終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい   作:オカノヒカル

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第18話 月のお姫様は、避難所に残りませんわ

 

「あなたの力があれば、助かる人が増えます」

 

 榊先生の声は、まっすぐだった。

 

 夕方の渡り廊下に、冷たい風が通る。

 校庭の端では、今日持ち帰った物資を何人かが運んでいた。小麦粉。ドライフルーツ。砂糖。紙皿。ラップ。水。

 どれも、避難所では宝物みたいに扱われる。

 

 誰かが、少しだけ明るい声を出していた。

 

 水が増えた。

 砂糖があった。

 紙皿が使える。

 

 それだけで、体育館の空気が少し軽くなる。

 

 そして、その軽さの中心に、そよぎ先輩がいる。

 そう見えてしまうことが、私は嫌だった。

 

 そよぎ先輩は、榊先生を見ていた。

 

 口元は笑っている。

 でも、その顔は少しも甘くなかった。

 

「助かる人が増える。甘く聞こえて、ずいぶん重い言葉ですわね」

「軽く言っているつもりはありません」

 

 榊先生はすぐに答えた。

 

「子どももいます。高齢者もいます。門に立つ人間も、外に出る人間も、もう限界が近いんです。あなたがいてくれるだけで、安心できる人がいます」

 

 それは、たぶん本当だった。

 

 今日、外回り班は物資を持ち帰った。

 東門で見た人たちの顔は、明らかにほっとしていた。

 

 そよぎ先輩がいれば、助かる人が増える。

 

 それは、正しい。

 

 正しいからこそ、重い。

 

「安心。便利な甘味料ですわね」

 

 そよぎ先輩が言った。さらに追い打ちをかける。

 

「混ぜれば、たいていの要求が少し飲み込みやすくなります」

「先輩、人の必死なお願いを調味料にしないでください」

 

 私は小さく言った。

 

 榊先生は怒らなかった。

 

 ただ、少しだけ苦い顔をした。

 

「そう聞こえるなら、私の言い方が悪いんでしょう」

「言い方だけの問題ではありませんわ」

 

 そよぎ先輩は、穏やかに返した。

 その穏やかさが、逆に刺さる。

 

 榊先生は少し黙ってから、校舎の方を見た。

 

「ここでは話しにくいですね。場所を変えましょう」

「また事情聴取ですか?」

 

 私が聞くと、榊先生は首を振った。

 

「お願いです」

 

 お願い。

 

 それは、昨日から何度も聞いた言葉だった。

 

 私たちは、校舎の空き教室へ移動した。

 前にも話を聞かれた教室だ。

 低学年用の小さな机が端へ寄せられている。黒板の端には、まだ消え残ったチョークの線があった。

 窓には段ボールが貼られ、外の夕方は細い隙間からしか入ってこない。

 教室の中は、少し息苦しかった。

 

 教室に入ったのは、私とそよぎ先輩。

 

 榊先生。

 戸倉さん。

 長谷川さん。

 岡部さん。

 

 由良さんはいない。

 外回りの片付けを手伝っているらしい。

 

 榊先生が、最初に口を開いた。

 

「改めて、お願いさせてください。ここに残ってもらえませんか」

 

 そよぎ先輩は答えない。

 

 榊先生は続けた。

 

「体育館ではなく、空き教室を使ってもらって構いません。水や食事も、外回りに協力してくれる人として、少し優先できます。甘いものも、できる範囲で報酬として用意します」

「甘いもの」

 

 先輩の目が、ほんの少しだけ動いた。

 

「先輩、そこだけ反応しないでください」

「重要な条件ですわ」

「重要ですけど、今そこだけ拾う場面じゃないです」

 

 岡部さんが眉間を押さえた。

 

「甘いものは、無限にあるわけじゃないわよ」

「無限の甘味など、この世にありませんわ。だからこそ尊いのです」

「話が大きい」

 

 岡部さんが疲れた声で言った。

 

 榊先生は、軽く咳払いした。

 

