祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
使用人頭の不正を見抜いた日から、十日が経った。
その間、ノアは何も起こらない日々を過ごしていた。館の雑用、水汲み、薪運び――何も変わらない毎日が続いていた。だが、彼の中では、何かが静かに、確実に変わっていた。
恐怖を見せれば、人は動く。それを知った七歳の少年は、もう、ただ観察するだけの子供ではいられなかった。
◆◆◆
その朝、館に一台の馬車が止まった。
使用人たちが慌てて出迎えに走る。馬車の紋章――剣と天秤を組み合わせた図案を見て、誰もが一瞬、動きを止めた。
ヴァンサン公爵家の紋章だった。
ノアは水桶を抱えたまま、その光景を遠くから見ていた。館に貴族の使者が来ることは滅多にない。それも、評議会の長の一人、ヴァンサン公爵家からとなれば、なおさらだった。
執事が、慌てた様子で館の奥から出てきた。彼は使者と短く言葉を交わし、それから、館の中を見回した。
その視線が、ノアの上で止まった。
「お前、来い」
ノアは水桶を置いた。心臓が、わずかに速くなるのを感じた。
◆◆◆
応接室には、ヴァンサン公爵家の使者――四十代ほどの男が立っていた。仕立ての良い外套を着ているが、表情には事務的な硬さしかない。
「お前が、ノアか」
「はい」
使者は、懐から書状を取り出した。
「公爵様より、お前への依頼だ」
ノアは自分の名前が貴族の口から出たことに、驚きを表に出さないよう努めた。
「私への、依頼ですか」
「デュヴァル伯爵家へ、使いとして向かってほしい」使者は言った。
「公爵様からの書状を届け、必要であれば、伯爵との交渉も担ってほしい、とのことだ」
「なぜ、私に」
使者はわずかに口の端を上げた。それは、笑みというより、観察するような表情だった。
「公爵様は、お前の名を、すでにご存知だ」
その一言が、ノアの中で大きく響いた。母にも、誰にも教わらず、自分一人で積み上げてきたはずの日々が、すでに誰かに見られていた。
「理由を伺っても」
「理由まで聞く立場に、お前はない」使者は淡々と言った。
「行くか、行かないか。それだけを答えればいい」
ノアは、一瞬だけ考えた。考える時間は、長くは必要なかった。
「行きます」
◆◆◆
馬車の中で、ノアは公爵家からの書状を握っていた。封蝋には、まだ手をつけていない。中身を見る権限が自分にあるのか、判断がつかなかった。
「読んでもいい」
御者が、ふと声をかけた。
「公爵様はそう仰せだ。お前が、内容を理解した上で動くようにと」
ノアは封を開けた。文面は短く、要点だけが記されていた。
『デュヴァル伯爵領の税負担について、評議会内で再検討の余地がある。詳細は使者を通じて伝える』
具体的な条件は、何も書かれていない。ただ、「再検討の余地がある」という、曖昧な可能性だけが示されている。
ノアは、その文面を何度も読み返した。
これは約束ではない。ヴァンサン公爵は、何も確定させていない。ただ、デュヴァル伯爵に「希望」だけを渡そうとしている。
なぜそんな曖昧な書状を、わざわざ庶子の自分に届けさせるのか。
答えはまだ見えなかったが、一つだけ、確信があった。これは試されている。ノアがこの曖昧さを、どう扱うかを。
◆◆◆
デュヴァル伯爵の屋敷は、古びた佇まいだった。手入れの行き届かない庭、ひびの目立つ壁。財政難という言葉が、外観だけでも伝わってくる。
伯爵は、書斎でノアを迎えた。疲労の濃い顔をした、四十代後半の男だった。
「お前が、公爵の使いか」
伯爵は、訝しげにノアを見た。
「子供ではないか」
「私は、館の使用人です」
ノアは丁寧に答えた。
「公爵様から、この書状をお届けするよう頼まれました」
伯爵は書状を受け取り、目を通した。表情が、徐々に変わっていく。困惑から、わずかな希望へ。
「これは……」
伯爵は、ノアを見た。
「公爵が、私の領地の税を軽くしようとしている、ということか」
「文面には、そう読める可能性が示されています」
「だが、理由がわからない」
伯爵は、書状を机に置いた。
「これまで、ヴァンサン公爵家と、私の家にほとんど関わりはなかった」
ノアは、書状をもう一度見た。文字の選び方、曖昧さの作り方――この文章を書いた人物は、確実に何かを計算している。
「伯爵様」
ノアは、慎重に切り出した。
「最近、別の縁談の話が、伯爵様の元に来ていませんか」
伯爵の表情が、強く動いた。
「お前は、何を知っている」
「何も知りません」
ノアは答えた。
「ただ、この曖昧な書状の意味を、考えています」
伯爵は、長い沈黙の後、重い息を吐いた。
「実は――レジナルド家から、縁談の話が来ている」彼は言った。
「私の娘、エヴリンとの婚姻だ。財政支援と引き換えに」
ノアの頭の中で、すべての点が一本の線になった。
デュヴァル伯爵領は財政難。レジナルド家は娘との縁談と引き換えに援助を申し出ている。そして、ヴァンサン公爵が、同じ時期に、税の軽減という別の希望を示してきた。
偶然ではない。
