祝福されない赤子として生まれました   作:What's 船長

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第2話

 使用人頭の不正を見抜いた日から、十日が経った。

 

 その間、ノアは何も起こらない日々を過ごしていた。館の雑用、水汲み、薪運び――何も変わらない毎日が続いていた。だが、彼の中では、何かが静かに、確実に変わっていた。

 

 恐怖を見せれば、人は動く。それを知った七歳の少年は、もう、ただ観察するだけの子供ではいられなかった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 その朝、館に一台の馬車が止まった。

 

 使用人たちが慌てて出迎えに走る。馬車の紋章――剣と天秤を組み合わせた図案を見て、誰もが一瞬、動きを止めた。

 

 ヴァンサン公爵家の紋章だった。

 

 ノアは水桶を抱えたまま、その光景を遠くから見ていた。館に貴族の使者が来ることは滅多にない。それも、評議会の長の一人、ヴァンサン公爵家からとなれば、なおさらだった。

 

 執事が、慌てた様子で館の奥から出てきた。彼は使者と短く言葉を交わし、それから、館の中を見回した。

 

 その視線が、ノアの上で止まった。

 

 「お前、来い」

 

 ノアは水桶を置いた。心臓が、わずかに速くなるのを感じた。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 応接室には、ヴァンサン公爵家の使者――四十代ほどの男が立っていた。仕立ての良い外套を着ているが、表情には事務的な硬さしかない。

 

 「お前が、ノアか」

 

 「はい」

 

 使者は、懐から書状を取り出した。

 

 「公爵様より、お前への依頼だ」

 

 ノアは自分の名前が貴族の口から出たことに、驚きを表に出さないよう努めた。

 

 「私への、依頼ですか」

 

 「デュヴァル伯爵家へ、使いとして向かってほしい」使者は言った。

 

 「公爵様からの書状を届け、必要であれば、伯爵との交渉も担ってほしい、とのことだ」

 

 「なぜ、私に」

 

 使者はわずかに口の端を上げた。それは、笑みというより、観察するような表情だった。

 

 「公爵様は、お前の名を、すでにご存知だ」

 

 その一言が、ノアの中で大きく響いた。母にも、誰にも教わらず、自分一人で積み上げてきたはずの日々が、すでに誰かに見られていた。

 

 「理由を伺っても」

 

 「理由まで聞く立場に、お前はない」使者は淡々と言った。

 

 「行くか、行かないか。それだけを答えればいい」

 

 ノアは、一瞬だけ考えた。考える時間は、長くは必要なかった。

 

 「行きます」

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 馬車の中で、ノアは公爵家からの書状を握っていた。封蝋には、まだ手をつけていない。中身を見る権限が自分にあるのか、判断がつかなかった。

 

 「読んでもいい」

 

 御者が、ふと声をかけた。

 

 「公爵様はそう仰せだ。お前が、内容を理解した上で動くようにと」

 

 ノアは封を開けた。文面は短く、要点だけが記されていた。

 

 

 

 『デュヴァル伯爵領の税負担について、評議会内で再検討の余地がある。詳細は使者を通じて伝える』

 

 

 

 具体的な条件は、何も書かれていない。ただ、「再検討の余地がある」という、曖昧な可能性だけが示されている。

 

 ノアは、その文面を何度も読み返した。

 

 これは約束ではない。ヴァンサン公爵は、何も確定させていない。ただ、デュヴァル伯爵に「希望」だけを渡そうとしている。

 

 なぜそんな曖昧な書状を、わざわざ庶子の自分に届けさせるのか。

 

 答えはまだ見えなかったが、一つだけ、確信があった。これは試されている。ノアがこの曖昧さを、どう扱うかを。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 デュヴァル伯爵の屋敷は、古びた佇まいだった。手入れの行き届かない庭、ひびの目立つ壁。財政難という言葉が、外観だけでも伝わってくる。

