祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
西塔への階段を上る足音が、いつもより重く響いた。
ノアは何度もこの階段を上ってきたが、今日は足の運びそのものが違っていた。問いを持って上るのと、答えを聞きに上るのとでは重さが違う。
最上階の小部屋。
イゾルドは窓辺の椅子に座っていた。ノアが入ってきても、すぐには顔を向けなかった。
「ノア」
彼女は、ようやく口を開いた。
「グレイヴズ将軍のことは、コンラート卿から聞いた」
ノアは驚きを表に出さなかった。だが、その早さに、改めて警戒を強めた。
「母上は、ずいぶんと多くのことをご存知ですね」
「私には、私の耳がある」
イゾルドは、いつもと同じ言葉を返した。
「お前は上手くやった。グレイヴズの本音を引き出すなど、私が思っていたよりも早い」
「母上」
ノアは、椅子に座らず、立ったまま言った。
「お聞きしたいことがあります」
イゾルドの視線が、初めて、まっすぐに息子を見た。
「何だ」
「母上は、評議会の仕組みを誰から学んだのですか」
部屋の中の空気が、わずかに変わった。
イゾルドは、すぐには答えなかった。彼女の指が椅子の縁を強く握っている。それは、これまでノアが見たことのない母の手の動きだった。
「なぜ、そんなことを聞く」
「コンラート卿が言いました。母上は、王の寵姫だった頃から、評議会という制度に、誰よりも先に興味を持っていたと」
「それが、何だというのだ」
「政治に直接関わる立場ではなかったはずの母上が、なぜ誰よりも早く、この制度を理解していたのか――知りたいのです」
イゾルドは、しばらく息子の顔を見つめていた。
「お前は」
彼女は、ゆっくりと言った。
「私が、誰かに教わったと思っているのか」
「違うのですか」
「私は自分で学んだ」
イゾルドの声は、いつもより硬かった。
「王の寵姫であった時代、私は誰よりも宮廷を観察していた。お前と同じだ」
「では、なぜコンラート卿は、私に『知識の出どころを考えるべきだ』と言ったのですか」
イゾルドの表情が、わずかに動いた。それは、ノアが西塔で何度も見てきた、あの一瞬の躊躇いだった。だが今日は、その躊躇いが、いつもより長く続いた。
「あの男は」
イゾルドは、ようやく言った。
「昔から、余計なことを言う」
「母上」
ノアは一歩、母に近づいた。
「私は母上を疑っているわけではありません。ただ――母上が私にすべてを教えていないのだとしたら、私は自分の武器の半分しか知らないまま動いていることになります」
イゾルドは、目を伏せた。
長い沈黙が部屋を満たした。霧の匂いと湿った石の冷たさだけが、二人の間にあった。
「ノア」
イゾルドは、ようやく顔を上げた。
「お前に一つだけ、話していないことがある」
ノアの心臓が、強く打った。
「私が評議会の仕組みを学んだのは、自分の観察だけではない」
イゾルドは、言葉を選びながら続けた。
「私には当時、一人の協力者がいた。私に宮廷の裏側を教えてくれた人物だ」
「その人物は、誰ですか」
イゾルドは答えなかった。彼女は窓の外、霧の向こうの王城を見つめた。
「母上」
「今は、その名を言うことはできない」
イゾルドは言った。
「言えば、お前にとって危険になる」
「私は、すでに評議会に関わっています。今、危険を避けようとすることに意味はありますか」
イゾルドの目に、初めて強い感情の色が浮かんだ。それは怒りに近い何かだった。
「お前は、まだ何もわかっていない」
彼女の声が、わずかに高くなった。
「私が守ろうとしているのは、お前自身だ」
「私を守るために、私に何も教えないのですか」
二人の視線が、正面からぶつかった。
イゾルドは、しばらくして視線を逸らした。その動きは、これまでの彼女には見られなかった、明確な敗北の仕草だった。
「いつか話す」
彼女は、低く言った。
「今は、まだその時ではない」
ノアは、それ以上問いを重ねなかった。母の表情の中に、これ以上は崩れない固い壁があることを、彼は読み取っていた。
「わかりました」
彼は言った。
