終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
榊先生に案内されたのは、校舎一階の空き教室だった。
低学年用なのか、机も椅子も少し小さい。今はそれらが教室の端へ寄せられ、真ん中に大人用のパイプ椅子がいくつか置かれていた。
壁には、まだ学校だった頃の掲示物が残っている。
『きれいな手で給食を食べましょう』
丸い文字で書かれたその言葉を見て、私は少しだけ息を詰めた。
きれいな手。
給食。
食べましょう。
どれも、今となっては遠い言葉だった。
手を洗う水は貴重で、給食はもう出てこない。食べるものがあっても、それが安全かどうかを疑わなければならない。
それでも掲示物だけは、昨日までそこに学校があったみたいな顔で壁に残っていた。
教室に入ったのは、私とそよぎ先輩。
榊先生。戸倉さん。岡部さん。長谷川さん。
由良さんは、廊下側に残った。
戸倉さんは、まだ金属棒を持っている。
東門でのことが、頭から離れていないのだと思う。
私だって、離れていない。
ゾンビがほどけた音。
残された古い靴。
東門に落ちた沈黙。
由良さんの「あれ、前から?」という小さな声。
そして、ポケットの中で握ったままだった飴。
私の方は、まだバレていない。
飴を口に入れていない。
結界も張っていない。
ただ、握っていただけだ。
でも、それがいつまで続くのかは、わからない。
榊先生は、椅子に座らず、教卓の横に立った。
「まず、確認させてください」
声は落ち着いていた。
けれど、その落ち着き方が、さっきより少し硬い。
「戦技さん。今のは、何をしたんですか」
そよぎ先輩は、椅子に座るでもなく、窓際の机に軽く手を置いていた。
「期限切れを、少々片付けただけですわ」
榊先生は、すぐにはうなずかなかった。
「期限切れというのは、あれが、もう人ではないという意味ですか」
教室の空気が、少しだけ冷えた。
長谷川さんが、視線を落とす。
戸倉さんは、金属棒を握る手に力を入れた。
そよぎ先輩は、少しだけ首を傾ける。
「少なくとも、残しておく価値のある状態ではありませんでしたわ」
「価値って」
戸倉さんが低く言った。
「人だったものだろ」
「ええ。人だったものですわ」
そよぎ先輩は、淡々と答えた。
「だからこそ、今の状態で残しておくのは、誰にとってもあまり美味しくありません」
「美味いとか、そういう話じゃない」
「比喩ですわ」
「わかりにくい比喩を使うな」
「わかりやすい比喩ほど、味が薄いですもの」
「今、味の話をしてるんじゃない!」
戸倉さんの声が大きくなる。
榊先生が、軽く手を上げた。
「戸倉さん」
それだけで、戸倉さんは口を閉じた。
でも、納得した顔ではなかった。
榊先生は、そよぎ先輩に向き直る。
「もう一度、できますか」
「条件が合えば」
「条件、ですか」
「邪魔で、期限切れで、残す価値がないもの。そうでないと、手を出す気になりませんわ」
「気分の問題なのか?」
戸倉さんが言う。
そよぎ先輩は、今度は戸倉さんを見た。
「気分は大切ですわ」
「こっちは命がかかってるんだ」
「だから、雑に扱わない方がよろしいのでは?」
また空気が重くなる。
この二人を真正面から話させると、絶対にどこかで衝突する。
私は少しだけ前に出た。
「先輩、言い方を柔らかくしてください」
「柔らかくすると、意味まで柔らかくなりますわ」
「今は意味より角を取ってください」
「角があるから刺さるのですけれど」
「刺さなくていいです」
岡部さんが、疲れたようにこめかみを押さえた。
「あなたたち、いつもこんな感じなの?」
「だいたい、こんな感じです」
私は正直に答えた。
長谷川さんが、小さく息を吐く。
笑ったわけではない。けれど、少しだけ緊張が緩んだ気がした。
榊先生は、話を戻した。
「距離は関係ありますか?」
それに答える前に、戸倉さんが身を乗り出した。
「門の外にいるうちにできるのか?」
さっきから、戸倉さんはそこばかり気にしている。
門の外にいるうちに。
近づく前に。
腕がバリケードの内側へ入る前に。
顔や声が、こちらへ届く前に。
「近い方が、状態は見やすいですわ」
「遠くからは無理なのか」
「無理とは言いません。けれど、見えないものは味見できません」
「味見じゃないだろ」