ヴァンサン公爵は、レジナルド家の動きを知った上で、デュヴァル伯爵を自分の側に引き寄せようとしている。荒れることを最も恐れる男が、王族に近いレジナルド家が地方の財政基盤を一つ取り込むことを、阻もうとしている。
「伯爵様」
ノアは言った。
「この書状は、公爵様からの約束ではありません。可能性だけです。もし、伯爵様がレジナルド家の話を進めれば、この可能性は、おそらく消えます」
「お前は、何が言いたいのだ」
「公爵様は、伯爵様に選んでほしいのです。レジナルド家か、自分か。そして、その選択の重さを、伯爵様自身に気づかせるために、この曖昧な書状を送りました」
伯爵は、ノアをじっと見つめた。十二歳の子供にしては、あまりに正確すぎる読みだった。
「お前は、何者だ」
「ただの使いです」
「使いが、そこまで読めるものか」
ノアは、答えなかった。答える必要のない問いだった。
◆◆◆
書斎を出たノアは、廊下で足を止めた。窓の外、中庭に一人の少女が立っていた。
金色の髪を編んでまとめ、簡素なドレスを纏っている。彼女は、雨上がりの庭を、何かを考え込むように見つめていた。
エヴリン・デュヴァル。書斎で語られていた縁談の、当事者だった。
ノアは立ち去るべきだと思った。彼女に関わる理由は、まだない。だが、彼女がふと視線を上げ、窓の中のノアに気づいた。
二人の目が、一瞬合った。
彼女は、驚いた様子を見せたが、すぐに、扉のほうへ歩いてきた。
「あなたが、公爵様の使い?」
「はい」ノアは答えた。
「ノアと申します」
「エヴリンです」
彼女は、まっすぐにノアを見た。
「父と、何を話していたの」
ノアは、一瞬、答えを選んだ。すべてを話すべきではない。だが、何も話さなければ、彼女はもっと不安になる。
「公爵様からの、書状をお届けしました」
ノアは言った。
「詳しいことは、伯爵様からお聞きください」
「私の話でしょう」
エヴリンの声が、少し強くなった。
「レジナルド家の縁談の話。違う?」
ノアは、彼女の目を見た。そこには、怯えではなく、確認しようとする強さがあった。
「……はい」ノアは、正直に答えた。
「公爵様は、伯爵様に、別の道もあると示そうとしています」
エヴリンは、しばらく無言だった。
「私は」
彼女は、自分の手を見つめながら言った。
「自分のことが、自分の知らないところで決まっていくのが、嫌いです」
「それは、当然のことです」
「あなたは、私のことを、何だと思っているの。父の道具? それとも――」
「あなたは、道具ではありません」
ノアは、考える前に答えていた。
その答えに、自分でも驚いた。これまで、誰に対しても、損得を計算して言葉を選んできたはずだった。だが、今のひと言には、計算がなかった。
エヴリンは、わずかに目を見開いた。
「……あなた、変わった人ね」
「よく言われます」
彼女は、初めて、小さく笑った。
「ありがとう」彼女は言った。
「正直に答えてくれて」
◆◆◆
王都に戻る馬車の中で、ノアは窓の外を見ていた。
エヴリンの最後の言葉が、頭の中に残っていた。
『あなたは、私のことを、何だと思っているの』
彼は、誰に対しても、その人の恐怖を読み、欲しいものを与えることで、言葉を動かしてきた。だが、エヴリンに対しては、何かが違っていた。彼女に何を与えれば望む答えが返ってくるか、計算する前に、言葉が出てしまった。
それが、何を意味するのか、ノアにはまだわからなかった。
◆◆◆
館に戻ったノアを、執事が待っていた。
「公爵様の使者から、伝言だ」
執事は言った。
「お前の仕事ぶりは、評価されている、と」
「それだけですか」
「いや」
執事は、書状をもう一枚、ノアに手渡した。
「次は、評議会そのものに関わる仕事になる、とも言っていた」
ノアは、その書状を受け取った。封蝋には、見覚えのある剣と天秤の紋章。
彼は、その場で封を開けなかった。代わりに、執事に短く尋ねた。
「公爵様は、なぜ、庶子の私を選ぶのですか」
執事は、しばらく考え、それから答えた。
「公爵様は、誰も注目しない者を好む、と聞いている。注目されない者は、誰にも警戒されずに動けるからだ」
ノアは、その言葉を、胸の中で繰り返した。
誰にも警戒されない――それは、彼がこれまで武器だと思っていた「影」という立場が、今、初めて誰かに、明確な目的のために利用されているということだった。
彼は、手の中の書状を見つめた。
まだ封を切っていない。だが、これを開けたとき、自分はもう、ただの庶子の使用人ではいられなくなる。評議会という巨大な盤面に、初めて駒として置かれることになる。
そして、その盤面の向こうには、まだ見えていない一人の存在がいる。
ヴァンサン公爵は、なぜ自分を選んだのか。母は、本当に公爵を知らないのか。
その答えは、この書状の中にあるのか、それとも――もっと別の場所に隠されているのか。
ノアは、封蝋に指をかけた。
次に何が書かれているか、彼にはまだわからない。だが、これを読んだ瞬間、彼は初めて、評議会そのものと向き合うことになる。
もう、後には引けない。