終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
苺味の飴を舌で転がしながら、私たちは次のコンビニへ向かった。道路には割れたガラスと、横倒しになった自転車と、何だったのか考えたくない赤黒い跡が散っている。こちらに気づいたゾンビが一体、ふらつきながら寄ってきたが、そよぎ先輩は歩く速度を落とさなかった。
「邪魔ですわ」
パチン。
指を鳴らす音と一緒に、ゾンビは灰色の粉になって風に散った。
「本当にロールケーキのために移動してるんですか?」
「他に何のために?」
「生存とか、安全確保とか」
「モブ子さん。いま考えて解決しないことを考えるのは、時間と糖分の浪費ですわ」
「糖分基準なんですね」
苺味はもう薄い。それに合わせるみたいに、私たちの周りに張っていた空気の膜も頼りなくなっていた。
目的のコンビニは、青い看板の店だった。自動ドアは半開きで止まり、ガラスには内側からぶつかったような血の跡がついている。けれど、冷蔵ケースの明かりだけはまだ生きていた。
私たちはまっすぐスイーツ棚へ向かった。
そこには、値札だけが残っていた。
ふわ雲ミルクロール。
濃厚チョコテリーヌ。
とろける白桃杏仁。
名前だけは楽しそうなのに、商品は何もない。
「……ないですね」
「ありませんわね」
「ロールケーキ……」
自分でも驚くくらい、声が沈んだ。家族がどうなったかわからない。学校も街もおかしくなっている。外にはゾンビがいる。なのに今の私は、ロールケーキがないことに普通に傷ついていた。
お腹が空いているわけではない。さっきピスタチオプリンを食べたばかりだ。それでも、食べるつもりで来たロールケーキがないというだけで、胸の奥がすとんと落ちる。たぶん私はもう、避難ではなく、甘いもののハシゴをしている。
「モブ子さん。そんな顔をしないでください」
「そんな顔って、どんな顔ですか」
「世界が終わった顔ですわ」
「終わってますよ」
「違います。世界が終わった顔と、ロールケーキが売り切れた顔は別物です」
「区別したくないです」
そよぎ先輩は、空っぽの棚をじっと見つめていた。悲しんでいるわけではない。怒っているわけでもない。ただ、何かを観察している顔だった。
「空ですわ」
「から?」
「ええ。空っぽの空です」
先輩は棚板を指先で軽くなぞった。
「空っぽというのは、悪い状態ではありませんのよ」
「悪い状態ですよ。商品がないんですから」
「浅いですわね、モブ子さん」
「コンビニの欠品棚で深さを求めないでください」
外で、どん、とガラスが鳴った。ゾンビが入口の方にぶつかったらしい。
「先輩、空について語る前に、外がだいぶ詰まってます」
「あちらは空気を読めない方々ですわね」
パチン。
入口の向こうで、何かが崩れる音がした。
「さて」
「さて、じゃないです」
先輩は何事もなかったように続けた。
「空っぽとは、欠落ではありません。余白ですわ。何もないからこそ、次に何を迎えるかを待てる」
「ロールケーキがない棚に、そんな前向きな意味を持たせないでください」
「棚がいっぱいの時、人は選ばされます。でも、空の棚は何も押しつけません。ただ、待っているのです」
「ただの売り切れですよ」
「いいえ。これは可能性です」
そこで先輩は、棚の隅に目を止めた。潰れたカップスイーツが一つだけ残っている。蓋の内側にクリームが貼りつき、苺ソースなのか別の赤なのかわからないものが滲んでいた。
「一つ残ってますよ」
「残っているとは言いませんわ」
先輩はそれをつまみ上げた。
「これは未練です」
「潰れたカップスイーツにひどいこと言いますね」
「空になるべき棚に、最後までしがみついている。美しくありません」
「本人はしがみついてるつもりないと思います」
「食べます?」
「食べません」
「では、廃棄ですわ」
パチン。
カップスイーツは容器ごとほどけて消えた。棚が、完全に空になる。透明な棚板、値札、白い冷気。それだけが残った。
私は、値札に書かれた「ふわ雲ミルクロール」の文字を見る。
「……ここ、ロールケーキの棚だったのに」
