終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい   作:オカノヒカル

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第12話 アイスは待ってくれませんわ

 

 和菓子屋を出たあとも、口の中にはまだ、あんこの甘さが残っていた。

 

 夜桜あんころ餅。名前のわりに夜はそこまで深くなかったけれど、桜の香りは後から来た。思い出したように、ふわっと。それが少しだけ惜しくて、私は何度か舌で上あごをなぞった。

 

「モブ子さん」

「はい」

「未練がましいですわね」

「言い方」

 

 そよぎ先輩は、和菓子屋の店先で『春の駅前スイーツ案内』を広げていた。もう何度も見ているチラシなのに、先輩は毎回、新しい地図でも読むみたいに真剣な顔をする。

 

「次は、こちらですわ」

 

 先輩の指が、チラシの端を押さえた。少し離れた場所にある小さなショッピングモール。その中に、アイスクリーム店の名前が載っている。

 

『春の冷たいごほうびフェア開催中!』

 

 写真には、桜色と白と苺色のアイスが、丸く二つ重なっていた。

 

「春限定アイス……ですか」

「ええ。冷たいものを希望したのは、モブ子さんですわよ」

「希望はしましたけど、チラシ通りに出るとは限らないんですよね」

「学習しましたわね」

「先輩と一緒にいると、嫌でも学習します」

 

 私はポケットから飴を取り出した。今度は青りんご味だった。包装を破って口に入れると、安い甘酸っぱさが舌に広がる。

 

 足元の空気が、うっすらと張った。移動用の結界。飲食用の場所ではない道の上だと、どうしても狭くなる。私と先輩が並んで歩けるくらいで、少しでも離れたら、外側の臭いや音が入り込んでくる。

 

「では、参りましょう」

「はいはい」

 

 私たちは商店街を抜けて、モールの方へ向かった。

 

 道中、何体かゾンビはいた。曲がった標識にもたれかかっているもの。ガードレールに片足を引っかけたまま、同じ場所で足踏みしているもの。コンビニの前で、開かない自動ドアに頭をぶつけ続けているもの。

 

 そよぎ先輩は、こちらに近づいてきたものだけを廃棄した。

 

「通行期限切れですわ」

 

 パチン。

 それで一体が灰みたいにほどける。戦いではない。やっぱり掃除に近い。

 

 私は青りんご味の飴を転がしながら、なるべく足元だけを見て歩いた。

 

 ショッピングモールは、思っていたより大きかった。いや、普段なら大きさとかは感じなかったかもしれない。ただ、世界が終わったあとに見るモールは、やけに大きく、そして広く見える。

 

 入口の自動ドアは半分だけ開いていた。ガラスの一部が割れ、床に破片が散っている。倒れた観葉植物の土が、茶色く広がっていた。

 

 上にある看板には、かすれた文字で『ノースサイドモール』と書かれている。

 

「先輩」

「何かしら」

「モールって、探索するには広すぎません?」

 

 私は入口の奥を見た。薄暗い通路。閉まったシャッター。床に転がった紙袋。フードコートの案内看板。そして、遠くから聞こえる、何かがぶつかる音。

 

「今日はフードコートだけですわ」

「その言葉、信用していいんですよね?」

「アイスが見つかるまでは」

「信用できない返事ですね」

 

 そよぎ先輩は、割れたガラスを踏まないように足を運びながら中へ入った。この人、血はあまり気にしないのに、ガラス片と埃はわりと気にする。基準がわからない。

 

 入口を抜けると、すぐ横に大きな案内図があった。一階は食品売場、ドラッグストア、フードコート、アイスクリーム店。二階は衣料品、雑貨、ブランドショップ、百円ショップ。

 

 私はフードコートの場所を探そうとして、その前に黒い文字を見つけた。案内図の二階部分に、油性ペンで大きく書かれている。

 

『二階には行くな』

 

 字は乱暴だった。急いで書いたのか、怒りながら書いたのか、線が何度かはみ出している。

 

「……先輩」

「ええ」

 

 そよぎ先輩も、その文字を見ていた。

 