「強制ではありません。あくまでお願いです」

 

 その言葉に、そよぎ先輩が笑った。

 

「無理にとは言わない。けれど、断れば全員が困った顔をする。ずいぶんよくできた箱ですわね」

「先輩、箱に詰めるのやめてください」

「箱入りのほうが保存は利きますわ」

「人間は保存食じゃないです」

 

 戸倉さんが、腕を組んだ。

 

「言い方はどうでもいい。現実に、あんたがいれば助かる」

「ええ。現実はいつも、言い方より厄介ですわ」

 

 そよぎ先輩は涼しい顔で言う。

 

 戸倉さんのこめかみが、少し動いた。

 

 榊先生は、その場を収めるように手を置いた。

 

「私から話しましょう」

 

 まず、戸倉さんが口を開いた。

 

「毎日じゃなくていい。日没前後だけでも、門の近くにいてくれればかなり違う」

 

 声は硬い。

 けれど、昨日よりも少し疲れて聞こえた。

 

「奴らを、外にいるうちに片付けられるなら、中の連中が怯えなくて済む」

 

 それは、門番としては正しい。

 正しいけれど、私は少し引っかかった。

 中の人が怯えなくて済む。

 

 でも、戸倉さんも、怯えなくて済むのではないだろうか。

 

 門の外から来る人や、もう人ではなくなったものを、正面から見なくて済む。

 誰を入れて、誰を入れないかを決める前に、終わらせられる。

 

 そよぎ先輩は、やっぱりそこを見ていた。

 

「門の外にいるうちに、見えなくしたいのですわね」

「当たり前だ。中に入れたら終わりだろ」

「ええ。顔も、声も、こちらへ届く前に。とても門番らしい願いですわ」

「……何が言いたい」

「まだ何も」

「言ってるだろ、十分」

「では、聞こえているのですわね」

 

 戸倉さんが黙った。

 

 次に、長谷川さんが話した。

 昨日より、ずっと慎重な顔をしている。

 

「隔離室で……もし手遅れになった人が出た時、騒ぎになる前に止められるなら、助かります」

 

 教室が静かになった。

 

 助ける話ではなかった。

 助けられなかった後の話だった。

 

 隔離室。

 発熱者。

 様子見の人。

 

 その中で、誰かが変わってしまった時。

 

 叫ぶ前に。

 噛みつく前に。

 体育館で暴れる前に。

 

 止める。

 

 長谷川さんの手は、膝の上で強く握られていた。

 

 そよぎ先輩は、その手を見てから、長谷川さんの顔を見る。

 

「長谷川さんは、治したいのではなく、廃棄処分をしたいのですわね」

「先輩、言い方」

 

 私は思わず言った。

 でも、長谷川さんは怒らなかった。

 

 青白い顔で、少しだけ目を伏せる。

 

「……違いません」

 

 その声は小さかった。

 

「治せるなら治したいです。でも、治せないんです。薬も足りない。器具もない。人も足りない。隔離教室にいる人たちが、全員助かるなんて言えない」

 

 長谷川さんは、そこで言葉を切った。

 

「だから、もしもの時に、止められる人がいるなら……そう思ってしまいます」

 

 それは、ずるいことなのかもしれない。

 でも、ずるいと言い切れるほど、私は強くなかった。

 

 岡部さんが、物資ノートを抱え直した。

 

「私は、外回りと物資回収。今日みたいに一度ついてくれるだけで、持ち帰れるものが違うのよ」

 

 彼女の声は現実的だった。

 

「危ない場所で、あと少し奥まで入るか、引き返すか。その判断がしやすくなる。全員が無事に帰れるなら、それだけでも大きい」

 

 岡部さんは、そよぎ先輩をまっすぐ見る。

 

「それに、報酬のことも考え直したわ」

「報酬」

 

 そよぎ先輩の声が、少しだけ明るくなる。

 

