終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
レモン味の飴を舌で転がしながら、私たちは夜の道路を歩いていた。街灯は半分ほど消え、遠くで何かが燃えている。酸っぱさが薄れるたび、私たちの周りに張られた結界も、少しずつ頼りなくなっていく。
「先輩。本当にファミレスって、まだ入れると思います?」
「営業中かどうかは問題ではありませんわ。入店できれば、それは開いているということです」
「強盗の理屈じゃないですか」
「失礼な。わたくしはお客様ですわ」
道の先に、赤い看板が見えた。ファミリーグリル・オレンジベル。駐車場には車が何台か残り、入口前では店員の制服を着たゾンビが二体、ガラス扉に向かって同じ動きを繰り返している。
「先客がいますね」
「期限切れですわ」
パチン、とそよぎ先輩が指を鳴らす。入口前のゾンビたちは灰色の粉になり、夜風にさらわれた。
「元店員さんですよ」
「だからこそです。店先に立つには、接客期限が切れすぎておりますわ」
「接客期限って……」
自動ドアは動かなかったが、片側が少しだけ開いていた。私たちはその隙間から店内に入る。
中は、思ったより形が残っていた。倒れた椅子、床に落ちたメニュー表、割れたグラス。油とソース、それから、長いあいだ人がいなかった場所の湿った匂い。それでも客席はあり、テーブルもあり、赤い合皮のソファ席もちゃんと残っていた。
店内に足を踏み入れた瞬間、口の中の飴に頼っていた薄い結界の質が、少し変わった気がした。ここは食べる場所だ。そう認識した途端、空気の膜が私の体から店内へ向けて、ゆっくり広がろうとする。
私は近くのソファ席に腰を下ろした。沈み込む感触と同時に、足元の結界がはっきりと広がる。レモン味の飴で無理やり作っていた薄い膜が、床に染み込むように伸び、テーブルの脚を伝い、通路を越え、窓際まで届いていく。空気が一段、静かになった。
「……あれ。消えない」
口の中の飴は、もうほとんど溶けている。それなのに、結界はむしろ安定していた。
「やはり、ここは食事をするための場所ですからね」
「じゃあ、ここなら……ちゃんと寝られるかもしれません」
「今までも寝てはいましたでしょう?」
「あれは寝たっていうか、意識を失ってただけです。部室の床とか、コンビニの隅とか」
「なるほど。ようやく傘を畳めるわけですわね」
私はソファの背もたれに体を預けた。ふっと沈む。そのたった一動作で、肩の力が少し抜けた。
「ファミレスとは、奇妙な場所ですわね」
「今度は何ですか」
「家庭ではないのに、家庭のふりをする場所です」
「いきなり喧嘩売りました?」
「褒めていますわ。誰の家でもないからこそ、誰でも座れる。椅子とは、人間に『ここにいていい』と許す家具ですの」
「椅子にそんな権限ないですよ」
「では、ソファ席」
「座り心地で権限を上げないでください」
先輩はテーブルに残っていたメニュー表を開いた。ハンバーグ、オムライス、和風パスタ、チョコパフェ、季節のパンケーキ。写真の料理はどれも明るく、湯気までおいしそうに写っている。
「……こういう写真、今見ると暴力ですね」
「空腹に対する攻撃力が高いですわ」
「先輩、お腹空いてます?」
「ええ。スイーツは食べましたが、食事はまだですもの」
「そこはちゃんとしてるんですね」
「モブ子さん。主食を抜いてデザートだけ食べるのは、美学ではなく雑な自傷ですわ」
「先輩の口から健康管理が出ると、逆に怖いです」
「身体を粗末にする者に、スイーツを味わう資格はありません」
その時、奥の客席に気づいた。テーブルが不自然に寄せられ、通路を塞ぐように置かれている。ソファの下には空のペットボトル。紙ナプキンには、黒いペンで乱暴な字が書かれていた。
『水は奥。音を立てるな。厨房にいる』
「……誰か、ここにいたんですね」
「ええ。少なくとも、字の書ける獣ではなさそうです」
「後者だったら嫌すぎます」
厨房。その言葉だけが、妙に重く見えた。
「音を立てるなって、書いてありますね」
「書いてありますわね」
「つまり、音を立てない方がいいってことですよね」
「そのようですわね」
そよぎ先輩は頷き、ドリンクバーを見た。
「モブ子さん。文明がありましたわ」
