終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
パティスリー・ミモザの扉が開いた。
店内には、甘い匂いがほとんど残っていなかった。
ケーキ屋なのに。
ショートケーキとか、プリンとか、焼き菓子とか。そういうものの匂いが、少しくらい残っていてもよさそうなのに。
あるのは、古いクリームが酸っぱくなったような匂いと、埃と、割れたガラスと、湿った床の匂いだった。
そよぎ先輩が、ほんの少しだけ顔をしかめる。
「甘味の名残が泣いていますわ」
「詩的に言っても、たぶん腐敗臭です」
「モブ子さんは情緒をすぐ現実で殴りますわね」
「現実が先に殴ってきてるんです」
戸倉さんが、私たちを振り返った。
「静かにしろ」
「すみません」
「わたくしは静かですわ」
「その静かさは信用してない」
戸倉さんはバールを構えたまま、店の奥を見た。
棚が倒れている。床には紙袋やチラシが散らばっている。レジの横には、個包装のプラスチックスプーンが入った箱が残っていた。
奥の厨房の方から、かたり、と小さな音がした。
戸倉さんが手で合図する。
「奥を確認する。三枝さん、由良。来てくれ」
「はい」
由良さんがうなずく。
三枝さんは折りたたみコンテナを抱え直し、戸倉さんの後ろについた。
戸倉さんは私たちを見た。
「戦技さんと守地さんは、入口側の警戒。何か来たら、すぐ呼べ」
「ええ。何か出たら、こちらも呼びますわ」
「何かって何ですか?」
私は小声で聞いた。
「甘味ですわ」
「呼ばないでください」
戸倉さんたちは、先輩の言葉を気にせずに厨房の方へ進んでいった。
由良さんが一度だけ、私の方を見た。
「大丈夫?」
「たぶん、入口警戒なら」
私はそう答えた。
そよぎ先輩さえ、ショーケースに突撃しなければ。
由良さんたちの足音が奥へ消えていく。
店内に残ったのは、私とそよぎ先輩だけだった。
そして、目の前にはショーケースがあった。
ガラスはところどころ曇っている。照明はついていない。中の銀色のトレーは、ほとんど空だった。
倒れた商品プレートがいくつか残っている。
『春苺のカップショート』
『白桃レアチーズ』
『ミモザ色のチーズタルト』
『なめらかプリン』
名前だけは、まだ甘い。
でも、その横には乾いたクリームの跡が残っていた。端のトレーには、崩れたスポンジと変色した苺の残骸がこびりついている。
そよぎ先輩は、真剣な顔でそれを見た。
食べたい顔ではない。
廃棄する顔だ。
「これはもう駄目ですわ」
「先輩、念のため聞きますけど、残骸の話ですよね」
「もちろん」
先輩は、ショーケースの中へ指を向けた。
私は慌てて奥を見た。
戸倉さんたちは厨房にいる。こちらは見ていない。
「今、やるんですか?」
「残しておいて何になりますの」
「いや、そうなんですけど」
「腐った甘味の痕跡は、甘味に失礼ですわ」
「その倫理観、たまに方向が独特すぎます」
パチン。
小さな音がした。
乾いたクリームと崩れたスポンジが、灰のようにほどけていく。変色した苺の残骸も、古い紙くずみたいに細かく崩れて、空気へ消えた。
ショーケースの中は、完全に空になった。
私はその瞬間、嫌な予感が確信に変わった。
「完全に空ですわ」
そよぎ先輩が、満足そうに言った。
「ですよね」
「素晴らしい状態です」
「何が素晴らしいんですか」
「棚が整いました」
「整えないでください」
「棚は空になった時、次の甘味を迎える準備をしますの」
「棚の気持ちを代弁しないでください」
そよぎ先輩は、私を見た。
その顔は、いつもの顔だった。
甘いものを前にした時の、倫理と常識を食後に回している顔。
「モブ子さん」
「嫌です」
「まだ何も言っておりませんわ」
「言う前からわかります」
「棚が、待っていますわ」
「だから棚の気持ちを代弁しないでください」
私は厨房の方を見た。
戸倉さんたちはまだ戻ってこない。奥で棚を動かす音がする。由良さんの声も、三枝さんの返事も聞こえる。
今なら、できる。
それが嫌だった。
シェルターで、そよぎ先輩は言った。
甘味は隠すと腐る。
味ではなく、信頼が。
岡部さんが隠していた羊羹やチョコを見た子どもの顔を、私はまだ覚えている。
あの時、私は嫌な気持ちになった。
隠していたことが。
子どもに「もうない」と言っていたものを、交渉材料として出したことが。
甘いものなのに、重くて、ずるくて、苦くなってしまったことが。
それなのに。
今、私たちも隠そうとしている。