「先輩、またそこだけ拾わないでください」

「拾うべき甘味は拾いますわ」

「まだ甘味とは言ってません」

「報酬という言葉には、甘味の可能性が含まれます」

「含まない場合もあります」

 

 岡部さんが、ため息をついた。

 

「出すなら、ちゃんと外回りの報酬として出すわ。子ども用とは別に記録する。昨日みたいな出し方はしない」

 

 昨日、隠していた甘味を子どもに見られた。

 その後の体育館の空気を思い出す。

 岡部さんは、たぶんそれを気にしている。

 

 そして、それでも甘いものを報酬に使おうとしている。

 

 悪い人ではない。

 でも、甘いものを出す手つきには、まだ少しだけ人を動かす感じが残っている。

 

 最後に榊先生が言った。

 

「私は、あなたを利用したいわけではありません」

 

 その声は、まっすぐだった。

 

 本当に、そう思っているのだと思う。

 

 でも、そよぎ先輩はすぐに返した。

 

「利用したいわけではない。ただ、いてくれると助かる。ずいぶん薄く切った言葉ですわね」

 

 榊先生は、言葉に詰まった。

 

「……それでも、お願いするしかありません」

「ええ。そこは正直でよろしいですわ」

 

 そよぎ先輩は、少しだけ満足そうに言った。

 

 話し合いは、そこで一度止まった。

 

 空き教室の外へ出ると、体育館の入口近くにある掲示板が見えた。

 そこには、避難所の当番表が貼られている。

 

 水配り。

 子どもスペース。

 トイレ水運び。

 東門見張り。

 物資整理。

 外回り補助。

 

 名前がびっしり書いてある。

 

 そして、端の方に、鉛筆で新しく書き足された文字があった。

 

『戦技さん:東門補助』

『守地さん:記録』

 

 私は立ち止まった。

 

「先輩」

「何かしら」

 

「名前、書かれてます」

 

 そよぎ先輩も掲示板を見る。

 

「あら」

 

 その声は、怒っているというより、面白がっているようだった。

 

「わたくし、いつの間に避難所の棚に並べられましたの?」

 

 岡部さんが、慌てて言った。

 

「仮よ、仮。まだ決定じゃないわ」

「仮の棚札ですのね」

「棚札じゃないわよ」

「では、本人確認をいたしましょう」

 

 そよぎ先輩は、掲示板の横に挟んであった鉛筆を取った。

 

「先輩?」

 

 嫌な予感がした。

 

 そよぎ先輩は、さらさらと文字を書き換えた。

 

『戦技さん:甘味巡礼』

『森原さん:観測係』

 

「書き換えないでください!」

 

 私が叫ぶと、岡部さんも声を上げた。

 

「消しなさい!」

「勝手に置かれた棚札を、本人が直しただけですわ」

「当番表よ!」

「当番という言葉がよくありませんわね。甘味巡礼は使命です」

「避難所の当番表を宗教みたいにしないでください」

 

 戸倉さんが、額に手を当てた。

 

「誰が甘味巡礼なんて認めるか」

「認可制でしたの?」

「違う!」

「では、自由ですわね」

「そういう話じゃない!」

 

 体育館の入口にいた子どもが、当番表を見上げていた。

 

「甘味じゅんれいって何?」

 

 私は、すぐにその子の前へ出た。

 

「覚えなくていい言葉です」

「甘いもの探すの?」

 

 そよぎ先輩がにっこりする。

 

「ええ。とても大切な営みですわ」

「先輩、子どもに変な概念を教えないでください」

 

 岡部さんが、慌てて当番表の文字を消した。

 

 鉛筆の跡は、少し残った。

 

 戦技さん。

 森原さん。

 

 その名前が、消えたのに、まだそこにあるような気がした。

 

 名前を書かれると、そこに置かれたみたいになる。

 

 私は、その感覚が少し怖かった。

 

 話し合いのあと、岡部さんは缶詰みかんを出してくれた。

 

「これは外回り班への報酬。子ども用とは別に記録してある分です」

 

 岡部さんは、先にそう言った。

 

