祝福されない赤子として生まれました 作:What's 船長
約束の三日後、マリアンヌから届いた指示は、たった一行だった。
『夜明け前、旧市街の裏通り。灯りのない扉を探せ』
ノアは、誰にも告げずに館を出た。母にも、ヴァンサン公爵にも、エヴリンにも。マリアンヌの指示を、今回だけは、そのまま守った。
◆◆◆
旧市街は、王都の中でも最も古い区画だった。石畳はひび割れ、建物の多くは、すでに人が住まなくなっている。
夜明け前の闇の中、ノアは、指示された裏通りを歩いた。灯りは、どこにもない。
やがて、一枚の扉が見えた。木製の、古びた扉。灯りがないという条件に、確かに一致していた。
ノアは、扉を叩いた。
二度。少し間を空けて、もう一度。
中から、かすかな物音がした。やがて、扉が、音もなく開いた。
「時間通りね」
マリアンヌだった。彼女は、ノアを中に招き入れ、すぐに扉を閉めた。
室内は、蝋燭の灯りだけが頼りだった。狭い部屋の奥、粗末な寝台の上に、一人の老人が横たわっていた。
「父よ」
マリアンヌの声が、初めて硬さを失った。
ノアは寝台に近づいた。老人の顔は深い皺に覆われ、頬はこけている。だが、その目だけは、驚くほど鋭い光を保っていた。
「お前が、イゾルドの息子か」
声は掠れていたが、はっきりしていた。
「はい」
「ノア、と名付けられたと聞いた」
老人――ヴェルナー・ロスは、ゆっくりと体を起こそうとした。マリアンヌが慌てて助けに動いたが、彼はそれを手で制した。
「大丈夫だ」
彼は寝台の縁に、なんとか座った。
「話す時間くらいは、まだ残っている」
◆◆◆
「聞きたいことが、山ほどあるだろうな」
ヴェルナーは、ノアを見据えた。
「だが時間は多くない。核心だけを話す」
ノアは頷いた。
「私は、内乱の頃、王家の情報戦を担っていた」
ヴェルナーは、淡々と語り始めた。
「評議会承認制という制度――これを、最初に考案したのは私だ」
ノアの息が、一瞬、止まった。
「制度そのものを、あなたが」
「ヴァンサン公爵の祖父にあたる人物と、共に作った」
ヴェルナーは続けた。
「武力による継承を禁じ、三つの長による承認を必須とする。この仕組みがなければ、内乱はもっと長引き、もっと多くの血が流れていた」
ノアは、その事実の重さを、ゆっくりと飲み込んだ。今、自分が動かそうとしている評議会という盤面そのものが、目の前の老人の設計だった。
「グレイヴズ将軍は」
ノアは、慎重に踏み込んだ。
「あなたの名を聞いて、強い怒りを見せました」
ヴェルナーの表情に、初めて影が差した。
「当然だ」
彼は低く言った。
「情報戦とは、綺麗事ではない。私は、内乱を早く終わらせるために、多くの兵を、駒として動かした。グレイヴズが仕えていた王子側の兵も、その中に含まれていた」
「彼らを、見捨てたのですか」
「見捨てたのではない」
ヴェルナーの声に、初めて強さが戻った。
「戦局を変えるためには、犠牲になる部隊が必要だった。グレイヴズの部隊は、その役目を負わされた。私が、その配置を決めた」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
「グレイヴズは生き残った。だが、彼が最も信頼していた戦友たちは、その配置の中で死んだ」
ヴェルナーは目を伏せた。
「彼が私を憎むのは当然だ。私は、正しいことをしたと今でも思っている。だが、正しさは誰かの痛みを消しはしない」
ノアは、その言葉を静かに受け止めた。
母が言っていた「愛と利用の区別がつかなくなった」という告白と、この老人の言葉が、どこかで重なっているように感じられた。人を動かす者は、いつか、自分の正しさと、誰かの痛みの間で、答えの出ない場所に立たされる。
◆◆◆
「イゾルド殿のことを、聞きたいのだろう」
ヴェルナーは、話題を変えた。
「彼女は、王の寵姫だった頃、私に接触してきた。宮廷の力学を、誰よりも正確に理解したいと望んでいた」
「なぜ、あなたは教えたのですか」
「彼女には才があった」
ヴェルナーは迷いなく言った。
「観察力、記憶力、そして――何より、人の恐怖を読む勘。教えるに値する相手だった」
「それだけですか」
ノアは踏み込んだ。
「あなたは、彼女を通じて、何かを企んでいたのではありませんか」
ヴェルナーの目が、鋭くノアを捉えた。
「鋭いな」
彼はわずかに笑った。
「イゾルド殿が失脚したとき、私は彼女に一つの提案をした。息子を育て、いつか評議会を動かせる人材にすること」
彼は、一度、言葉を切った。
「それは私にとって――評議会承認制という、自分が作った仕組みが、正しく機能し続けるための、保険だった」
「保険、とは」
「大貴族の血だけで、評議会が固定されれば、いつか腐る」
ヴェルナーは言った。
「庶子であっても、才があれば評議会を動かせる。その前例を作ることが、制度そのものを健全に保つ」
ノアは、言葉を失った。
