きっといつか焦がれ思い返す   作:しんそく

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八話 視線の先

 

 地区大会二日前の練習は、軽かった。

 スタート確認を二本。三十メートルまでの流しを二本。あとはストレッチと動きづくり。榊美冬は何度も「疲労を抜く日」だと言った。

 

 岸本灯里(あかり)は記録用紙を持って、グラウンドの端にいた。

 日野かなたは、走りすぎなかった。

 白線の前に立つたび、身体だけがもう少し先へ残ろうとする。けれど、決められた距離で止まった。左脚も問題なさそうだった。

 

「日野さん、今日は終わり」

 

 榊が言う。

 かなたは小さく頷いた。

 

「はい」

 

 それからゆっくりと、スパイクの紐をほどいた。

 灯里は何も言わなかった。

 何か言えば、それがまた自分の言葉として、かなたの中に残ってしまう気がした。

 

 練習後、灯里は器具庫へ向かった。

 

 今日の片づけ当番ではない。榊から、過去記録のファイルを戻すよう頼まれていた。地区大会前に、過去の大会結果を確認していたらしい。

 

 器具庫の中は、夕方でも少し暗かった。

 ハードル。マーカー。古いメジャー。予備のスターティングブロック。砂とゴムと湿った布の匂いがする。

 

 灯里は棚の下段からファイルケースを引き出し、県大会、地区大会、校内記録会とラベルの貼られたファイルを順番に戻した。

 その途中で、手が止まった。

 

 古い校内記録会のファイル。

 

 開くつもりはなかった。

 なのに、指が表紙をめくっていた。

 

 数年前の記録用紙が、クリアポケットに挟まっている。紙は少し黄ばんでいて、インクの色も今より淡く見えた。部員の名前とタイムが並んでいる。

 

 見つけたくない名前ほど、すぐに見つかる。

 

 岸本灯里。

 女子百メートル。

 十三秒〇五。

 

 そこにあった。

 高校に入って最初の校内記録会。

 まだ、走るのをやめきれていなかった頃の記録だった。

 

 中学からずっと、灯里の中に残っていた数字。

 十二秒台に届かなかった数字。

 速い自分を、最後まで守れなかった数字。

 

 灯里はページを閉じようとした。

 

「先輩」

 

 声がして、指が止まった。

 振り返ると、器具庫の入り口にかなたが立っていた。

 

 手にはノートを持っている。練習後、いつものように何かを書いていたのだろう。汗の残った前髪が、頬にかかっていた。

 

 かなたの視線が、灯里の手元へ落ちる。

 開いたファイル。そこにある名前。それらは、灯里にとって望ましくないものだ。特に、かなたに知られることは。

 

 灯里は反射的に閉じた。手遅れだということは、訊かずともわかっていた。

 

「見た?」

 

 言い方がきつくなった。かなたはすぐには答えなかった。

 その沈黙だけで十分だった。

 

「見たんだ」

「……すみません」

「別に謝らなくていいけど」

 

 灯里はファイルを棚へ押し込んだ。

 ビニールが擦れる、乱暴な音がした。

 

「走っていたんですか」

 

 意を決したように、かなたが口火を切った。

 灯里は背中を向けたまま、息を吸った。

 

「陸上部なんだから、そりゃ昔はね」

「百メートルですか」

「そう」

「十三秒〇五」

 

 かなたの声が、その数字を諳んじた。

 灯里は指先が冷えていくのを感じた。

 

 自分の中でだけ鳴っているはずだった数字が、かなたの声で外に出た。それだけで、古い箱の蓋を無理やり開けられたような気がした。

 

「……よく覚えたね」

「見えたので」

「そう」

 

 灯里は笑おうとした。当たり前のようにうまくいかなかった。

 

「昔の話」

「どうして、今は走らないんですか」

 

 かなたの問いはまっすぐだった。

 灯里は、そういう問いが嫌いだった。悪意がないぶん、逃げ道を塞がれる。

 

「走るの、飽きたから」

 

 いつもの言葉が出た。

 

 便利な言葉。

 何度も使ってきた言葉。さらりと吐き出せるくらいには、口にし続けてきた虚飾だった。

 かなたは黙っていた。

 

