祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
教団の本殿、面会の間ではなく、今日は、別の部屋にノアは通された。
ベネディクトの私室だった。壁には、聖典の写本が並び、机の上には、教団の財務記録が、山のように積まれている。信仰の場というより、経営者の書斎に近い雰囲気だった。
「早いな」
ベネディクトは、書類から顔を上げずに言った。
「公爵から、話は聞いている。修道院を、街道の治安拠点にする案だそうだな」
「はい」
ノアは、簡潔に、案の要点を伝えた。教団の威信を保ちながら、現実的な役割を担うことで、寄進に頼らずとも、改修費用を確保できる――その理屈を。
ベネディクトは、話を聞き終えると、初めて、ペンを置いた。
「悪くない」
彼は言った。
「だが、お前は、一つ、大事なことを、見落としている」
「何でしょうか」
「清浄派だ」
ベネディクトは、机の向こうで、深く息を吐いた。
「奴らは、教団が、治安維持のような、世俗的な役割を担うこと自体を、嫌う。信仰の場が、街道の宿場のようなものに変わることを、堕落だと言うだろう」
ノアは、その反応を、ある程度予測していた。
「大司祭様は、清浄派を、どう説得するおつもりですか」
ベネディクトは、しばらく、答えなかった。
「説得はしない」
彼は、ようやく言った。
「奴らは、私が何を言っても、疑いを持つ。だから、私は、別の方法を取る」
「別の方法、とは」
「清浄派の中心人物に、直接、この案を持ちかけさせる」
ベネディクトの目に、計算深い光が浮かんだ。
「私からではなく、第三者から出た案として見せれば、清浄派も、少しは、冷静に検討する」
「その第三者とは」
「お前だ」
ノアは、驚いた。
「私が、清浄派に、直接、この案を伝えるのですか」
「そうだ」
ベネディクトは、はっきりと言った。
「お前は、公爵の使いであり、教団の人間ではない。利害関係のない外部の者から出た案として見せれば、清浄派の警戒は、いくらか薄まる」
ノアは、その提案の裏にある計算を、素早く読み取った。ベネディクトは、自分の手を汚さずに、清浄派を説得する役目を、ノアに押しつけようとしていた。もし失敗すれば、責任は、ノアと公爵に向かう。もし成功すれば、その成果は、ベネディクト自身のものになる。
「大司祭様は」
ノアは、静かに言った。
「ご自身は、危険を負わず、成果だけを、お望みですね」
ベネディクトの表情が、わずかに動いた。
「隠さないのか」
「隠す意味が、ありません」
ノアは、まっすぐに、ベネディクトを見た。
「私は、この役目を、引き受けます。ただし、条件があります」
「言ってみろ」
「もし、清浄派の説得に成功した場合、大司祭様は、修道院の改修案を、教団として正式に、評議会に提出してください。今日、この場で、そう約束していただきたい」
ベネディクトは、しばらく、ノアを見つめていた。それから、小さく笑った。
「お前は、十二歳にしては、随分と、取引が上手い」
「学んだだけです」
「誰から、学んだ」
ノアは、その問いに、答えなかった。答える必要のない問いだった。
ベネディクトは、しばらく待ったが、やがて、諦めたように、机の上の書類に、何かを書きつけた。
「約束は、これで良いか」
彼は、書いたものを、ノアに見せた。修道院の改修案を、教団として正式に支持するという、簡潔な一文だった。
「結構です」
ノアは、頷いた。
◆◆◆
清浄派の中心人物――ベネディクトが教えたのは、司祭の一人、フィリップという名の中年男だった。彼は、教団の外れ、質素な礼拝堂で、日々の祈りを捧げていると言う。
ノアが礼拝堂を訪れると、フィリップは、祭壇の前で、静かに祈りを終えたところだった。
「見慣れぬ顔だ」
フィリップは、振り返り、ノアを見た。その目には、ベネディクトのような計算深さはなく、代わりに、澄んだ、しかし頑なな光があった。
「あなたが、大司祭様の使いですか」
「いいえ」
ノアは、正直に言った。
「私は、ヴァンサン公爵様の使いです。大司祭様から、あなたに、ある案をお伝えするよう、頼まれました」
フィリップの表情が、わずかに硬くなった。
「大司祭が、公爵の使いを寄越すとは、珍しい」