 昨日とは違う。

 

 子どもに「ない」と言っていたものを、大人同士の交渉に出したわけではない。

 

 小皿に、缶詰のみかんが少し。

 

 冷えてはいない。

 シロップは甘い。

 果肉は柔らかく、少し崩れかけている。

 

 それでも、オレンジ色はきれいだった。

 

 そよぎ先輩は、真剣な顔で一房食べた。

 

「缶詰みかん。味だけなら六十八点」

「低めですね」

「果肉に張りがありません。香りも単調。ですが、避難所における果物系甘味としては悪くありません」

「避難所補正は?」

「昨日より手続きが腐っていませんので、七十八点ですわ」

 

 岡部さんが、微妙な顔をした。

 

「褒めてるの、それ?」

「たぶん褒めてます。先輩比で」

「先輩比って何よ」

「私にもよくわかりません」

 

 そよぎ先輩は、みかんをもう一房食べた。

 

「シロップは、甘味を少し長持ちさせますわ」

 

 岡部さんは何も言わなかった。

 

 ただ、小さく息を吐いて、物資ノートに何かを書き込んだ。

 そのあとで、榊先生がもう一度言った。

 

「ここに残る条件があるなら、聞かせてください」

 

 そよぎ先輩は、待っていましたとばかりに微笑んだ。

 

「では、皆様に一つずつお願いしましょうか」

 

 私は嫌な予感がした。

 

「先輩、その笑い方は絶対よくないです」

「失礼ですわね。古典的な交渉ですわ」

「古典?」

 

 嫌な予感が、少し具体的になった。

 

 そよぎ先輩は、まず榊先生を見た。

 

「榊先生には、仏の御石の鉢を」

「……何ですか?」

 

 榊先生が、素で聞き返した。

 

「仏の御石の鉢ですわ」

「ええと」

 

 榊先生が困っている。

 

 次に、先輩は長谷川さんを見た。

 

「長谷川さんには、蓬莱の玉の枝を」

「え?」

 

 長谷川さんも、わからない顔をした。

 

 さらに岡部さんに視線を向ける先輩

 

「岡部さんには、火鼠の皮衣を」

「ひ、ひねずみ?」

 

 先輩はその隣の戸倉さんの顔を見る。

 

「戸倉さんには、竜の頸の五色の玉を」

「ふざけてるのか」

 

 戸倉さんの声が低くなる。

 

 そよぎ先輩は、まったく動じない。

 

「大真面目ですわ」

 

 私は頭を抱えた。

 

「先輩、いつから月のお姫様になったんですか?」

「失礼ですわね。月の側が迎えに来たら、茶菓子を確認してから考えます」

「帰るかどうかより茶菓子なんですね」

「当然ですわ」

 

 戸倉さんが、机を軽く叩いた。

 

「そんなもの、あるわけないだろ」

「ええ」

 

 そよぎ先輩は、穏やかに笑った。

 

「ですから、わたくしがここに残ることも同じくらい無理ですわ」

 

 教室の空気が止まった。

 さっきまで少し笑いになっていたものが、急に形を変えた。

 

 無理難題。

 

 最初から、答えは決まっていたのだ。

 

「交渉不成立ですわね」

 

 そよぎ先輩は、そう言った。

 

「明朝、ここを出ます」

 

 私は、思わず先輩を見た。

 

「明朝、ですか」

「ええ。長居すると、棚札を貼られますもの」

 

 私は、さっきの当番表を思い出した。

 

 消されたはずの鉛筆の跡。

 

 戦技さん。

 守地さん。

 

 名前を書かれると、そこに置かれたみたいになる。

 

 それは、少し怖かった。

 話し合いは、それ以上進まなかった。

 

 榊先生は、そよぎ先輩を引き留めなかった。

 戸倉さんは最後まで不満そうだった。

 長谷川さんは黙っていた。

 岡部さんは物資ノートを閉じた。

 

 私は、体育館の端に戻った。

 

