終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
和菓子屋を出たあとも、口の中にはまだ、あんこの甘さが残っていた。
夜桜あんころ餅。名前のわりに夜はそこまで深くなかったけれど、桜の香りは後から来た。思い出したように、ふわっと。それが少しだけ惜しくて、私は何度か舌で上あごをなぞった。
「モブ子さん」
「はい」
「未練がましいですわね」
「言い方」
そよぎ先輩は、和菓子屋の店先で『春の駅前スイーツ案内』を広げていた。もう何度も見ているチラシなのに、先輩は毎回、新しい地図でも読むみたいに真剣な顔をする。
「次は、こちらですわ」
先輩の指が、チラシの端を押さえた。少し離れた場所にある小さなショッピングモール。その中に、アイスクリーム店の名前が載っている。
『春の冷たいごほうびフェア開催中!』
写真には、桜色と白と苺色のアイスが、丸く二つ重なっていた。
「春限定アイス……ですか」
「ええ。冷たいものを希望したのは、モブ子さんですわよ」
「希望はしましたけど、チラシ通りに出るとは限らないんですよね」
「学習しましたわね」
「先輩と一緒にいると、嫌でも学習します」
私はポケットから飴を取り出した。今度は青りんご味だった。包装を破って口に入れると、安い甘酸っぱさが舌に広がる。
足元の空気が、うっすらと張った。移動用の結界。飲食用の場所ではない道の上だと、どうしても狭くなる。私と先輩が並んで歩けるくらいで、少しでも離れたら、外側の臭いや音が入り込んでくる。
「では、参りましょう」
「はいはい」
私たちは商店街を抜けて、モールの方へ向かった。
道中、何体かゾンビはいた。曲がった標識にもたれかかっているもの。ガードレールに片足を引っかけたまま、同じ場所で足踏みしているもの。コンビニの前で、開かない自動ドアに頭をぶつけ続けているもの。
そよぎ先輩は、こちらに近づいてきたものだけを廃棄した。
「通行期限切れですわ」
パチン。
それで一体が灰みたいにほどける。戦いではない。やっぱり掃除に近い。
私は青りんご味の飴を転がしながら、なるべく足元だけを見て歩いた。
ショッピングモールは、思っていたより大きかった。いや、普段なら大きさとかは感じなかったかもしれない。ただ、世界が終わったあとに見るモールは、やけに大きく、そして広く見える。
入口の自動ドアは半分だけ開いていた。ガラスの一部が割れ、床に破片が散っている。倒れた観葉植物の土が、茶色く広がっていた。
上にある看板には、かすれた文字で『ノースサイドモール』と書かれている。
「先輩」
「何かしら」
「モールって、探索するには広すぎません?」
私は入口の奥を見た。薄暗い通路。閉まったシャッター。床に転がった紙袋。フードコートの案内看板。そして、遠くから聞こえる、何かがぶつかる音。
「今日はフードコートだけですわ」
「その言葉、信用していいんですよね?」
「アイスが見つかるまでは」
「信用できない返事ですね」
そよぎ先輩は、割れたガラスを踏まないように足を運びながら中へ入った。この人、血はあまり気にしないのに、ガラス片と埃はわりと気にする。基準がわからない。
入口を抜けると、すぐ横に大きな案内図があった。一階は食品売場、ドラッグストア、フードコート、アイスクリーム店。二階は衣料品、雑貨、ブランドショップ、百円ショップ。
私はフードコートの場所を探そうとして、その前に黒い文字を見つけた。案内図の二階部分に、油性ペンで大きく書かれている。
『二階には行くな』
字は乱暴だった。急いで書いたのか、怒りながら書いたのか、線が何度かはみ出している。
「……先輩」
「ええ」
そよぎ先輩も、その文字を見ていた。
「これ、棚橋さんですかね」
「断定はできませんわ」
「でも、似てます?」
「親切な警告にも、縄張り表示にも見えるところが、少しだけ」
「それ、だいぶ棚橋さんっぽいって言ってません?」
「わたくしは何も断定しておりません」
棚橋。
ドラッグストアで会った男。警告文を書いていたくせに、私たちを囮にして薬を持ち出そうとした人。親切そうに高級チョコを渡して、その袋にキッチンタイマーを仕込んでいた人。
思い出すと、口の中にあった青りんご味が、少しだけ苦くなった気がした。
「二階……」
私は案内図を見直した。ブランドショップ。雑貨店。百円ショップ。
「先輩、二階に百円ショップがあります」
「ありますわね」