別に、能力を使おうとしたわけじゃない。何かを願ったつもりもない。ただ、少しだけ残念に思っただけだ。
その瞬間だった。
冷蔵ケースの奥で、何かが鳴った。
ことん。
顔を上げる。
もう一度。
ことん。
空っぽだった棚の奥に、白いパッケージが二つ並んでいた。
ふわ雲ミルクロール。
「……出ました」
「出ましたわね」
「今の、あたしがやったんですか?」
「おそらく」
「おそらくで済ませていい現象じゃないですよ」
先輩はロールケーキを一つ手に取り、賞味期限の印字を確認した。
「少し鮮度が落ちていますわね。ですが、戻せます」
パチン。
今度は何も消えなかった。袋の内側についた水滴が澄み、クリームの輪郭が、冷蔵ケースから出したばかりみたいに整う。
「今、巻き戻したんですか?」
「ええ。食べられるところまで」
「便利すぎません?」
「スイーツに対してだけは、世界も少し親切であるべきですわ」
先輩はロールケーキを私に一つ渡した。
「素晴らしいですわ、モブ子さん」
「何がですか」
「やはり、これは【スイーツ・ガチャ】ですわね」
「その名前、定着させる気ですか」
「当然ですわ。空の棚からランダムで甘味が二つ。これ以上ふさわしい名前がありまして?」
「能力名にソシャゲ臭を入れないでください」
「無課金で二個出ましたわよ」
「そこじゃないです」
「しかも今回は当たりっぽいですわ」
「だから、そこじゃないです」
反論しても、先輩はもう完全に命名した顔だった。
私はロールケーキの封を切った。甘いミルクの匂いが、ふわっと上がる。袋から取り出すと、白いクリームがスポンジにくるりと巻かれていた。
小さく一口かじる。薄い膜が、私と先輩の周りに広がった。外の音が、ほんの少し遠ざかる。
「ここでいただきましょう」
「ここ、イートインじゃないですよ」
「食べる場所として認識できればよろしいのでしょう?」
「そんな雑な……」
でも、結界は張れている。血の跡が少ないレジ横の台を軽く拭き、私たちはそこでロールケーキを食べることにした。
断面は思ったより綺麗だった。ぐるぐるというほど強くなく、ふわっと包んでいる感じ。コンビニのスイーツなのに、今の世界では宝石よりありがたい。いや、宝石より食べられるぶん、こっちの方が偉い。
「良い断面ですわね」
「断面から入るんですね」
「ロールケーキは断面の菓子ですもの」
「そうなんですか?」
「少なくとも、わたくしの中では」
先輩は一口食べた。私もさらに食べる。
スポンジは柔らかい。歯を立てると、ふわっと沈んで、すぐにミルククリームが舌に触れた。
甘い。でも、重くない。口の中に白いクリームの匂いが広がって、さっきまで鼻に残っていた血の臭いが少しだけ薄れた。
「……おいしい」
自分でも、びっくりするくらい素直な声だった。
「あら」
「なんですか」
「モブ子さんが、わたくしより先に評価を出しましたわ」
「感想くらい言わせてください」
私はもう一口食べた。クリームが多い。でも、スポンジがあるから甘さだけでべたつかない。ちゃんと噛める。ちゃんと飲み込める。ちゃんと、今ここにいる感じがする。
「普通に好きです。こういうの」
「普通に?」
「はい。変に尖ってないし、安心する味です」
先輩は、少しだけ面白そうに目を細めた。
「では、ロールケーキの話をしましょう」
「今までもロールケーキの話でしたよね?」
「まだ入口ですわ」
先輩は断面をこちらに向ける。
「ロールケーキとは、空白を甘さで満たす菓子です」
「ただ巻いただけでは?」
「平たいスポンジにクリームを塗り、巻く。すると中心が生まれます。最初から中心があるわけではありません。巻くことで、甘さを抱える場所ができる」
「言い方がいちいち重い」
「先ほどの棚も同じです。空っぽだったからこそ、甘さを迎え入れる余地があった」
「ロールケーキを食べながら棚の話に戻らないでください」
「戻りますわ。大事なことですもの」
そう言う先輩の顔は、少しだけ真面目だった。
「空っぽとは、何もないことではありません。何かが入る準備ができているということですわ」
「……先輩、それ本気で言ってます?」
「もちろん。半分くらいは」