 そよぎ先輩は、荷物の確認をすると言って、少し離れた場所にいる。

 

 私は毛布の上に座り、ポケットの飴を触った。

 

 残りは少ない。

 

 でも、まだある。

 

 体育館の中では、子どもが折り紙をしていた。

 誰かが水の量を確認していた。

 長谷川さんが保健室へ向かっていく。

 戸倉さんは東門の方へ歩いていく。

 岡部さんは物資置き場で何かを数えている。

 

 ここには、人がいる。

 

 水もある。

 寝る場所もある。

 由良さんもいる。

 

 その由良さんが、私の近くに来た。

 

「聞いたよ。明日、出るんだって」

「はい。たぶん」

「たぶん?」

「先輩が言ったので、たぶん確定です」

「そっか」

 

 由良さんは、少しだけ私の横に座った。

 

「戦技さんは無理かもしれないけど、森原さんは残れそうなのに」

 

 その言葉は、思っていたより静かに刺さった。

 

 そよぎ先輩は無理。

 それは、私にもわかる。

 

 避難所の当番表に名前を書かれて、大人たちにお願いされて、子どもに期待されて、甘味で報酬を出されて、門番の近くに置かれる。

 

 あの人が、それに収まるわけがない。

 

 でも、私は?

 

 私は、残れるのかもしれない。

 

 水の配給に並ぶ。

 由良さんと話す。

 子どもスペースを手伝う。

 夜は体育館の隅で眠る。

 たまに羊羹や缶詰みかんを食べる。

 

 外よりは、ずっと安全だ。

 

「ここ、いい場所じゃないけど、外よりはましだよ」

 

 由良さんが言った。

 

「そうですね」

「森原さんなら、たぶん馴染めると思う」

「どうでしょう。私も、だいぶ変になってきたので」

「そうかな」

「そうですよ」

「でも、話せるじゃん。普通に」

 

 普通に。

 

 その言葉に、少し詰まった。

 

 私は由良さんと、学校帰りのコンビニの話ができた。

 限定アイスの話ができた。

 制服が汚れた話で笑えた。

 

 普通の話ができた。

 

 ここに残れば、そういう会話がもう少しできるかもしれない。

 

「森原さんは、どうしたいの?」

 

 由良さんが聞いた。

 

 私は答えられなかった。

 

 どうしたいのか。

 

 そよぎ先輩についていく。

 

 それは、もう当然みたいになっていた。

 

 でも、当然で済ませていいのだろうか。

 

 私は何も言えないまま、ポケットの飴を握った。

 

 

**

 

 その夜。榊真澄は、物資ノートを開いた。

 

 職員室では、まだ明かりが消えていなかった。

 机の上には、今日の外回りで増えた物資の一覧が置かれている。

 

 水。

 砂糖。

 ドライフルーツ。

 小麦粉。

 紙皿。

 ラップ。

 

 数字だけを見れば、成功だった。

 けれど、その成功が何によって支えられていたのかを、そこにいる大人たちはわかっていた。

 

 戦技彩子がいたからだ。

 

 榊は、物資ノートを閉じた。

 

「本人が出ると言った以上、止められません」

 

 戸倉英二は、窓の外を見ていた。

 視線の先にあるのは、東門の方角だった。

 

「行かせたら、次に探索で誰かが死ぬかもしれない」

「だからといって、引き留めることはできません」

「本当に、できないんですか」

 

 戸倉の声は低かった。

 

 岡部茜は、腕を組んだまま、机の上の物資一覧を見ている。

 

「今日みたいに一度ついてくれるだけで、持ち帰れる量が違うのよ」

「岡部さん」

「わかってるわよ。無理に残せないことくらい。でも、あの子がいるだけで、助かる確率が上がるのは事実でしょう」

 

 長谷川理奈は、しばらく黙っていた。

 彼女の視線は、職員室の扉の向こうへ向いている。

 

 保健室。

 そのさらに先にある、体調不良者用の教室。

 

