終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
朝の体育館は、まだ薄暗かった。
窓に貼られた段ボールの隙間から、細い光が入っている。
誰かが毛布を畳む音。
子どもが小さくくしゃみをする音。
水の配給に並ぶ人たちの足音。
避難所の一日は、私たちが思っていたより早く始まる。
私はリュックの中身を確認した。
水。
少しの食料。
ハンカチ。
小さな袋。
そして、ポケットの飴。
残りは、もう少ない。
避難所にいれば、水はもらえる。
寝る場所もある。
人もいる。
でも、私の飴は、私が守らなければならない。
この飴がなければ、移動中に結界を張れない。
そして、この飴の本当の意味を、避難所の人たちは知らない。
知らないままでいい。
「モブ子さん」
そよぎ先輩が、体育館の入口近くに立っていた。
掲示板を見ている。
「はい」
「こちらをご覧なさい」
「また当番表ですか?」
「ええ」
昨日、そよぎ先輩が勝手に書き換えた当番表は、もう岡部さんに消されている。
『戦技さん:甘味巡礼』
『守地さん:観測係』
その文字はない。
ないけれど、鉛筆の跡だけは、うっすら残っていた。
「まだ見てるんですか」
「消された棚札にも、歴史がありますもの」
「避難所の当番表に歴史を感じないでください」
「名残というのは大切ですわ。たとえ消されても、そこに置かれかけた事実は残ります」
「朝から嫌なこと言いますね」
そよぎ先輩は、少しだけ笑った。
その時、体育館の入口に戸倉さんが現れた。
昨日よりも顔が硬い。
目の下にクマがある。
あまり眠っていないのかもしれない。
「戦技さん」
「何かしら」
「出る前に、渡すものがある」
戸倉さんの声は低かった。
「渡すもの?」
私が聞き返す。
「出る前に、餞別を渡す。水と乾パン。それから……少しだけ甘いものもある」
「甘いもの」
そよぎ先輩の目が、ほんの少しだけ動いた。
「先輩、そこだけ拾わないでください」
「重要な部分ですわ」
「重要ですけど、釣られすぎです」
「甘味の前で冷静でいられるほど、わたくしは未熟ではありませんわ」
「未熟じゃないですか」
「甘味は7つの大罪には入りません」
「思いっきり暴食なんですけど」
戸倉さんは、私たちのやり取りに付き合う気はないらしい。
「倉庫に置いてある。岡部さんは朝の配給で手が離せない。俺が案内する」
「岡部さんじゃないんですね」
私は、思わず言った。
物資のことなら、岡部さんが出てきそうなものだ。
戸倉さんは、表情を変えずに答えた。
「鍵だけ預かった。時間は取らせない」
嘘ではないのかもしれない。
朝の避難所は忙しい。
岡部さんは水と食料の配給で手がいっぱいだろう。
出発用の餞別を、倉庫に分けて置いてあるのも変ではない。
でも、何かが引っかかった。
完全な嘘ではないからこそ、引っかかる。
そよぎ先輩は、薄く笑った。
「出発前の餞別甘味ですわね」
「餞別物資です」
私は訂正する。
「甘味限定にしないでください」
「餞別に甘味が含まれるなら、そこが中心ですわ」
「先輩の中心がいつも甘い」
「結構なことではなくて?」
「たぶん褒めてません」
私たちは、戸倉さんについて体育館を出た。
朝の避難所は、昨日までより少しだけ見慣れていた。
水の配給に並ぶ人たち。
眠そうな顔で毛布を抱える子ども。
配給表を見ながら、誰かに短く指示を出している岡部さん。
保健室の方へ歩いていく長谷川さん。
誰かに呼び止められて、足を止める榊先生。
由良さんの姿は見えなかった。
まだ寝床の片付けか、外回り班の手伝いをしているのかもしれない。
ここには生活がある。
きれいな場所ではない。
楽な場所でもない。
でも、みんなが朝を始めている。
水があって、寝床があって、人がいる。
私は、ここを出るのだと思った。
自分で決めたわけではない。
そよぎ先輩が「明朝、ここを出ます」と言った。
私はそれに従うつもりで荷物をまとめた。
でも、本当にそれでいいのか。
由良さんに聞かれたことを思い出す。
森原さんは、どうしたいの?