ノアは、聖アルバ修道院の改修案を、順を追って説明した。街道の治安拠点としての機能、教団の予算問題の解決、そして、その背景にある、レジナルド家からの寄進の申し出。
フィリップは、最後まで、黙って聞いていた。
「つまり」
彼は、話を聞き終えると、静かに言った。
「大司祭は、レジナルド家の寄進を断る代わりに、修道院を、世俗の役に立てようとしている、ということですね」
「そう理解しています」
「それは」
フィリップの声に、初めて、抑えきれない苦さが滲んだ。
「信仰を、また一つ、政治の道具にする話だ」
ノアは、この反応を、予測していた。
「フィリップ様は」
彼は、慎重に言葉を選んだ。
「教団が、政治に利用されることを、最も恐れているのですね」
「当然だ」
フィリップは、強く言った。
「教団は、王家よりも古い。だが、近年、大司祭のような現実派が、教団を、少しずつ、政治の道具に変えている。寄進を受け、貴族の顔色を伺い、信仰そのものが、後回しにされている」
ノアは、その言葉の中に、フィリップの本当の恐怖を、初めて、はっきりと見た。
彼が恐れているのは、修道院が世俗の役に立つこと、そのものではない。教団という組織が、信仰から離れ、政治の駒に変わっていく、その流れ全体だった。
「では」
ノアは、慎重に踏み込んだ。
「もし、この改修案が、教団を、政治の道具にするのではなく――逆に、教団の独立性を、守るためのものだとしたら、いかがですか」
フィリップの目が、鋭くなった。
「どういう意味だ」
「レジナルド家からの寄進を受ければ、教団は、レジナルド家に、恩を負います」
ノアは言った。
「一方、公爵様の支援を得て、教団自身の判断で、修道院を改修すれば――教団は、どの貴族にも、恩を負いません。むしろ、街道の治安を担うことで、教団は、王国のどの勢力からも、独立した、公共の存在として、立場を強められます」
フィリップは、しばらく、無言だった。
「それは」
彼は、ようやく言った。
「詭弁のようにも、聞こえる」
「詭弁かもしれません」
ノアは、正直に認めた。
「ですが、レジナルド家の寄進を受けることと、公爵様の支援を、評議会の議題として受けることでは、教団が、誰に借りを作るかが、まったく違います。前者は、一つの家への借り。後者は、王国全体への、公的な役割です」
フィリップは、長い間、考え込んでいた。
やがて、彼は、深く息を吐いた。
「お前の言葉には、まだ、信じきれない部分がある」
彼は言った。
「だが、レジナルド家に、教団が借りを作ることだけは、避けたい。それだけは、私も、同じ考えだ」
「では」
「反対はしない」
フィリップは、はっきりと言った。
「だが、賛成もしない。清浄派の他の者たちにも、同じ説明をしてくれ。私一人の判断で、動くわけにはいかない」
ノアは、頭を下げた。
「承知しました」
◆◆◆
礼拝堂を出たノアは、教団の敷地を歩きながら、今日の対話を振り返っていた。
完全な賛成は得られなかった。だが、明確な反対もされなかった。それは、これまでの交渉とは違う、曖昧な、しかし確実な、一歩だった。
彼は、空を見上げた。日は、すでに、西へ傾き始めている。
半月という期限の中、まだ、清浄派の他の者たちへの説得が、残っている。そして、北部の貴族たちへの説得は、ヴァンサン公爵が担っているはずだが、その進捗は、まだ、ノアの耳には届いていなかった。
複数の糸が、同時に、動いている。
その一本が切れれば、全体が崩れるかもしれない。ノアは、その緊張を、初めて、はっきりと自覚していた。
教団の門を出たところで、彼は、一人の人物と、鉢合わせた。
執事だった。息を切らし、明らかに、急いでやってきた様子だった。
「ノア様」
執事は、珍しく、動揺した声で言った。
「デュヴァル伯爵家から、緊急の知らせが」
ノアの背筋が、強張った。
「何が、あったのですか」
執事は、一度、息を整えた。
「エヴリン様が、レジナルド家の者に、屋敷の外で、接触されたそうです」
その言葉が、ノアの中で、これまでの計算をすべて、一瞬で塗り替えた。
半月という期限を、レジナルド家は、待つつもりがないのかもしれない。
彼は、教団の門を、振り返らずに、駆け出した。