昼飯を食べ終えた頃には、太陽はすっかり頭上を越えていた。
「悪くなかったな」
バンは満足そうに腹を撫でながら、大通りを歩いていた。
ロキたちと別れた後、肉の匂いを追って見つけた店へ入り、焼いた羊肉と豆を煮込んだ料理、それに硬いパンを腹へ収めた。酒も頼もうとしたが昼は出していないと言われたため、店を出てから別の露店で小さな酒瓶を一本買っている。
新しい鞄がまだ完成していないため、酒瓶は古い鞄へ無造作に突っ込んだ。
「次はどこ行くかな」
特に目的はない。
第五十階層から帰ってきて以来、ギルド、ゼウスとヘラの本拠、ヘファイストスの工房と誰かに呼ばれる場所ばかりを行き来していた。こうして何の予定もなくオラリオを歩くのは、思えば久しぶりだった。
道の両側には武具店や薬屋、飲食店が並び、冒険者らしい男女が絶えず行き交っている。裏道へ入れば雰囲気も一変し、古びた石造りの家や、小さな露店、洗濯物を干した窓辺まで見えた。
迷宮都市。
世界で唯一、地下迷宮を抱える街。
外から見れば冒険者と怪物の街だが、中へ入れば当然、人間が暮らしている。
「こういうとこはどこも変わんねぇな」
ベンウィックもそうだった。
国だとか王だとか、大きな名前だけを見れば大層に聞こえるが、そこに住んでいる者が毎日考えていることなど、今日の飯や明日の仕事や、家族のことだったりする。
バンはそんなことを考えながら、再び大通りへ戻った。
そこで。
「……ん?」
妙な人だかりが目に入った。
何か事件が起きているわけではない。
誰かが喧嘩している様子もない。
それなのに、道を歩く男たちの多くが同じ方向へ視線を向けている。
女も何人か振り返っていた。
「何だ?」
バンもつられるように視線を向ける。
向こうから二人歩いてきていた。
一人は女。
長い銀髪。
白い肌。
身体の線を美しく見せる衣装を纏い、ただ歩いているだけなのに周囲の視線を集めている。
美人だった。
それも、かなり。
バンがこの世界へ来てから見た女神たちも容姿の整った者ばかりだったが、その中でも一際目立つ。
神。
おそらく女神。
そのくらいはすぐ分かった。
「……また神か」
今日だけで二柱目だった。
だが。
バンの目が止まったのは、その女神よりもむしろ隣を歩く男だった。
巨大な身体。
黒い肌。
頭には獣を思わせる耳。
周囲の人間より頭一つどころか、それ以上高い。
ただ大きいだけではない。
歩いている。
それだけなのに隙が少ない。
重い身体を持ちながら足取りは安定しており、いつでも前へ出られるように重心が整っている。
「へぇ」
バンが少しだけ目を細めた。
強い。
ロキのところにいた連中もそうだった。
だが、この男はまた違う。
余計な動きがない。
何より。
まだ若い。
身体も、技も、完成しきっていない。
それでも十分に強かった。
「オッタル」
女神が突然足を止めた。
巨大な男も即座に止まる。
「はい」
「少し待って」
銀髪の女神――フレイヤは、バンを見ていた。
正確には。
彼の肉体ではない。
もっと奥。
人という器の内側へ。
「……」
フレイヤの瞳が僅かに見開かれた。
魂。
彼女にはそれが見える。
人が隠している欲望も、善性も、悪意も。
その全てが同じように見えるわけではないが、魂の輝きは嘘をつかない。
だからこそフレイヤは、美しい魂を好んだ。
だが。
目の前を歩いている男のそれは、簡単に言葉へできるものではなかった。
古い。
奇妙なほどに。
見た目は若い男なのに、魂には長い長い時間が刻み込まれている。
何度も。
何度も。
普通なら一度で折れてしまうような何かを越えてきた痕跡。
死。
喪失。
執着。
孤独。
そして。
それらを覆うほど強い、生への欲。
「……綺麗」
フレイヤが小さく呟いた。
「フレイヤ様?」
オッタルが隣を見る。
フレイヤは答えず、バンを見続けていた。
奇妙だった。
これほど傷ついているように見えるのに。
濁っていない。
いや。
傷があるからこそ、その奥にあるものがはっきりと見える。
そして、その魂には。
一つ。
あまりにも強く結びついた想いがあった。
フレイヤの口元に笑みが浮かぶ。
「面白いわ」
一方。
バンはそんなことなど知らない。
二人が道の途中で止まったため、自分も何となく視線を向けていただけだった。
やがて。
「あなた」
女神が声を掛けてくる。
バンは自分の後ろを確認した。
誰もいない。
「オレか?」
「ええ」
「何だ?」
フレイヤが近づいてくる。
周囲の男たちが息を呑んだ。
彼女が歩くたびに銀髪が揺れ、ただ微笑むだけで何人もの視線が引き寄せられる。
バンも。
綺麗な女だとは思った。
だが、それだけだった。
