祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
評議会の小会は、王城の一角、貴族会議室で開かれた。
ノアは、その場に出席する資格を持たない。だが、ヴァンサン公爵の指示で、会議室の控えの間に控え、必要があれば呼び出されるという、異例の扱いを受けていた。
控えの間の壁は薄く、議論の声が、断片的に漏れ聞こえてきた。
◆◆◆
「北部街道の通行税を、現行の倍にすべきだ」
貴族の一人の声が聞こえた。
「街道の維持費が、年々増えている」
「維持費の増加は、認める」
別の声――おそらくグレイヴズ将軍だった。重く、低い声。
「だが、税を上げれば、街道沿いの村の負担が増す。負担が増せば、不満が募る」
「不満が、何だというのです」
最初の貴族が反論する。
「将軍は、村人の機嫌を、評議会の議題より優先するのですか」
「私は、内乱を二度と見たくないだけだ」
その一言で、議場が静かになった。
◆◆◆
控えの間で、ノアはその沈黙の意味を理解していた。グレイヴズ将軍は、税の議論そのものではなく、その先にある「不満の蓄積」を見ている。前にコンラート卿から聞いた本音と、今の発言は、完全に一致していた。
だが、議場の他の貴族たちは、その本音の深さまでは、まだ理解していない。
ヴァンサン公爵が、控えの間の扉を、わずかに開けた。
「ノア」
彼は、低く呼びかけた。初めて、公爵が直接、ノアの名を呼んだ瞬間だった。
「お前の考えを聞きたい」
ノアは、立ち上がった。
「私が、お答えしてよろしいのですか」
「正式な発言権はない」公爵は言った。
「だが、私の従者として、私に耳打ちすることはできる」
ノアは、公爵の側に近づいた。彼の心臓は、速く打っていたが、声には出さなかった。
「将軍が恐れているのは、税そのものではありません」
ノアは、公爵だけに聞こえる声で言った。
「不満が、いつか反乱の種になることです。もし、税を上げる代わりに、その増収分の一部を、街道沿いの村への補助に回す案を出せば――将軍は、反対する理由を失います」
ヴァンサン公爵の目が、わずかに見開かれた。
「補助、か」
「将軍にとって重要なのは、税の額ではなく、村人が反乱を起こす理由を持たないことです」
ノアは続けた。
「増収分の使い道さえ示せば、将軍は、税の引き上げ自体には反対しません」
公爵は、しばらく、ノアを見つめていた。それから、議場に向き直り、声を上げた。
「提案がある」
彼は言った。
「通行税の増収分の三割を、街道沿いの村への治安維持費として、補助に回すことを条件に、税の引き上げを認めてはどうか」
議場が、再び静まった。
数秒の沈黙の後、グレイヴズ将軍の声が響いた。
「……それであれば、私は、反対しない」
◆◆◆
会議が終わった後、ヴァンサン公爵は、控えの間に戻り、ノアを見た。
「お前の案だったな」
「私は、ただ、将軍の恐れを言葉にしたまでです」
「それで十分だ」
公爵は、初めて、わずかに笑みを見せた。
「今日、評議会の議題が、荒れずに決着した。それが、私にとって、最も価値のある結果だ」
ノアは、頭を下げた。
彼が今日得たものは、目に見える報酬ではなかった。だが、評議会の長の一人が、自分の言葉一つで、議題そのものの方向を変えた――その事実が、彼の中で、確かな重さを持っていた。
◆◆◆
王城を出たノアは、控えの間からの帰り道で、思いがけない人物に出会った。
エヴリンだった。
彼女は、父に同行して王城を訪れていたらしい。デュヴァル伯爵家の財政再建の話が、評議会のどこかで進んでいるのだろう。
「ノア」
彼女は、ノアを見つけて、足を止めた。
「エヴリン様」
「父から聞いたわ。あなたが、ヴァンサン公爵の信頼を得ていると」
「まだ、信頼と呼べるほどではないと思います」
エヴリンは、小さく笑った。
「謙遜なのか、本心なのか、わからない人ね」