「これ、棚橋さんですかね」

「断定はできませんわ」

「でも、似てます?」

「親切な警告にも、縄張り表示にも見えるところが、少しだけ」

「それ、だいぶ棚橋さんっぽいって言ってません?」

「わたくしは何も断定しておりません」

 

 棚橋。

 ドラッグストアで会った男。警告文を書いていたくせに、私たちを囮にして薬を持ち出そうとした人。親切そうに高級チョコを渡して、その袋にキッチンタイマーを仕込んでいた人。

 思い出すと、口の中にあった青りんご味が、少しだけ苦くなった気がした。

 

「二階……」

 

 私は案内図を見直した。ブランドショップ。雑貨店。百円ショップ。

 

「先輩、二階に百円ショップがあります」

「ありますわね」

「電池とか、ライトとか、袋とか、テープとか、かなり使えそうじゃないですか?」

「ええ。終末初期における小型ホームセンターですわ」

「じゃあ――」

「ですが、今は興味ありませんわ」

 

 早かった。あまりにも早く切られた。

 

「生存物資ですよ?」

「百円ショップは逃げません。アイスは溶けます」

「その理屈で生存物資を後回しにする人、なかなかいませんよ」

 

 それに先輩の能力なら、溶けたアイスでさえ元通りになる。まあ、ただのこだわりなのだろうけど。

 

「だからこそ、わたくしたちがやる価値がありますの」

「価値の方向がおかしい」

 

 その時、上の方から、がしゃん、と大きな音がした。

 

 私は反射的に身を縮める。そよぎ先輩は、ゆっくり顔を上げた。

 吹き抜けになった二階の通路。そこに、人影が並んでいた。

 

 いや、人ではない。ゾンビだった。

 二階の人気ブランド店らしき場所の前に、列ができている。店名は、白い看板に金色の文字で書かれていた。

 

『LUNA CLAIRE』

 

 ルナ・クレール。たぶん、私が普通に生きていた頃なら、近づくだけで少し緊張するタイプの店だ。

 入口の前には、行列整理用のポールとベルトが残っている。ゾンビたちは、そのベルトに沿って並んでいた。無秩序に押し寄せているわけではない。ちゃんと、列になっている。一体ずつ、少しずつ、前へ進んでいる。

 

「……何ですか、あれ」

「並んでいますわね」

「見ればわかりますけど、なんで並んでるんですか」

「並ぶところまでは、覚えているのでしょうね」

 

 先頭のゾンビが、店の中へ入った。その瞬間、動きが変わった。

 それまで列に沿ってゆっくり歩いていたのに、店内に入った途端、急に頭を振り回した。鏡に映った自分に反応したのか、ガラスの壁に突っ込む。次に、服を着たマネキンに噛みついた。

 

 倒れたマネキンと一緒に、ハンガーラックへ突っ込む。

 がしゃん。

 

 また音がした。棚が倒れ、何かの箱が床に散らばる。ゾンビはその中で暴れ、最後には首のあたりから崩れた。

 

 それでも、列は乱れなかった。次の一体が、一歩進む。

 

「……怖いんですけど」

「買うところは残っていないのでしょう」

「買うところ?」

「購買行動のうち、並ぶという外側だけが残ったのですわ。店に入ったあとの選ぶ、払う、持ち帰る、という部分は失われている。だから入店した瞬間、ただの迷惑在庫になります」

「嫌な社会派コメントやめてください」

「限定品の発売日だったのかもしれませんわね」

 

 そよぎ先輩は、二階のブランド店を見上げたまま、楽しそうでも、悲しそうでもない顔をしていた。

 和菓子屋の茶席にいた老婆ゾンビを見た時とは違う。あの人は座っていた。古い歌みたいな声を出していた。こちらを襲わなかった。

 

 でも、今見えている列は、もっと空っぽだった。

 並んでいる。ただ、それだけ。

 

「先輩。あれ、放っておいていいんですか?」

「本日の甘味には関係ありませんわ」

「言い切った」

「しかも二階です。イートイン席もありません。わざわざ上がる価値が見当たりませんわね」

「百円ショップは?」

「今は興味ありません」

「本当にアイス優先なんですね」

「モブ子さん」

 