「今日は、これで」
彼が部屋を出るとき、イゾルドは何かを言いかけたが、結局、声にはならなかった。
◆◆◆
塔を出て霧の中を歩き出したノアは、ある違和感に気づいた。
いつもより、霧が薄かった。視界の先に、はっきりと王都の建物の輪郭が見える。
その視界の中、塔の門の脇に、一人の人物が立っていた。フードを被った、小柄な姿。
昨日、路地で見た人影と、同じ気配がした。
ノアは足を止めた。
「待っていたの」
人影は、フードを少し上げた。年齢はノアよりわずかに上、鋭い目つきの少女だった。
「あなたは、昨日の」
「マリアンヌ」
彼女は、それだけ名乗った。
「あなたが、いつ母上に問いをぶつけるか、見ていた。今日が、その日だったみたいね」
ノアの目が、わずかに細くなった。
「あなたは、私の動きを、すべて知っているのですか」
「すべてではない」
マリアンヌは、肩をすくめた。
「でも、あなたがコンラート卿に会ったことは知っている」
「なぜ」
「言ったでしょう」
マリアンヌは、わずかに笑った。
「私の家は、誰が何をしているかを知る仕事をしてきた」
ノアは、彼女の目を見た。そこには、これまでと同じ観察者の鋭さがあった。だが今日は、わずかに違う色も混じっていた。焦り、あるいは急いでいるような何か。
「母上が、誰かに教えられて評議会の仕組みを学んだ――それを、あなたは知っていますか」
マリアンヌは、一瞬、答えを選ぶような表情をした。
「知っている」
彼女は、ついに言った。
「でも、今、ここでは言えない」
「なぜ」
「理由は二つ」
マリアンヌは、指を二本立てた。
「一つは、私自身がその情報の出どころを完全には確認できていないから。もう一つは――」
彼女は、言葉を切った。
「あなたが、まだそれを聞く準備ができていないから」
ノアは、その言葉にわずかな苛立ちを覚えた。
「私には、その準備をする権利があります」
「権利の話をしているわけじゃない」
マリアンヌの声が、少し鋭くなった。
「あなたが今、母上の正体を知れば――あなたは、これまでのように冷静に評議会と向き合えなくなる。それが、あなたの動きを鈍らせる」
ノアは、何も言えなかった。彼女の指摘は否定できないものだった。
「いつか話す時が来る」
マリアンヌは言った。
「その時、私があなたに全部を話す。だから今は、評議会のことだけを考えて」
彼女は、踵を返した。
「待って」
ノアは、思わず呼びかけた。
「一つだけ、教えてください。その協力者は――今も、生きているのですか」
マリアンヌは、足を止めた。霧の薄い視界の中、彼女の背中だけが見えた。
「生きている」
彼女は、振り返らずに答えた。
「そして、まだ動いている」
彼女は、それ以上何も言わず、霧の薄い夕暮れの中へ姿を消した。
◆◆◆
館に戻ったノアは、自室で一人、今日聞いた言葉を何度も思い返していた。
母には、評議会の仕組みを教えた協力者がいる。その人物は、今も生きていて、まだ動いている。
その事実が、これまでノアが信じてきた「母の教え」という武器の輪郭を、大きく変えていた。
母が彼に渡した三つの名前――ヴァンサン、ベネディクト、グレイヴズ――は、本当に母自身の観察から生まれたものなのか。それとも、その協力者から渡された情報を、母が息子にそのまま手渡しただけなのか。
もし後者であれば、ノアが今、評議会に対して動いている一手一手は、すべてその協力者の意図の延長線上にあることになる。
彼は自分の足で歩いているつもりだった。だが、もし誰かがその道筋を最初から描いていたのだとしたら――
ノアは、窓の外を見た。
夕暮れの薄い光が、王都の屋根々を橙色に染めていた。霧はいつもより薄い。だが、その薄さが、むしろ見えるはずのものを、まだ見えなくしているように感じられた。
次に動くべきは、評議会の票ではない。
母の協力者――その正体を、ノアは自分の手で見つけなければならない。
そして、その正体が明らかになったとき、彼が今まで握ってきた武器が本当に自分のものだったのか、それとも最初から誰かに握らされていただけだったのか――その答えが、初めて出ることになる。