きっといつか焦がれ思い返す 作:しんそく
地区大会二日前の練習は、軽かった。
スタート確認を二本。三十メートルまでの流しを二本。あとはストレッチと動きづくり。榊美冬は何度も「疲労を抜く日」だと言った。
岸本
日野かなたは、走りすぎなかった。
白線の前に立つたび、身体だけがもう少し先へ残ろうとする。けれど、決められた距離で止まった。左脚も問題なさそうだった。
「日野さん、今日は終わり」
榊が言う。
かなたは小さく頷いた。
「はい」
それからゆっくりと、スパイクの紐をほどいた。
灯里は何も言わなかった。
何か言えば、それがまた自分の言葉として、かなたの中に残ってしまう気がした。
練習後、灯里は器具庫へ向かった。
今日の片づけ当番ではない。榊から、過去記録のファイルを戻すよう頼まれていた。地区大会前に、過去の大会結果を確認していたらしい。
器具庫の中は、夕方でも少し暗かった。
ハードル。マーカー。古いメジャー。予備のスターティングブロック。砂とゴムと湿った布の匂いがする。
灯里は棚の下段からファイルケースを引き出し、県大会、地区大会、校内記録会とラベルの貼られたファイルを順番に戻した。
その途中で、手が止まった。
古い校内記録会のファイル。
開くつもりはなかった。
なのに、指が表紙をめくっていた。
数年前の記録用紙が、クリアポケットに挟まっている。紙は少し黄ばんでいて、インクの色も今より淡く見えた。部員の名前とタイムが並んでいる。
見つけたくない名前ほど、すぐに見つかる。
岸本灯里。
女子百メートル。
十三秒〇五。
そこにあった。
高校に入って最初の校内記録会。
まだ、走るのをやめきれていなかった頃の記録だった。
中学からずっと、灯里の中に残っていた数字。
十二秒台に届かなかった数字。
速い自分を、最後まで守れなかった数字。
灯里はページを閉じようとした。
「先輩」
声がして、指が止まった。
振り返ると、器具庫の入り口にかなたが立っていた。
手にはノートを持っている。練習後、いつものように何かを書いていたのだろう。汗の残った前髪が、頬にかかっていた。
かなたの視線が、灯里の手元へ落ちる。
開いたファイル。そこにある名前。それらは、灯里にとって望ましくないものだ。特に、かなたに知られることは。
灯里は反射的に閉じた。手遅れだということは、訊かずともわかっていた。
「見た?」
言い方がきつくなった。かなたはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「見たんだ」
「……すみません」
「別に謝らなくていいけど」
灯里はファイルを棚へ押し込んだ。
ビニールが擦れる、乱暴な音がした。
「走っていたんですか」
意を決したように、かなたが口火を切った。
灯里は背中を向けたまま、息を吸った。
「陸上部なんだから、そりゃ昔はね」
「百メートルですか」
「そう」
「十三秒〇五」
かなたの声が、その数字を諳んじた。
灯里は指先が冷えていくのを感じた。
自分の中でだけ鳴っているはずだった数字が、かなたの声で外に出た。それだけで、古い箱の蓋を無理やり開けられたような気がした。
「……よく覚えたね」
「見えたので」
「そう」
灯里は笑おうとした。当たり前のようにうまくいかなかった。
「昔の話」
「どうして、今は走らないんですか」
かなたの問いはまっすぐだった。
灯里は、そういう問いが嫌いだった。悪意がないぶん、逃げ道を塞がれる。
「走るの、飽きたから」
いつもの言葉が出た。
便利な言葉。
何度も使ってきた言葉。さらりと吐き出せるくらいには、口にし続けてきた虚飾だった。
かなたは黙っていた。
「何」
灯里は振り返る。
かなたは灯里を見ていた。
走る前の目でも、指摘を待つ目でもない。もっと静かで、熱を孕んでいた。
「飽きた人は、」
かなたはゆっくり言った。
「そんな顔で見ないと思います」
灯里の喉が詰まった。
「……どんな顔」
「苦しそうな顔です」
「苦しくない。勝手に決めないで」
「すみません」
「謝ればいいと思ってる?」
「思っていません」
返事が早かった。
灯里は苛立った。
見られた。
数字を読まれた。
飽きた、という言葉が、器具庫の中で急に軽くなった。
それだけなのに、息が荒くなる。
「日野さんはさ」
灯里は言った。
「何でも見えるみたいな顔するよね」
かなたがわずかに眉を動かした。
「そんなつもりは」
「あるでしょ。先輩は苦しそうです、とか。飽きた人はそんな顔で見ない、とか」
灯里は笑った。
笑いにならなかった。
掠れた息を吐いた。嘲るように喉が鳴った。考えるまでもなく、自嘲だった。
「私の何が分かるの」
器具庫の外から、部員たちの声が遠く聞こえた。
夏前の夕方。グラウンドにはまだ光が残っている。けれど器具庫の中だけ、空気が沈んでいた。