 そよぎ先輩は、ようやく二階から視線を外した。そして、こう続ける。

 

「わたくしたちがアイスを味わうのではないわ。あの方が固体でいられる『刹那の猶予』に、わたくしたちが必死に喰らいついているだけですのよ?」

 

 名言っぽかった。でも、やっぱりだいぶ駄目だった。

 

 フードコートは、一階の奥にあった。

 倒れた椅子。床に散らばったトレー。乾いたソースの赤い跡。ひっくり返ったベビーチェア。紙コップの山。呼び出しベルが、一つだけテーブルの下に転がっている。

 

 人はもういない。でも、食べる場所としての形は残っていた。

 私は近くのテーブル席に座った。その瞬間、移動用に狭く張っていた結界が、ふっと広がる。

 

 空気が変わった。二階から聞こえていた破壊音が、少し遠くなる。腐った臭いも、薄くなる。私の周りに、見えない壁が広がっていく。

 

 ここは飲食空間だ。食べるための場所だ。だから、結界が安定する。

 

「……いけそうです」

「ええ。良い席ですわね」

「まあ、落ち着いて食べられそうですね」

「結界は、ですわ」

「結界は?」

「アイスは落ち着いてくれませんもの」

 

 そよぎ先輩はフードコートの端を指差した。

 そこに、目的の店があった。

 

『アイスパーラー・スノーベル』

 

 水色と白の看板。雪の結晶みたいなマーク。カウンターの上には、春フェアのポスターが貼られている。

 

『春の冷たいごほうびフェア』

 

 写真の中のアイスは、きれいだった。でも、現実のケースはひどかった。

 

「……うわ」

 

 私は思わず声を出した。

 透明なケースの中で、アイスだったものが溶けていた。白、茶色、薄緑、ピンク。いくつもの色が混ざって、濁った液体になっている。

 倒れたフレーバー札。ふやけたコーン。横倒しになったカップ。春限定らしい札だけが、なぜか奥に残っていた。でも、その下にあったはずのアイスは、もう形を失っている。

 

「春限定、もう駄目そうですね」

「アイスとしての尊厳を失っていますわ」

「尊厳ってアイスにもあるんですか」

「あります。少なくとも液体になる前までは」

 

 そよぎ先輩は、ケースの中を真剣に見た。ゾンビを見る時より、少し嫌そうな顔をしている。

 

「これは戻せないんですか?」

「原形がありませんわね。どれが何味だったのか、境目もありません。戻すより廃棄した方が早いです」

「アイスに厳しい」

「食べられないアイスは、冷たい夢の残骸ですわ」

「急に詩的にしないでください」

 

 そよぎ先輩が、ケースに指を向ける。

 

「廃棄ですわ」

 

 パチン。

 指を鳴らす音が、フードコートに響いた。ケースの中の濁った液体が、すうっと消えていく。倒れた札も、ふやけたコーンも、ぐずぐずになったカップも、全部、灰色のほこりみたいにほどけて消えた。

 

 残ったのは、空っぽのアイスケース。銀色の底。そして、妙にきれいになったガラス。

 

「……準備完了ですか」

「ええ。空棚ですわ」

「アイスケースですけどね」

「冷凍スイーツ棚ですもの。いけるはずですわ」

 

 私は空のケースに手を近づけた。胸の奥が、少しだけざわつく。

 空っぽの場所。何も残っていない棚。そこに、甘いものがあったら。

 

「……何でもいいです。アイスを、二つ」

 

 口に出した瞬間、ケースの中に残っていたフレーバー札が揺れた。かた、かた、と小さく鳴る。

 

『ミルクバニラ』

『チョコミント』

『苺ソルベ』

『焦がしキャラメル』

『クッキークリーム』

『抹茶ミルク』

 

 光が、順番に走った。札の文字が、くるくる回るみたいに明滅する。

 