「電池とか、ライトとか、袋とか、テープとか、かなり使えそうじゃないですか?」
「ええ。終末初期における小型ホームセンターですわ」
「じゃあ――」
「ですが、今は興味ありませんわ」
早かった。あまりにも早く切られた。
「生存物資ですよ?」
「百円ショップは逃げません。アイスは溶けます」
「その理屈で生存物資を後回しにする人、なかなかいませんよ」
それに先輩の能力なら、溶けたアイスでさえ元通りになる。まあ、ただのこだわりなのだろうけど。
「だからこそ、わたくしたちがやる価値がありますの」
「価値の方向がおかしい」
その時、上の方から、がしゃん、と大きな音がした。
私は反射的に身を縮める。そよぎ先輩は、ゆっくり顔を上げた。
吹き抜けになった二階の通路。そこに、人影が並んでいた。
いや、人ではない。ゾンビだった。
二階の人気ブランド店らしき場所の前に、列ができている。店名は、白い看板に金色の文字で書かれていた。
『LUNA CLAIRE』
ルナ・クレール。たぶん、私が普通に生きていた頃なら、近づくだけで少し緊張するタイプの店だ。
入口の前には、行列整理用のポールとベルトが残っている。ゾンビたちは、そのベルトに沿って並んでいた。無秩序に押し寄せているわけではない。ちゃんと、列になっている。一体ずつ、少しずつ、前へ進んでいる。
「……何ですか、あれ」
「並んでいますわね」
「見ればわかりますけど、なんで並んでるんですか」
「並ぶところまでは、覚えているのでしょうね」
先頭のゾンビが、店の中へ入った。その瞬間、動きが変わった。
それまで列に沿ってゆっくり歩いていたのに、店内に入った途端、急に頭を振り回した。鏡に映った自分に反応したのか、ガラスの壁に突っ込む。次に、服を着たマネキンに噛みついた。
倒れたマネキンと一緒に、ハンガーラックへ突っ込む。
がしゃん。
また音がした。棚が倒れ、何かの箱が床に散らばる。ゾンビはその中で暴れ、最後には首のあたりから崩れた。
それでも、列は乱れなかった。次の一体が、一歩進む。
「……怖いんですけど」
「買うところは残っていないのでしょう」
「買うところ?」
「購買行動のうち、並ぶという外側だけが残ったのですわ。店に入ったあとの選ぶ、払う、持ち帰る、という部分は失われている。だから入店した瞬間、ただの迷惑在庫になります」
「嫌な社会派コメントやめてください」
「限定品の発売日だったのかもしれませんわね」
そよぎ先輩は、二階のブランド店を見上げたまま、楽しそうでも、悲しそうでもない顔をしていた。
和菓子屋の茶席にいた老婆ゾンビを見た時とは違う。あの人は座っていた。古い歌みたいな声を出していた。こちらを襲わなかった。
でも、今見えている列は、もっと空っぽだった。
並んでいる。ただ、それだけ。
「先輩。あれ、放っておいていいんですか?」
「本日の甘味には関係ありませんわ」
「言い切った」
「しかも二階です。イートイン席もありません。わざわざ上がる価値が見当たりませんわね」
「百円ショップは?」
「今は興味ありません」
「本当にアイス優先なんですね」
「モブ子さん」
そよぎ先輩は、ようやく二階から視線を外した。そして、こう続ける。
「わたくしたちがアイスを味わうのではないわ。あの方が固体でいられる『刹那の猶予』に、わたくしたちが必死に喰らいついているだけですのよ?」
名言っぽかった。でも、やっぱりだいぶ駄目だった。
フードコートは、一階の奥にあった。
倒れた椅子。床に散らばったトレー。乾いたソースの赤い跡。ひっくり返ったベビーチェア。紙コップの山。呼び出しベルが、一つだけテーブルの下に転がっている。
人はもういない。でも、食べる場所としての形は残っていた。
私は近くのテーブル席に座った。その瞬間、移動用に狭く張っていた結界が、ふっと広がる。
空気が変わった。二階から聞こえていた破壊音が、少し遠くなる。腐った臭いも、薄くなる。私の周りに、見えない壁が広がっていく。
ここは飲食空間だ。食べるための場所だ。だから、結界が安定する。
「……いけそうです」
「ええ。良い席ですわね」
「まあ、落ち着いて食べられそうですね」
「結界は、ですわ」
「結界は?」
「アイスは落ち着いてくれませんもの」
そよぎ先輩はフードコートの端を指差した。
そこに、目的の店があった。
『アイスパーラー・スノーベル』
水色と白の看板。雪の結晶みたいなマーク。カウンターの上には、春フェアのポスターが貼られている。