「何」

 

 灯里は振り返る。

 かなたは灯里を見ていた。

 走る前の目でも、指摘を待つ目でもない。もっと静かで、熱を孕んでいた。

 

「飽きた人は、」

 

 かなたはゆっくり言った。

 

「そんな顔で見ないと思います」

 

 灯里の喉が詰まった。

 

「……どんな顔」

「苦しそうな顔です」

「苦しくない。勝手に決めないで」

「すみません」

「謝ればいいと思ってる?」

「思っていません」

 

 返事が早かった。

 灯里は苛立った。

 

 見られた。

 数字を読まれた。

 飽きた、という言葉が、器具庫の中で急に軽くなった。

 

 それだけなのに、息が荒くなる。

 

「日野さんはさ」

 

 灯里は言った。

 

「何でも見えるみたいな顔するよね」

 

 かなたがわずかに眉を動かした。

 

「そんなつもりは」

「あるでしょ。先輩は苦しそうです、とか。飽きた人はそんな顔で見ない、とか」

 

 灯里は笑った。

 笑いにならなかった。

 掠れた息を吐いた。嘲るように喉が鳴った。考えるまでもなく、自嘲だった。

 

「私の何が分かるの」

 

 器具庫の外から、部員たちの声が遠く聞こえた。

 夏前の夕方。グラウンドにはまだ光が残っている。けれど器具庫の中だけ、空気が沈んでいた。

 

 かなたはノートを胸の前で持っていた。

 いつも灯里の言葉を書き留めるノート。

 それが、急に目障りに見えた。

 

「先輩が、私を見ているからです」

 

 かなたは言った。

 

「私の怖いところも、逃げるところも、全部言います」

 

 声は震えていなかった。

 けれど、慎重だった。踏み込んでいい場所を探している。

 

「だから、先輩が何から逃げたのか、気になります」

 

 灯里の中で、糸が切れた。

 

「真剣に走って、自己ベストで負けて、ちゃんと弱かったです、なんて言える人には分からないよ」

 

 言った瞬間、かなたの目が少し動いた。

 灯里は止まれなかった。黙るべきだとわかっているのに、思考と感情が不整合を起こしている。

 

 喉が熱い。

 これは、かなたに向ける言葉ではない。

 分かっているのに、止まらない。

 

「負けるために真剣になるほど、私は馬鹿じゃない」

 

 器具庫の中が静かになった。

 灯里の声だけが、やけに大きく残った。

 

 かなたはしばらく黙っていた。

 その沈黙の中で、灯里は自分の言葉がどこまで飛んでいったのかを知った。

 

 取り消した方がいい。

 謝った方がいい。

 

 でも、謝る言葉より先に、また逃げ道が浮かぶ。

 

 昔の記録を見られて動揺した。

 大会前で苛立っていた。

 本気で言ったわけじゃない。

 

 いくらでも言い訳できる。

 灯里は何も言えなかった。

 

「私は」

 

 かなたが口を開いた。

 

「負けるために走っているわけじゃありません」

 

 声は小さかった。けれど、まっすぐ届いた。

 

「勝ちたいです」

 

 かなたは続けた。

 

「真柴先輩に勝ちたいです。大会でも、前に行きたいです。自己ベストで満足したいわけじゃありません」

 

 灯里はかなたを見ていた。

 

「でも、負けたときに、なかったことにしたくないんです」

 

 かなたの指が、ノートの端を押さえる。

 

「全部出したなら、それは私の走りです」

 

 灯里は唇を噛んだ。

 

 自分が持てなかった言葉を、かなたが持っていることが。

 それを綺麗だと思ってしまうことが。

 それを見て、自分が救われたがっていることが。

 

 認め難い。

 

「じゃあ何、」

 

 息を吐いた。

 

「日野さんは偉いねって言えばいい?」

 

 かなたは目を伏せなかった。

 

「そういう話ではありません」

「そういう話でしょ。私は逃げました。日野さんは逃げませんでした。すごいね、偉いね、馬鹿みたいに真剣で」

「先輩」

「何」

「私のこと、見ていますか」

 

 灯里は一瞬、止まった。

 