 春限定の札にも、一瞬、光が止まりかけた。でも、そこでは止まらない。

 ミルクバニラ。チョコミント。焦がしキャラメル。クッキークリーム。焦がしキャラメル。ミルクバニラ。

 そこで、光が止まった。

 

 次の瞬間、空だったケースの中に、透明なカップが二つ現れた。

 白いアイスと、茶色いアイス。茶色い方には、黒っぽいクッキーの粒が混ざっている。ラベルには、こう書かれていた。

 

『焦がしキャラメルクッキーとミルクバニラのダブルカップ』

 

「……春限定じゃないんですね」

「悪くありませんわ」

 

 そよぎ先輩の声は、むしろ少し満足そうだった。

 

「限定に頼らず、定番の骨格で勝負する。そういう姿勢は嫌いではありません」

「アイスに姿勢を求める人、初めて見ました」

 

 私はカップを取り出した。少し柔らかい。透明な蓋越しに見ると、表面がほんの少しゆるんでいた。

 

「これ、もう溶けかけてますよ」

「見せてください」

 

 そよぎ先輩はカップを受け取り、目を細めた。さっきまで二階の行列を見ていた時より、ずっと真剣だった。

 

「まだ戻せます」

 

 先輩はカップに指を添える。

 

「賞味期限を、少しだけ巻き戻しますわ」

 

 パチン。

 指の音。次の瞬間、カップの中のアイスが、きゅっと締まったように見えた。ミルクバニラの白さが戻り、焦がしキャラメルの茶色い筋が、少しはっきりする。クッキーの粒も、沈みかけていたのが少しだけ浮いた。

 

「おお」

「食べ頃ですわ」

「じゃあ、落ち着いて――」

「急いで食べなさい、モブ子さん」

「え」

 

 そよぎ先輩は、個包装のスプーンを二本取りながら言った。

 

「戻せるのは食べ頃までです。冷凍庫の役目をし続けるわけではありません」

「つまり?」

「今この瞬間から、再び液体への堕落が始まっています」

「言い方」

「アイスは待ってくれませんわ」

 

 私は慌ててテーブルに戻った。

 結界は安定している。フードコートの外側にいるゾンビのうめき声も、二階の破壊音も遠い。なのに、私たちはなぜか焦っていた。

 

 理由は簡単。アイスが溶けるから。

 蓋を開けると、甘い匂いがした。ミルクとキャラメル。冷たい匂い。それだけで、少し気分が変わる。

 私はまず、ミルクバニラをすくった。

 一口。

 

 冷たい。

 それだけで、体の内側が一瞬止まったみたいになった。

 

「……冷たい」

「当たり前のことを、ありがたく感じられる状況ですわね」

「本当に」

 

 バニラは、すごく派手な味ではなかった。でも、甘くて、白くて、丸い。さっきまで食べていたあんこの甘さとは違う。口の中が、すっと冷える。

 

「私は、バニラの方が好きかもしれません」

「あら。自己申告が早いですわね」

「溶ける前に言いました」

「よろしい心がけです」

 

 そよぎ先輩は焦がしキャラメルの方をすくった。口に入れて、すぐに少し目を細める。

 

「焦がしキャラメルは悪くありませんわ。甘さの奥に苦味があり、ミルクバニラの単調さを引き締めています。クッキーの粒も、序盤はよろしいですわね。冷たい中に、噛む場所があるのは大切です」

「先輩、早口ですね」

「溶ける前に言語化しなくてはなりませんもの」

「食レポってそんな競技でしたっけ」

「本来、スイーツの評価は時間との戦いですわ。焼きたて、冷やしたて、溶けかけ。状態は常に変わります」

「急にまともなこと言いますね」

「わたくしはいつでもまともです」

「そこは違います」

 

 二階で、また何かが壊れる音がした。

 がしゃん。

 続けて、ばらばらと箱のようなものが落ちる音。私はスプーンを持ったまま、吹き抜けの方を見た。

 

「今の音、大丈夫ですか?」

「行列がひとつ消化されただけですわ」

「言い方」

「こちらに来る気配はありません。食べなさい、モブ子さん。そちらのバニラ、端から溶けていますわ」

「わ、ほんとだ」

 