「観察、と言い換えても構いませんわ」
戸倉さんは歯を食いしばった。
「何体でもできるのか?」
「一度に処理できるのは1体までですわ」
「じゃあ、何回まで使える?」
「その時の状態によります」
「曖昧だな」
「曖昧な世界で、明確な保証を欲しがる方が危険ですわ」
戸倉さんが言い返そうとしたが、榊先生が先に口を開いた。
「つまり、確実にいつでも使えるものではない」
「そう受け取っていただいて結構ですわ」
榊先生はうなずいた。
その顔は、少しだけ疲れていた。
でも、情報を整理しようとしている顔でもあった。
次に、長谷川さんが口を開いた。
「生きている人にも、効くんですか」
その声は、静かだった。
でも、教室の中で一番冷たく響いた。
私は思わず長谷川さんを見た。
彼女は、そよぎ先輩ではなく、机の上を見ていた。
見たくないことを、でも聞かないわけにはいかない、という顔だった。
発熱者。
隔離教室。
まだ人かもしれない人。
もう戻らないかもしれない人。
長谷川さんが何を考えているのか、少しだけわかった気がした。
そよぎ先輩は、いつもよりほんの少しだけ静かに答えた。
「試したことはありませんわ」
「試すことは?」
「趣味ではありません」
私は、胸の奥で小さく息を吐いた。
そこだけは、本当に試さないでほしい。
冗談でも、実験でも、確認でも。
長谷川さんは、そよぎ先輩の答えを聞いて、ゆっくりとうなずいた。
「……わかりました」
たぶん、わかってはいない。
でも、これ以上聞いても答えは出ない。そういう意味の「わかりました」だった。
岡部さんは、ここまでほとんど黙っていた。
物資ノートを胸に抱えたまま、そよぎ先輩と榊先生を交互に見ている。
能力そのものより、この人をどう扱えばいいのかを考えている顔だった。
そよぎ先輩が、ふと口元を緩める。
「皆様、同じものを見たはずなのに、欲しがるものが違いますわね」
「先輩」
嫌な予感がした。
「榊先生は、説明できる安全。戸倉さんは、門の外で終わる距離。長谷川さんは、生きている人にも効くのかという恐怖。岡部さんは、わたくしを動かすための値札」
「先輩、人間を棚卸ししないでください」
「棚卸しは大切ですわ。何がどこにあり、何が足りず、何が並べてはいけないものかを知るために」
「だから人間でやらないでください」
私はそう言いながら、少しだけ納得してしまっていた。
嫌だった。
そよぎ先輩の見方は冷たい。人の事情をラベルみたいに貼っていく。
でも、貼られたラベルが、妙に外れていない。
榊先生は、避難所の人たちに説明できる安全が欲しい。
戸倉さんは、ゾンビが門の内側へ入る前に処理してほしい。
長谷川さんは、あの力がまだ生きている人に向く可能性を怖がっている。
岡部さんは、そよぎ先輩を動かすために何を出せばいいか考えている。
そして、その全部が、たぶん間違っていない。
間違っていないのに、少しずつ嫌な形をしている。
廊下側から、由良さんが顔を出した。
「森原さん」
「あ、はい」
「ちょっとだけ案内するよ。ここ、初めてでしょ」
榊先生がうなずいた。
「お願いします。こちらはもう少し話します」
「わかりました」
私はそよぎ先輩を見た。
先輩は、行ってもいいというように軽く手を振った。
「迷子にならないように」
「避難所の中ですから」
「甘味のない場所ほど、人は道を見失いますわ」
「そんな格言はありません」
私は由良さんについて廊下へ出た。
教室の外に出ると、体育館とは違う匂いがした。
古い校舎の匂い。湿った廊下。消毒液。閉め切った教室。どこかで誰かが作った薄いスープの匂い。
由良さんは、小声で説明した。
「水はあっち。ポリタンクに分けてある。あるにはあるけど、自由には飲めないよ」
「あるのに、ですか」
「あると今度は、“なんでもっと出せないの”って言われるから」
その言葉は、妙に現実的だった。
水がなければ困る。
でも、水があれば、それをどう分けるかで困る。
「寝床は体育館。さっき見たところ。寝る場所はあるけど、寝られるかは別」
「人が多いですもんね」
「いびきもあるし、泣く子もいるし、誰かが声を出すとみんな起きるし、わりと神経質にはなる」
由良さんは、苦笑いした。
「子ども用のところは?」
「あそこは……遊ばせる場所っていうより、静かにしてもらう場所かも」
