどの、恰幅の良い男だった。豪奢な法衣を纏っているが、その所作には、信仰者らしい静けさよりも、統治者に近い計算深さが滲んでいた。

 

 「デュヴァル伯爵」

 

 彼は、伯爵に、朗らかに声をかけた。それから、視線を、ノアに移した。

 

 「見慣れぬ顔だ」

 

 「ヴァンサン公爵様の使いで、ノアと申します」

 

 「公爵の使い、か」

 

 ベネディクトの目に、興味の色が浮かんだ。

 

 「なぜ、公爵の使いが、この場に」

 

 「伯爵様と、大司祭様のお話を、公爵様に代わって、拝聴するためです」

 

 ベネディクトは、しばらく、ノアを観察した。それから、小さく笑った。

 

 「面白い。まあ、座りなさい」

 

 三人は、面会の間の中央、丸い机を囲んで座った。

 

 「単刀直入に言おう」

 

 ベネディクトは、伯爵に向き直った。

 

 「レジナルド家から、教団への、大きな寄進の申し出があった」

 

 伯爵の顔が、青ざめた。

 

 「寄進、とは」

 

 「デュヴァル伯爵領内にある、聖アルバ修道院の改修費用一切を、レジナルド家が負担するという申し出だ」

 

 ベネディクトは、淡々と続けた。

 

 「その条件として、教団は、伯爵殿とレジナルド家の、より緊密な関係構築を、後押ししてほしいとのことだ」

 

 ノアは、その言葉の意味を、素早く飲み込んだ。

 

 レジナルド家は、婚姻の話が立ち消えた後、政治的な従属関係を伯爵に求め、同時に、教団への寄進という形で、大司祭を自分の側に引き寄せようとしている。二重の圧力だった。

 

 「大司祭様は」

 

 ノアは、慎重に切り出した。

 

 「その申し出を、受けるおつもりですか」

 

 ベネディクトは、ノアに視線を移した。

 

 「お前が、口を挟む立場か」

 

 「拝聴するだけの立場です」

 

 ノアは、丁寧に、しかし引かずに言った。

 

 「ただ、大司祭様が、その申し出を受けるかどうかは、公爵様にとっても、重要な情報です」

 

 ベネディクトは、しばらく、ノアを見つめた。それから、机の上で、指を組んだ。

 

 「率直に言おう」

 

 彼は言った。

 

 「聖アルバ修道院の改修は、教団にとって、長年の懸案だった。予算がつかず、放置されている」

 

 「教団の予算は、それほど、厳しいのですか」

 

 「厳しい」

 

 ベネディクトは、隠さずに認めた。

 

 「教団内には、二つの考え方がある。信仰の純粋さを守るべきだという者たちと、教団という組織を、現実的に存続させるべきだという者たちだ」

 

 ノアは、その言葉を、以前図書室で調べた記録と、頭の中で重ねた。清浄派と現実派――やはり、その通りだった。

 

 「私は、後者だ」

 

 ベネディクトは、はっきりと言った。

 

 「信仰は、組織が存続してこそ、意味を持つ。組織が滅びれば、信仰そのものが、この国から消える」

 

 「では、レジナルド家の寄進を、受けるお考えですね」

 

 「そう単純ではない」

 

 ベネディクトは、初めて、わずかに苦い表情を見せた。

 

 「清浄派は、レジナルド家からの寄進を、教団が政治に利用されることの証だと、批判している。もし私が寄進を受ければ、清浄派の反発が強まり、教団内での私の立場が、逆に弱くなる」

 

 ノアは、その構図を、素早く整理した。

 

 ベネディクトが恐れているのは、教団の予算不足そのものではない。寄進を受けることで、自分の派閥内での主導権を、失うことだった。以前、図書室で導いた理屈と、正確に一致していた。

 

 「大司祭様」

 

 ノアは、慎重に言葉を選んだ。

 