 私は慌ててスプーンを動かした。カップの縁に、白い液体がにじんでいる。

 結界の中は安全なのに、アイスだけは容赦なく崩れていく。

 

 焦がしキャラメルクッキーをすくう。口に入れると、甘い。でも、ただ甘いだけじゃない。少し苦い。クッキーの粒が、歯に当たる。そこまでは良かった。

 

 ただ、次にすくった時には、もう少し柔らかくなっていた。

 

「あ、クッキー、ちょっとしんなりしてきました」

「早いですわね」

「アイスの中にいる時点で、クッキーも大変なんですよ」

「ならば大変さに耐える覚悟を持って混ざるべきです」

「クッキーに覚悟を求めないでください」

「食感を担う者には責任があります」

「責任を背負わされるクッキーがかわいそうです」

 

 でも、たしかに最初の一口目の方が食感は良かった。冷たいアイスの中で、キャラメルの苦味とクッキーの香ばしさが少しだけ立ち上がる。そのあとに、ミルクバニラを食べると、口の中が丸くなる。

 交互に食べるとおいしい。ただ、急がないといけない。

 

「先輩」

「何かしら」

「これ、すごくおいしいんですけど、忙しいです」

「アイスとはそういうものですわ。優雅に見えて、実は短命ですの」

「なんか急に切ないこと言わないでください」

「溶けるものを、溶ける前に味わう。それが本日の課題ですわね」

 

 そよぎ先輩はそう言いながら、けっこうな速度でスプーンを動かしていた。普段なら、一口ごとに味を考えて、文句を言って、採点のために間を取る。でも今日は、その間が短い。

 

 焦がしキャラメルが、カップの中でだんだん柔らかくなっていく。ミルクバニラも、端から崩れていく。

 私はスプーンで底をさらった。少し溶けたバニラとキャラメルが混ざっている。それはそれで、甘かった。

 

「溶けたところ、ちょっとおいしいですね」

「ええ。ですが、それはアイスというより、冷たいソースに近いですわ」

「厳しい」

「アイスはアイスの形を保ってこそです」

「でも私は、最後のこの混ざったところも嫌いじゃないです」

「……ふむ」

 

 そよぎ先輩は、私のカップをちらりと見た。

 

「観測値の追加ですわね」

「点数、上がります?」

「内容によります」

「そこは上げてくれないんですね」

 

 先輩は最後の一口を食べた。それから、空になったカップをテーブルに置く。

 私はまだ少し残っていた溶けた部分をすくって、口に入れた。冷たさは弱くなっていた。でも、甘い。終末のモールで、二階に行列ゾンビがいる中で食べるには、十分すぎるくらい甘かった。

 

「では、採点ですわ」

「はい」

 

 そよぎ先輩は、少しだけ考えた。その間にも、二階ではまた一体が店に入ったらしく、何かが倒れる音がした。でも、先輩は見上げない。

 

「焦がしキャラメルの苦味、ミルクバニラの丸さ、序盤のクッキー食感は評価できますわ。定番の組み合わせとして安定しています」

「褒めてる」

「ただし、融解による劣化が早い。クッキーは後半、役割を失いかけていました」

「クッキーに厳しい」

「そして、優雅に味わう余裕を削られる点も減点ですわね」

「アイスが溶けるのは仕方なくないですか」

「仕方ないことと、減点しないことは別ですわ」

 

 先輩は、空のカップを指で軽く叩いた。

 

「七十九点」

「おお。けっこう高い」

「焦がしキャラメルクッキーとミルクバニラのダブルカップ、七十九点。溶ける前なら八十一点もあり得ましたわ」

「そこまで時間で変わるんですね」

「スイーツは状態ですもの」

 

 そよぎ先輩は、スプーンを袋に入れた。

 

 私は空になったカップを見た。底に、ほんの少しだけ白と茶色が混ざった跡が残っている。急いで食べたのに、少しもったいない気がした。

 

