終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
翌朝。
私たちは、ファミレスのテーブルに広げた『春の駅前スイーツ案内』を見ていた。
端の少し折れたチラシには、世界がまだ普通だった頃の甘いものたちが、やけに明るい色で並んでいる。
苺ショート。桜もち。苺クリームデニッシュ。濃厚ピスタチオプリン。春限定アイス。
そのうち、もう食べたものもある。食べ損ねたものもある。
そして、今日の候補は。
「駅前ベーカリー、こむぎ堂」
私がチラシの小さな地図を見ながら言うと、そよぎ先輩は満足そうにうなずいた。
「よろしい。今日は焼き菓子と主食の境界を攻めましょう」
「普通にパン屋に行くって言えません?」
「パン屋に行くのではありません。菓子パン棚を見に行くのです」
「そこ、そんなに違います?」
「大違いですわ」
そよぎ先輩は、昨日見つけたポータブル電源をテーブルの端へ寄せ、代わりにチラシを丁寧に畳んだ。
発電機は、まだ使っていない。あんなものをファミレスの近くで動かしたら、ゾンビ向けの呼び込み君になる。その危険性は昨日の短波ラジオの声にも念押しされたので、今は触らないことになっている。
「チラシだと、苺クリームデニッシュでしたよね」
「ええ」
「でも、出るとは限らないんですよね」
「当然ですわ。棚ガチャは注文票ではありませんもの」
「ですよね」
「期待はしましょう。指定はしません」
「ガチャっぽい」
「ガチャですもの」
私はポケットの飴を確認した。移動用に何個か。
昨日の豆乳ショコラの甘さは、もう舌には残っていない。それでも、体のどこかにはまだ残っている気がした。罠だったチョコでも、温めれば甘い飲み物になる。そういう、少しだけ都合のいい記憶として。
「では、行きましょう」
「はい」
私たちは、ファミレスを出た。
外の空気は冷えていた。商店街へ向かう道には、ひっくり返った自転車や、開いたままの買い物袋が落ちている。遠くにゾンビが二体いたけれど、こちらには気づいていない。
私は飴を口に入れる。安いぶどう味が舌に広がり、薄い膜のような結界が私たちの周りに張られた。
店の中ほど安定はしない。でも、二人で歩くくらいなら十分だった。
「今日、食パンとか残ってたらどうします?」
「状態によりますわね」
「パンって、持ち帰れたら便利じゃないですか」
「便利ですわ。パンは生存ですもの」
「まとも」
「ですが、モブ子さん」
「はい」
「今日はパンの話ではありません」
「パン屋に行くのに?」
「菓子パンの話です」
「面倒くさい区別」
「生存と娯楽の境目は、いつでも面倒くさいものですわ」
そんなことを話しているうちに、目的の店が見えてきた。
『駅前ベーカリー こむぎ堂』
丸い文字の看板が、割れたガラスの上にぶら下がっていた。入口の横には、麦の穂のイラストが描かれている。たぶん昔は、かわいい店だったのだと思う。
今は店先にパン袋が散らばり、割れたガラスの破片が朝の光を鈍く反射している。店内からは、かすかに酸っぱい匂いがした。
「……パンって、けっこう匂いますね」
「焼きたてを売りにする店ほど、終末には脆いですわ」
「褒めてるんですか、それ」
「生きている時代なら、褒め言葉です」
「死んだ時代だと?」
「管理が大変ということですわね」
そよぎ先輩が、割れた入口から中を覗く。私は結界を意識しながら、その横に立った。
店内には、食パン棚、惣菜パン棚、そして奥の方に菓子パン棚があった。木製の棚は、まだきれいな形を保っている。けれど、そこに並んでいたパンはもう駄目だった。
食パンは乾き、ところどころに青白いカビが出ている。惣菜パンらしきものは、袋の中で何か別の料理になりかけていた。
私は思わず顔をしかめる。
「これは……無理ですね」
「ええ。食べるために焼かれたものが、食べられないところまで進んでおりますわ」
「悲しい言い方」
「パンにとっては、かなり悲しい末路ですわね」
そよぎ先輩は、食パン棚の前に立った。
私はその隣で、ふと思いつく。
「これ、試してもいいですか?」
「何を?」
「ガチャです。食パン棚でも、もしかしたら……」
言いながら、自分でも無理そうだと思っていた。
でも、もし食パンが出せるなら、それはかなり助かる。スイーツじゃない。けれど、食べ物だ。
私は空いている棚の一段に手を近づけた。
何も起きなかった。
空気も揺れない。トレーも鳴らない。値札も光らない。ただ、カビた食パンの匂いだけが、結界の外からじわじわ届いてくる。
「……反応しません」
「でしょうね」
「やっぱり、食パンは駄目ですか」
「食パンは生存ですわ。尊いものです。ですが、スイーツではありません」