『春の冷たいごほうびフェア』
写真の中のアイスは、きれいだった。でも、現実のケースはひどかった。
「……うわ」
私は思わず声を出した。
透明なケースの中で、アイスだったものが溶けていた。白、茶色、薄緑、ピンク。いくつもの色が混ざって、濁った液体になっている。
倒れたフレーバー札。ふやけたコーン。横倒しになったカップ。春限定らしい札だけが、なぜか奥に残っていた。でも、その下にあったはずのアイスは、もう形を失っている。
「春限定、もう駄目そうですね」
「アイスとしての尊厳を失っていますわ」
「尊厳ってアイスにもあるんですか」
「あります。少なくとも液体になる前までは」
そよぎ先輩は、ケースの中を真剣に見た。ゾンビを見る時より、少し嫌そうな顔をしている。
「これは戻せないんですか?」
「原形がありませんわね。どれが何味だったのか、境目もありません。戻すより廃棄した方が早いです」
「アイスに厳しい」
「食べられないアイスは、冷たい夢の残骸ですわ」
「急に詩的にしないでください」
そよぎ先輩が、ケースに指を向ける。
「廃棄ですわ」
パチン。
指を鳴らす音が、フードコートに響いた。ケースの中の濁った液体が、すうっと消えていく。倒れた札も、ふやけたコーンも、ぐずぐずになったカップも、全部、灰色のほこりみたいにほどけて消えた。
残ったのは、空っぽのアイスケース。銀色の底。そして、妙にきれいになったガラス。
「……準備完了ですか」
「ええ。空棚ですわ」
「アイスケースですけどね」
「冷凍スイーツ棚ですもの。いけるはずですわ」
私は空のケースに手を近づけた。胸の奥が、少しだけざわつく。
空っぽの場所。何も残っていない棚。そこに、甘いものがあったら。
「……何でもいいです。アイスを、二つ」
口に出した瞬間、ケースの中に残っていたフレーバー札が揺れた。かた、かた、と小さく鳴る。
『ミルクバニラ』
『チョコミント』
『苺ソルベ』
『焦がしキャラメル』
『クッキークリーム』
『抹茶ミルク』
光が、順番に走った。札の文字が、くるくる回るみたいに明滅する。
春限定の札にも、一瞬、光が止まりかけた。でも、そこでは止まらない。
ミルクバニラ。チョコミント。焦がしキャラメル。クッキークリーム。焦がしキャラメル。ミルクバニラ。
そこで、光が止まった。
次の瞬間、空だったケースの中に、透明なカップが二つ現れた。
白いアイスと、茶色いアイス。茶色い方には、黒っぽいクッキーの粒が混ざっている。ラベルには、こう書かれていた。
『焦がしキャラメルクッキーとミルクバニラのダブルカップ』
「……春限定じゃないんですね」
「悪くありませんわ」
そよぎ先輩の声は、むしろ少し満足そうだった。
「限定に頼らず、定番の骨格で勝負する。そういう姿勢は嫌いではありません」
「アイスに姿勢を求める人、初めて見ました」
私はカップを取り出した。少し柔らかい。透明な蓋越しに見ると、表面がほんの少しゆるんでいた。
「これ、もう溶けかけてますよ」
「見せてください」
そよぎ先輩はカップを受け取り、目を細めた。さっきまで二階の行列を見ていた時より、ずっと真剣だった。
「まだ戻せます」
先輩はカップに指を添える。
「賞味期限を、少しだけ巻き戻しますわ」
パチン。
指の音。次の瞬間、カップの中のアイスが、きゅっと締まったように見えた。ミルクバニラの白さが戻り、焦がしキャラメルの茶色い筋が、少しはっきりする。クッキーの粒も、沈みかけていたのが少しだけ浮いた。
「おお」
「食べ頃ですわ」
「じゃあ、落ち着いて――」
「急いで食べなさい、モブ子さん」
「え」
そよぎ先輩は、個包装のスプーンを二本取りながら言った。
「戻せるのは食べ頃までです。冷凍庫の役目をし続けるわけではありません」
「つまり?」
「今この瞬間から、再び液体への堕落が始まっています」
「言い方」
「アイスは待ってくれませんわ」
私は慌ててテーブルに戻った。
結界は安定している。フードコートの外側にいるゾンビのうめき声も、二階の破壊音も遠い。なのに、私たちはなぜか焦っていた。
理由は簡単。アイスが溶けるから。
蓋を開けると、甘い匂いがした。ミルクとキャラメル。冷たい匂い。それだけで、少し気分が変わる。
私はまず、ミルクバニラをすくった。
一口。
冷たい。
それだけで、体の内側が一瞬止まったみたいになった。
「……冷たい」