「見てるでしょ」

「本当にですか」

「毎日見てる。スタートも、二歩目も、最後の二十も、全部」

「それは、私ですか」

 

 灯里は言葉を失った。

 かなたは、真っ直ぐに灯里を見ている。

 責めているのか、悲しんでいるのか、分からなかった。ただ、いつものように答えを待つ目ではなかった。

 

「先輩は、私を見ているんじゃないんですね」

 

 かなたは言った。

 

「私の中に、自分を見ていただけなんですね」

 

 灯里は否定しようとした。

 口を開く。

 

 でも、声が出なかった。

 違う。

 

 そう言いたかった。

 かなたの一歩目を見ていた。二歩目の怖さも、最後の十メートルも、ノートを書く指先も、走らないでいる横顔も、ちゃんと見ていた。

 

 そう言いたかった。

 けれど、その全部に自分の過去を重ねていなかったとは言えなかった。

 

 十三秒二九。

 十三秒〇五。

 

 かなたの数字を、自分の数字の近くに置いた。

 かなたの成長に、自分の救いを見た。

 かなたの百メートルで、自分が逃げた場所へ戻ろうとした。

 

 かなたの手元で、ノートが少し揺れた。

 

 灯里はその中身を、幾分覚えている。

 丁寧な字で残された、自分の言葉。

 

 先輩は、見えたものをそのまま言う。

 二歩目、地面を怖がる。

 身体だけ逃げる。

 最後の十メートル、なかったことにしない。

 

 全部、灯里の言葉だった。

 かなたが積み上げてきたものだった。

 

 それが急に怖くなった。

 

「私の言葉、」

 

 灯里は言った。

 声が低くなった。

 

「有難がって書くからでしょ」

 

 言った瞬間、器具庫の空気が止まった。

 かなたの指が、ノートの端で固まる。

 言ってはいけなかった。

 でも、もう遅かった。

 

「別に、正解じゃないし」

 

 灯里は続けた。

 

「私、走ってないし」

 

 かなたは灯里を見ていた。

 目が大きく揺れたわけではない。泣きそうな顔でもない。むしろ、表情は静かだった。

 

 だから余計に怖かった。

 かなたはゆっくりノートを閉じた。

 

 ぱたん、と小さな音がした。

 その音が、灯里の胸に入った。

 

「分かりました」

 

 かなたは言った。

 声は硬かった。

 

「日野さん」

 

 灯里は名前を呼んだ。自分の声があまりにも頼りなくて、既に遅かったのだと気が付いた。

 かなたは少しだけ頭を下げる。

 

「すみませんでした」

「違う、今のは」

「明日は、自分で確認します」

 

 灯里の息が止まった。

 

「大会の日も」

 

 かなたは続けた。

 

「無理に見なくていいです」

 

 かなたは灯里を見た。さっきよりもずっと、遠く見えた。

 

「岸本先輩」

 

 初めて、そう呼ばれた。ただの名字と肩書き。

 それだけで、灯里は自分がどれだけ近くにいたつもりだったのかを知らされた。

 

「先輩には、私の走りを見てほしかったです」

 

 かなたは言った。

 怒っているのか、諦めているのか、灯里には分からなかった。

 ただ、その声は静かで、静かすぎた。

 

「すみません」

 

 かなたはもう一度頭を下げた。

 

「私、先輩に見てほしかったので」

 

 そして、器具庫を出ていった。

 灯里は追えなかった。

 

 足が動かなかった。

 ピストルが鳴ったのに、身体が動かなかったあの瞬間に、少し似ていた。

 

 かなたの背中が遠ざかる。夕方の光の中へ出ていく。

 灯里は一歩も動けない。

 器具庫の床に、かなたのノートは落ちていなかった。

 

 いつもそこにあった灯里の言葉は、かなたの手に持たれたまま、灯里の届かない場所へ行ってしまった。

 

 

 

 

 しばらくして、まどかが器具庫の前に来た。

 

「灯里」

 

 灯里は棚の前に立っていた。

 古い記録ファイルは、まだ半分だけ出ている。戻したはずなのに、収まりきっていなかった。

 

「日野さん、帰ったよ」

「……そう」

「何かあった?」

 

