終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい   作:オカノヒカル

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第17話 春苺のカップショートは、静かに食べます

 

 パティスリー・ミモザの扉が開いた。

 

 店内には、甘い匂いがほとんど残っていなかった。

 ケーキ屋なのに。

 ショートケーキとか、プリンとか、焼き菓子とか。そういうものの匂いが、少しくらい残っていてもよさそうなのに。

 

 あるのは、古いクリームが酸っぱくなったような匂いと、埃と、割れたガラスと、湿った床の匂いだった。

 

 そよぎ先輩が、ほんの少しだけ顔をしかめる。

 

「甘味の名残が泣いていますわ」

「詩的に言っても、たぶん腐敗臭です」

「モブ子さんは情緒をすぐ現実で殴りますわね」

「現実が先に殴ってきてるんです」

 

 戸倉さんが、私たちを振り返った。

 

「静かにしろ」

「すみません」

「わたくしは静かですわ」

「その静かさは信用してない」

 

 戸倉さんはバールを構えたまま、店の奥を見た。

 

 棚が倒れている。床には紙袋やチラシが散らばっている。レジの横には、個包装のプラスチックスプーンが入った箱が残っていた。

 

 奥の厨房の方から、かたり、と小さな音がした。

 戸倉さんが手で合図する。

 

「奥を確認する。三枝さん、由良。来てくれ」

「はい」

 

 由良さんがうなずく。

 

 三枝さんは折りたたみコンテナを抱え直し、戸倉さんの後ろについた。

 

 戸倉さんは私たちを見た。

 

「戦技さんと守地さんは、入口側の警戒。何か来たら、すぐ呼べ」

「ええ。何か出たら、こちらも呼びますわ」

「何かって何ですか?」

 

 私は小声で聞いた。

 

「甘味ですわ」

「呼ばないでください」

 

 戸倉さんたちは、先輩の言葉を気にせずに厨房の方へ進んでいった。

 由良さんが一度だけ、私の方を見た。

 

「大丈夫?」

「たぶん、入口警戒なら」

 

 私はそう答えた。

 

 そよぎ先輩さえ、ショーケースに突撃しなければ。

 由良さんたちの足音が奥へ消えていく。

 

 店内に残ったのは、私とそよぎ先輩だけだった。

 そして、目の前にはショーケースがあった。

 

 ガラスはところどころ曇っている。照明はついていない。中の銀色のトレーは、ほとんど空だった。

 倒れた商品プレートがいくつか残っている。

 

『春苺のカップショート』

『白桃レアチーズ』

『ミモザ色のチーズタルト』

『なめらかプリン』

 

 名前だけは、まだ甘い。

 

 でも、その横には乾いたクリームの跡が残っていた。端のトレーには、崩れたスポンジと変色した苺の残骸がこびりついている。

 

 そよぎ先輩は、真剣な顔でそれを見た。

 

 食べたい顔ではない。

 廃棄する顔だ。

 

「これはもう駄目ですわ」

「先輩、念のため聞きますけど、残骸の話ですよね」

「もちろん」

 

 先輩は、ショーケースの中へ指を向けた。

 

 私は慌てて奥を見た。

 戸倉さんたちは厨房にいる。こちらは見ていない。

 

「今、やるんですか?」

「残しておいて何になりますの」

「いや、そうなんですけど」

「腐った甘味の痕跡は、甘味に失礼ですわ」

「その倫理観、たまに方向が独特すぎます」

 

 パチン。

 

 小さな音がした。

 

 乾いたクリームと崩れたスポンジが、灰のようにほどけていく。変色した苺の残骸も、古い紙くずみたいに細かく崩れて、空気へ消えた。

 

 ショーケースの中は、完全に空になった。

 私はその瞬間、嫌な予感が確信に変わった。

 

「完全に空ですわ」

 

 そよぎ先輩が、満足そうに言った。

 

「ですよね」

「素晴らしい状態です」

「何が素晴らしいんですか」

「棚が整いました」

「整えないでください」

「棚は空になった時、次の甘味を迎える準備をしますの」

「棚の気持ちを代弁しないでください」

 

