祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
ヴェルナー・ロスを探すという目的は、思っていたよりも早く、壁にぶつかった。
行方不明になった人物の足跡は、王都のどこにも残っていなかった。ノアは、図書室の記録、館の使用人たちの噂、商人ガロドからの伝聞――手に入る限りの情報を集めたが、ヴェルナー・ロスという名前は、十年前の記録を境に、ぱたりと消えていた。
唯一の手がかりは、軍だった。
内乱の終結時、ヴェルナー・ロスが王家のために働いていたという話が本当なら、当時の軍の記録に、何かが残っているはずだった。そして、当時の軍を知る人物として、ノアの頭に浮かんだのは、一人しかいなかった。
グレイヴズ将軍。
◆◆◆
将軍に直接会う口実を作るのは、簡単ではなかった。ノアは、ヴァンサン公爵の名を出すことも考えたが、それは、自分が公爵の駒であることを、必要以上に将軍へ知らせる行為になる。
結局、ノアは、コンラート卿を通じて、別の名目で接触を試みた。先日の通行税の議題で、将軍側の利益になる提案をしたことへの礼を、直接伝えたい――という、もっとも自然な理由だった。
◆◆◆
グレイヴズ将軍は、軍事区の奥にある、簡素な執務室にいた。
壁には、戦の地図が何枚も貼られている。机の上には、剣の手入れ道具が、整然と並んでいた。
将軍は、ノアが入ってきても、椅子から立たなかった。彼の目は、ノアを一瞬見ただけで、それ以上の興味を見せなかった。
「お前が、通行税の提案をした少年か」
「ノアと申します」
「礎えに来たのなら、必要ない」
将軍は、淡々と言った。
「あの提案は、私にとって、当然の結論だった。お前が言葉にしただけだ」
ノアは、その言葉の冷たさに、内心、わずかな戸惑いを覚えた。これまで、彼の言葉は、相手の中の何かを動かしてきた。だが、グレイヴズ将軍は、まるで、最初から動かないと決めているかのようだった。
「将軍」
ノアは、本来の目的に踏み込んだ。
「私は、十年ほど前、王家のために働いていたという、ある人物について、お聞きしたいことがあります」
「誰のことだ」
「ヴェルナー・ロスです」
将軍の表情に、わずかな変化が起きた。それは、驚きではなく、嫌悪に近い色だった。
「その名を、どこで聞いた」
「ヴァンサン公爵様からです」
将軍は、しばらく無言だった。それから、低く言った。
「ロスのことは、話したくない」
「なぜですか」
「お前に、答える義理はない」
ノアは、ここで、いつもの手法を試みた。相手の表情を読み、何を恐れているかを探る。だが、将軍の顔には、何の動揺も浮かんでいなかった。怒りでも、悲しみでもなく、ただ、固く閉ざされた拒絶だけがあった。
「将軍は、ロス殿と、何かあったのですか」
「やめろ」
将軍の声が、初めて、わずかに強くなった。
「お前のような子供が、軽々しく踏み込むべき話ではない」
ノアは、その言葉に、一瞬、引き下がるべきか考えた。だが、ここで引けば、ヴェルナー・ロスへの手がかりが、完全に途切れる。
「将軍」
彼は、踏み込んだ。
「あなたは、内乱の中で、二度、主君を失ったと聞きました。もし、ロス殿が、その内乱に関わっていたのなら――」
「黙れ」
将軍の一言が、部屋の空気を切った。彼の目に、初めて、はっきりとした感情が浮かんだ。それは、ノアがこれまで誰の中にも見たことのない、激しい怒りだった。
「お前は、知ったような口を利く」
将軍は、立ち上がった。長身の体が、ノアを見下ろす形になった。
「内乱で、何人の兵が死んだか、お前は数えたことがあるか。ロスが、情報戦と称して、何人を、駒として使い捨てたか、お前は知っているか」
ノアは、答えられなかった。
「お前は、人をよく見ている」
将軍は、低く、しかし、はっきりと言った。
「だが、見ているだけだ。お前の言葉は、人を動かすだろう。だが、それは、兵を死地に送るのも、上手いということだ」
その一言が、ノアの胸に深く刺さった。
彼は、これまで、自分の言葉を、誰かを救うための武器だと思っていた。あるいは、少なくとも、誰も傷つけない武器だと、そう思っていた。
「私は」
ノアは、声を絞り出した。
「誰かを、死地に送ろうとしているわけでは」
「お前に、その意図がなくても」
将軍は言った。
「お前の言葉が、誰かにとって、武器として使われる日が来る。ロスも、最初は、そう言っていた」
ノアは、その名前が、再び出てきたことに、わずかな緊張を覚えた。
「ロス殿は、何と言っていたのですか」
将軍は、ノアの問いに、答えなかった。彼は、ただ、ノアを見据えたまま、低く言った。
「帰れ」
「将軍、私は――」
「帰れと言った」