「尊いのに、ガチャ対象外なんですね」
「生存に必要なものを、そんな都合よく引き当てられるなら、世界はもう少し簡単ですわ」
「それもそうですね」
「パンは拾うもの。菓子パンは祈るものです」
「祈るんですか」
「ガチャですもの」
私は手を下ろした。
ちょっと残念だった。でも同時に、少しだけ納得もした。
私の能力は、便利だけど万能ではない。生きるための食べ物は、自分たちで探さないといけない。そして、甘いものは、空っぽの棚に祈るしかない。
その時だった。
奥の厨房から、何かが落ちる音がした。
がしゃん。
金属のトレーが床に転がる音。私は反射的に身をすくめる。
「先輩」
「ええ。いらっしゃいますわね」
厨房の入口に、白い足跡が続いていた。
小麦粉。
袋が破れて、床に散っているらしい。その粉の上を、何かが歩いた跡がある。
次の瞬間、厨房の奥から、白い作業着姿のゾンビが現れた。
粉をかぶった前掛け。だらりと下がった腕。片手には、パンを並べるためのトレー。
「元パン職人さんですかね」
「ええ。ですが、発酵しすぎですわ」
「パン職人さんを発酵扱いしないでください」
「では、焼成期限切れ」
「どっちもひどい」
パン職人だったものが、うめきながらこちらへ近づいてくる。粉を踏むたび、白い足跡が増えていく。
私は一歩下がった。でも、そよぎ先輩は前に出る。
「食べ物を扱う場所に、期限切れの野犬を残すわけにはまいりません」
「言い方は最悪だけど、内容は正しい気がする」
そよぎ先輩が、指を持ち上げる。
「あら。中まで駄目ですわね」
パチン。
乾いた音が、パン屋の中に響いた。
パン職人だったものは、粉をかぶったまま崩れた。肉も、作業着も、トレーを握っていた手も、灰色の粉のようにほどけていく。
最後には、小麦粉の上に少しだけ色の違う灰が残った。
「……パン屋で粉が増えた」
「衛生上、よろしくありませんわね」
「先輩がやったんですけど」
「廃棄の結果です」
「便利な言葉ですね、廃棄」
そよぎ先輩は、もう厨房には興味を失ったように、店内の奥を見た。
「さて、本命はこちらですわ」
菓子パン棚。
食パン棚や惣菜パン棚よりも、荒らされ方が激しかった。袋だけが破れて残っていたり、トレーが落ちていたりする。
棚の上には、手書き風のポップが貼られていた。
『春限定! 苺クリームデニッシュ』
チラシに載っていたやつだ。
けれど、商品はない。空っぽのトレーだけが残っている。
「苺クリームデニッシュ、ないですね」
「当然ですわ。人気商品とは、残らないものです」
「じゃあ来た意味は?」
「空の棚があることです」
「前向きすぎる」
「甘味を探す者は、空白に価値を見出すのです」
「かっこいいこと言ってるようで、ガチャ回したいだけですよね」
「もちろんですわ」
棚には、潰れた袋と、乾いたパンくずのようなものが少しだけ残っていた。
そよぎ先輩が目を細める。
「これは食べる価値なし。棚に残す価値もなし」
パチン。
小さな音とともに、それらは灰のように消えた。菓子パン棚が、完全に空になる。
私は、少し息を整えた。
食パン棚では反応しなかった。でも、ここは違う。
菓子パン。甘いパン。主食に近いけれど、たぶんスイーツ側に片足を突っ込んでいる棚。
「いきます」
「ええ。期待はして、指定はしない」
「わかってます」
私は、空の菓子パン棚に手を近づけた。
その瞬間。
棚の上の空のトレーが、かたかたと揺れた。
「……来た」
商品札が、風もないのに一枚ずつめくれていく。
『苺クリームデニッシュ』
かたん。
『チョココロネ』
かたん。
『ミルクブリオッシュ』
かたん。
『あんバター塩パン』
かたん。
『焦がしカスタード・デニッシュリング』
そこで、札の揺れが止まった。
次の瞬間、空っぽだったトレーの上に、袋入りの商品が二つ現れる。
丸いデニッシュ。表面に薄く砂糖。中心に焦げ目のついたカスタード。
『焦がしカスタード・デニッシュリング』
「苺じゃない」
「ガチャですもの」
「ですよね」
「けれど、デニッシュではありますわ。かなり近い負けです」
「負け扱いなんですか」
「いいえ。勝ち寄りの妥協です」
「ややこしい」
私は一つ手に取った。袋越しでも、少しだけ甘い匂いがした。
ただし、そのままでは不安がある。パンデミックから一週間以上。どこかに残っていた在庫が呼ばれたものだとしても、状態が良いとは限らない。
そよぎ先輩が、袋の上からじっと見た。
「少し落ちていますわね。ですが、戻せます」
先輩は袋に指を添えた。
「賞味期限を、少しだけ巻き戻します」
パチン。
デニッシュの表面が、ほんの少しだけつやを取り戻したように見えた。袋の中の砂糖がさらりと動き、焦がしカスタードの香りが少しだけ強くなる。