 

 伯爵は、書斎でノアを迎えた。疲労の濃い顔をした、四十代後半の男だった。

 

 「お前が、公爵の使いか」

 

 伯爵は、訝しげにノアを見た。

 

 「子供ではないか」

 

 「私は、館の使用人です」

 

 ノアは丁寧に答えた。

 

 「公爵様から、この書状をお届けするよう頼まれました」

 

 伯爵は書状を受け取り、目を通した。表情が、徐々に変わっていく。困惑から、わずかな希望へ。

 

 「これは……」

 

 伯爵は、ノアを見た。

 

 「公爵が、私の領地の税を軽くしようとしている、ということか」

 

 「文面には、そう読める可能性が示されています」

 

 「だが、理由がわからない」

 

 伯爵は、書状を机に置いた。

 

 「これまで、ヴァンサン公爵家と、私の家にほとんど関わりはなかった」

 

 ノアは、書状をもう一度見た。文字の選び方、曖昧さの作り方――この文章を書いた人物は、確実に何かを計算している。

 

 「伯爵様」

 

 ノアは、慎重に切り出した。

 

 「最近、別の縁談の話が、伯爵様の元に来ていませんか」

 

 伯爵の表情が、強く動いた。

 

 「お前は、何を知っている」

 

 「何も知りません」

 

 ノアは答えた。

 

 「ただ、この曖昧な書状の意味を、考えています」

 

 伯爵は、長い沈黙の後、重い息を吐いた。

 

 「実は――レジナルド家から、縁談の話が来ている」彼は言った。

 

 「私の娘、エヴリンとの婚姻だ。財政支援と引き換えに」

 

 ノアの頭の中で、すべての点が一本の線になった。

 

 デュヴァル伯爵領は財政難。レジナルド家は娘との縁談と引き換えに援助を申し出ている。そして、ヴァンサン公爵が、同じ時期に、税の軽減という別の希望を示してきた。

 

 偶然ではない。

 

 ヴァンサン公爵は、レジナルド家の動きを知った上で、デュヴァル伯爵を自分の側に引き寄せようとしている。荒れることを最も恐れる男が、王族に近いレジナルド家が地方の財政基盤を一つ取り込むことを、阻もうとしている。

 

 「伯爵様」

 

 ノアは言った。

 

 「この書状は、公爵様からの約束ではありません。可能性だけです。もし、伯爵様がレジナルド家の話を進めれば、この可能性は、おそらく消えます」

 

 「お前は、何が言いたいのだ」

 

 「公爵様は、伯爵様に選んでほしいのです。レジナルド家か、自分か。そして、その選択の重さを、伯爵様自身に気づかせるために、この曖昧な書状を送りました」

 

 伯爵は、ノアをじっと見つめた。十二歳の子供にしては、あまりに正確すぎる読みだった。

 

 「お前は、何者だ」

 

 「ただの使いです」

 

 「使いが、そこまで読めるものか」

 

 ノアは、答えなかった。答える必要のない問いだった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 書斎を出たノアは、廊下で足を止めた。窓の外、中庭に一人の少女が立っていた。

 

 金色の髪を編んでまとめ、簡素なドレスを纏っている。彼女は、雨上がりの庭を、何かを考え込むように見つめていた。

 

 エヴリン・デュヴァル。書斎で語られていた縁談の、当事者だった。

 

 ノアは立ち去るべきだと思った。彼女に関わる理由は、まだない。だが、彼女がふと視線を上げ、窓の中のノアに気づいた。

 

 二人の目が、一瞬合った。

 

 彼女は、驚いた様子を見せたが、すぐに、扉のほうへ歩いてきた。

 

 「あなたが、公爵様の使い?」

 

 「はい」ノアは答えた。

 

 「ノアと申します」

 

 「エヴリンです」

 

 彼女は、まっすぐにノアを見た。

 

 「父と、何を話していたの」

 