「ドリンクバーですね」
「終末において、飲み物を選べるというのは王侯貴族の特権です」
「音を立てるなって今読んだばかりですよね?」
「静かに押します」
「押す時点で嫌な予感しかしないです」
先輩はグラスを一つ取り、氷のボタンを押した。がらがらがらがらっ、と機械の中から氷が転がり落ちる。
「全然静かじゃない! というか、なんで氷が出てるんですか?!」
ゾンビパンデミックから5日。氷なんてとっくに溶けているはずなのに……。
「賞味期限を戻しましたわ。けれど、氷の自己主張が強すぎますわね」
「氷のせいにしないでください」
厨房の奥で、がたん、と金属が倒れる音がした。続いて、低いうめき声。白い調理服を着たゾンビが現れる。一体、二体、三体。その後ろから、他より少し大きなゾンビが出てきた。胸元の名札には『店長 大河内』とある。
「あら。責任者ですわ」
「責任者なら、話し合いでなんとか」
「消費期限が切れております」
「ですよね」
店長ゾンビはフライ返しを引きずっていた。調理服のゾンビたちは、客席と厨房の境目でぴたりと止まる。私の結界が、そこを壁にしているらしい。腐った手が空気を掻くたび、ぱちん、と弾かれた。
「厨房に入れないと、食べ物も探せません」
「では、清掃しましょう」
「清掃って言い方、便利に使いすぎですよ」
「厨房を傷つけず、期限切れだけを処分しますわ」
パチン。一体目がほどける。パチン、二体目。パチン、三体目。最後に店長ゾンビだけが残った。
「大河内店長。お店を使わせていただきますわ」
パチン。店長ゾンビは、フライ返しだけを残して崩れた。先輩はそれを拾い、厨房の端に置く。
「……今のはちょっと丁寧でしたね」
「店長ですもの」
「ゾンビですよ?」
「ええ。ですが、この方は少なくとも、この店で店長という役を任されていたのでしょう」
先輩は厨房を見回した。
「人間としてどうかは知りません。けれど、厨房の道具を握ったまま最後までここにいた。その役職と道具には、少しだけ敬意を払ってもよろしいのではなくて?」
「人間じゃなくて、役職とフライ返しに敬意を払ってるんですね」
「ええ」
「基準がわからないようで、ちょっとわかるのが嫌です」
厨房には、まだ冷気が残っていた。業務用の冷蔵庫を開けると、パック入りのコーンスープ、冷凍パン、小分けされたピラフ、よくわからないソース袋が並んでいる。そよぎ先輩は、コーンスープのパックと小さなパンを取り出した。
「まずは、これですわね」
「スイーツじゃないんですか?」
「食事は身体のため。スイーツは、食後に世界を少し許すためですわ」
「急に詩的にしないでください」
パチン。冷えて固くなっていたパンが少し柔らかくなり、スープの袋の中身が温かそうに揺れた。
「温度まで戻せるんですね」
「食べ頃だった時間に戻している感じですわ」
「便利すぎて怖いです」
「食べ物には優しくありたいものです」
「人間には?」
「場合によりますわ」
「知ってました」
私たちは客席に戻り、スープとパンを食べた。コーンスープは甘かった。けれど、スイーツの甘さとは違う。塩気と、とうもろこしの匂いと、舌に残る少しの粉っぽさ。温かいものが胃に落ちた瞬間、自分がちゃんと空腹だったことに気づいた。
「……ご飯って大事ですね」
「ええ。甘味は主役になれますが、主食の仕事までは奪えません」
「スイーツにも役割分担があるんですね」
「スイーツを何でも屋にするのは、失礼ですわ」
食事が終わると、先輩は冷凍庫を開けた。白い冷気の奥に、四角い容器が積まれている。
『業務用ティラミス 解凍後提供』
「ありましたわ」
「それ、デザートですか?」
「ファミレスの裏の顔です」
表面にはココアパウダーが薄くかかり、端には霜がついていた。
「鮮度は?」
「落ちています。でも、戻せます」
パチン。霜が消え、ココアの粉が乾いた色を取り戻す。クリームの層が、スプーンを受け入れそうな柔らかさに変わった。
「業務用ティラミス、復活ですわ」
「なんか強そうな名前ですね」
私たちは小皿に取り分け、ソファ席へ戻った。外ではゾンビがガラスを叩いていたが、音は遠い。ドリンクバーの氷入りグラスには、先輩がいつの間にか注いだらしいアイスコーヒーが入っていた。
「押したんですね」
「せっかくですから」