「よろしい。食べられます」
「食べる場所は?」
私は店内を見回した。
イートイン席はない。小さなベンチすらない。棚とレジと厨房だけ。純粋に、パンを買って帰る店だったらしい。
「食べ歩きですわね」
「これ、食べ歩きに向いてます?」
「向いていないからこそ、食べ歩く価値があります」
「意味がわからない」
「生存に向いていない食べ物ほど、文化の匂いがしますもの」
「その理屈、だいぶ危ないですよ」
私たちは店を出た。
商店街のシャッターが並ぶ道に、朝の薄い光が差している。遠くにゾンビの影が二つ。でも、まだこちらには近づいていない。
私はデニッシュの袋を開け、一口かじった。
その瞬間、移動用の結界が少しだけ張り直される。
パイのような層が、口の中でほろりと崩れた。焦がしカスタードの甘さと、少しだけ苦い香り。思ったより、ちゃんとおいしい。
ただ、食べにくい。
袋の中でデニッシュの欠片が落ちる。カスタードが少しはみ出る。
「これ、絶対歩きながら食べるものじゃないです」
「ええ。だから贅沢なのですわ」
「歩きにくさを贅沢にしないでください」
「食パンは生存ですわ。菓子パンは娯楽です」
「娯楽って、今必要ですか?」
「必要ではありません。だから価値があります」
「また変なことを」
「必要なものだけで人間が満ちるなら、スイーツなど生まれていませんわ」
私は、もう一口かじった。
たしかに、食パンの方が役に立つ。水と一緒に食べれば、お腹も膨れる。でも、今のこのデニッシュは、食パンとは違う場所に届く。
お腹ではなく、気分の方に。
「……でも、私は好きです。パンなのに、ちゃんとおやつって感じがして」
「あら」
「何ですか」
「モブ子さんが、また自分の感想を言いましたわ」
「そろそろ慣れてください」
「希少現象は、何度観測しても価値があります」
「人を天体ショーみたいに言わないでください」
そよぎ先輩は、デニッシュリングを一口食べた。しばらく黙って味を見ている。
その間、私たちは商店街をゆっくり歩いた。崩れやすいデニッシュを守るために、自然と歩幅が小さくなる。
何をしているんだろう、と思う。
ゾンビだらけの街で、菓子パンの欠片をこぼさないように歩いている。
だいぶ、おかしい。
でも、嫌ではなかった。
「八十二点ですわね」
「高い」
「焦がしカスタードの苦味が、甘さを引き締めています。デニッシュ生地の層も悪くありません。惜しむらくは、食べ歩きに対して少々崩れやすいこと」
「それ、食べ歩きしてる私たちの問題では?」
「商品とは、食べる状況まで試されるものですわ」
「無茶言ってる」
「それと、苺クリームデニッシュではありませんでしたが、ガチャの結果としては当たり寄りです」
「勝ち寄りの妥協じゃなかったんですか」
「八十二点を取った時点で、だいたい勝ちですわ」
「採点で雑にまとめた」
そよぎ先輩は満足そうに最後の一口を食べた。
私も、袋に残った欠片をつまんで口に入れる。
甘い。少し苦い。
パンなのに、ちゃんとおやつ。
食べ終わったあと、私は指先についたカスタードを見て、慌ててハンカチで拭った。
「先輩」
「何かしら」
「次、和菓子がいいです」
「……あら」
「クリーム系が続いたので。あんことか、もちっとしたものが食べたいです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
前なら、次に何を食べたいかなんて、先輩が勝手に決めるものだと思っていた。私はその後ろをついていって、出てきたものにツッコミを入れるだけ。
でも今は、口の中に残ったデニッシュの甘さが、別の甘さを呼んでいた。
「モブ子さんが、次の甘味を指定しましたわ」
「指定っていうか、希望です」
「大きな進歩ですわね」
「そんな成長イベントみたいに言わないでください」
そよぎ先輩は、畳んでいた『春の駅前スイーツ案内』を取り出した。
苺ショート。ピスタチオプリン。苺クリームデニッシュ。桜もち。春限定アイス。
先輩の指が、その中のひとつで止まる。
「では、明日は和菓子屋ですわね」
「桜もちですか?」
「期待はしましょう。でも期待しすぎてはいけません」
「またガチャの予防線ですか?」
「大切ですわ。甘いものは、楽しみに待つくらいがちょうどよろしいのです」
私は、空になったデニッシュの袋を畳んでポケットに入れた。
商店街のシャッターは、相変わらず閉まったままだ。世界はまだ、だいぶ駄目そうだった。
でも、明日の私は、あんこと、もちっとしたものを少しだけ楽しみにしている。
それはたぶん、生存にはまったく必要ない。
だからこそ、今は少しだけ必要だった。