 「もし、レジナルド家からではなく、別の出どころから、聖アルバ修道院の改修費用を、確保できるとしたら」

 

 ベネディクトの目が、鋭くなった。

 

 「別の出どころ、とは」

 

 「ヴァンサン公爵様に、ご相談してみます」

 

 ノアは言った。

 

 「公爵様が、修道院の改修を、評議会の議題として支援すれば――大司祭様は、清浄派からの批判を受けることなく、教団の懸案を、解決できます」

 

 伯爵が、驚いた様子で、ノアを見た。

 

 「お前は、そんなことまで、勝手に約束できるのか」

 

 「約束は、まだしていません」

 

 ノアは言った。

 

 「ただ、公爵様に、この状況を、正確にお伝えします」

 

 ベネディクトは、しばらく、ノアを見つめていた。それから、ゆっくりと、口の端を上げた。

 

 「面白い提案だ」

 

 彼は言った。

 

 「だが、それには、条件がある」

 

 「伺います」

 

 「ヴァンサン公爵の支援が、正式に決まるまで、私は、レジナルド家への返答を、保留する」

 

 ベネディクトは言った。

 

 「ただし、それは、長くは待てない。半月だ。それを過ぎれば、私は、レジナルド家の申し出を受ける」

 

 ノアは、頷いた。

 

 「承知しました」

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 面会が終わり、教団の本殿を出たところで、デュヴァル伯爵が、ノアを呼び止めた。

 

 「ノア」

 

 伯爵の声には、これまでにない、真剣な響きがあった。

 

 「お前が、なぜ、そこまで動くのか、私には、まだ分からない。だが――」

 

 彼は、一度、言葉を切った。

 

 「娘のために、ここまでしてくれる者が、ヴァンサン公爵様以外に、この国にいるとは、思わなかった」

 

 「私は、公爵様の指示で動いています」

 

 ノアは、繰り返した。

 

 伯爵は、その言葉を、あえて、追及しなかった。彼は、ただ、小さく頷いた。

 

 「半月だな」

 

 伯爵は言った。

 

 「それまでに、公爵様の支援が、正式に決まらなければ――娘は、また、レジナルド家との縁に、引き戻されることになる」

 

 その言葉の重さが、ノアの胸に、はっきりと刻まれた。

 

 半月という期限は、教団の問題だけではなく、エヴリンの未来そのものの、期限でもあった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 王都の街道を、ヴァンサン公爵家へ向かって歩きながら、ノアは、今日の面会の内容を、頭の中で整理していた。

 

 ベネディクトの恐怖は、予想通り、教団内での派閥の主導権にあった。だが、その恐怖の解消方法を提示したことで、彼を完全に味方につけられたわけではない。半月という期限が、新たな圧力として、ノアの前に置かれた。

 

 残された時間は、少ない。

 

 ヴァンサン公爵に、修道院の改修支援を、評議会の議題として正式に通させる。それも、半月以内に。

 

 これまでの交渉とは、明確に違う種類の難しさが、そこにはあった。相手を説得することと、複数の利害を、期限内に、一つの結論へまとめ上げることは、まったく別の作業だった。

 

 ノアは、足を止めた。

 

 空には、夕暮れの気配が、まだ遠かった。日は高く、街道には、行き交う人々の影が、短く落ちている。

 

 彼は、懐から、これまでの記録を、頭の中だけで辿った。ヴァンサン、グレイヴズ、そして、今日のベネディクト。三つの恐怖の輪郭は、すべて、見えてきた。

 

 だが、その三つを、一つの結果にまとめ上げるという、まったく新しい課題が、今、目の前に立ちはだかっていた。

 

 そして、その課題の期限が切れたとき――失われるのは、評議会の議題一つではない。

 

 エヴリンの未来、そのものだった。

 

 ノアは、拳を握った。

 

 公爵の屋敷まで、あと少しだった。

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