「少しお話ししてもいいかしら?」
「長い?」
フレイヤが瞬いた。
「……長いと嫌なの?」
「今日は朝から面倒な神に絡まれてんだよ」
「神?」
「ああ。朱色の髪した、うるせぇ奴」
フレイヤが数秒黙った。
「……ロキ?」
「そんな名前だったな」
「ふふっ」
突然フレイヤが笑った。
「何だよ」
「いいえ。少し納得しただけ」
「何が?」
「ロキがあなたに興味を持った理由」
「知らねぇよ。いきなり勧誘されたぞ」
「でしょうね」
「お前も知り合いか?」
「ええ。長い付き合いよ」
「友達?」
「それはロキに聞いてみて」
「面倒そうだからいい」
フレイヤはまた小さく笑った。
その後ろ。
オッタルは黙ったままバンを見ていた。
主神へここまで無遠慮に話す男は珍しい。
それ以上に。
分からない。
目の前の男が。
ステイタスを持つ冒険者なら、立ち姿や動きからある程度の強さを推測できる。
しかしバンには、その尺度をそのまま当てはめられなかった。
「あなた、バンというのでしょう?」
フレイヤが言った。
「またか」
「何が?」
「何で初対面の奴がオレの名前知ってんだよ」
「有名人だからではなくて?」
「なりたくねぇんだけど」
「ベヒーモスを討つ戦いに参加して、一人で第五十階層まで潜った人が?」
「……朝も似たようなこと言われたな」
バンは嫌そうに頭を掻いた。
「やっぱこの街、噂回んの早ぇな」
「神々は退屈を嫌うもの。面白い話には敏感なのよ」
「暇なんだな」
「そうとも言うわね」
フレイヤは怒らない。
むしろ楽しそうだった。
バンは少しだけ彼女を見る。
ロキとは違う。
ロキは最初から騒がしかった。
こちらは静かだ。
だが。
「……何かさっきから見られてる気がすんな」
「あら」
「何見てんだ?」
フレイヤの笑みが深くなる。
「あなた」
「それは分かってる」
「もっと正確に言えば、あなたの中身かしら」
「気持ち悪ぃな」
オッタルの眉が僅かに動いた。
周囲の者が聞いていれば青ざめただろう。
美神フレイヤへ向かって、気持ち悪い。
だがフレイヤ本人は。
「ふふっ」
声を上げて笑った。
「そんなことを言われたのは久しぶり」
「喜ぶとこか?」
「あなた、神に遠慮しないのね」
「する理由あるか?」
「普通はあるのよ?」
「ゼウスもヘラも同じこと言ってたな」
「……あの二柱とも?」
「ああ」
フレイヤの表情がほんの少しだけ変わった。
ゼウスとヘラ。
そしてロキ。
どうやら本当に妙な男らしい。
「ねえ、バン」
「何だ?」
「あなた、とても大切な人がいるでしょう?」
バンの表情が止まった。
ほんの一瞬。
だがフレイヤは見逃さない。
「……何でそう思う?」
「見えるから」
「何が?」
「あなたが、その人をどれほど大切にしているか」
フレイヤは穏やかに言う。
「一人だけではないわね。守りたい人が何人もいる。でも、その中心にいる人がいる」
赤い瞳が。
少しだけ細くなる。
エレイン。
真っ先に浮かんだ。
「お前、心でも読めんのか?」
「いいえ」
「じゃあ何だよ」
「秘密」
「なら聞くなよ」
「あら、冷たい」
「勝手に覗いてんのお前だろ」
フレイヤは少しだけ首を傾けた。
「怒った?」
「別に」
本当に怒ってはいなかった。
ただ。
気分がいい話でもない。
「でも」
フレイヤが続ける。
「少し羨ましいわ」
「何が?」
「そこまで誰かを愛せることが」
バンは黙った。
「長いのでしょう?」
「……何が」
「その人を想っている時間」
「知らねぇ」
答えは素っ気ない。
だが。
否定はしなかった。
フレイヤはそれで十分だった。
「あなたには帰りたい場所がある」
今度はバンが、はっきりと彼女を見る。
「それも見えんのか?」
「いいえ。ただ、そう見えたの」
「曖昧だな」
「神だって何でも知っているわけではないのよ」
「そうかよ」
しばらく二人は互いを見る。
フレイヤには分からない。
その帰る場所がどこなのか。
誰が待っているのか。
この男がなぜ、これほど遠い場所へ帰ろうとしているように見えるのか。
だから。
もっと知りたい。
「バン」
「ん?」
「私のところへ来ない?」
「嫌だ」
即答。
「……」
オッタルが僅かに目を細めた。
フレイヤは瞬きをする。
「早いのね」
「今日は二回目だからな」
「ロキにも同じ返事を?」
「ああ」
「私とロキを同じにするの?」
「勧誘してくる神って意味じゃ同じだろ」
「それは少し不満ね」
「知らねぇよ」
フレイヤは苦笑した。
「理由を聞いてもいい?」
「どこにも入る気ねぇから」
「ゼウスにも?」
「断った」
「ヘラにも?」
「同じ」
「そう」
フレイヤは少し考える。