「半分なんだ」
でも、なぜか少し耳に残った。
空っぽは、何もないことではない。何かが入る準備ができている。
外の世界は終わっているのに、口の中だけは甘い。空だった棚から出てきたロールケーキを、私は今、食べている。
「先輩」
「何かしら?」
「今の、ちょっと良いこと言いました?」
「ええ。かなり」
「自分で言うと台無しですね」
先輩は楽しそうに笑い、残りのロールケーキを食べ終えた。紙ナプキンで口元を拭い、それから宣言する。
「採点に入りましょう」
「お願いします」
「八十二点」
「高い」
「クリームの口どけは優秀です。ミルク感も悪くありません。けれど、スポンジが少し従順すぎますわね」
「ロールケーキに反抗心を求めないでください」
「巻かれたからといって、すべてを受け入れる必要はありません」
「スポンジの立場で考えたことないです」
「支える者にも矜持が必要ですわ」
「ケーキの話ですよね?」
「半分くらいは」
「残り半分は何なんですか」
先輩は答えなかった。代わりに、空の棚を指差す。
「では、もう一度」
「え?」
「検証ですわ」
「今食べたばっかりですよ」
「甘味の再現性は重要です」
私はしぶしぶ棚に手を置いた。
「……ここ、ロールケーキの棚だったのに」
何も起きない。冷蔵ケースの低い音だけが、ぶうんと続いている。
「出ませんね」
「出ませんわね」
「スイーツ・ガチャ、単発無料分だけだったみたいです」
「渋いですわ」
「だからソシャゲに寄せないでください」
その時、外の音が少し近くなった。ガラスを叩く音。喉を鳴らす声。床の上を引きずる足音。
ロールケーキは食べ終わった。口の中の甘さも薄くなっている。
結界が弱まっていた。
「……食べるだけなら、なんとかなりますね」
「ええ」
「でも、寝るのは無理です」
私が言うと、先輩はあっさり頷いた。
「モブ子さんの結界は、傘のようなものですわ」
「傘?」
「雨をしのぐには十分。でも、傘を差したまま眠るのは愚かでしょう?」
「わかりやすい例えなのが腹立ちます」
入口のガラスに、またひびが入った。
私はポケットを探る。飴は、あと二つ。チョコも一つある。でも、夜を越すには足りない。
食べ続けていれば結界は張れるのかもしれない。でも、食べながら寝るわけにはいかない。そんなことをしたら、喉に詰まって世界より先に私が終わる。
「どこか、ちゃんと眠れる場所を探しましょう」
「ええ。ファミレスを探しましょう」
「ファミレス?」
「座席があります。テーブルがあります。ドリンクバーも、もしかしたらまだ生きているかもしれません」
「基準が食卓ですね」
「良い食卓は、良い休息を生みますわ」
「寝床の話をしてるんですよね?」
「食卓と寝床は、人生の両輪です」
「またそれっぽいこと言ってる」
外のゾンビが、自動ドアの隙間から腕を入れてきた。そよぎ先輩は面倒くさそうに指を持ち上げる。
「それに」
「それに?」
「ファミレスには、パフェがあるかもしれません」
「結局そこですか」
「当然ですわ」
パチン。
一体目が灰色にほどけた。
パチン。
二体目。
パチン。
三体目。
入口に群がっていたゾンビたちは、順番にほどけて、壊れた自動ドアの前から消えていった。
壊れた自動ドアの向こうに、夜の道路が見える。街灯は半分ほど消えていた。遠くで、何かが燃えている。
私は最後に、空っぽのスイーツ棚を見る。
何もない棚。何かを迎える準備ができている棚。
そう思ってしまった自分に、少しだけ引いた。
「……先輩」
「何かしら?」
「空っぽって、怖いだけじゃないのかもしれませんね」
先輩が振り返る。血とガラス片と壊れた蛍光灯の光の中で、楽しそうに笑った。
「でしょう?」
「でも、棚に哲学を見出すのは嫌です」
「そのうち慣れますわ」
「慣れたくないです」
私は新しい飴を口に入れた。今度はレモン味だった。
舌の上に酸っぱさが広がり、足元の空気がもう一度、薄く張り直される。
その頼りない結界をまとって、私たちは夜の道路へ出た。
逃げるためではなく。助けを呼ぶためでもなく。
今夜、安心して眠れて、できれば明日の朝に甘いものを食べられる場所を探すために。