「当たり前のことを、ありがたく感じられる状況ですわね」
「本当に」
バニラは、すごく派手な味ではなかった。でも、甘くて、白くて、丸い。さっきまで食べていたあんこの甘さとは違う。口の中が、すっと冷える。
「私は、バニラの方が好きかもしれません」
「あら。自己申告が早いですわね」
「溶ける前に言いました」
「よろしい心がけです」
そよぎ先輩は焦がしキャラメルの方をすくった。口に入れて、すぐに少し目を細める。
「焦がしキャラメルは悪くありませんわ。甘さの奥に苦味があり、ミルクバニラの単調さを引き締めています。クッキーの粒も、序盤はよろしいですわね。冷たい中に、噛む場所があるのは大切です」
「先輩、早口ですね」
「溶ける前に言語化しなくてはなりませんもの」
「食レポってそんな競技でしたっけ」
「本来、スイーツの評価は時間との戦いですわ。焼きたて、冷やしたて、溶けかけ。状態は常に変わります」
「急にまともなこと言いますね」
「わたくしはいつでもまともです」
「そこは違います」
二階で、また何かが壊れる音がした。
がしゃん。
続けて、ばらばらと箱のようなものが落ちる音。私はスプーンを持ったまま、吹き抜けの方を見た。
「今の音、大丈夫ですか?」
「行列がひとつ消化されただけですわ」
「言い方」
「こちらに来る気配はありません。食べなさい、モブ子さん。そちらのバニラ、端から溶けていますわ」
「わ、ほんとだ」
私は慌ててスプーンを動かした。カップの縁に、白い液体がにじんでいる。
結界の中は安全なのに、アイスだけは容赦なく崩れていく。
焦がしキャラメルクッキーをすくう。口に入れると、甘い。でも、ただ甘いだけじゃない。少し苦い。クッキーの粒が、歯に当たる。そこまでは良かった。
ただ、次にすくった時には、もう少し柔らかくなっていた。
「あ、クッキー、ちょっとしんなりしてきました」
「早いですわね」
「アイスの中にいる時点で、クッキーも大変なんですよ」
「ならば大変さに耐える覚悟を持って混ざるべきです」
「クッキーに覚悟を求めないでください」
「食感を担う者には責任があります」
「責任を背負わされるクッキーがかわいそうです」
でも、たしかに最初の一口目の方が食感は良かった。冷たいアイスの中で、キャラメルの苦味とクッキーの香ばしさが少しだけ立ち上がる。そのあとに、ミルクバニラを食べると、口の中が丸くなる。
交互に食べるとおいしい。ただ、急がないといけない。
「先輩」
「何かしら」
「これ、すごくおいしいんですけど、忙しいです」
「アイスとはそういうものですわ。優雅に見えて、実は短命ですの」
「なんか急に切ないこと言わないでください」
「溶けるものを、溶ける前に味わう。それが本日の課題ですわね」
そよぎ先輩はそう言いながら、けっこうな速度でスプーンを動かしていた。普段なら、一口ごとに味を考えて、文句を言って、採点のために間を取る。でも今日は、その間が短い。
焦がしキャラメルが、カップの中でだんだん柔らかくなっていく。ミルクバニラも、端から崩れていく。
私はスプーンで底をさらった。少し溶けたバニラとキャラメルが混ざっている。それはそれで、甘かった。
「溶けたところ、ちょっとおいしいですね」
「ええ。ですが、それはアイスというより、冷たいソースに近いですわ」
「厳しい」
「アイスはアイスの形を保ってこそです」
「でも私は、最後のこの混ざったところも嫌いじゃないです」
「……ふむ」
そよぎ先輩は、私のカップをちらりと見た。
「観測値の追加ですわね」
「点数、上がります?」
「内容によります」
「そこは上げてくれないんですね」
先輩は最後の一口を食べた。それから、空になったカップをテーブルに置く。
私はまだ少し残っていた溶けた部分をすくって、口に入れた。冷たさは弱くなっていた。でも、甘い。終末のモールで、二階に行列ゾンビがいる中で食べるには、十分すぎるくらい甘かった。
「では、採点ですわ」
「はい」
そよぎ先輩は、少しだけ考えた。その間にも、二階ではまた一体が店に入ったらしく、何かが倒れる音がした。でも、先輩は見上げない。
「焦がしキャラメルの苦味、ミルクバニラの丸さ、序盤のクッキー食感は評価できますわ。定番の組み合わせとして安定しています」
「褒めてる」
「ただし、融解による劣化が早い。クッキーは後半、役割を失いかけていました」
「クッキーに厳しい」
「そして、優雅に味わう余裕を削られる点も減点ですわね」