 ノアは、一瞬、答えを選んだ。すべてを話すべきではない。だが、何も話さなければ、彼女はもっと不安になる。

 

 「公爵様からの、書状をお届けしました」

 

 ノアは言った。

 

 「詳しいことは、伯爵様からお聞きください」

 

 「私の話でしょう」

 

 エヴリンの声が、少し強くなった。

 

 「レジナルド家の縁談の話。違う?」

 

 ノアは、彼女の目を見た。そこには、怯えではなく、確認しようとする強さがあった。

 

 「……はい」ノアは、正直に答えた。

 

 「公爵様は、伯爵様に、別の道もあると示そうとしています」

 

 エヴリンは、しばらく無言だった。

 

 「私は」

 

 彼女は、自分の手を見つめながら言った。

 

 「自分のことが、自分の知らないところで決まっていくのが、嫌いです」

 

 「それは、当然のことです」

 

 「あなたは、私のことを、何だと思っているの。父の道具? それとも――」

 

 「あなたは、道具ではありません」

 

 ノアは、考える前に答えていた。

 

 その答えに、自分でも驚いた。これまで、誰に対しても、損得を計算して言葉を選んできたはずだった。だが、今のひと言には、計算がなかった。

 

 エヴリンは、わずかに目を見開いた。

 

 「……あなた、変わった人ね」

 

 「よく言われます」

 

 彼女は、初めて、小さく笑った。

 

 「ありがとう」彼女は言った。

 

 「正直に答えてくれて」

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 王都に戻る馬車の中で、ノアは窓の外を見ていた。

 

 エヴリンの最後の言葉が、頭の中に残っていた。

 

 『あなたは、私のことを、何だと思っているの』

 

 彼は、誰に対しても、その人の恐怖を読み、欲しいものを与えることで、言葉を動かしてきた。だが、エヴリンに対しては、何かが違っていた。彼女に何を与えれば望む答えが返ってくるか、計算する前に、言葉が出てしまった。

 

 それが、何を意味するのか、ノアにはまだわからなかった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 館に戻ったノアを、執事が待っていた。

 

 「公爵様の使者から、伝言だ」

 

 執事は言った。

 

 「お前の仕事ぶりは、評価されている、と」

 

 「それだけですか」

 

 「いや」

 

 執事は、書状をもう一枚、ノアに手渡した。

 

 「次は、評議会そのものに関わる仕事になる、とも言っていた」

 

 ノアは、その書状を受け取った。封蝋には、見覚えのある剣と天秤の紋章。

 

 彼は、その場で封を開けなかった。代わりに、執事に短く尋ねた。

 

 「公爵様は、なぜ、庶子の私を選ぶのですか」

 

 執事は、しばらく考え、それから答えた。

 

 「公爵様は、誰も注目しない者を好む、と聞いている。注目されない者は、誰にも警戒されずに動けるからだ」

 

 ノアは、その言葉を、胸の中で繰り返した。

 

 誰にも警戒されない――それは、彼がこれまで武器だと思っていた「影」という立場が、今、初めて誰かに、明確な目的のために利用されているということだった。

 

 彼は、手の中の書状を見つめた。

 

 まだ封を切っていない。だが、これを開けたとき、自分はもう、ただの庶子の使用人ではいられなくなる。評議会という巨大な盤面に、初めて駒として置かれることになる。

 

 そして、その盤面の向こうには、まだ見えていない一人の存在がいる。

 

 ヴァンサン公爵は、なぜ自分を選んだのか。母は、本当に公爵を知らないのか。

 

 その答えは、この書状の中にあるのか、それとも――もっと別の場所に隠されているのか。

 

 ノアは、封蝋に指をかけた。

 

 次に何が書かれているか、彼にはまだわからない。だが、これを読んだ瞬間、彼は初めて、評議会そのものと向き合うことになる。

 

 もう、後には引けない。

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