ここでスイーツ・ガチャを使えば、避難所の人たちには絶対に見せられない。
もし知られたら、どうなるだろう。
空の棚から食べ物が出せる。
そう誤解される。
本当は違う。
スイーツ系の棚に、一店舗一回。基本は二個だけ。何が出るかもわからない。
でも、そんな細かい説明を、避難所の人たちが冷静に聞けるとは思えない。
水も、食料も、甘いものも、足りない場所だ。
そこに「空の棚から甘いものを出せる人間」がいたら。
私は、きっと棚みたいに見られる。
そよぎ先輩とは別の意味で。
「一回だけですからね」
私は小さく言った。
「一店舗一回ですものね」
「そういう意味じゃないです」
「わかっておりますわ」
「本当に?」
「今は、静かにする場面ですわ」
「それはそうですけど、先輩に言われると納得したくないです」
私はショーケースの前に立った。
声には出さない。
厨房に聞こえたら終わりだ。
心の中で願う。
何でもいいから、静かに。
ケーキを二つ。
ショーケースの中で、商品プレートの文字がかすかに光った。
派手な光ではない。
薄暗い店内で、古いガラスの向こうに、白っぽい光がすっと走向こうに、白っぽい光がすっと走る。
『春苺のカップショート』
『白桃レアチーズ』
『ミモザ色のチーズタルト』
『なめらかプリン』
光が、倒れたプレートの上を巡っていく。
鼓動が高まる。
厨房の物音が、やけに近く聞こえる。
光が止まった。
『春苺のカップショート』
空のトレーの上に、透明なカップが二つ現れた。
白いクリーム。
角切りの苺。
スポンジ。
底の方に苺ソース。
ラベルには、
『春苺とミルククリームのカップショート』
と書かれている。
「出た……」
「素晴らしいですわ」
そよぎ先輩の声が、危険なほど弾んだ。
「小声で喜んでください」
「小声で最大限喜んでおります」
「じゃあ最大限を下げてください」
私はレジ横の箱から、個包装のスプーンを二本取った。
「先輩、早く食べてください。厨房から戻ってきます」
「急いで食べるケーキほど、作り手に申し訳ないものはありませんわ」
「作り手に申し訳ない前に、私たちが怪しまれます」
「それもまた一理」
「一理じゃなくて全部です」
ふたを開ける。
苺とクリームの匂いが、ほんの少し立った。
さっきまで、この店には甘い匂いがなかった。
古いクリームと埃と湿った床の匂いしかなかった。
なのに、今はある。
ちゃんと甘い匂いがする。
私は少しだけ、泣きそうになった。
でも、泣いている場合ではない。
そよぎ先輩は、スプーンでクリームと苺とスポンジをすくい、口に入れた。
真剣な顔になる。
こんな状況でも、採点の顔だけは崩れない。
「小声で採点してください。いや、できれば採点しないでください」
「七十九点」
「採点した」
「急ぎの採点ですから、本来は不本意ですわ」
そよぎ先輩は、さらに一口食べる。
「クリームは軽め。ミルク感はありますが、後味はやや短いですわね。苺ソースの酸味は悪くありません。カップ仕立てなので、持ち運びと食べやすさは高評価。ただし、もう少し苺の香りに余韻がほしいところです」
「早口でちゃんと評価しないでください」
「作り手への礼儀ですわ」
「隠れて食べてる時点で礼儀が怪しいです」
私も食べた。
クリームが舌に触れる。
苺ソースの酸味が、甘さの奥から少しだけ顔を出す。
スポンジはしっとりしていて、カップの中でクリームと馴染んでいる。
非常食羊羹とは違う。
保存するための甘さではない。
誰かを黙らせるための甘さでもない。
配給表に書かれる甘さでもない。
食べた瞬間に、ちょっと嬉しくなるための甘さ。
普通においしい。
その普通さが、胸の奥を少し緩めた。
でも、緩んでいる時間はなかった。
厨房の奥から足音が近づいてくる。
「戻ってきます!」
私は残りを急いで口に入れた。
甘い。
でも焦る。
焦ると、甘さがよくわからなくなる。
それがもったいない。
そよぎ先輩も、いつもよりかなり速く食べている。速いのに、なぜか優雅なのが腹立たしい。
食べ終わる。
問題は、証拠だった。
空のカップ。
ふた。
ラベル。
スプーンの袋。
使い終わったスプーン。
私は反射的にそれらをリュックへ押し込もうとした。
そよぎ先輩が、平然と言う。
「それは廃棄すればよろしいのではなくて?」
「え? 見つかったら……」
「見つからないように廃棄するのですわ」
「そういう問題ですか」
「そういう問題ですわ」
厨房から、由良さんの声がした。
「戸倉さん、これ持っていきますか?」
近い。
かなり近い。
「音小さくしてくださいよ」