かなたはノートを胸の前で持っていた。
いつも灯里の言葉を書き留めるノート。
それが、急に目障りに見えた。
「先輩が、私を見ているからです」
かなたは言った。
「私の怖いところも、逃げるところも、全部言います」
声は震えていなかった。
けれど、慎重だった。踏み込んでいい場所を探している。
「だから、先輩が何から逃げたのか、気になります」
灯里の中で、糸が切れた。
「真剣に走って、自己ベストで負けて、ちゃんと弱かったです、なんて言える人には分からないよ」
言った瞬間、かなたの目が少し動いた。
灯里は止まれなかった。黙るべきだとわかっているのに、思考と感情が不整合を起こしている。
喉が熱い。
これは、かなたに向ける言葉ではない。
分かっているのに、止まらない。
「負けるために真剣になるほど、私は馬鹿じゃない」
器具庫の中が静かになった。
灯里の声だけが、やけに大きく残った。
かなたはしばらく黙っていた。
その沈黙の中で、灯里は自分の言葉がどこまで飛んでいったのかを知った。
取り消した方がいい。
謝った方がいい。
でも、謝る言葉より先に、また逃げ道が浮かぶ。
昔の記録を見られて動揺した。
大会前で苛立っていた。
本気で言ったわけじゃない。
いくらでも言い訳できる。
灯里は何も言えなかった。
「私は」
かなたが口を開いた。
「負けるために走っているわけじゃありません」
声は小さかった。けれど、まっすぐ届いた。
「勝ちたいです」
かなたは続けた。
「真柴先輩に勝ちたいです。大会でも、前に行きたいです。自己ベストで満足したいわけじゃありません」
灯里はかなたを見ていた。
「でも、負けたときに、なかったことにしたくないんです」
かなたの指が、ノートの端を押さえる。
「全部出したなら、それは私の走りです」
灯里は唇を噛んだ。
自分が持てなかった言葉を、かなたが持っていることが。
それを綺麗だと思ってしまうことが。
それを見て、自分が救われたがっていることが。
認め難い。
「じゃあ何、」
息を吐いた。
「日野さんは偉いねって言えばいい?」
かなたは目を伏せなかった。
「そういう話ではありません」
「そういう話でしょ。私は逃げました。日野さんは逃げませんでした。すごいね、偉いね、馬鹿みたいに真剣で」
「先輩」
「何」
「私のこと、見ていますか」
灯里は一瞬、止まった。
「見てるでしょ」
「本当にですか」
「毎日見てる。スタートも、二歩目も、最後の二十も、全部」
「それは、私ですか」
灯里は言葉を失った。
かなたは、真っ直ぐに灯里を見ている。
責めているのか、悲しんでいるのか、分からなかった。ただ、いつものように答えを待つ目ではなかった。
「先輩は、私を見ているんじゃないんですね」
かなたは言った。
「私の中に、自分を見ていただけなんですね」
灯里は否定しようとした。
口を開く。
でも、声が出なかった。
違う。
そう言いたかった。
かなたの一歩目を見ていた。二歩目の怖さも、最後の十メートルも、ノートを書く指先も、走らないでいる横顔も、ちゃんと見ていた。
そう言いたかった。
けれど、その全部に自分の過去を重ねていなかったとは言えなかった。
十三秒二九。
十三秒〇五。
かなたの数字を、自分の数字の近くに置いた。
かなたの成長に、自分の救いを見た。
かなたの百メートルで、自分が逃げた場所へ戻ろうとした。
かなたの手元で、ノートが少し揺れた。
灯里はその中身を、幾分覚えている。
丁寧な字で残された、自分の言葉。
先輩は、見えたものをそのまま言う。
二歩目、地面を怖がる。
身体だけ逃げる。
最後の十メートル、なかったことにしない。
全部、灯里の言葉だった。
かなたが積み上げてきたものだった。
それが急に怖くなった。
「私の言葉、」
灯里は言った。
声が低くなった。
「有難がって書くからでしょ」
言った瞬間、器具庫の空気が止まった。
かなたの指が、ノートの端で固まる。
言ってはいけなかった。
でも、もう遅かった。
「別に、正解じゃないし」
灯里は続けた。
「私、走ってないし」
かなたは灯里を見ていた。
目が大きく揺れたわけではない。泣きそうな顔でもない。むしろ、表情は静かだった。
だから余計に怖かった。
かなたはゆっくりノートを閉じた。
ぱたん、と小さな音がした。
その音が、灯里の胸に入った。
「分かりました」
かなたは言った。
声は硬かった。
「日野さん」
灯里は名前を呼んだ。自分の声があまりにも頼りなくて、既に遅かったのだと気が付いた。
かなたは少しだけ頭を下げる。
「すみませんでした」
「違う、今のは」
「明日は、自分で確認します」
灯里の息が止まった。
「大会の日も」
かなたは続けた。
「無理に見なくていいです」