二人は、しばらく、王城の回廊を並んで歩いた。
「あなたに、聞きたいことがあるの」
エヴリンが、ふと言った。
「父の縁談――レジナルド家との話。あなたは、本当のところ、どう思っているの」
ノアは、すぐには答えなかった。
「私の意見は、重要ではないと思います」
「重要よ」
エヴリンの声に、強さがあった。
「私のことを、誰も、私自身の意見を聞かずに決めようとしている。あなただけは、違ってほしい」
ノアは、彼女の目を見た。そこには、これまで見てきたどの貴族の目とも違う、剥き出しの不安があった。
「私は」
ノアは、慎重に、しかし正直に言葉を選んだ。
「あなたが、誰かの取引の材料として扱われることに、賛成できません」
「でも、あなたは、評議会のために動いている。その評議会が、私の縁談を、政治の駆け引きの一部として使おうとしている」
ノアは、その指摘に、答えを持たなかった。彼女の言う通りだった。彼自身が、まさにその駆け引きの中で動いている一人だった。
「矛盾していますね」
彼は、認めた。
「私は、評議会の駆け引きの中で生きています。そして、その駆け引きが、あなたを巻き込もうとしていることも、知っています」
「それでも、あなたは、止められない」
「今は」
エヴリンは、しばらく、ノアを見つめていた。
「正直なのね」
彼女は、静かに言った。
「父も、レジナルド家の使者も、誰も、私にそんなことを言わない。みんな、私を安心させる言葉だけを選ぶ」
「安心は、与えられません」
ノアは言った。
「ですが、噓は、つきません」
エヴリンの表情が、わずかに緩んだ。それは、笑顔ではなかったが、警戒が少し薄れた表情だった。
「あなたが、私の縁談を止められないのなら」
彼女は言った。
「せめて、私に、何が起きているのかだけは、教えて。誰かの都合のいい言葉ではなく」
「それは、約束します」
エヴリンは、頷いた。それから、ふと、視線をノアの後ろに向けた。
「父が呼んでいる。行かないと」
彼女は、足早に去っていった。
◆◆◆
その去り際、ノアは、彼女が一瞬、何かを言いかけて、止めたことに気づいた。
言葉にされなかった何か。
彼は、それを問い直す機会を、すでに失っていた。
◆◆◆
館に戻ったノアは、執事から、新たな知らせを受け取った。
「公爵様からの伝言だ」
執事は言った。
「お前の今日の働きを、高く評価している、と。そして――」
「それと」
「デュヴァル伯爵領の財政再建案が、評議会で承認される見込みだ、と。レジナルド家の縁談話は、これにより、立ち消えになる可能性が高い、と」
ノアの胸の中に、安堵に近い感情が広がった。エヴリンが、政治の駆け引きの材料にされる未来が、遠ざかったかもしれない。
だが、その安堵は、長くは続かなかった。
執事は、もう一枚の書状を差し出した。
「これも、公爵様からだ。お前個人への、私信だと言っていた」
ノアは、その書状を受け取り、封を開けた。
短い一文だけが、書かれていた。
『お前の母、イゾルドの協力者の名を、私は知っている。次に会うときに、話そう』
ノアの手が、わずかに震えた。
評議会の票は、今日、確かに動いた。彼の言葉が、初めて、貴族たちの議論そのものを変えた。
だが、その勝利の直後に届いたこの一文が、すべての安堵を、もう一度、不安定なものに変えていた。
ヴァンサン公爵は、母の協力者の正体を知っている。
マリアンヌが、まだ話せないと言ったその名前を、公爵は、すでに知っている。
なぜ、公爵がそれを知っているのか。そして、なぜ、今、それをノアに話そうとしているのか。
その理由が、何であれ――次に公爵と会う日、ノアは、自分の武器の出どころそのものと、初めて正面から向き合うことになる。
窓の外、夕暮れの薄い光が、すでに夜の色に変わり始めていた。
彼は、書状を握りしめたまま、しばらく、動けなかった。