祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
次にヴァンサン公爵家から呼び出しがあったのは、三日後だった。
今回は、館への使者ではなく、公爵家の屋敷へ直接来るようにという指示だった。ノアにとって、初めての訪問になる。
◆◆◆
ヴァンサン公爵家の屋敷は、王城に次ぐ規模を持っていた。庭には手入れの行き届いた薔薇が並び、回廊の壁には、歴代の公爵の肖像画が連なっている。
ノアは、執事に案内され、書斎に入った。
公爵は、机に向かい、書類に目を通していた。ノアが入ってきても、すぐには顔を上げなかった。
「座れ」
ノアは、勧められた椅子に座った。机の向こうの公爵は、しばらく書類を読み続けていたが、やがてペンを置いた。
「先日の会議では、よくやった」公爵は言った。
「お前の案で、評議会は荒れずに済んだ」
「お役に立てたなら、幸いです」
「だが、今日、お前を呼んだのは、その褒賞のためではない」
公爵は、ノアの目をまっすぐに見た。
「お前の母、イゾルドの協力者の名を、教えると言った」
ノアの背筋が、自然と強くなった。
「お聞きしたいです」
公爵は、しばらく、ノアの表情を観察していた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「ヴェルナー・ロス」
その名前を、ノアは知らなかった。だが、姓には聞き覚えがあった。
「ロス――マリアンヌ・ロスと、関係が」
「父娘だ」
公爵は言った。
「ヴェルナー・ロスは、かつて、王家直属の諜報を担っていた家の長だった。爵位は、今は剥奪されている」
ノアは、自分の中で、いくつもの点が繋がっていくのを感じた。マリアンヌが、なぜ自分の動きをすべて把握していたのか。彼女の家が、なぜ、まだ諜報の習性を持っているのか。すべてに、説明がついた。
「ヴェルナー・ロスは、今、どこに」
「行方不明だ」
公爵は言った。
「正確には、十年ほど前から、誰も彼の姿を見ていない」
「死んでいるのですか」
「断言はできない」
公爵は、ペンを指先で回した。
「だが、私の知る限り、彼は、内乱の終結直後、王家に対して大きな貢献をした。情報戦の面で、彼の手腕がなければ、評議会承認制という制度そのものが、もっと混乱したまま定着していたかもしれない」
ノアは、その言葉の重さを噛み砕いた。
評議会承認制という、今、自分が動かそうとしている制度そのものの成立に、ヴェルナー・ロスという人物が、深く関わっていた。そして、その人物が、母イゾルドに、評議会の仕組みを教えた。
「では、私が今、母上から教わった三つの名前――その知識の根は、すべて、ロス家にあるということですか」
「おそらく、そうだ」
公爵は言った。
「ヴェルナー・ロスは、評議会という制度を、誰よりも深く理解していた男だった。彼が、当時、まだ宮廷で輝いていたイゾルド殿に、その知識を伝えた理由は、私には分からない」
ノアは、しばらく、言葉を発せなかった。
彼が握ってきた武器――「相手の恐怖を読む」という技術と、「評議会を堕とす」という戦略の根は、母自身の観察から生まれたものではなかった。すでに行方不明になった、一人の諜報家の知識が、母を経由して、自分にまで渡ってきた。
「公爵様」
ノアは、ようやく口を開いた。
「なぜ、これを、私に教えてくださるのですか」
ヴァンサン公爵は、わずかに微笑んだ。それは、これまでノアが見てきた中で、最も読みにくい笑みだった。
「お前が、これから評議会の中で、より大きく動くことになるなら」
公爵は言った。
「自分の武器の出どころを知らないまま動くことは、危険だ。それは、お前自身のためでもあり――私のためでもある」
「あなたのため、とは」
「私は、お前を、駒として使っている」
公爵は、率直に認めた。
「駒の出どころが分からなければ、いつか、私自身が、その駒に裏切られるかもしれない」
ノアは、その言葉に、奇妙な納得を覚えた。公爵が見せる親切さの裏には、常に、彼自身の計算があった。それは、もう驚くべきことではなかった。
◆◆◆
屋敷を出たノアは、王都の通りを、しばらく無言で歩いた。
ヴェルナー・ロス。行方不明。だが、生きているとマリアンヌは言った。
彼は、マリアンヌの言葉を思い出していた。
『生きている。そして、まだ、動いている』
もし、ヴェルナー・ロスが、まだ動いているのなら――その動きは、今、誰のために、何のために行われているのか。
母のためか。あるいは、まったく別の目的のためか。
ノアは、足を止め、空を見上げた。雲が薄く、その向こうに、淡い陽光が透けて見える。霧でも、夕暮れの橙でもない、どこか中立な光だった。
◆◆◆
館に戻る前に、ノアは、デュヴァル伯爵家の近くを通る用事があった。財政再建案の進行について、執事への報告書を届ける役目を任されていたためだ。
屋敷の門の前で、彼は、エヴリンに出会った。彼女は、庭の手入れを見ているところだった。
「ノア」
彼女は、ノアを見て、少し驚いた様子を見せた。
「また、来てくれたのね」
「報告書を届けに来ました。財政再建案について」
「ありがとう」
エヴリンは、報告書を受け取り、それから、少し躊躇うような表情を見せた。
「先日、王城で」
彼女は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私、何かを言いかけて、止めたわよね」
ノアは、その瞬間を覚えていた。
「はい」
「あれは」
エヴリンは、目を伏せた。
「父が呼んでいたから、止めたんじゃない。本当は――言うのが怖かったから」
ノアは、何も言わず、彼女の言葉を待った。
「私は」
エヴリンは、ようやく顔を上げた。
「あなたに、頼っていいのか、わからなかった。あなたは、評議会の駆け引きの中で動いている人。私を助ける理由なんて、本当はないはずなのに」
「理由は、必要ですか」
「普通は、必要よ」
エヴリンの声に、わずかな震えがあった。
「誰かが、何の見返りもなく、誰かを助けることはない。父も、レジナルド家の人たちも、私の周りの誰もが、何かの計算の上で、私に親切にする」
「私も、計算をしています」
ノアは、正直に言った。
「公爵様の駒として動いている以上、あなたの縁談が立ち消えになることは、私の立場にとっても、悪くない結果です」
エヴリンは、わずかに目を見開いた。
「だが」
ノアは続けた。
「それだけではありません。今、あなたに、何を言うべきか考えるとき、私は、計算より先に、別の何かを感じています」
「別の何か、とは」
ノアは、その問いに、すぐには答えられなかった。彼自身、その感情の名前を、まだ知らなかった。
「わかりません」
彼は、正直に言った。
「でも、それが、計算でないことは、わかります」
エヴリンは、しばらく、ノアを見つめていた。それから、小さく、本当に小さく、笑った。
「変わった人ね、本当に」
「よく言われます」
「今度も、同じ答えね」
二人の間に、初めて、軽さのある沈黙が流れた。
◆◆◆
その夜、館に戻ったノアは、自室で、今日聞いた名前を、何度も口の中で繰り返した。
ヴェルナー・ロス。
マリアンヌの父。母に評議会の知識を与えた、行方不明の諜報家。
そして、まだ、動いているという男。
ノアは、窓の外を見た。雲の薄い夜空に、いくつかの星が見えていた。霧も、夕暮れも、今夜は、その姿を見せていない。
次に彼が動くべき方向が、初めて、はっきりと見えてきた。
ヴェルナー・ロスを探すこと。
それが、母の正体を知るための、唯一の道だった。
だが、その道の先に、何が待っているのか――今のノアには、まだ、何一つ見えていなかった。
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