かなたは灯里を見た。さっきよりもずっと、遠く見えた。
「岸本先輩」
初めて、そう呼ばれた。ただの名字と肩書き。
それだけで、灯里は自分がどれだけ近くにいたつもりだったのかを知らされた。
「先輩には、私の走りを見てほしかったです」
かなたは言った。
怒っているのか、諦めているのか、灯里には分からなかった。
ただ、その声は静かで、静かすぎた。
「すみません」
かなたはもう一度頭を下げた。
「私、先輩に見てほしかったので」
そして、器具庫を出ていった。
灯里は追えなかった。
足が動かなかった。
ピストルが鳴ったのに、身体が動かなかったあの瞬間に、少し似ていた。
かなたの背中が遠ざかる。夕方の光の中へ出ていく。
灯里は一歩も動けない。
器具庫の床に、かなたのノートは落ちていなかった。
いつもそこにあった灯里の言葉は、かなたの手に持たれたまま、灯里の届かない場所へ行ってしまった。
しばらくして、まどかが器具庫の前に来た。
「灯里」
灯里は棚の前に立っていた。
古い記録ファイルは、まだ半分だけ出ている。戻したはずなのに、収まりきっていなかった。
「日野さん、帰ったよ」
「……そう」
「何かあった?」
灯里は答えなかった。
何か。
自分がかなたを傷つけた。
かなたのノートを否定した。
真剣に走ることを馬鹿にした。
かなたを見ていなかったことを、かなた本人に見抜かれた。
どれを言えばいいのか分からなかった。
「明後日、大会だよ」
まどかの声は静かだった。
「このままでいいの」
「いいわけないでしょ」
かすれた声が出た。思ったより弱々しく響いた。
「でも、どうすればいいか分からない」
まどかは黙った。
灯里はファイルの角を見ていた。
「謝れば?」
「謝るよ」
「うん」
「でも、謝るだけじゃ駄目なんでしょ」
まどかは少しだけ目を細めた。
「私、あの子のこと、見てると思ってた」
「うん」
「でも、違ったのかも」
「うん」
「日野さんの中に、自分を見てたって言われた」
まどかは何も言わなかった。
肯定も否定もしない。それが、答えのようだった。
傍から見ても、そうだったということだ。
自覚がなかったわけではない。ただ、切り分けられていると思っていた。致命的には間違えていない。そう、言い聞かせてきた。
「私、最低だね」
「最低かどうかは知らない」
「そこは否定してよ」
「否定したら楽になるでしょ」
灯里は黙った。
まどかは器具庫の入り口にもたれた。
「灯里さ」
「うん」
「日野さんの記録用紙ばっかり見てないで、自分のも見た方がいいんじゃない」
灯里は何も返せなかった。
自分の記録用紙。
十三秒〇五。
そこに書かれているのは、数字だけではない。
出遅れたこと。
守ったこと。
逃げたこと。
走らなくなったこと。
ずっと、見ないようにしてきたもの。
「日野さんに見るって言うならさ」
まどかは言った。
「灯里も、自分のこと見なよ」
灯里はファイルを棚へ戻した。今度は、ちゃんと奥まで押し込んだ。
見てきたつもりだ。他人が思っているよりもずっと、灯里は自分の記録を鮮明に覚えている。見ないようにするほど、目に入ってくるそれを。
「追いかけないの」
まどかが聞いた。
灯里は首を振った。
「今行ったら、また言い訳する」
謝る言葉なら、いくらでも浮かぶ。
ごめん。
言いすぎた。
大会前なのに。
昔の記録を見られて動揺した。
日野さんは悪くない。
どれも本当で、どれも足りない。
謝るだけでは、きっとまた、かなたを自分の方へ引き戻そうとする。
かなたの百メートルを、かなたのものとして見るためには、その前に灯里が自分の逃げた百メートルを見なければならない。
嫌だった。怖かった。
でも、かなたに「無理に見なくていい」と言われた瞬間の痛みの方が、もっと怖かった。
♦
グラウンドには、もうほとんど人がいなかった。夕方の白線は、昼間より薄く見える。
灯里は器具庫を出て、トラックの端に立った。
まどかは少し離れたところで待っていた。何も言わなかった。
灯里は百メートルのスタートラインを見た。
かなたが何度も立った場所。
灯里がもう立たないと決めた場所。
中学最後の大会で、ピストルが鳴っても動かなかった自分の身体を思い出す。
あれは事故ではなかった。
偶然でもなかった。
身体が動かなかったのではない。
動かさなかった。
全部出して負けるのが怖かったから。
自分が本当に速くないと分かるのが怖かったから。
灯里は白線を見ていた。
目を逸らしたい。逸らせば楽になる。
でも、かなたは明後日、別の競技場の白線に立つ。
灯里が見ても、見なくても、走る。
灯里はゆっくり息を吐いた。
「見る」
声に出すと、喉が痛かった。
まどかがこちらを見る。
「私のためじゃなくて」
白線は、ただそこにあった。
灯里は、その白線から目を逸らさなかった。