祝福されない赤子として生まれました   作:What's 船長

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第7話

 ヴェルナー・ロスを探すという目的は、思っていたよりも早く、壁にぶつかった。

 

 行方不明になった人物の足跡は、王都のどこにも残っていなかった。ノアは、図書室の記録、館の使用人たちの噂、商人ガロドからの伝聞――手に入る限りの情報を集めたが、ヴェルナー・ロスという名前は、十年前の記録を境に、ぱたりと消えていた。

 

 唯一の手がかりは、軍だった。

 

 内乱の終結時、ヴェルナー・ロスが王家のために働いていたという話が本当なら、当時の軍の記録に、何かが残っているはずだった。そして、当時の軍を知る人物として、ノアの頭に浮かんだのは、一人しかいなかった。

 

 グレイヴズ将軍。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 将軍に直接会う口実を作るのは、簡単ではなかった。ノアは、ヴァンサン公爵の名を出すことも考えたが、それは、自分が公爵の駒であることを、必要以上に将軍へ知らせる行為になる。

 

 結局、ノアは、コンラート卿を通じて、別の名目で接触を試みた。先日の通行税の議題で、将軍側の利益になる提案をしたことへの礼を、直接伝えたい――という、もっとも自然な理由だった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 グレイヴズ将軍は、軍事区の奥にある、簡素な執務室にいた。

 

 壁には、戦の地図が何枚も貼られている。机の上には、剣の手入れ道具が、整然と並んでいた。

 

 将軍は、ノアが入ってきても、椅子から立たなかった。彼の目は、ノアを一瞬見ただけで、それ以上の興味を見せなかった。

 

 「お前が、通行税の提案をした少年か」

 

 「ノアと申します」

 

 「礎えに来たのなら、必要ない」

 

 将軍は、淡々と言った。

 

 「あの提案は、私にとって、当然の結論だった。お前が言葉にしただけだ」

 

 ノアは、その言葉の冷たさに、内心、わずかな戸惑いを覚えた。これまで、彼の言葉は、相手の中の何かを動かしてきた。だが、グレイヴズ将軍は、まるで、最初から動かないと決めているかのようだった。

 

 「将軍」

 

 ノアは、本来の目的に踏み込んだ。

 

 「私は、十年ほど前、王家のために働いていたという、ある人物について、お聞きしたいことがあります」

 

 「誰のことだ」

 

 「ヴェルナー・ロスです」

 

 将軍の表情に、わずかな変化が起きた。それは、驚きではなく、嫌悪に近い色だった。

 

 「その名を、どこで聞いた」

 

 「ヴァンサン公爵様からです」

 

 将軍は、しばらく無言だった。それから、低く言った。

 

 「ロスのことは、話したくない」

 

 「なぜですか」

 

 「お前に、答える義理はない」

 

 ノアは、ここで、いつもの手法を試みた。相手の表情を読み、何を恐れているかを探る。だが、将軍の顔には、何の動揺も浮かんでいなかった。怒りでも、悲しみでもなく、ただ、固く閉ざされた拒絶だけがあった。

 

 「将軍は、ロス殿と、何かあったのですか」

 

 「やめろ」

 

 将軍の声が、初めて、わずかに強くなった。

 

 「お前のような子供が、軽々しく踏み込むべき話ではない」

 

 ノアは、その言葉に、一瞬、引き下がるべきか考えた。だが、ここで引けば、ヴェルナー・ロスへの手がかりが、完全に途切れる。

 

 「将軍」

 

 彼は、踏み込んだ。

 

 「あなたは、内乱の中で、二度、主君を失ったと聞きました。もし、ロス殿が、その内乱に関わっていたのなら――」

 

 「黙れ」

 

 将軍の一言が、部屋の空気を切った。彼の目に、初めて、はっきりとした感情が浮かんだ。それは、ノアがこれまで誰の中にも見たことのない、激しい怒りだった。

 

 「お前は、知ったような口を利く」

 

 将軍は、立ち上がった。長身の体が、ノアを見下ろす形になった。

 

 「内乱で、何人の兵が死んだか、お前は数えたことがあるか。ロスが、情報戦と称して、何人を、駒として使い捨てたか、お前は知っているか」

 

 ノアは、答えられなかった。

 

 「お前は、人をよく見ている」

 

 将軍は、低く、しかし、はっきりと言った。

 

 「だが、見ているだけだ。お前の言葉は、人を動かすだろう。だが、それは、兵を死地に送るのも、上手いということだ」

 

 その一言が、ノアの胸に深く刺さった。

 

 彼は、これまで、自分の言葉を、誰かを救うための武器だと思っていた。あるいは、少なくとも、誰も傷つけない武器だと、そう思っていた。

 

 「私は」

 

 ノアは、声を絞り出した。

 

 「誰かを、死地に送ろうとしているわけでは」

 

 「お前に、その意図がなくても」

 

 将軍は言った。

 

 「お前の言葉が、誰かにとって、武器として使われる日が来る。ロスも、最初は、そう言っていた」

 

 ノアは、その名前が、再び出てきたことに、わずかな緊張を覚えた。

 

 「ロス殿は、何と言っていたのですか」

 

 将軍は、ノアの問いに、答えなかった。彼は、ただ、ノアを見据えたまま、低く言った。

 

 「帰れ」

 

 「将軍、私は――」

 

 「帰れと言った」

 