廊下の先には、子ども用スペースが見えた。
絵本とぬいぐるみが置かれている。折り紙もある。けれど、楽しそうな場所というより、静かにしてもらうための場所に見える。
由良さんの言葉は、私が思ったこととほとんど同じだった。
さらに奥の教室の前で、由良さんは足を止めた。
扉には紙が貼ってある。
『体調不良者用』
由良さんは、その扉には近づかなかった。
「隔離教室。熱がある人とか、様子見の人はあそこ」
「中は」
「見ない方がいい」
由良さんは、少しだけ目を伏せた。
「見ても、何もできないから」
その言い方は冷たくなかった。
普通に怖くて、普通に疲れていて、普通に何もできないことを知っている声だった。
私は、少しだけ安心した。
避難所には、大人がいる。ルールがある。水がある。寝床がある。
でも、全部が解決するわけではない。
由良さんは、それを知っている。
「戻ろっか」
「はい」
私たちは空き教室へ戻った。
教室では、話が協力依頼へ進んでいた。
「門の周りだけでいい」
戸倉さんが言っていた。
「さっきみたいに、外にいるうちに片付けられるなら、かなり助かる」
「確実にできるとは、言っておりませんわ」
そよぎ先輩が返す。
「それでも、いないよりは違う」
戸倉さんは、少しだけ声を落とした。
「中に入られてからじゃ遅いんだ」
その言葉は、東門のバリケードに伸びた腕を思い出させた。
榊先生も言う。
「明日以降、外へ出る必要が出ます。物資の確認も続けなければなりません。危険があった時、今日のように対処できるなら、助かります」
長谷川さんは、すぐには口を挟まなかった。
ただ、最後に小さく言った。
「外で怪我人や体調不良者が出た時、混乱が減るだけでも、違います」
みんな、言っていることは正しい。
避難所を守るためには、たぶん必要なお願いだ。
でも、正しい願いが集まるほど、そよぎ先輩が何かの道具に見えてくる。
それが嫌だった。
岡部さんが、迷ったように小さな袋を机の上に置いた。
「もし協力してくれるなら、少しですが出せるものがあります」
袋の中には、割れた乾パン、粉末ココアの半端、羊羹の切れ端が入っていた。
そよぎ先輩の顔が、すっと真顔になる。
「わたくしを便利に使う対価が、この程度で?」
「今は、甘いものだって貴重なんです」
岡部さんの声が硬くなる。
「子どもにも毎日は出せないの。大人だって我慢してる。これでも、出せるだけ出してるつもりです」
「岡部さん」
榊先生が止めようとした。
けれど、そよぎ先輩は笑わなかった。
「報酬は、それを映す鏡ですの」
「何を?」
「相手に、何を頼もうとしているのか。その価値を、どの程度に見積もっているのか」
教室の空気が、また重くなった。
岡部さんは唇を結んだ。
そして、少しだけ迷ってから、廊下へ出ていった。
戻ってきた時、彼女は別の箱を持っていた。
蓋を開ける。
未開封の非常食羊羹。
小さな缶詰みかん。
小袋のチョコ。
保存用のケーキバー。
思ったより、甘いものがあった。
そよぎ先輩の目が、ほんの少しだけ変わる。
私はそれを見て、嫌な予感がした。
その時、廊下側から小さな声がした。
「それ、まだあったの?」
子どもだった。
扉の隙間から、さっき羊羹を食べていた子とは別の子が、箱の中を見ていた。
「この前、もう甘いのないって言ってたのに」
岡部さんの顔が強張った。
「これは……何かあった時のために取ってある分で」
たぶん、それは本当だった。
子どもが泣き止まない時。外回り班が疲れ切って戻ってきた時。体育館の空気が悪くなった時。
甘いものは、きっと役に立つ。
でも。
子どもに「もうない」と言っていたものを、そよぎ先輩への交渉材料として出した。
その瞬間、甘いものの意味が変わった。
岡部さんが悪い人ではないのは、わかる。
でも、嫌な気持ちになった。
そよぎ先輩が、静かに言った。
「甘味は隠すと腐りますわ」
岡部さんが、そよぎ先輩を見る。
「味ではなく、信頼が」
誰もすぐには言い返さなかった。
榊先生が、子どもの方を見た。
それから、箱の中身を見て、短く息を吐く。
「出したものは、戻せません。子どもたちにも少し配りましょう」
「榊先生」
「今ここで戻したら、もっと悪くなります」
榊先生の声は静かだった。
でも、決めた声だった。