「また何か寄ってきたらどうするんですか」
「厨房は清掃済みですわ」
私はティラミスを一口食べた。冷たい。ココアの粉が舌に触れ、そのあとにクリームが溶ける。甘さの奥から、すぐにコーヒーの苦味が来た。
「……苦い。でも甘い」
「人生みたいな感想ですわね」
「ティラミスの感想です」
「ティラミスは、わたくしを引き上げて、という意味だそうですわ」
「終末世界で聞くと、だいぶ切実ですね」
「ええ。ですが、このティラミスにそこまでの力はありません」
「急に冷静」
「せいぜい、寝る前の気分を七センチほど引き上げる程度です」
「微妙に具体的ですね」
もう一口食べる。業務用だからなのか、味はとても均一だった。どこをすくっても、同じ苦味と同じ甘さが来る。特別ではない。でも、安心する。ファミレスのデザートって、そういうものだった気がする。
「私は、これ好きです」
「また先に言いましたわね」
「いいじゃないですか」
「ええ。悪くありません。モブ子さんの味覚が、少しずつ客席に座り始めていますわ」
「何言ってるんですか」
「今までは、他人の感想の後ろに立っていたでしょう?」
「……そんなこと、ないと思いますけど」
「なら、そういうことにしておきましょう」
先輩はスプーンを置いた。
「採点に入りましょう」
「お願いします」
「七十四点。業務用としては優秀です。苦味と甘味の均衡も悪くありません。夜のファミレスで食べるには、これくらいの均一さがむしろ心地よい」
「褒めてますね」
「ただ、マスカルポーネを名乗るには、少し厚化粧ですわね」
「クリームに化粧の概念を持ち込まないでください」
「あと、ココアパウダーが少し遠慮しています。もっと上から支配してもよろしい」
「粉に支配欲を求めないでください」
食べ終わっても、結界は消えなかった。外のうめき声は遠いまま。ガラスを叩く音も、店内までは届かない。私はソファ席に体を預けた。まぶたが急に重くなる。今まで、眠くなっている余裕すらなかったのだと気づく。
「……ここ、すごいですね」
「ええ。良い席ですわ」
「椅子に『ここにいていい』って許された気分、少しだけわかるかもしれません」
「では、ファミレス哲学の第一歩ですわね」
「そんな道に踏み込みたくないです」
そよぎ先輩は、向かいの席でメニュー表を枕みたいに畳んでいた。
「明日の朝は、モーニングメニューを検証しましょう」
「まだ食べる気ですか」
「眠る理由がある方が、朝起きやすいですわ」
「まともなようで、結局食べる話ですね」
私は小さく笑った。店内は荒れている。外にはゾンビがいる。誰かがここにいた痕跡もある。それでも、今このソファ席だけは、ちゃんと座っていられる場所だった。
その時、テーブルの下に何かが落ちているのが見えた。くしゃくしゃになった紙ナプキン。さっきのメモとは別のものだ。私はそれを拾った。
『北側のスーパーには行くな』
「……先輩」
「何かしら?」
「こういうの、見つけたら普通は行かないですよね」
「普通なら、そうでしょうね」
「ですよね」
そよぎ先輩は顔を上げた。その目が、少しだけ楽しそうに細くなる。
「でも、スーパーには和菓子棚がありますわ」
「最悪だ」
「洋菓子棚も、菓子パン棚も、アイスケースもあるかもしれません」
「警告文を品揃え表みたいに読まないでください」
「明日の候補ですわね」
「候補に入れた時点で負けな気がします」
私は紙ナプキンを畳んで、テーブルの端に置いた。
北側のスーパーには行くな。
誰が書いたのか。なぜ書いたのか。何があるのか。考え始めると、眠気が少しだけ遠ざかった。けれど、外のうめき声は遠い。店内には、コーンスープの甘い匂いと、ティラミスのココアの苦味が残っている。ファミレスのソファ席は、思っていたよりずっと柔らかい。
「先輩」
「何かしら?」
「明日の朝、無事にモーニング食べられますかね?」
「食べられますわ」
「根拠は?」
「わたくしたちには、席がありますもの」
「それ、根拠なんですか」
「ええ。席があるなら、朝は来ます」
よくわからない理屈だった。でも、今はそれでいい気がした。私はソファの背に頭を預ける。逃げ込んだわけではない。助かったわけでもない。ただ、今夜はここにいていい。ファミレスの赤いソファ席に、そんなことを許された気がした。