祝福されない赤子として生まれました   作:What's 船長

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第9話

 約束の三日後、マリアンヌから届いた指示は、たった一行だった。

 

 『夜明け前、旧市街の裏通り。灯りのない扉を探せ』

 

 ノアは、誰にも告げずに館を出た。母にも、ヴァンサン公爵にも、エヴリンにも。マリアンヌの指示を、今回だけは、そのまま守った。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 旧市街は、王都の中でも最も古い区画だった。石畳はひび割れ、建物の多くは、すでに人が住まなくなっている。

 

 夜明け前の闇の中、ノアは、指示された裏通りを歩いた。灯りは、どこにもない。

 

 やがて、一枚の扉が見えた。木製の、古びた扉。灯りがないという条件に、確かに一致していた。

 

 ノアは、扉を叩いた。

 

 二度。少し間を空けて、もう一度。

 

 中から、かすかな物音がした。やがて、扉が、音もなく開いた。

 

 「時間通りね」

 

 マリアンヌだった。彼女は、ノアを中に招き入れ、すぐに扉を閉めた。

 

 室内は、蝋燭の灯りだけが頼りだった。狭い部屋の奥、粗末な寝台の上に、一人の老人が横たわっていた。

 

 「父よ」

 

 マリアンヌの声が、初めて硬さを失った。

 

 ノアは寝台に近づいた。老人の顔は深い皺に覆われ、頬はこけている。だが、その目だけは、驚くほど鋭い光を保っていた。

 

 「お前が、イゾルドの息子か」

 

 声は掠れていたが、はっきりしていた。

 

 「はい」

 

 「ノア、と名付けられたと聞いた」

 

 老人――ヴェルナー・ロスは、ゆっくりと体を起こそうとした。マリアンヌが慌てて助けに動いたが、彼はそれを手で制した。

 

 「大丈夫だ」

 

 彼は寝台の縁に、なんとか座った。

 

 「話す時間くらいは、まだ残っている」

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 「聞きたいことが、山ほどあるだろうな」

 

 ヴェルナーは、ノアを見据えた。

 

 「だが時間は多くない。核心だけを話す」

 

 ノアは頷いた。

 

 「私は、内乱の頃、王家の情報戦を担っていた」

 

 ヴェルナーは、淡々と語り始めた。

 

 「評議会承認制という制度――これを、最初に考案したのは私だ」

 

 ノアの息が、一瞬、止まった。

 

 「制度そのものを、あなたが」

 

 「ヴァンサン公爵の祖父にあたる人物と、共に作った」

 

 ヴェルナーは続けた。

 

 「武力による継承を禁じ、三つの長による承認を必須とする。この仕組みがなければ、内乱はもっと長引き、もっと多くの血が流れていた」

 

 ノアは、その事実の重さを、ゆっくりと飲み込んだ。今、自分が動かそうとしている評議会という盤面そのものが、目の前の老人の設計だった。

 

 「グレイヴズ将軍は」

 

 ノアは、慎重に踏み込んだ。

 

 「あなたの名を聞いて、強い怒りを見せました」

 

 ヴェルナーの表情に、初めて影が差した。

 

 「当然だ」

 

 彼は低く言った。

 

 「情報戦とは、綺麗事ではない。私は、内乱を早く終わらせるために、多くの兵を、駒として動かした。グレイヴズが仕えていた王子側の兵も、その中に含まれていた」

 

 「彼らを、見捨てたのですか」

 

 「見捨てたのではない」

 

 ヴェルナーの声に、初めて強さが戻った。

 

 「戦局を変えるためには、犠牲になる部隊が必要だった。グレイヴズの部隊は、その役目を負わされた。私が、その配置を決めた」

 

 部屋の中に、重い沈黙が落ちた。

 

 「グレイヴズは生き残った。だが、彼が最も信頼していた戦友たちは、その配置の中で死んだ」

 

 ヴェルナーは目を伏せた。

 

 「彼が私を憎むのは当然だ。私は、正しいことをしたと今でも思っている。だが、正しさは誰かの痛みを消しはしない」

 

 ノアは、その言葉を静かに受け止めた。

 

 母が言っていた「愛と利用の区別がつかなくなった」という告白と、この老人の言葉が、どこかで重なっているように感じられた。人を動かす者は、いつか、自分の正しさと、誰かの痛みの間で、答えの出ない場所に立たされる。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 「イゾルド殿のことを、聞きたいのだろう」

 

 ヴェルナーは、話題を変えた。

 

 「彼女は、王の寵姫だった頃、私に接触してきた。宮廷の力学を、誰よりも正確に理解したいと望んでいた」

 

 「なぜ、あなたは教えたのですか」

 

 「彼女には才があった」

 

 ヴェルナーは迷いなく言った。

 

 「観察力、記憶力、そして――何より、人の恐怖を読む勘。教えるに値する相手だった」

 

 「それだけですか」

 

 ノアは踏み込んだ。

 

 「あなたは、彼女を通じて、何かを企んでいたのではありませんか」

 

 ヴェルナーの目が、鋭くノアを捉えた。

 

 「鋭いな」

 

 彼はわずかに笑った。

 

 「イゾルド殿が失脚したとき、私は彼女に一つの提案をした。息子を育て、いつか評議会を動かせる人材にすること」

 

 彼は、一度、言葉を切った。

 

 「それは私にとって――評議会承認制という、自分が作った仕組みが、正しく機能し続けるための、保険だった」

 

 「保険、とは」

 

 「大貴族の血だけで、評議会が固定されれば、いつか腐る」

 

 ヴェルナーは言った。

 

 「庶子であっても、才があれば評議会を動かせる。その前例を作ることが、制度そのものを健全に保つ」

 

 ノアは、言葉を失った。

 