その声には、これ以上の問いを許さない、確かな重さがあった。ノアは、頭を下げ、執務室を出るしかなかった。
◆◆◆
軍事区を出たノアは、王都の通りを、しばらく無言で歩いた。
彼は、これまで、評議会の三人――ヴァンサン、ベネディクト、グレイヴズ――の恐怖を、母の教えを基に、自分の観察で組み立ててきた。グレイヴズは、戦を恐れる男だと、彼は理解していたつもりだった。
だが、今日の対話は、その理解の浅さを、痛烈に示した。
将軍が恐れているのは、戦そのものではない。彼が本当に恐れているのは、誰かの言葉によって、また誰かが死地に送られることだった。そして、その恐怖の根には、ヴェルナー・ロスという人物の影が、深く刻まれていた。
ノアは、足を止めた。
恐怖を読む――それが、彼の武器だった。だが、今日、彼はその武器が通用しない相手に、初めて、正面から出会った。グレイヴズ将軍は、恐怖を隠すことに、長けすぎていた。あるいは、すでに最悪を経験し、恐怖という感情そのものが、別のものに変質してしまっていた。
怒りに。
あるいは、拒絶に。
ノアは、自分のノートを取り出すことなく、ただ、その事実を、記憶の中に刻みつけた。
『読めない人間がいる。読めないのではなく、恐怖の形が、すでに別のものに変わっている人間がいる』
◆◆◆
館に戻ったノアは、自室の窓辺に立った。
今日、彼は、初めて、明確に負けた。説得もできず、情報も得られず、ただ、相手の怒りに突き返された。これまでの勝利が、彼の中で、わずかに過信を生んでいたのかもしれない。
彼は、自分の手を見た。
言葉は、剣よりも重い、と母は言った。だが、今日のグレイヴズ将軍は、その言葉を、まるで意味のないものとして退けた。
もし、評議会のすべての人間が、グレイヴズ将軍と同じように、恐怖を別のものに変質させているのだとしたら――彼の武器は、いつか、すべての場面で、力を失うかもしれない。
◆◆◆
その夜、執事が、ノアの部屋を訪れた。
「お前に、客が来ている」
執事は、いつもより低い声で言った。
「マリアンヌ・ロスと名乗る娘だ」
ノアの背筋が、強く張った。
「ここに、彼女が」
「館の外で、待っている」執事は言った。
「公の場では、会いたくないと言っていた」
ノアは、すぐに外套を取り、館の裏口へ向かった。
夜の闇の中、フードを被ったマリアンヌが、壁際に立っていた。彼女の表情には、これまでとは違う、ある種の緊迫感があった。
「父のことを、知ったのね」
彼女は、前置きもなく言った。
「ヴァンサン公爵様から、名前を聞きました」
「グレイヴズ将軍にも、会いに行ったでしょう」
ノアは、驚きを隠せなかった。
「なぜ、それを」
「言ったでしょう。私の家は――」
「諜報の習性が、残っている」
ノアは、その言葉を、先に口にした。
「もう、何度も聞きました」
マリアンヌは、わずかに笑った。それから、表情を硬くした。
「将軍が、あなたに何を言ったか、私には分かる」
彼女は言った。
「ロスが、人を駒として使い捨てた、と」
「本当のことですか」
マリアンヌは、すぐには答えなかった。彼女の目に、深い、暗い色が浮かんでいる。
「半分は」
彼女は、ようやく言った。
「半分は、本当よ」
「もう半分は」
マリアンヌは、夜空を見上げた。雲の切れ間から、星がいくつか見えていた。
「もう半分は、私がいつかあなたに話すわ」
彼女は言った。
「でも今夜私が来た理由は、それじゃない」
「では、何のために」
マリアンヌは、再び、ノアに視線を戻した。その目には、これまでにない、強い焦りがあった。
「父が見つかった」
ノアの心臓が、強く打った。
「どこに」
「言えない」
マリアンヌは、首を振った。
「ただ、一つだけ、伝えに来た。父は、もう長くない。そして、父が死ぬ前に――あなたに、会いたいと言っている」
夜の風が、二人の間を、冷たく吹き抜けた。
ノアは、その言葉の重みを、すぐには受け止めきれなかった。
行方不明だったヴェルナー・ロス。母に評議会の知識を与え、グレイヴズ将軍に深い傷を残した男。その男が、見つかり、しかも、死を前にして、ノアに会いたいと言っている。
「いつ、会えるのですか」
マリアンヌは、答える前に、もう一度、周囲を確認した。
「三日後」
彼女は、低く言った。
「場所は、その時に知らせる。一人で来て。誰にも――公爵にも、母上にも、知らせずに」
彼女は、それだけ言うと、夜の闇の中へ、足早に消えていった。
ノアは、その場に立ち尽くした。
三日後。彼は、ついに、自分の武器の本当の根――母にすべてを教えた男と、対面することになる。
その対面が、答えをもたらすのか、それとも、新しい、もっと深い闇をもたらすのか――今のノアには、何一つ、見通せなかった。