祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
ヴァンサン公爵は、机の書類から顔を上げなかった。
「聖アルバ修道院の改修に、評議会の予算を回せというのか」
声には、これまでにない硬さがあった。
「はい」
ノアは、はっきりと答えた。
「ベネディクト大司祭は、レジナルド家からの寄進を、半月以内に、正式に断ります。ただし、公爵様の支援が、それまでに決まればの話です」
公爵は、ようやく顔を上げた。その目には、値踏みするような色があった。
「お前は、簡単に言うが」
彼は言った。
「評議会の予算は、私の一存で動かせるものではない。修道院の改修に予算を回せば、他の議題に回す分が減る。誰かが、それを問題にする」
「誰が、問題にするのですか」
「北部の貴族連中だ」
公爵は、指で机を叩いた。
「彼らは、街道の維持費を、優先しろと主張している。先日の通行税の議題も、まだ火種が残っている」
ノアは、その事実を、すぐには知らなかった。通行税の議題は、7話で一度決着したはずだった。だが、決着は、あくまで一時的なものだったということだ。
「北部の貴族たちは、まだ、不満を持っているのですか」
「当然だ」
公爵は言った。
「増収分の三割を補助に回すという案は、通ったが、あれは、あくまで妥協案だ。北部の貴族たちは、もっと多くを望んでいた」
ノアは、頭の中で、状況を組み立て直した。評議会という盤面は、一つの議題が決着しても、その余波が、別の議題に影響を与え続ける。彼が、これまで単発の勝負として捉えていた交渉は、実際には、すべてが繋がった、一つの連続した力学だった。
「公爵様」
ノアは、慎重に言葉を選んだ。
「では、北部の貴族たちの不満を、同時に解消する形で、修道院の予算を通すことは、可能でしょうか」
「簡単に言うな」
公爵の声が、初めて、強くなった。
「北部の不満を解消するには、さらに予算が必要だ。修道院の改修費用と、北部への追加補助。両方を、同時に通せる予算の余地は、今の評議会にはない」
ノアは、言葉に詰まった。
これまでの交渉では、相手の恐怖を一つ見抜けば、道が開けた。だが、今回は、恐怖が一つではなかった。ベネディクトの恐怖、北部貴族の不満、そして、公爵自身が抱える予算の制約。複数の恐怖が絡み合い、一つを解けば、別の一つが強まる構造になっていた。
「公爵様は」
ノアは、ようやく口を開いた。
「この状況を、どうすれば良いと、お考えですか」
公爵は、しばらく、ノアを見つめていた。
「私に聞くな」
彼は、冷たく言った。
「お前が、答えを持ってくると思ったから、ここまで、お前を使ってきた。答えのない報告なら、意味がない」
その言葉は、ノアにとって、初めての、明確な突き放しだった。
これまで、公爵は、ノアの提案を、常に評価してきた。だが今、彼は、初めて、ノアに対して、失望に近い反応を見せていた。
◆◆◆
公爵家を出たノアは、王都の通りを、しばらく無言で歩いた。
これまでの勝利が、いつの間にか、彼の中に、ある種の過信を生んでいたのかもしれない。相手の恐怖を読めば、道は開けると。だが、今回、恐怖は一つではなく、複数が絡み合い、一つを解けば、別のものが悪化する構造になっていた。
彼は、足を止め、空を見上げた。日は、まだ高い。
半月という期限が、これまでよりも、重く感じられた。
◆◆◆
館に戻る途中、ノアは、商人ガロドの店の前を通りかかった。
ふと、足が止まった。以前、ここで、初めて自分の言葉だけで、何かを動かした場所だった。
彼は、店に入った。
ガロドは、帳簿をつけていた手を止め、ノアを見た。
「久しぶりだな、坊主」
「少し、お聞きしたいことがあります」
ノアは言った。
「北部の街道について、あなたは、何かご存知ですか」
ガロドは、眉を上げた。
「街道の話か。俺は、薪を扱う商人だ。街道の政治のことまでは、詳しくない」
「では、商人として、街道の税について、どう感じていますか」
ガロドは、少し考えた。