 そよぎ先輩は、私を見た。

 

 その顔は、いつもの顔だった。

 甘いものを前にした時の、倫理と常識を食後に回している顔。

 

「モブ子さん」

「嫌です」

「まだ何も言っておりませんわ」

「言う前からわかります」

「棚が、待っていますわ」

「だから棚の気持ちを代弁しないでください」

 

 私は厨房の方を見た。

 

 戸倉さんたちはまだ戻ってこない。奥で棚を動かす音がする。由良さんの声も、三枝さんの返事も聞こえる。

 

 今なら、できる。

 それが嫌だった。

 

 シェルターで、そよぎ先輩は言った。

 

 甘味は隠すと腐る。

 味ではなく、信頼が。

 

 岡部さんが隠していた羊羹やチョコを見た子どもの顔を、私はまだ覚えている。

 

 あの時、私は嫌な気持ちになった。

 

 隠していたことが。

 子どもに「もうない」と言っていたものを、交渉材料として出したことが。

 甘いものなのに、重くて、ずるくて、苦くなってしまったことが。

 

 それなのに。

 

 今、私たちも隠そうとしている。

 

 ここでスイーツ・ガチャを使えば、避難所の人たちには絶対に見せられない。

 もし知られたら、どうなるだろう。

 

 空の棚から食べ物が出せる。

 

 そう誤解される。

 

 本当は違う。

 スイーツ系の棚に、一店舗一回。基本は二個だけ。何が出るかもわからない。

 でも、そんな細かい説明を、避難所の人たちが冷静に聞けるとは思えない。

 

 水も、食料も、甘いものも、足りない場所だ。

 そこに「空の棚から甘いものを出せる人間」がいたら。

 私は、きっと棚みたいに見られる。

 

 そよぎ先輩とは別の意味で。

 

「一回だけですからね」

 

 私は小さく言った。

 

「一店舗一回ですものね」

「そういう意味じゃないです」

「わかっておりますわ」

「本当に?」

「今は、静かにする場面ですわ」

「それはそうですけど、先輩に言われると納得したくないです」

 

 私はショーケースの前に立った。

 

 声には出さない。

 

 厨房に聞こえたら終わりだ。

 

 心の中で願う。

 

 何でもいいから、静かに。

 

 ケーキを二つ。

 

 ショーケースの中で、商品プレートの文字がかすかに光った。

 

 派手な光ではない。

 

 薄暗い店内で、古いガラスの向こうに、白っぽい光がすっと走向こうに、白っぽい光がすっと走る。

 

『春苺のカップショート』

『白桃レアチーズ』

『ミモザ色のチーズタルト』

『なめらかプリン』

 

 光が、倒れたプレートの上を巡っていく。

 

 鼓動が高まる。

 

 厨房の物音が、やけに近く聞こえる。

 

 光が止まった。

 

『春苺のカップショート』

 

 空のトレーの上に、透明なカップが二つ現れた。

 

 白いクリーム。

 角切りの苺。

 スポンジ。

 底の方に苺ソース。

 

 ラベルには、

 

『春苺とミルククリームのカップショート』

 

 と書かれている。

 

「出た……」

「素晴らしいですわ」

 

 そよぎ先輩の声が、危険なほど弾んだ。

 

「小声で喜んでください」

「小声で最大限喜んでおります」

「じゃあ最大限を下げてください」

 

 私はレジ横の箱から、個包装のスプーンを二本取った。

 

「先輩、早く食べてください。厨房から戻ってきます」

「急いで食べるケーキほど、作り手に申し訳ないものはありませんわ」

「作り手に申し訳ない前に、私たちが怪しまれます」

「それもまた一理」

「一理じゃなくて全部です」

 

 ふたを開ける。

 

 苺とクリームの匂いが、ほんの少し立った。

 

 さっきまで、この店には甘い匂いがなかった。

 

 古いクリームと埃と湿った床の匂いしかなかった。

 

 なのに、今はある。

 

 ちゃんと甘い匂いがする。

 