「わたくしの指鳴らしは常に上品ですわ」
「音量の話です」
そよぎ先輩が、カップとスプーンとラベル類へ指を向ける。
パチン。
今度の音は、本当に小さかった。
空カップも、スプーンも、ラベルも、フィルムも、古い紙くずみたいにほどけて消えた。
ショーケースの中には、何も残っていない。
私はほっとした。
同時に、少し怖くなった。
この人の能力は、本当に便利だ。
便利で、怖い。
証拠すら、なかったことにできる。
「これで問題ありませんわ」
そよぎ先輩が言う。
その時、私は気づいた。
先輩の口元に、白いクリームがついている。
「先輩、口元」
「余韻ですわ」
「証拠です」
私は小声で言って、ハンカチを出した。
そよぎ先輩が自分で拭こうとするより先に、私は一歩近づく。
「動かないでください」
「あら」
先輩は、なぜか素直に動かなかった。
私はハンカチで、そよぎ先輩の口元をそっと拭った。
白いクリームが、布に移る。
距離が近い。
近すぎる。
そよぎ先輩の顔が、いつもより静かに見えた。
この人は、さっきまでゾンビを消して、腐ったクリームを消して、証拠まで消していたのに。
今は、私に口元を拭かれている。
当然みたいな顔で。
「あら。モブ子さん、手慣れてきましたわね」
「慣れたくないです」
私は急いでハンカチを畳んだ。
汚れた面を内側にする。
それ以上考える前に、戸倉さんたちが戻ってきた。
「入口側、異常は?」
「ありません」
私は即答した。
由良さんが、私を見た。
それから、私の手元のハンカチを見る。
「守地さん、何してたの?」
「入口警戒です」
「……ハンカチ持って?」
「衛生意識です」
「ふうん」
由良さんは納得していない顔だった。
でも、それ以上は聞かなかった。
そよぎ先輩が、私にだけ聞こえる声で言う。
「隠蔽工作、七十一点」
「採点しないでください」
「音は抑えましたが、表情が硬いですわ」
「うるさいです」
戸倉さんたちは、厨房からいくつかの物資を運び出していた。
未開封の砂糖。
少しだけ残っていた小麦粉。
ラップ。
紙皿。
ビニール手袋。
缶詰フルーツ。
飲料水。
カセットボンベ。
避難所にとっては、十分な成果だ。
由良さんがコンテナへ物資を詰めていく。三枝さんは重そうにそれを持ち上げた。
戸倉さんは周囲を確認してから、短く言う。
「撤収する」
「実りある巡礼でしたわ」
「物資回収だ」
「物資にも実りはありますわ」
「黙って歩け」
帰り道は、行きよりも少し緊張した。
コンテナが重い。
物資が増えた分、音も出やすい。
戸倉さんは慎重に歩いていた。
そよぎ先輩が時々、足音や視線の向きを小さく指摘する。戸倉さんはそのたびに不機嫌そうな顔をしたが、完全には無視しなかった。
腹立つけど、役には立っている。
そう思ったのは、私だけではないのかもしれない。
由良さんは、何か聞きたそうに何度か私を見た。
でも、結局何も聞かなかった。
それがありがたくて、少し怖かった。
避難所へ戻ると、東門の内側にいた人たちの顔が少し明るくなった。
物資がある。
それだけで、空気が少し変わる。
岡部さんは砂糖と小麦粉を見て、目を大きくした。
「これだけあれば、何か作れるかもしれない」
長谷川さんは、ビニール手袋と飲料水を確認して、小さくうなずいた。
「助かります」
榊先生は、戸倉さんから報告を受けていた。
外回り班が無事に戻ったこと。
物資を持ち帰れたこと。
道中で、そよぎ先輩の指摘がいくつか役に立ったこと。
戸倉さんは、その報告をする時、ものすごく不本意そうだった。
けれど、否定はしなかった。
榊先生は、物資を見たあと、そよぎ先輩を見た。
その視線に、いろいろなものが混ざっていた。
ありがたい。
助かった。
危険かもしれない。
でも、手放したくない。
私は嫌な予感を覚えた。
夕方になって、物資整理が一段落した頃。
榊先生が、私たちを呼び止めた。
「今日は助かりました」
その言葉は、私ではなく、そよぎ先輩に向けられていた。
「外回り班が無事に戻れたことも、道中で危険を避けられたことも、あなたがいたからだと聞いています」
少し離れた場所で、戸倉さんが気まずそうに視線をそらした。
榊先生は、もう一度そよぎ先輩を見る。
「やはり、あなたには、ここに残ってもらいたい」
来た、と私は思った。
予想していた。
でも、実際に聞くと、胸が重くなる。
避難所には水がある。
寝床がある。
人がいる。
そして今、その場所は、そよぎ先輩まで欲しがっている。
そよぎ先輩は笑っていた。
けれど、その顔は少しも甘くなかった。