 その声には、これ以上の問いを許さない、確かな重さがあった。ノアは、頭を下げ、執務室を出るしかなかった。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 軍事区を出たノアは、王都の通りを、しばらく無言で歩いた。

 

 彼は、これまで、評議会の三人――ヴァンサン、ベネディクト、グレイヴズ――の恐怖を、母の教えを基に、自分の観察で組み立ててきた。グレイヴズは、戦を恐れる男だと、彼は理解していたつもりだった。

 

 だが、今日の対話は、その理解の浅さを、痛烈に示した。

 

 将軍が恐れているのは、戦そのものではない。彼が本当に恐れているのは、誰かの言葉によって、また誰かが死地に送られることだった。そして、その恐怖の根には、ヴェルナー・ロスという人物の影が、深く刻まれていた。

 

 ノアは、足を止めた。

 

 恐怖を読む――それが、彼の武器だった。だが、今日、彼はその武器が通用しない相手に、初めて、正面から出会った。グレイヴズ将軍は、恐怖を隠すことに、長けすぎていた。あるいは、すでに最悪を経験し、恐怖という感情そのものが、別のものに変質してしまっていた。

 

 怒りに。

 

 あるいは、拒絶に。

 

 ノアは、自分のノートを取り出すことなく、ただ、その事実を、記憶の中に刻みつけた。

 

 『読めない人間がいる。読めないのではなく、恐怖の形が、すでに別のものに変わっている人間がいる』

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 館に戻ったノアは、自室の窓辺に立った。

 

 今日、彼は、初めて、明確に負けた。説得もできず、情報も得られず、ただ、相手の怒りに突き返された。これまでの勝利が、彼の中で、わずかに過信を生んでいたのかもしれない。

 

 彼は、自分の手を見た。

 

 言葉は、剣よりも重い、と母は言った。だが、今日のグレイヴズ将軍は、その言葉を、まるで意味のないものとして退けた。

 

 もし、評議会のすべての人間が、グレイヴズ将軍と同じように、恐怖を別のものに変質させているのだとしたら――彼の武器は、いつか、すべての場面で、力を失うかもしれない。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 その夜、執事が、ノアの部屋を訪れた。

 

 「お前に、客が来ている」

 

 執事は、いつもより低い声で言った。

 

 「マリアンヌ・ロスと名乗る娘だ」

 

 ノアの背筋が、強く張った。

 

 「ここに、彼女が」

 

 「館の外で、待っている」執事は言った。

 

 「公の場では、会いたくないと言っていた」

 

 ノアは、すぐに外套を取り、館の裏口へ向かった。

 

 夜の闇の中、フードを被ったマリアンヌが、壁際に立っていた。彼女の表情には、これまでとは違う、ある種の緊迫感があった。

 

 「父のことを、知ったのね」

 

 彼女は、前置きもなく言った。

 

 「ヴァンサン公爵様から、名前を聞きました」

 

 「グレイヴズ将軍にも、会いに行ったでしょう」

 

 ノアは、驚きを隠せなかった。

 

 「なぜ、それを」

 

 「言ったでしょう。私の家は――」

 

 「諜報の習性が、残っている」

 

 ノアは、その言葉を、先に口にした。

 

 「もう、何度も聞きました」

 

 マリアンヌは、わずかに笑った。それから、表情を硬くした。

 

 「将軍が、あなたに何を言ったか、私には分かる」

 

 彼女は言った。

 

 「ロスが、人を駒として使い捨てた、と」

 

 「本当のことですか」

 

 マリアンヌは、すぐには答えなかった。彼女の目に、深い、暗い色が浮かんでいる。

 

 「半分は」

 

 彼女は、ようやく言った。

 

 「半分は、本当よ」

 

 「もう半分は」

 

 マリアンヌは、夜空を見上げた。雲の切れ間から、星がいくつか見えていた。

 

 「もう半分は、私がいつかあなたに話すわ」

 

 彼女は言った。

 

 「でも今夜私が来た理由は、それじゃない」

 

 「では、何のために」

 

 マリアンヌは、再び、ノアに視線を戻した。その目には、これまでにない、強い焦りがあった。

 

 「父が見つかった」

 

 ノアの心臓が、強く打った。

 

 「どこに」

 

 「言えない」

 

 マリアンヌは、首を振った。

 

 「ただ、一つだけ、伝えに来た。父は、もう長くない。そして、父が死ぬ前に――あなたに、会いたいと言っている」

 

 夜の風が、二人の間を、冷たく吹き抜けた。

 

 ノアは、その言葉の重みを、すぐには受け止めきれなかった。

 

 行方不明だったヴェルナー・ロス。母に評議会の知識を与え、グレイヴズ将軍に深い傷を残した男。その男が、見つかり、しかも、死を前にして、ノアに会いたいと言っている。

 

 「いつ、会えるのですか」

 

 マリアンヌは、答える前に、もう一度、周囲を確認した。

 

 「三日後」

 

 彼女は、低く言った。

 

 「場所は、その時に知らせる。一人で来て。誰にも――公爵にも、母上にも、知らせずに」

 

 彼女は、それだけ言うと、夜の闇の中へ、足早に消えていった。

 

 ノアは、その場に立ち尽くした。

 

 三日後。彼は、ついに、自分の武器の本当の根――母にすべてを教えた男と、対面することになる。

 

 その対面が、答えをもたらすのか、それとも、新しい、もっと深い闇をもたらすのか――今のノアには、何一つ、見通せなかった。

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