 私は少しだけ、泣きそうになった。

 でも、泣いている場合ではない。

 

 そよぎ先輩は、スプーンでクリームと苺とスポンジをすくい、口に入れた。

 

 真剣な顔になる。

 

 こんな状況でも、採点の顔だけは崩れない。

 

「小声で採点してください。いや、できれば採点しないでください」

「七十九点」

「採点した」

「急ぎの採点ですから、本来は不本意ですわ」

 

 そよぎ先輩は、さらに一口食べる。

 

「クリームは軽め。ミルク感はありますが、後味はやや短いですわね。苺ソースの酸味は悪くありません。カップ仕立てなので、持ち運びと食べやすさは高評価。ただし、もう少し苺の香りに余韻がほしいところです」

 

「早口でちゃんと評価しないでください」

「作り手への礼儀ですわ」

「隠れて食べてる時点で礼儀が怪しいです」

 

 私も食べた。

 

 クリームが舌に触れる。

 

 苺ソースの酸味が、甘さの奥から少しだけ顔を出す。

 

 スポンジはしっとりしていて、カップの中でクリームと馴染んでいる。

 

 非常食羊羹とは違う。

 

 保存するための甘さではない。

 誰かを黙らせるための甘さでもない。

 配給表に書かれる甘さでもない。

 

 食べた瞬間に、ちょっと嬉しくなるための甘さ。

 

 普通においしい。

 その普通さが、胸の奥を少し緩めた。

 でも、緩んでいる時間はなかった。

 

 厨房の奥から足音が近づいてくる。

 

「戻ってきます!」

 

 私は残りを急いで口に入れた。

 

 甘い。

 

 でも焦る。

 

 焦ると、甘さがよくわからなくなる。

 

 それがもったいない。

 

 そよぎ先輩も、いつもよりかなり速く食べている。速いのに、なぜか優雅なのが腹立たしい。

 

 食べ終わる。

 

 問題は、証拠だった。

 

 空のカップ。

 ふた。

 ラベル。

 スプーンの袋。

 使い終わったスプーン。

 

 私は反射的にそれらをリュックへ押し込もうとした。

 

 そよぎ先輩が、平然と言う。

 

「それは廃棄すればよろしいのではなくて?」

「え? 見つかったら……」

「見つからないように廃棄するのですわ」

「そういう問題ですか」

「そういう問題ですわ」

 

 厨房から、由良さんの声がした。

 

「戸倉さん、これ持っていきますか?」

 

 近い。

 

 かなり近い。

 

「音小さくしてくださいよ」

「わたくしの指鳴らしは常に上品ですわ」

「音量の話です」

 

 そよぎ先輩が、カップとスプーンとラベル類へ指を向ける。

 

 パチン。

 

 今度の音は、本当に小さかった。

 

 空カップも、スプーンも、ラベルも、フィルムも、古い紙くずみたいにほどけて消えた。

 

 ショーケースの中には、何も残っていない。

 

 私はほっとした。

 

 同時に、少し怖くなった。

 

 この人の能力は、本当に便利だ。

 

 便利で、怖い。

 

 証拠すら、なかったことにできる。

 

「これで問題ありませんわ」

 

 そよぎ先輩が言う。

 

 その時、私は気づいた。

 

 先輩の口元に、白いクリームがついている。

 

「先輩、口元」

「余韻ですわ」

「証拠です」

 

 私は小声で言って、ハンカチを出した。

 

 そよぎ先輩が自分で拭こうとするより先に、私は一歩近づく。

 

「動かないでください」

「あら」

 

 先輩は、なぜか素直に動かなかった。

 

 私はハンカチで、そよぎ先輩の口元をそっと拭った。

 

 白いクリームが、布に移る。

 

 距離が近い。

 

 近すぎる。

 

 そよぎ先輩の顔が、いつもより静かに見えた。

 

 この人は、さっきまでゾンビを消して、腐ったクリームを消して、証拠まで消していたのに。

 

 今は、私に口元を拭かれている。

 当然みたいな顔で。

 