自分の存在そのものが、母の復讐という個人的な動機と、目の前の老人の、制度への信念という、二つの異なる思惑の交差点にあった。
「私は」
ノアは、ようやく声を出した。
「誰かの計画の駒として、生まれてきたということですか」
ヴェルナーは、しばらくノアを見つめた。
「駒として、始まったのは事実だ」
彼は静かに言った。
「だが、駒がいつまで駒でいるかは、駒自身が決めることだ。私は、そう信じている」
その言葉は、母がかつて見せた躊躇いとは、まったく違う重みを持っていた。母は、答えを隠した。この老人は、答えを、正面から渡した。
◆◆◆
突然、部屋の外で、物音がした。
マリアンヌが、すぐに反応した。
「誰か来る」
彼女は蝋燭を消し、扉に近づいた。
外から、複数の足音が聞こえてくる。組織立った、統率された足音だった。
「軍の者だ」
ヴェルナーが低く呟いた。
「グレイヴズが、動いたか」
マリアンヌの顔が、蒼白になった。
「父を、見つけたの」
「逃げる時間は、もうない」
ヴェルナーは、驚くほど冷静だった。
「ノア。最後に、一つだけ伝える」
彼は、ノアの目を、まっすぐに見た。
「私を憎むグレイヴズを、いつか、お前が動かす日が来る」
ノアの心臓が、強く打った。
「どういう意味ですか」
「彼の恐怖の根には、私がいる」
ヴェルナーは、扉の外の足音が確実に近づいてくる中、急ぎながら言葉を継いだ。
「私を憎むことでしか、彼は、自分の生き残りに意味を持たせられなかった。その憎しみを、お前がどう扱うか――それが、お前の武器の、本当の試練になる」
扉が、外から激しく叩かれた。
「開けろ! 軍の命令だ!」
ヴェルナーは、ノアの肩を、痩せた手で掴んだ。
「行け。裏に、もう一つ扉がある」
「あなたは」
「私は、もう長くない。ここで、終わりでいい」
その目に、後悔はなかった。ただ、静かな覚悟だけがあった。
マリアンヌが、ノアの腕を強く引いた。
「今しかない」
二人は、部屋の奥、隠された扉から、外へ滑り出た。
背後で、表の扉が、激しい音を立てて破られる音がした。
◆◆◆
旧市街の路地を、二人は無言で走った。夜明けの薄明かりが、ようやく空の端を白ませ始めていた。
十分ほど走ったところで、マリアンヌが、ようやく足を止めた。
「もう、大丈夫」
彼女は息を切らしながら言った。
ノアは振り返った。旧市街の方角から、まだかすかな喧騒が聞こえてくる。
「あなたの父は」
「連れて行かれる」
マリアンヌの声は震えていた。
「でも、殺されはしない。グレイヴズは、私怨で人を殺す男じゃない。尋問はされるでしょうけど」
ノアは、何も言えなかった。彼が母から復讐の道具として育てられたように、マリアンヌもまた、父という存在の重さを、一人で背負っている。
「あなたの父は」
ノアは、ようやく口を開いた。
「最後に、グレイヴズ将軍のことを話しました。彼の恐怖の根に、あなたの父がいると」
マリアンヌは、しばらく黙っていた。
「知ってる」
彼女は、静かに言った。
「父は、ずっと、そのことを気にしていた。自分が作った制度は正しい。でも、その制度のために、誰かの人生を壊したことも、正しい」
「矛盾していませんか」
「矛盾してる」
マリアンヌは、初めて、力なく笑った。
「でも、それが、父という人だった」
彼女は、夜明けの空を見上げた。
「今日は、これで。父のことを、追わなければならない」
「待ってください」
「また、連絡する」
彼女は、それだけ言うと、路地の向こうへ姿を消した。
◆◆◆
館に戻ったノアは、朝の光の中で、自分の部屋の窓辺に立った。
ヴェルナー・ロス。評議会承認制の考案者であり、母に知識を与えた男。彼の話は、ノアの中の、いくつもの疑問に答えを与えた。
自分は、母の復讐の道具として生まれた。同時に、一人の老人が信じた、評議会という制度を健全に保つための保険としても、生まれた。
二つの目的は、重なりながらも、決して同じではなかった。
母は、息子の勝利だけを見ている。ヴェルナーは、制度そのものの正しさを見ていた。ノア自身は、そのどちらでもない場所に、まだ立てていない。
彼は、窓の外を見た。朝の光が、王都の屋根を静かに照らし始めていた。霧は、もう、どこにもなかった。
グレイヴズ将軍に、いつか自分がどう向き合うのか――ヴェルナーが最後に残した言葉の意味を、ノアは、まだ完全には掴めていなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
武器の出どころを知った今、彼は、これまでと同じ手つきで、その武器を振るうことはできない。
誰かの正しさのために動くのか。
それとも、自分自身の答えを、一から探すのか。
窓辺に立ったまま、ノアは、久しく忘れていた誰かの顔を、ふと思い出した。
デュヴァル家の庭で、雨上がりの空を見上げていた、あの少女の横顔だった。
彼女に、まだ何も伝えられていない。
そのことに、彼は今、初めて気づいた。