終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
体育館を出ると、夕方の空気が少し冷たくなっていた。
校庭の端に張られたブルーシートが、風でかすかに揺れている。ポリタンクの横を、大人が一人、早足で通り過ぎた。
さっきまで私は、子どもが羊羹をかじるところを見ていた。
小さな手で、少しずつ食べる非常食用の羊羹。
甘いものが、ここではおやつではないのかもしれないと、そう思ったばかりだった。
泣かないためのもの。
黙っているためのもの。
今日を終わらせるためのもの。
それなのに、東門の方から聞こえてくる声は、少しも甘くなかった。
「こっち」
由良さんが小さく言って、先に歩き出した。
そよぎ先輩は何も言わずについていく。
私は、ポケットの飴を指先で確かめた。
飴はまだある。
でも、さっきより少し重く感じた。
東門の近くには、何人かが集まっていた。
戸倉さんが門の内側に立っている。反射ベストの上からでも、肩に力が入っているのがわかった。
榊先生もいた。
いつもの落ち着いた顔をしている。けれど、少しだけ口元が固い。
門の外側には、男の人が一人いた。
三十代か、四十代くらいだと思う。作業着の上着を羽織っていて、額が赤い。髪が汗で額に張りついている。
その人は、中に入りたそうに門へ近づこうとしていた。
「噛まれてない。噛まれてないんだって」
男の人が、かすれた声で言った。
「熱があるだけだ。昨日から少し具合が悪かっただけで……」
「申し訳ありません」
榊先生が言った。
声は落ち着いている。
でも、苦しそうだった。
「発熱している方は、中に入れられません」
「だから、噛まれてないって言ってるだろ!」
男の人の声が少し大きくなる。
その瞬間、門の内側にいた人たちが、びくっとした。
体育館の入口の方からも、こちらを見ている人がいる。
戸倉さんが、金属棒を握り直した。
「声を落としてください」
「中に入れてくれよ。水だけでもいい。少し休ませてくれれば――」
「待機場所があります」
横から、長谷川さんらしい女性が言った。
まだちゃんと話したことはない。けれど、腕に体温計やメモの入った小さなポーチをつけている。保健室を担当している人だと、由良さんから聞いた気がする。
「そちらで様子を見ます。水も持っていきますから」
「外じゃないか」
男の人の声が弱くなる。
「ここまで来たんだ。もう、すぐそこなのに」
私は、何か言いかけた。
でも、言葉は出なかった。
ここまで来た。
たしかに、すぐそこだった。
門の内側と外側。
距離だけなら、ほんの数歩しか違わない。
でも、その数歩の間に、ものすごく厚い線が引かれている。
戸倉さんは、門を開けなかった。
榊先生も、開けろとは言わなかった。
長谷川さんは、男の人を門から少し離れた待機場所へ案内しようとしている。
誰も、意地悪をしているようには見えなかった。
でも、中には入れない。
由良さんが、私の隣で小さく言った。
「入れたら、中の人たちが怖がるから」
「……そう、ですよね」
「そうしないと、ここが保たない」
冷たい言い方ではなかった。
でも、冷たいことを言っていた。
そよぎ先輩は、それを黙って見ていた。
そして、少しだけ首を傾ける。
「棚に入れる前の検品ですわね」
「先輩、人に対して棚って言わないでください」
「では、入荷前確認」
「もっと駄目です」
私は小声で止めた。
けれど、完全に間違っているとも言い切れなかった。
避難所は、受け入れる場所だ。
でも同時に、入れる人と入れない人を分ける場所でもある。
物を分けるために、人を分ける。
先輩が昨日言っていた言葉が、嫌な形で頭に戻ってきた。
長谷川さんが男の人に近づく。
「こちらへ。門の横に、少し離れた場所があります。そこで――」
その時だった。
校庭の外側、フェンス沿いの影から、何かが出てきた。
最初は、人に見えた。
ジャケットを着て、片足を引きずっている。近所の人だったのかもしれない。普通に歩いていたなら、どこにでもいそうな人だったのかもしれない。
でも、顔の向きがおかしかった。
首が少し傾いたまま、目だけがこちらを見ている。
口が開いている。
息ではない音が、喉の奥から漏れていた。
ゾンビだった。
戸倉さんが金属棒を構える。
「静かに! 音を立てるな!!」
そう言った本人の声が、少し大きかった。
そよぎ先輩が眉をひそめる。
「門番というより、呼び込み係ですわね」
「先輩、今それ言う場面じゃないです」
「事実確認ですわ」
「余計です」
ゾンビは、ゆっくり近づいてくる。
長谷川さんが、発熱している男の人を下がらせようとした。男の人は混乱していて、うまく動けない。
そうこうしているうちにその人は噛まれて……いや、この場合は喰われてしまうと言った方がいいだろう。
断末魔のような叫び声があたり一面に響き渡る。
戸倉さんが門の内側から棒を突き出そうとする。
けれど、バリケードの位置が邪魔だった。
机とロッカーを組み合わせた簡易バリケードは、外から中へ入られにくくするためのものだ。
