祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
馬車を借りる時間すら惜しく、ノアは、王都からデュヴァル伯爵領まで、走れる限りの道を、馬で駆けた。
屋敷に着いたときには、日が、すでに沈みかけていた。
門番が、ノアの顔を見るなり、すぐに中へ通した。伯爵が、玄関先で、青ざめた顔で待っていた。
「エヴリンは」
ノアは、挨拶も抜きに、そう尋ねた。
「無事だ」
伯爵は、疲れた声で答えた。
「今、部屋にいる。だが――話を、聞いてやってほしい」
◆◆◆
エヴリンの部屋は、蝋燭が一本だけ灯っていた。彼女は、窓際の椅子に座り、膝の上で、両手を固く握っていた。
「ノア」
彼女は、ノアの姿を見て、わずかに肩の力を抜いた。
「来てくれたのね」
「何があったのか、聞かせてください」
ノアは、彼女の正面に、静かに座った。
エヴリンは、しばらく、言葉を選ぶように、視線を落としていた。
「今日の昼過ぎ、庭を歩いていたら」
彼女は、ゆっくりと話し始めた。
「見知らぬ男の人が、庭の外から、私に声をかけてきたの」
「侍女や、護衛は」
「少し、離れた場所にいたわ。声が届く距離ではなかった」
ノアは、その状況に、意図的な計算を感じ取った。声をかけたタイミングも、距離も、偶然にしては、あまりに都合が良すぎる。
「その男は、何と」
「レジナルド家の者だと、名乗ったわ」
エヴリンの声が、わずかに震えた。
「私に、直接、言ったの。半月後、教団が、寄進を断るという話は、もう知っていると。だから、その前に、私自身の意志を、確認しておきたいと」
「あなたの、意志、とは」
「本当に、レジナルド家との縁を、望んでいないのか、と」
エヴリンは、拳を、さらに強く握った。
「私が、望んでいないと答えたら――その男は、笑ったの。『では、あなたの父上が、財政のために、あなたを差し出すことを、あなたは、止められるのですか』って」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
「その言葉は」
ノアは、静かに言った。
「あなたを、脅すためのものです」
「分かってる」
エヴリンは、うつむいた。
「でも――怖かった。私の意志なんて、最初から、関係ないんだって、思い知らされた気がして」
ノアは、彼女の言葉を、正面から受け止めた。これまで、彼は、評議会という盤面の中で、票を動かすことに集中してきた。だが、その盤面の外側で、エヴリン自身が、直接、脅されるという事態を、彼は、想定していなかった。
「なぜ」
ノアは、自問するように呟いた。
「なぜ、今、直接、あなたに接触したのか」
「レジナルド家は」
伯爵の声が、部屋の入口から聞こえた。彼は、いつの間にか、扉のそばに立っていた。
「私への圧力だけでは、埒が明かないと、焦っているのかもしれない」
ノアは、その可能性に、頷いた。
「教団への寄進の話も、あなたへの新たな従属関係の申し出も、すべて、期限を意識した動きです。半月という時間の中で、公爵様の支援が、正式に決まる前に、決着をつけたいのでしょう」
「では」
伯爵の声に、恐れが混じった。
「レジナルド家は、これから、もっと、強引な手を使うということか」
ノアは、すぐには答えられなかった。だが、その可能性を、否定することもできなかった。
◆◆◆
その夜、ノアは、屋敷に泊まることを許された。エヴリンの護衛を、一晩だけでも強化するためだった。
翌朝、彼が、王都へ戻る準備をしていると、屋敷の門前に、一台の、飾り立てた馬車が止まった。
紋章は、剣と月桂樹――レジナルド家のものだった。
馬車から降りてきたのは、二十代後半の、整った顔立ちの男だった。仕立ての良い外套を纏い、その所作には、生まれながらの余裕が滲んでいた。
レジナルドだった。
彼は、玄関先で待っていたデュヴァル伯爵を見つけると、優雅に一礼した。
「突然の訪問を、お許しください、伯爵」
「レジナルド様」
伯爵の声は、緊張で硬かった。「本日は、何のご用件で」
「昨日、私の使者が、ご息女に、少々、無礼な物言いをしたと聞きました」
レジナルドは、朗らかに言った。
「その謝罪に、参りました」
その言葉に、ノアは、内心で、強い違和感を覚えた。謝罪という名目で、レジナルド自身が、直接、屋敷を訪れる意味は、単なる礼儀以上のものがあるはずだった。
レジナルドの視線が、玄関先に立つノアに移った。
「見慣れぬ顔だ」
彼は、値踏みするように、ノアを見た。
「お前は」