答えはまだ出ていない。
答えが出る前に、私たちは倉庫の前に着いた。
そこは校舎一階の奥、体育館から少し離れた場所だった。
重い金属製の引き戸。
外側に鍵穴がある。
内側には、たぶん取っ手だけ。
学校の備蓄倉庫らしい。扉の上には、色あせた紙で『防災備蓄』と書かれていた。
戸倉さんが鍵を差し込む。
古い金属音がした。
ガチャリ。
扉が開くと、湿った段ボールの匂いがした。
倉庫の中は暗い。
戸倉さんが懐中電灯を向ける。
棚には、段ボール箱がいくつも積まれている。
毛布。
簡易トイレ用品。
古い乾パンの箱。
水のペットボトル。
カセットボンベ。
使い捨て手袋。
何に使うのかわからないロープ。
その手前に、小さな箱が一つ置かれていた。
戸倉さんは、その箱を指差した。
「これだ」
箱の中には、水のペットボトルが二本。乾パン。経口補水粉末。絆創膏が少し。あと、小さな保存菓子が一つ入っていた。
たしかに、出発用の物資だった。
完全な嘘ではない。
だからこそ、少し嫌だった。
「餞別としては、やや乾いていますわね」
そよぎ先輩が乾パンを見て言う。
「乾パンですからね」
「甘味の気配が薄いですわ」
「桃缶がありますよ」
「桃缶は果物系甘味としては優秀ですが、餞別としてはもう一声欲しいところです」
「もらう前から採点しないでください」
私は箱の中身を見ながら、メモを取るべきか迷った。
もう記録係ではない。
当番表からも消された。
でも、つい数えそうになる。
水が二本。
乾パン。
経口補水粉末。
絆創膏。
桃の缶詰。
保存菓子。
避難所にいる間に、私も少しだけここに馴染みかけていたのかもしれない。
戸倉さんは、倉庫の入口近くに立っていた。
私たちの方ではなく、扉の方に体を向けている。
そよぎ先輩が、ゆっくり顔を上げた。
「戸倉さん」
「何だ」
「餞別を渡す方は、普通、出口を背に立ちませんわ」
戸倉さんは答えない。
私の背中に、冷たいものが走った。
「戸倉さん?」
戸倉さんは、少しだけ目を伏せた。
「……少し、ここで待ってくれ」
「何をですか」
「榊先生にも来てもらう。もう一度、話をする」
話。
その言葉が、嫌な形に聞こえた。
そよぎ先輩は、鋭い目で扉を見ていた。
「どういうことかしら?」
戸倉さんの肩が、ほんの少し動いた。
「出て行く前に、話す時間くらいはあるだろう」
そう言って、戸倉さんは外へ出た。
次の瞬間。
ガチャリ。
外側から鍵が回る音がした。
私は、一瞬、何が起きたのかわからなかった。
「……え?」
扉へ駆け寄る。
内側の取っ手を引いた。
開かない。
もう一度引く。
開かない。
金属の扉は、重く、冷たく、びくともしなかった。
「先輩」
「何かしら」
「閉じ込められました」
そよぎ先輩は、驚いていなかった。
むしろ、倉庫の扉を見て、少しだけ満足そうにしている。
「ええ。ようやく本音が鍵の形になりましたわね」
「そんな綺麗に言わないでください。普通に最悪です」
私は扉を叩いた。
「戸倉さん!」
外から、少し遅れて声が返ってきた。
「少し待ってくれ」
「待つって何をですか!」
「榊先生が来るまでだ。話し合うだけだ」
「話し合うのに鍵をかけるんですか!」
外は一瞬、静かになった。
それから、戸倉さんの声がした。
「出て行かれたら、話せないだろ」
その言葉で、私の中の何かが、すっと冷えた。
ああ。
そういうことなのか。
この人たちは、私たちを殺したいわけじゃない。
傷つけたいわけでもない。
たぶん、本気で助けてほしいと思っている。
でも、鍵をかけた。
私たちが出て行くと言ったから。
引き留められないと思ったから。
だから鍵をかけた。
それは、だめだ。
「話したいなら、扉を開けたまま話せばいいじゃないですか」
声が出た。
思っていたより、低い声だった。
「残ってほしいって、昨日ちゃんと言ってましたよね。助けてほしいって、みんなで言ってましたよね」
外から返事はない。
「それを聞いて、先輩は断ったんです」
私は、取っ手を握ったまま言った。
金属は冷たかった。
力を入れても、扉はびくともしない。
「断られたからって、鍵をかけるのは違うじゃないですか」
扉の向こうで、戸倉さんが息を呑んだ気がした。
「もう一度話したいなら、もう一度お願いすればよかった。待つなら、廊下で待てばよかった。榊先生を呼ぶなら、私たちを閉じ込めなくてもよかった」
言葉が、止まらなかった。
自分でも驚くくらい、次から次へと出てきた。
「なのに、どうして逃げ道を塞ぐんですか」
外は静かだった。
「それは、お願いじゃないです」
私は額を扉に近づけた。
金属の匂いがする。
倉庫の湿った段ボールの匂いもする。
「残ってほしいって言葉を、残るしかない形に変えちゃだめでしょう」
声が少し震えた。
怒っているのか、怖いのか、自分でもよくわからなかった。