でも、内側から外へ何かをする時にも邪魔になる。
ゾンビの腐った腕が、バリケードの隙間へ伸びた。
由良さんが、一歩下がる。
でも、後ろには受付用の机があった。
足が机の脚にぶつかり、由良さんの体が少し傾く。
「由良さん!」
私は反射的にポケットへ手を入れた。
飴。
指先に、小さな袋の感触が触れる。
口に入れれば、結界を張れる。
イートインの結界。
私たちの周りに、安全地帯ができる。
由良さんを守れるかもしれない。
戸倉さんも、長谷川さんも、門の内側にいる人たちも、少しの間なら守れるかもしれない。
でも。
ここで使ったら。
この人たちに見られる。
飴を食べると、安全な場所ができる。
そんなことを知られたら、どうなるのだろう。
私は、さっき受付で飴を押さえた自分の手を思い出した。
これは渡せません、と言った。
ただの飴じゃないんです、と言った。
理由は言えなかった。
今も、言えない。
言えないまま、使うこともできない。
手の中で、飴の袋が汗で湿っていく。
「モブ子さん」
そよぎ先輩が、小さく言った。
「まだですわ」
先輩は一歩前へ出た。
戸倉さんが鋭く言う。
「下がれ!」
「騒がしいですわね」
「危ない!」
「危ないのは、そちらの管理です」
ゾンビの腕が、バリケードの内側へさらに入った。
由良さんの肩が強張る。
長谷川さんがのけぞるように逃げる。
戸倉さんの棒が、机の端に当たって鈍い音を立てた。
次の瞬間。
そよぎ先輩が、指を持ち上げた。
「本日の受付は終了しましたわ」
パチン。
乾いた音が、東門に響いた。
ゾンビの腕が、ほどけた。
腕だけではない。
肩。
胸。
頭。
足。
輪郭がぼろぼろ崩れて、灰色の粉みたいに空気へほどけていく。
数秒前までそこにいたものが、最初からいなかったみたいに消えた。
残ったのは、地面に落ちた古い靴だけだった。
東門が、静まり返った。
誰もすぐには動かなかった。
風が、バリケードの隙間を抜けていく。
さっきまでそこにいたゾンビは、もういない。
残っているのは、古い靴と、灰みたいなものだけ。
そよぎ先輩は、何もしていないみたいな顔で立っていた。
いや、何もしていない顔ではない。
ケーキ屋のショーケースに残った古いクリームを見て、「これは廃棄ですわね」と判断した時と同じ顔だ。
それが一番まずかった。
人が見ている。
戸倉さんが見ている。
榊先生が見ている。
由良さんも見ている。
長谷川さんも、門の外の男の人も、遠巻きにこちらを見ていた避難所の人たちも。
私は、ポケットの中で飴を握ったまま、指先に汗をかいていた。
私の方は、まだバレていない。
飴を口に入れていない。
結界も張っていない。
ただ、握っていただけだ。
それなのに、心臓はうるさかった。
体育館の方から、何人かが顔を出しかけていた。
榊先生が、最初に動いた。
「中に戻ってください」
低い声だった。
でも、よく通る。
「大丈夫です。東門は問題ありません。中に戻ってください」
その声は落ち着いていた。
けれど、榊先生の手は、首から下げた笛を強く握っていた。
問題ありません、という言葉を、問題が起きた直後に言える人なのだと思った。
それが、少し怖い。
体育館の入口にいた人たちは、完全には納得していない顔で、それでも少しずつ戻っていった。
子どもの声が、小さく遠ざかる。
水を運ぶ音が止まり、また動き出す。
避難所の朝でも夜でもない、夕方のざわめきが、少しずつ戻ってくる。
でも、東門の内側だけは、まだ止まっていた。
「今のは何だ」
戸倉さんが、金属棒を構えたまま言った。
声が硬い。
「手品じゃないだろ」
「期限切れを、少々片付けただけですわ」
そよぎ先輩は、当たり前みたいに答えた。
この人は本当に、当たり前みたいに答える。
だから余計に、説明にならない。
「期限切れ?」
「ええ」
「何を言ってる」
「文字通りですわ」
戸倉さんの顔が歪む。
いや、戸倉さんだけじゃない。
長谷川さんも、何か言いたそうにしている。
でも、誰もすぐには言葉にできない。
由良さんが、私の方を見た。
「あれ、前から?」
小さな声だった。
私は答えられない。
前から、と言えばいいのか。
世界が終わってから、と言えばいいのか。
私にもよくわかっていません、と言えばいいのか。
どれも、言っていい気がしなかった。
それに、本当に答えたくないことは、そこではなかった。
私の飴のこと。
私が、さっき何をしようとしていたのか。
そこには誰も気づいていない。
榊先生が、短く息を吐いた。
それから、そよぎ先輩を見た。
「場所を変えましょう。ここでは話せませんよね?」
「話す必要が?」
先輩が首をかしげる。
「あります」
榊先生は、きっぱり言った。
その声は静かだった。
でも、逃げ道のない言い方だった。
そよぎ先輩は少しだけ目を細めた。
面白がっている顔だった。
「では、聞くだけなら」
私は、ポケットの中の飴を握ったまま、何も言えなかった。
さっきまで、避難所には甘い匂いがしないと思っていた。
今は、それどころではなかった。
甘い匂いの代わりに、古い靴と灰の匂いが、東門のそばに残っていた。