 もし夜のうちに誰かが変わったら。

 その時、自分は何ができるのか。

 

 長谷川は、その問いを声にはしなかった。

 

 榊は、全員の顔を見た。

 

「本人の意思を無視することはできません」

 

 同じことを、もう一度言った。

 今度は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。

 

 戸倉が、ようやく窓から視線を外した。

 

「明日の朝、出る前に、餞別を渡す」

「餞別?」

 

 岡部が顔を上げる。

 

「水と、少しの保存食だ。あの二人が外へ出るなら、何も持たせないわけにはいかないだろ」

「それは……そうね」

 

 岡部は、机の端に置かれた配給表を見る。

 

「でも、朝は配給で混むわ。物資置き場も人が出入りする」

「だから、先に倉庫に分けておく」

 

 戸倉は言った。

 

「防災備蓄の倉庫なら、朝の配給とは別にできる。俺が鍵を預かって、出発前に渡す」

「戸倉さん」

 

 榊の声が、少しだけ硬くなった。

 

 戸倉は榊を見た。

 

「渡すだけだ」

「本当に、それだけですね」

「……ああ」

 

 答えるまでに、ほんの少しだけ間があった。

 

 その間を、誰も指摘しなかった。

 

 岡部は唇を引き結び、長谷川は膝の上で手を握った。

 榊は、机の上に置かれた物資ノートへ視線を落とす。

 

 水の本数。

 乾パンの箱。

 経口補水粉末。

 絆創膏。

 保存菓子。

 

 どれも、外へ出る人間には必要なものだ。

 

 必要なものだからこそ、断る理由はなかった。

 

「では、最低限の餞別として記録しておきます」

 

 榊は、物資ノートを開いた。

 

 ペン先が、紙の上で小さく音を立てる。

 

 出発者用。

 水二本。

 乾パン。

 経口補水粉末。

 応急用品。

 保存菓子。

 

 書かれた文字は、ただの記録だった。

 

 けれど、その横で置かれた倉庫の鍵だけが、やけに重く見えた。

 

**

 

 私は毛布の上で、飴の残りを数えていた。

 

 青りんご。

 レモン。

 ぶどう。

 ミルク。

 

 少ない。

 

 でも、まだある。

 

 そよぎ先輩は、少し離れた掲示板の前に立っていた。

 

 さっき岡部さんが消したはずの当番表を、妙に満足そうに見ている。

 

「先輩」

「何かしら」

「消されてますよ」

「跡は残っていますわ」

「そういうところ、嫌な人みたいです」

「失礼ですわね。書かれた歴史を味わっているだけです」

「避難所の当番表に歴史を感じないでください」

 

 掲示板には、もう私たちの名前はない。

 

 ないはずなのに、鉛筆の跡だけはうっすら残っている。

 消したあとも、そこに置かれかけた事実だけは残ってしまう。

 

 私は、それを見ているのが少し嫌だった。

 

「先輩」

「ええ」

 

 そよぎ先輩は、私が最後まで言う前に答えた。

 

「明朝、ここを出るのは決定ですわ」

「……ですよね」

「ええ。長居をすると、また棚札を貼られますもの」

「人を在庫みたいに言わないでください」

「あら。わたくしたちは在庫ではありませんわ」

 

 そよぎ先輩は、掲示板から目を離した。

 

「並べられる前に、店を出るだけです」

 

 その言い方は、いつも通り変だった。

 でも、少しだけわかってしまった。

 

 ここには、水がある。

 寝る場所がある。

 人がいる。

 由良さんもいる。

 

 外よりは、ずっと安全だ。

 それでも、名前を書かれて、役割を与えられて、誰かの安心のために置かれることが、私は少し怖かった。

 

 ポケットの中で、飴の包みが小さく鳴った。

 

 私がどうしたいのか。

 

 由良さんに聞かれた答えは、まだ出ていない。

 

 けれど明日の朝、私たちはここを出る。

 

 そのことだけは、もう決まっている気がした。

 

 

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