 自分の存在そのものが、母の復讐という個人的な動機と、目の前の老人の、制度への信念という、二つの異なる思惑の交差点にあった。

 

 「私は」

 

 ノアは、ようやく声を出した。

 

 「誰かの計画の駒として、生まれてきたということですか」

 

 ヴェルナーは、しばらくノアを見つめた。

 

 「駒として、始まったのは事実だ」

 

 彼は静かに言った。

 

 「だが、駒がいつまで駒でいるかは、駒自身が決めることだ。私は、そう信じている」

 

 その言葉は、母がかつて見せた躊躇いとは、まったく違う重みを持っていた。母は、答えを隠した。この老人は、答えを、正面から渡した。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 突然、部屋の外で、物音がした。

 

 マリアンヌが、すぐに反応した。

 

 「誰か来る」

 

 彼女は蝋燭を消し、扉に近づいた。

 

 外から、複数の足音が聞こえてくる。組織立った、統率された足音だった。

 

 「軍の者だ」

 

 ヴェルナーが低く呟いた。

 

 「グレイヴズが、動いたか」

 

 マリアンヌの顔が、蒼白になった。

 

 「父を、見つけたの」

 

 「逃げる時間は、もうない」

 

 ヴェルナーは、驚くほど冷静だった。

 

 「ノア。最後に、一つだけ伝える」

 

 彼は、ノアの目を、まっすぐに見た。

 

 「私を憎むグレイヴズを、いつか、お前が動かす日が来る」

 

 ノアの心臓が、強く打った。

 

 「どういう意味ですか」

 

 「彼の恐怖の根には、私がいる」

 

 ヴェルナーは、扉の外の足音が確実に近づいてくる中、急ぎながら言葉を継いだ。

 

 「私を憎むことでしか、彼は、自分の生き残りに意味を持たせられなかった。その憎しみを、お前がどう扱うか――それが、お前の武器の、本当の試練になる」

 

 扉が、外から激しく叩かれた。

 

 「開けろ! 軍の命令だ!」

 

 ヴェルナーは、ノアの肩を、痩せた手で掴んだ。

 

 「行け。裏に、もう一つ扉がある」

 

 「あなたは」

 

 「私は、もう長くない。ここで、終わりでいい」

 

 その目に、後悔はなかった。ただ、静かな覚悟だけがあった。

 

 マリアンヌが、ノアの腕を強く引いた。

 

 「今しかない」

 

 二人は、部屋の奥、隠された扉から、外へ滑り出た。

 

 背後で、表の扉が、激しい音を立てて破られる音がした。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 旧市街の路地を、二人は無言で走った。夜明けの薄明かりが、ようやく空の端を白ませ始めていた。

 

 十分ほど走ったところで、マリアンヌが、ようやく足を止めた。

 

 「もう、大丈夫」

 

 彼女は息を切らしながら言った。

 

 ノアは振り返った。旧市街の方角から、まだかすかな喧騒が聞こえてくる。

 

 「あなたの父は」

 

 「連れて行かれる」

 

 マリアンヌの声は震えていた。

 

 「でも、殺されはしない。グレイヴズは、私怨で人を殺す男じゃない。尋問はされるでしょうけど」

 

 ノアは、何も言えなかった。彼が母から復讐の道具として育てられたように、マリアンヌもまた、父という存在の重さを、一人で背負っている。

 

 「あなたの父は」

 

 ノアは、ようやく口を開いた。

 

 「最後に、グレイヴズ将軍のことを話しました。彼の恐怖の根に、あなたの父がいると」

 

 マリアンヌは、しばらく黙っていた。

 

 「知ってる」

 

 彼女は、静かに言った。

 

 「父は、ずっと、そのことを気にしていた。自分が作った制度は正しい。でも、その制度のために、誰かの人生を壊したことも、正しい」

 

 「矛盾していませんか」

 

 「矛盾してる」

 

 マリアンヌは、初めて、力なく笑った。

 

 「でも、それが、父という人だった」

 

 彼女は、夜明けの空を見上げた。

 

 「今日は、これで。父のことを、追わなければならない」

 

 「待ってください」

 

 「また、連絡する」

 

 彼女は、それだけ言うと、路地の向こうへ姿を消した。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 館に戻ったノアは、朝の光の中で、自分の部屋の窓辺に立った。

 

 ヴェルナー・ロス。評議会承認制の考案者であり、母に知識を与えた男。彼の話は、ノアの中の、いくつもの疑問に答えを与えた。

 

 自分は、母の復讐の道具として生まれた。同時に、一人の老人が信じた、評議会という制度を健全に保つための保険としても、生まれた。

 

 二つの目的は、重なりながらも、決して同じではなかった。

 

 母は、息子の勝利だけを見ている。ヴェルナーは、制度そのものの正しさを見ていた。ノア自身は、そのどちらでもない場所に、まだ立てていない。

 

 彼は、窓の外を見た。朝の光が、王都の屋根を静かに照らし始めていた。霧は、もう、どこにもなかった。

 

 グレイヴズ将軍に、いつか自分がどう向き合うのか――ヴェルナーが最後に残した言葉の意味を、ノアは、まだ完全には掴めていなかった。

 

 ただ一つ、はっきりしていることがあった。

 

 武器の出どころを知った今、彼は、これまでと同じ手つきで、その武器を振るうことはできない。

 

 誰かの正しさのために動くのか。

 

 それとも、自分自身の答えを、一から探すのか。

 

 窓辺に立ったまま、ノアは、久しく忘れていた誰かの顔を、ふと思い出した。

 

 デュヴァル家の庭で、雨上がりの空を見上げていた、あの少女の横顔だった。

 

 彼女に、まだ何も伝えられていない。

 

 そのことに、彼は今、初めて気づいた。

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