 灯里は答えなかった。

 何か。

 

 自分がかなたを傷つけた。

 かなたのノートを否定した。

 真剣に走ることを馬鹿にした。

 かなたを見ていなかったことを、かなた本人に見抜かれた。

 

 どれを言えばいいのか分からなかった。

 

「明後日、大会だよ」

 

 まどかの声は静かだった。

 

「このままでいいの」

「いいわけないでしょ」

 

 かすれた声が出た。思ったより弱々しく響いた。

 

「でも、どうすればいいか分からない」

 

 まどかは黙った。

 灯里はファイルの角を見ていた。

 

「謝れば?」

「謝るよ」

「うん」

「でも、謝るだけじゃ駄目なんでしょ」

 

 まどかは少しだけ目を細めた。

 

「私、あの子のこと、見てると思ってた」

「うん」

「でも、違ったのかも」

「うん」

「日野さんの中に、自分を見てたって言われた」

 

 まどかは何も言わなかった。

 肯定も否定もしない。それが、答えのようだった。

 傍から見ても、そうだったということだ。

 

 自覚がなかったわけではない。ただ、切り分けられていると思っていた。致命的には間違えていない。そう、言い聞かせてきた。

 

「私、最低だね」

「最低かどうかは知らない」

「そこは否定してよ」

「否定したら楽になるでしょ」

 

 灯里は黙った。

 まどかは器具庫の入り口にもたれた。

 

「灯里さ」

「うん」

「日野さんの記録用紙ばっかり見てないで、自分のも見た方がいいんじゃない」

 

 灯里は何も返せなかった。

 自分の記録用紙。

 

 十三秒〇五。

 

 そこに書かれているのは、数字だけではない。

 

 出遅れたこと。

 守ったこと。

 逃げたこと。

 走らなくなったこと。

 

 ずっと、見ないようにしてきたもの。

 

「日野さんに見るって言うならさ」

 

 まどかは言った。

 

「灯里も、自分のこと見なよ」

 

 灯里はファイルを棚へ戻した。今度は、ちゃんと奥まで押し込んだ。

 見てきたつもりだ。他人が思っているよりもずっと、灯里は自分の記録を鮮明に覚えている。見ないようにするほど、目に入ってくるそれを。

 

「追いかけないの」

 

 まどかが聞いた。

 灯里は首を振った。

 

「今行ったら、また言い訳する」

 

 謝る言葉なら、いくらでも浮かぶ。

 

 ごめん。

 言いすぎた。

 大会前なのに。

 昔の記録を見られて動揺した。

 日野さんは悪くない。

 

 どれも本当で、どれも足りない。

 謝るだけでは、きっとまた、かなたを自分の方へ引き戻そうとする。

 

 かなたの百メートルを、かなたのものとして見るためには、その前に灯里が自分の逃げた百メートルを見なければならない。

 

 嫌だった。怖かった。

 

 でも、かなたに「無理に見なくていい」と言われた瞬間の痛みの方が、もっと怖かった。

 

 

 グラウンドには、もうほとんど人がいなかった。夕方の白線は、昼間より薄く見える。

 

 灯里は器具庫を出て、トラックの端に立った。

 まどかは少し離れたところで待っていた。何も言わなかった。

 

 灯里は百メートルのスタートラインを見た。

 

 かなたが何度も立った場所。

 灯里がもう立たないと決めた場所。

 

 中学最後の大会で、ピストルが鳴っても動かなかった自分の身体を思い出す。

 

 あれは事故ではなかった。

 偶然でもなかった。

 

 身体が動かなかったのではない。

 動かさなかった。

 

 全部出して負けるのが怖かったから。

 自分が本当に速くないと分かるのが怖かったから。

 

 灯里は白線を見ていた。

 目を逸らしたい。逸らせば楽になる。

 

 でも、かなたは明後日、別の競技場の白線に立つ。

 灯里が見ても、見なくても、走る。

 

 灯里はゆっくり息を吐いた。

 

「見る」

 

 声に出すと、喉が痛かった。

 

 まどかがこちらを見る。

 

「私のためじゃなくて」

 

 白線は、ただそこにあった。

 灯里は、その白線から目を逸らさなかった。

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