「正直、税が上がるのは、痛い」
彼は言った。
「だが、街道の治安が良くなるなら、話は別だ。北部からの荷が、山賊に襲われることが、ここ数年、増えている」
ノアの中で、何かが、静かに繋がった。
「山賊、ですか」
「ああ」
ガロドは頷いた。
「街道沿いの村々には、治安を維持するだけの余裕がない。だから、荷を運ぶ商人たちは、皆、危険を承知で街道を使っている」
ノアは、礼を言い、店を出た。
◆◆◆
館に戻り、自室に着くと、ノアは、これまで聞いた情報を、頭の中で組み立て直した。
北部の貴族たちが望んでいるのは、単なる予算の増額ではない。街道の治安維持――それが、彼らの本当の要求の核にある。
であれば、修道院の改修費用と、北部への補助を、別々の予算として扱う必要はない。
聖アルバ修道院は、まさに、デュヴァル伯爵領内、北部への街道の途上にある。もし、修道院の改修に、街道の治安拠点としての機能を持たせれば――教団への支援と、北部の治安要求を、一つの予算で、同時に満たせる。
ノアは、机に向かい、その案を、簡潔に書き出した。
修道院を、単なる信仰の場としてではなく、街道を行き交う商人や旅人が、安全に休息できる、治安の拠点として改修する。教団は、宗教的な威信を保ちながら、治安維持という、より現実的な役割を担う。北部の貴族たちは、街道の安全という、直接的な利益を得る。
これなら、一つの予算で、複数の恐怖を、同時に解消できる。
ノアは、書き終えた案を見つめた。
これは、これまでのような、相手の恐怖を読むだけの交渉ではなかった。複数の異なる利害を、一つの構造の中に、組み替える作業だった。
彼は、その違いに、奇妙な高揚感を覚えていた。
◆◆◆
翌朝、ノアは、再びヴァンサン公爵家を訪れた。
公爵は、昨日と同じ表情で、机に向かっていた。ノアが入ってくると、彼は、わずかに眉を上げた。
「もう、戻ってきたのか」
「案が、あります」
ノアは、迷わず言った。
公爵は、ペンを置いた。
「聞こう」
ノアは、聖アルバ修道院を、街道の治安拠点として改修する案を、順を追って説明した。教団への支援、北部貴族への利益、そして、その両方が、一つの予算で実現できる理由を。
公爵は、最後まで、口を挟まなかった。話し終えたノアを、彼は、長い間、見つめていた。
「昨日、私は、お前を突き放した」
公爵は、ようやく言った。
「答えのない報告なら、意味がないと」
「はい」
「今日、お前は、答えを持ってきた」
公爵の口元に、これまでで最も、深い笑みが浮かんだ。
「悪くない」
彼は言った。
「北部の貴族たちにも、この案なら、説得の余地がある。私が、直接、話をつけよう」
ノアは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早い」
公爵は、机の上で、指を組んだ。
「北部の貴族たちを説得するのは、私の仕事だ。だが、お前にも、まだ、やるべきことがある」
「何でしょうか」
「ベネディクトに、この案を、正式に伝えろ」
公爵は言った。
「そして、彼が、この案を、清浄派に対して、どう説明するつもりか――それを、確認してこい」
ノアは、頷いた。
「承知しました」
◆◆◆
公爵家を出たノアは、教団へ向かう道すがら、これまでの数日間を、振り返っていた。
半月という期限の中で、彼は、初めて、単純な説得ではなく、複数の利害を組み替えるという、新しい種類の課題に直面した。そして、その課題を、なんとか、一つの答えにまとめ上げた。
だが、まだ、終わってはいない。
ベネディクトが、この案を受け入れるかどうか。清浄派が、これを、どう見るか。そして、何より――残された時間は、日に日に、削られていく。
ノアは、空を見上げた。日は、まだ高い。だが、その高さが、いつまでも続くわけではないことを、彼は、はっきりと意識していた。
教団の重い扉が、遠くに見えてきた。
その扉の向こうで、大司祭ベネディクトが、彼の案に、どう応えるのか――それが、この半月の行方を、大きく左右することになる。