 でも、たぶんそれもアイスなのだと思う。最後まできれいに残せない。油断すると、形が変わる。だから、食べる時は急がなきゃいけない。ゾンビより、ずっと静かで、ずっと正確に迫ってくる敵だった。

 

 二階では、まだ列が続いていた。一体が店に入る。中で暴れる。崩れる。次の一体が、一歩進む。同じことの繰り返し。

 

 私は案内図に書かれていた文字を思い出した。

 二階には行くな。

 

「先輩。二階、どうします?」

「行きませんわ」

「即答ですね」

「本日の目的は果たしましたもの。百円ショップもブランド店も、わたくしの舌には乗りません」

「生存物資は舌に乗せるものじゃないです」

「では、余計に今ではありませんわね」

 

 そよぎ先輩は立ち上がった。

 フードコートの結界は、まだ安定している。ここで夜を越すことも、できなくはなさそうだった。でも、二階の行列の音が、時々響く。それに、モールは広い。どこに何が残っているかわからない。ファミレスの方が、まだ安心できる。

 

 私はカップとスプーンをまとめようとして、ふと、フードコートの出口近くにある掲示板に目が止まった。

 チラシが何枚も貼られている。古いイベント告知。閉店セール。子ども向けの絵画教室。その中に、一枚だけ、手書きの紙があった。

 

 棚橋さんの乱暴な字ではない。青いボールペンで書かれた、まっすぐな字。

 私は近づいて、それを読んだ。

 

『生きている人へ。

 北町西小学校、体育館で受け入れ中。

 水と寝床あり。物資持ち込み歓迎。

 噛まれた人、発熱している人は入れません。

 正門は危険。東門へ。

 日没前に来てください。』

 

「……避難所」

 

 声が、勝手に出た。

 

 避難所。その言葉を見たのは、世界が終わってから初めてかもしれない。いや、学校が壊れた日にも、どこかで聞いた気がする。でも、あの時はもう、放送も先生たちの指示もめちゃくちゃだった。

 

 この紙は違う。誰かが、まだ生きている人に向けて書いている。

 来てください、と。

 

 そよぎ先輩が隣に来た。紙を一通り読んで、ある一文を指で軽く叩く。

 

「物資持ち込み歓迎、ですか」

「見るところ、そこですか?」

「人が集まる場所には、食べ物も集まりますわ」

「先輩、避難所ですよ。助かるかもしれない場所ですよ」

「もちろんですわ」

 

 先輩は、にっこり笑った。

 

「ついでに、甘いものが残っている可能性もあります」

「目的が不純です」

「純粋に甘味を求めているのですから、むしろ純粋では?」

「そういう意味じゃないです」

 

 私はもう一度、紙を見た。

 

 二階には行くな。東門へ。

 

 同じモールの中に、二つの手書きの言葉がある。一つは、誰かを遠ざける文字。もう一つは、誰かを呼ぶ文字。

 どちらも信用できるとは限らない。棚橋さんのことを思い出せば、親切そうな言葉ほど危ないこともある。

 それでも。

 

 青いボールペンの字から、目を離せなかった。

 

「北町西小学校って、ここから近いんですかね」

「チラシの地図には載っていませんわね。ですが、北町というくらいですから、遠すぎることはないでしょう」

「適当ですね」

「明るいうちに動けば、確認くらいはできますわ」

「行くんですか?」

「行かない理由がありませんわ」

「避難するためですか?」

「味わうためです」

「避難所を?」

「避難所に集まった食べ物を、ですわ」

「最低だ」

 

 でも、私は少しだけ安心していた。

 

 そよぎ先輩は、避難所という言葉に救いを見ていない。たぶん、普通の人が期待するような意味では。それでも、行くと言った。

 

 人がいるかもしれない場所へ。水と寝床があるかもしれない場所へ。そして、甘いものが残っているかもしれない場所へ。

 

 二階で、また何かが壊れた。行列は、まだ終わらない。

 

 私は掲示板の紙を見上げたまま、口の中に残ったミルクバニラの甘さを、少しだけ探した。

 世界が終わってから、久しぶりに見た。

 

 罠かもしれない字ではなく。

 

 誰かを待っている字だった。

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