「あら。モブ子さん、手慣れてきましたわね」

「慣れたくないです」

 

 私は急いでハンカチを畳んだ。

 汚れた面を内側にする。

 

 それ以上考える前に、戸倉さんたちが戻ってきた。

 

「入口側、異常は?」

「ありません」

 

 私は即答した。

 

 由良さんが、私を見た。

 

 それから、私の手元のハンカチを見る。

 

「守地さん、何してたの?」

「入口警戒です」

「……ハンカチ持って?」

「衛生意識です」

「ふうん」

 

 由良さんは納得していない顔だった。

 

 でも、それ以上は聞かなかった。

 

 そよぎ先輩が、私にだけ聞こえる声で言う。

 

「隠蔽工作、七十一点」

「採点しないでください」

「音は抑えましたが、表情が硬いですわ」

「うるさいです」

 

 戸倉さんたちは、厨房からいくつかの物資を運び出していた。

 

 未開封の砂糖。

 少しだけ残っていた小麦粉。

 ラップ。

 紙皿。

 ビニール手袋。

 缶詰フルーツ。

 飲料水。

 カセットボンベ。

 

 避難所にとっては、十分な成果だ。

 

 由良さんがコンテナへ物資を詰めていく。三枝さんは重そうにそれを持ち上げた。

 

 戸倉さんは周囲を確認してから、短く言う。

 

「撤収する」

「実りある巡礼でしたわ」

「物資回収だ」

「物資にも実りはありますわ」

「黙って歩け」

 

 帰り道は、行きよりも少し緊張した。

 

 コンテナが重い。

 物資が増えた分、音も出やすい。

 

 戸倉さんは慎重に歩いていた。

 

 そよぎ先輩が時々、足音や視線の向きを小さく指摘する。戸倉さんはそのたびに不機嫌そうな顔をしたが、完全には無視しなかった。

 

 腹立つけど、役には立っている。

 そう思ったのは、私だけではないのかもしれない。

 

 由良さんは、何か聞きたそうに何度か私を見た。

 でも、結局何も聞かなかった。

 それがありがたくて、少し怖かった。

 

 避難所へ戻ると、東門の内側にいた人たちの顔が少し明るくなった。

 

 物資がある。

 それだけで、空気が少し変わる。

 

 岡部さんは砂糖と小麦粉を見て、目を大きくした。

 

「これだけあれば、何か作れるかもしれない」

 

 長谷川さんは、ビニール手袋と飲料水を確認して、小さくうなずいた。

 

「助かります」

 

 榊先生は、戸倉さんから報告を受けていた。

 

 外回り班が無事に戻ったこと。

 物資を持ち帰れたこと。

 道中で、そよぎ先輩の指摘がいくつか役に立ったこと。

 

 戸倉さんは、その報告をする時、ものすごく不本意そうだった。

 

 けれど、否定はしなかった。

 

 榊先生は、物資を見たあと、そよぎ先輩を見た。

 

 その視線に、いろいろなものが混ざっていた。

 

 ありがたい。

 助かった。

 危険かもしれない。

 でも、手放したくない。

 

 私は嫌な予感を覚えた。

 

 夕方になって、物資整理が一段落した頃。

 

 榊先生が、私たちを呼び止めた。

 

「今日は助かりました」

 

 その言葉は、私ではなく、そよぎ先輩に向けられていた。

 

「外回り班が無事に戻れたことも、道中で危険を避けられたことも、あなたがいたからだと聞いています」

 

 少し離れた場所で、戸倉さんが気まずそうに視線をそらした。

 

 榊先生は、もう一度そよぎ先輩を見る。

 

「やはり、あなたには、ここに残ってもらいたい」

 

 来た、と私は思った。

 

 予想していた。

 

 でも、実際に聞くと、胸が重くなる。

 

 避難所には水がある。

 寝床がある。

 人がいる。

 

 そして今、その場所は、そよぎ先輩まで欲しがっている。

 

 そよぎ先輩は笑っていた。

 

 けれど、その顔は少しも甘くなかった。

 

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