「ヴァンサン公爵様の使いです」
ノアは、丁寧に、しかし、はっきりと答えた。
レジナルドの目に、一瞬、興味の色が浮かんだ。それは、すぐに、侮りの色に変わった。
「公爵の使い、というのは」
彼は、ノアを、頭のてっぺんから足の先まで、ゆっくりと眺めた。
「随分と、若い庶子を、使っているのだな」
その言葉には、明確な悪意があった。ノアの出自を、すでに知った上での、意図的な侮辱だった。
ノアは、表情を変えなかった。
「私の出自が、何か、問題でしょうか」
「いや」
レジナルドは、軽く笑った。
「ただ、公爵も、随分と、変わった趣味をお持ちだと、思っただけだ」
伯爵が、その空気を和らげようと、慌てて口を挟んだ。
「レジナルド様、娘の件については」
「ああ、そうだった」
レジナルドは、伯爵に向き直った。その表情から、先ほどの侮りの色は、綺麗に消えていた。まるで、最初から、そんな感情など、存在しなかったかのように。
「私は、ただ、ご息女の、率直な意志を、確認したかっただけです」
彼は、穏やかに言った。
「もし、彼女が、私との縁を、本当に望んでいないのであれば――私は、無理強いをするつもりはありません」
その言葉は、一見、紳士的だった。だが、ノアは、その裏にある計算を、正確に読み取った。
これは、伯爵の前で、レジナルド自身の余裕を、演出するための言葉だった。無理強いをしていないと、公の場で言っておくことで、後々、何か問題が起きた際に、自分の責任を、回避できる。
「レジナルド様」
ノアは、思わず、口を挟んだ。
「では、教団への寄進の申し出も、伯爵様への従属関係の要求も――すべて、撤回されるのですね」
レジナルドの視線が、再び、ノアに向いた。今度は、侮りではなく、はっきりとした警戒の色があった。
「お前は、誰から、その話を」
「私は、ただ、事実を確認しているだけです」
ノアは、静かに、しかし、引かずに言った。
「率直な意志を尊重すると仰るなら、それらの申し出も、当然、撤回されるべきです」
レジナルドは、しばらく、ノアを見つめていた。その目に、これまでとは違う、冷たい光が宿った。
「お前は」
彼は、低く言った。
「随分と、口が達者な庶子だ」
「褒め言葉として、受け取ります」
「褒めてはいない」
レジナルドの声から、先ほどまでの穏やかさが、完全に消えていた。
「教団への申し出も、伯爵への申し出も、撤回するつもりはない」
彼は、はっきりと言った。
「それらは、あくまで、別の話だ。ご息女の意志の確認とは、無関係のものだ」
その言葉で、レジナルドは、自分の紳士的な態度が、ただの演出だったことを、自ら認めたに等しかった。
伯爵の表情が、絶望に近いものに変わった。
「レジナルド様」
「では、私は、これで」
レジナルドは、伯爵の言葉を遮り、優雅に一礼した。
「半月後、また、伺います。その時までに、教団と評議会の結論が、どうなっているか――楽しみにしています」
彼は、馬車に乗り込み、去っていった。
◆◆◆
馬車が見えなくなると、伯爵は、その場に、崩れるように座り込んだ。
「あの男は」
伯爵の声は、震えていた。
「最初から、娘の意志など、どうでもいいのだ」
ノアは、去っていった馬車の方角を、見つめていた。
レジナルドという男の輪郭が、今日、初めて、はっきりと見えた。彼は、表向きの余裕と紳士的な態度の裏で、庶子であるノアを、明確に格下と侮っていた。そして、その侮りが、彼の言葉の端々に、隙として現れていた。
教団への申し出と、伯爵への従属要求を、意志確認とは無関係だと、自ら認めたこと。それは、レジナルドが、まだ、ノアという存在の危険性を、正しく測れていない証拠だった。
「伯爵様」
ノアは、静かに言った。
「レジナルド様は、今、私を、ただの生意気な庶子としか、見ていません」
「それが、どうしたと言うのだ」
「侮られている間は」
ノアは、去っていった馬車の轍を、見つめたまま言った。
「相手は、油断します。その油断が、いつか、隙になります」
伯爵は、ノアを見た。その目に、わずかな、しかし確かな希望が浮かんでいた。
ノアは、王都へ戻る馬に、再び乗った。
半月という期限は、変わらず、迫っている。だが、今日、彼は、これまで名前としてしか知らなかった敵の、実際の輪郭を、初めて、自分の目で見た。
レジナルドは、強い。血筋も、財力も、地位も、ノアとは比べ物にならない。だが、彼の侮りの中に、確かな隙がある。
その隙を、どう使うか――それが、これからの半月を、決定づけることになる。