「安全な場所だと思ったのに」
それは、叫びではなかった。
小さく漏れただけだった。
でも、自分で言ってから、胸が痛くなった。
水があった。
寝床があった。
人がいた。
由良さんがいた。
私は、ここに残れるかもしれないと思った。
普通の話ができる相手がいて、朝の水配りがあって、夜の寝床があって。
そよぎ先輩から少し離れて、普通の女子高生に戻れる場所なのかもしれないと、ほんの少し思った。
でも、閉じ込められた。
安全な場所の扉が、内側から開かなかった。
「モブ子さんが怒っていますわ」
そよぎ先輩が言った。
「怒りますよ、普通!」
「ええ。普通の怒りですわね。よろしいと思います」
「褒められても嬉しくないです」
「けれど、必要な怒りですわ」
その声だけは、少し真面目だった。
私は扉から手を離し、先輩を見た。
「先輩」
「何かしら」
「どうしましょう?」
「出ますわ」
「え? どうやってですか?」
倉庫の扉は外から鍵がかかっている。
内側には取っ手しかない。
窓はない。
壁は厚い。
棚には水や乾パンや毛布があるけれど、扉を壊せそうなものはない。
そよぎ先輩は、金属扉に近づいた。
指先で、内側の取っ手を軽く撫でる。
「食品以外に使う趣味はありませんけれど」
「はい?」
「物にも、使い頃というものはありますわ」
嫌な予感がした。
いや、嫌というより、知らない予感だった。
「先輩、それ……能力の解釈として大丈夫なんですか?」
「大丈夫かどうかは、使ってから考えます」
「その発想で世界を広げないでください」
「広げませんわ」
そよぎ先輩は、扉に指を添えた。
「戻すだけです」
倉庫の中が、少しだけ静かになった気がした。
遠くの体育館のざわめきも、廊下の足音も、扉の向こうの戸倉さんの気配も、少しだけ遠のく。
先輩の声が、低く響いた。
「鍵がかかる前のあなたに、戻りなさいませ」
パチン。
指を鳴らす音。
ケーキの苺の賞味期限を取り戻す時と、同じ音。
でも、今度は目の前にあるのはケーキではない。
人でもない。
ただの扉だ。
何かが光ったわけではなかった。
錆が消えたわけでもない。
凹みが直ったわけでもない。
扉は古いままだった。
古い金属の匂いも、重さも、そのまま。
けれど。
カチャン。
扉の奥で、金具が跳ねる音がした。
外から回されたはずの錠が、かかる前の位置へ戻ったみたいに。
私は、恐る恐る取っ手を引いた。
扉が動いた。
「……今、扉に使いました?」
「使えましたわね」
そよぎ先輩は、当たり前みたいに言う。
「さらっと世界観が広がったんですけど」
「広がったのではありません。戻ったのです」
「そういう屁理屈で能力を拡張しないでください」
「何にでも使えるとは限りませんわ」
先輩は、開きかけた扉を見た。
「今回は、この扉がまだ“鍵がかかる前の自分”を覚えていただけです」
「扉に記憶を持たせないでください」
「物は案外しつこく、自分の役目を覚えていますわ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
物が、自分の役目を覚えている。
なら、人は?
人だったものは?
ゾンビになったものは、自分が人だったことを覚えているのだろうか。
そう思いかけて、私は首を振った。
今考えることじゃない。
扉は開いた。
私たちは、倉庫の外へ出た。
そこには、戸倉さんがいた。
彼は、扉が開いたことを理解できていない顔でこちらを見ていた。
「なっ……」
そよぎ先輩は、いつも通りだった。
「鍵の鮮度が落ちていましたわ」
「鍵に鮮度はないです」
「では、使い頃を過ぎていましたのね」
「もっとないです」
戸倉さんは、私たちを止めようと一歩前に出た。
「待て。まだ話は――」
そよぎ先輩が、静かに言った。
「話すために鍵をかける方とは、あまり会話の味が合いませんわ」
戸倉さんの顔が歪んだ。
怒りなのか、焦りなのか、後悔なのか、わからない。
「俺は、避難所を守るために――」
「守るものが多いと、倫理観の鮮度が落ちますのね」
そよぎ先輩は、戸倉さんを責めるでもなく、ただ見ていた。
私は、ようやく息を吸った。
倉庫の外の空気は、少し埃っぽかった。
でも、閉じ込められていた時よりずっとましだった。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
走ってくる音。
榊先生の声がした。
「戸倉さん!」
その声は、今まで聞いた中で一番強かった。
戸倉さんが振り返る。
榊先生が廊下の向こうから駆けてくる。
その後ろに、岡部さんと長谷川さんの姿も見えた。
私は、開いた倉庫の扉を見た。
水。
乾パン。
餞別の箱。
閉じ込めるために使われた扉。
そして、外へ戻った私たち。
その時、私ははっきりと思った。
もう、この避難所には残れない。