岡部さんは何か言いたそうにしたが、結局うなずいた。
非常食羊羹が、子どもたちに少しずつ配られた。
そよぎ先輩と私にも、協力の礼という形で一本ずつ渡された。
細い袋に、商品名が印刷されている。
『備えのひとくち羊羹 抹茶味』
常温の羊羹だった。
派手な匂いはない。きらきらした見た目でもない。苺もクリームもない。
でも、封を切ると、あんこの甘さが少しだけ立った。
そよぎ先輩は、真剣な顔で一口食べた。
こういう時だけは、本当に真剣だ。
「味だけなら、七十一点」
「ちゃんと採点するんですね」
「当然ですわ」
先輩は、もう一口食べる。
「香りは控えめ。舌触りも特別なものではありません。水分が欲しくなる甘さですわね」
「非常食ですからね」
「ですが、これは味だけで測るものではありませんわ」
先輩は、体育館の方を見た。
子どもたちが、小さく羊羹をかじっている。
大人たちは、その様子を見ないふりをしながら見ている。
「保存できる。分けられる。子どもを黙らせるのではなく、少しだけ落ち着かせる。避難所の空気を一瞬だけ柔らかくする」
そよぎ先輩は、残りを少しだけ口に入れた。
「機能込みなら、八十二点ですわ」
「ずいぶん上がりましたね」
「甘味は、場所で点が変わりますもの」
私も羊羹を食べた。
しっかり甘い。
水が欲しくなるくらい、舌に残る。
苺ショートみたいに胸が浮く甘さではない。アイスみたいに冷たく広がる甘さでもない。
でも、飲み込むと、ほんの少しだけ息がつけた。
甘いものは、嘘も作る。
もうないと言われた甘味が、実は箱の中に残っていた。
でも、静けさも作る。
子どもが少し黙る。大人が少し安心する。体育館の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
それが、厄介だった。
羊羹を食べ終えたあと、榊先生が改めて口を開いた。
「明日、外回り班を出します」
戸倉さんが地図を広げる。
「北町通りの店舗を確認する予定だ。水、缶詰、紙皿、ラップ、乾電池。使えそうな燃料も見たい」
「燃料ですか……」
そよぎ先輩は、あまり興味のなさそうな声を出した。
「貴重な物資です」
榊先生が言う。
「わかっておりますわ。大事なものほど、味気ないというだけで」
「味気の問題ではありません」
「だいたいの問題は、味気に帰結しますわ」
「しません」
私が言うと、榊先生が少しだけ困った顔をした。
戸倉さんが地図を指で押さえる。
「危険があった時、今日みたいに対処できるなら助かる。もちろん、無理にとは言わない」
「無理にとは言わない、けれど断れば困る。便利な言葉ですわね」
そよぎ先輩が返す。
戸倉さんが何か言いかけたが、榊先生が先に口を開いた。
「だから、お願いです」
その言葉は、さっきより少しだけまっすぐだった。
「戦技さん。あなたを強制するつもりはありません。ただ、明日同行してもらえれば、助かります」
「わたくしは避難所の備品ではありませんわ」
「わかっています」
「在庫でもありません」
「はい」
「甘味でもありません」
「それは、わかっています」
「本当に?」
「……どういう意味でしょうか?」
榊先生が真面目な顔で言うので、私は少しだけ変な声が出そうになった。
そよぎ先輩は、それを少し気に入ったようだった。
それでも、まだ乗り気ではない。
危険。
物資。
燃料。
どれも大事だ。
でも、そよぎ先輩を動かすには弱い。
榊先生は、それを見ていたのかもしれない。
少しだけ間を置いてから、言った。
「北町通りに、ケーキ店があります」
そよぎ先輩の目が変わった。
ほんの少しだけ。
でも、私はすぐにわかった。
終わった。
この人は、もう行く気だ。
戸倉さんが、地図の端を指で押さえた。
「たしか、パティスリー・ミモザだったか」
「ミモザ」
そよぎ先輩が、ゆっくりと繰り返す。
「春の気配を名にした店ですわね」
「店名だけで判断しないでください」
私はいつものツッコミ。
「店名は入口の味ですもの」
「そういう採点基準があるんですか」
「ありますわ」
そよぎ先輩は、少しだけ笑った。
「よろしいですわ。話だけは聞いて差し上げます」
話だけ。
絶対に話だけでは終わらない。
私はそう思った。
そして、たぶんこの教室にいる何人かも、同じことを思ったに違いない。