「アイスが溶けるのは仕方なくないですか」
「仕方ないことと、減点しないことは別ですわ」
先輩は、空のカップを指で軽く叩いた。
「七十九点」
「おお。けっこう高い」
「焦がしキャラメルクッキーとミルクバニラのダブルカップ、七十九点。溶ける前なら八十一点もあり得ましたわ」
「そこまで時間で変わるんですね」
「スイーツは状態ですもの」
そよぎ先輩は、スプーンを袋に入れた。
私は空になったカップを見た。底に、ほんの少しだけ白と茶色が混ざった跡が残っている。急いで食べたのに、少しもったいない気がした。
でも、たぶんそれもアイスなのだと思う。最後まできれいに残せない。油断すると、形が変わる。だから、食べる時は急がなきゃいけない。ゾンビより、ずっと静かで、ずっと正確に迫ってくる敵だった。
二階では、まだ列が続いていた。一体が店に入る。中で暴れる。崩れる。次の一体が、一歩進む。同じことの繰り返し。
私は案内図に書かれていた文字を思い出した。
二階には行くな。
「先輩。二階、どうします?」
「行きませんわ」
「即答ですね」
「本日の目的は果たしましたもの。百円ショップもブランド店も、わたくしの舌には乗りません」
「生存物資は舌に乗せるものじゃないです」
「では、余計に今ではありませんわね」
そよぎ先輩は立ち上がった。
フードコートの結界は、まだ安定している。ここで夜を越すことも、できなくはなさそうだった。でも、二階の行列の音が、時々響く。それに、モールは広い。どこに何が残っているかわからない。ファミレスの方が、まだ安心できる。
私はカップとスプーンをまとめようとして、ふと、フードコートの出口近くにある掲示板に目が止まった。
チラシが何枚も貼られている。古いイベント告知。閉店セール。子ども向けの絵画教室。その中に、一枚だけ、手書きの紙があった。
棚橋さんの乱暴な字ではない。青いボールペンで書かれた、まっすぐな字。
私は近づいて、それを読んだ。
『生きている人へ。
北町西小学校、体育館で受け入れ中。
水と寝床あり。物資持ち込み歓迎。
噛まれた人、発熱している人は入れません。
正門は危険。東門へ。
日没前に来てください。』
「……避難所」
声が、勝手に出た。
避難所。その言葉を見たのは、世界が終わってから初めてかもしれない。いや、学校が壊れた日にも、どこかで聞いた気がする。でも、あの時はもう、放送も先生たちの指示もめちゃくちゃだった。
この紙は違う。誰かが、まだ生きている人に向けて書いている。
来てください、と。
そよぎ先輩が隣に来た。紙を一通り読んで、ある一文を指で軽く叩く。
「物資持ち込み歓迎、ですか」
「見るところ、そこですか?」
「人が集まる場所には、食べ物も集まりますわ」
「先輩、避難所ですよ。助かるかもしれない場所ですよ」
「もちろんですわ」
先輩は、にっこり笑った。
「ついでに、甘いものが残っている可能性もあります」
「目的が不純です」
「純粋に甘味を求めているのですから、むしろ純粋では?」
「そういう意味じゃないです」
私はもう一度、紙を見た。
二階には行くな。東門へ。
同じモールの中に、二つの手書きの言葉がある。一つは、誰かを遠ざける文字。もう一つは、誰かを呼ぶ文字。
どちらも信用できるとは限らない。棚橋さんのことを思い出せば、親切そうな言葉ほど危ないこともある。
それでも。
青いボールペンの字から、目を離せなかった。
「北町西小学校って、ここから近いんですかね」
「チラシの地図には載っていませんわね。ですが、北町というくらいですから、遠すぎることはないでしょう」
「適当ですね」
「明るいうちに動けば、確認くらいはできますわ」
「行くんですか?」
「行かない理由がありませんわ」
「避難するためですか?」
「味わうためです」
「避難所を?」
「避難所に集まった食べ物を、ですわ」
「最低だ」
でも、私は少しだけ安心していた。
そよぎ先輩は、避難所という言葉に救いを見ていない。たぶん、普通の人が期待するような意味では。それでも、行くと言った。
人がいるかもしれない場所へ。水と寝床があるかもしれない場所へ。そして、甘いものが残っているかもしれない場所へ。
二階で、また何かが壊れた。行列は、まだ終わらない。
私は掲示板の紙を見上げたまま、口の中に残ったミルクバニラの甘さを、少しだけ探した。
世界が終わってから、久しぶりに見た。
罠かもしれない字ではなく。
誰かを待っている字だった。