「では、私だから嫌なのではないのね」
「今日会ったばっかのお前を嫌う理由もねぇよ」
「嬉しいわ」
「何でそうなる」
「可能性が残っているでしょう?」
「ねぇよ」
今度はフレイヤが声を上げて笑った。
その時。
オッタルが一歩だけ前へ出た。
「フレイヤ様」
「大丈夫よ、オッタル」
「……はい」
止まる。
バンはそこで、改めて巨大な猪人を見る。
「お前」
オッタルも視線を向けた。
「何だ」
「オッタルって言ったか?」
「そうだ」
「強ぇな」
突然の言葉だった。
オッタルは答えない。
「だが」
バンは上から下まで見る。
「まだ強くなるな、お前」
「……何?」
「今が限界って感じじゃねぇ」
オッタルの目が僅かに鋭くなる。
「何を根拠に言っている」
「見りゃ分かる」
「分からん」
「オレには分かるんだよ」
適当にも聞こえる。
だがバンは本気だった。
強い。
間違いなく。
ただし身体も技も、まだ先がある。
完成した戦士ではない。
伸びきった者の立ち方ではなかった。
「十分強ぇけどな。まだ上行けるだろ」
「……」
「違うか?」
オッタルはしばらく黙った。
「否定はしない」
「ならそういうことだ」
バンが笑う。
フレイヤは二人を交互に見た。
「珍しいわね、オッタル」
「何がでしょう」
「初対面の人にそこまで言われても怒らないなんて」
「侮辱ではありません」
「そう」
「それに」
オッタルはバンを見る。
「この男は、俺を弱いとは言っていない」
「へぇ」
今度はバンの口元が上がる。
「ちゃんと分かってんじゃねぇか」
「お前に褒められる理由はない」
「堅ぇな、お前」
「……」
「真面目そうだし」
「……」
「こいつと一緒にいると疲れねぇ?」
バンがフレイヤへ聞いた。
オッタルの眉が今度こそ動く。
フレイヤは口元へ手を当てた。
「そんなことを本人の前で聞くの?」
「いるから聞いてんだろ」
「ふふ。疲れないわ。とても可愛い子よ」
「……これが?」
「何か?」
オッタルの低い声。
「いや」
バンは巨大な身体を見上げた。
「神の感覚って分かんねぇな」
「あなたも随分変わっていると思うけれど?」
「オレは普通だ」
「それはないでしょうね」
「今日二回目だぞ、それ言われんの」
ロキたちの顔を思い出し、バンは嫌そうに頭を掻いた。
「じゃ、もういいか?」
「ええ」
意外なほどあっさりした答えに、バンが少しだけ意外そうな顔をした。
「追わねぇの?」
「追ってほしいの?」
「嫌だ」
「でしょう?」
フレイヤは微笑む。
「あなたは、追えば逃げる人でしょうから」
「分かってんじゃねぇか」
「だから今日はこれで十分」
「そうかよ」
バンは片手を上げた。
「じゃあな」
「ええ。また会いましょう、バン」
「会ったらな」
「きっと会うわ」
「神ってみんな自信あんな」
そんな言葉を残して、バンは二人の横を通り過ぎていった。
数歩。
十歩。
そして何事もなかったように、通りの先に並ぶ店へ目を向け始める。
フレイヤは振り返らず、その背中が遠ざかっていくのを感じていた。
「フレイヤ様」
「何?」
「よろしいのですか」
「何が?」
「勧誘を断られました」
「そうね」
「追わないのですか」
フレイヤは少し考えた。
「今は」
その言葉に、オッタルが黙る。
「欲しくないわけではないのよ」
フレイヤは静かに笑った。
「あれほど傷だらけなのに、あれほど真っ直ぐな魂は珍しいもの」
「……」
「でも」
彼女の瞳に。
先ほど見たものが浮かぶ。
長い時間。
死。
喪失。
それでもなお失われなかった、誰かへの愛。
「あの人はもう、自分が帰る場所を決めている」
フレイヤは小さく息を吐いた。
「そこへ無理に私を押し込んでも、きっと面白くないわ」
「フレイヤ様らしくないお言葉です」
「あら」
銀髪の女神が隣を見る。
「そうかしら?」
「はい」
「オッタルは私を何だと思っているの?」
「フレイヤ様です」
「答えになっていないわ」
フレイヤは呆れたように笑った。
そして、少し先。
もう一度だけバンの背中を見る。
その男はちょうど露店の前で立ち止まり、何かを買っていた。
「……酒?」
「そのようです」
「さっき昼食を食べたばかりでは?」
「存じません」
「ふふっ」
つい笑ってしまう。
世界を滅ぼす怪物と戦い。
神の恩恵も持たず。
深層へ一人で潜り。
それだけの魂を抱えていながら。
今は。
酒瓶を一本手に入れただけで、妙に満足そうな顔をしている。
「本当に」
フレイヤは目を細めた。
「不思議な人ね」
その言葉へ答える者はいなかった。
ただオッタルだけが。
遠ざかっていく銀髪の男の背中を、しばらく静かに見つめていた。