終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
朝が来た。
ファミレスの窓の外は、白っぽい煙でかすんでいる。駐車場ではゾンビが一体、看板の柱に向かって延々と頭をぶつけていた。
ごん。
ごん。
ごん。
「……朝から嫌な音ですね」
「意外とリズムは悪くありませんわ」
「評価しないでください」
そよぎ先輩は、向かいのソファ席で紙ナプキンを見ていた。
『北側のスーパーには行くな』
昨夜、テーブルの下から見つけた警告文だ。私は嫌な予感をそのまま飲み込めず、先輩に問いかける。
「これを読んで、普通はどうすると思います?」
「行かないのでしょうね」
「ですよね」
「ですが、わたくしたちは普通ではありませんわ」
「そういう時こそ普通を大事にしてほしいんですけど」
「水、紙皿、ウェットティッシュ、乾電池。拠点として使うなら備品が必要です。それに、栄養のある食料も補給しなくてはいけません」
「まともな理由が先に出ると逆に怖いです」
「そして、和菓子棚がありますわ」
「警告文に勝つ和菓子棚、強すぎません?」
「昨日から乳製品が続きましたもの。そろそろ餡子が必要です」
「栄養バランスじゃなくて、甘味バランスの話してます?」
「どちらも大事ですわ」
朝食は、昨日の残りのパンとコーンスープを少しだけ食べた。温かいものが胃に落ちると、体がようやく朝だと認めた気がする。
私はポケットから飴を取り出し、口に入れた。今日はぶどう味だった。甘さが舌に広がると、私と先輩の周りに薄い結界が張り直される。
「準備できました」
「では、和菓子へ」
「補給へ、ですよ」
「ええ。和菓子も補給ですわ」
北側のスーパーは、ファミレスから歩いて十分ほどの場所にあった。
フレッシュマート北町店。
たぶん、前は何度も来たことがある。部活帰りにお菓子を買ったり、家から頼まれた牛乳を買ったり。そういう、なんでもない場所だった。
でも今は、なんでもなくなっていた。
入口の前には、カートと買い物かごで作ったバリケードがある。そして、その向こうから音が聞こえた。
ポポーポポポポ。
ポポーポポポポ。
スーパーで何度も聞いたことのある、あの陽気な販促メロディ。呼び込み君だ。誰も買い物をしていないスーパーで、あの明るい音だけが鳴り続けている。
「……先輩」
「ええ」
「呼び込んでますね」
「本来の仕事を忠実に果たしていますわ」
「呼び込んじゃいけないものまで呼び込んでますけど」
バリケードの向こう、店内にはゾンビがいた。数が多い。入口付近だけでも十体以上。それらは呼び込み君の音が鳴っている方へ、ぼんやり顔を向けていた。
ポポーポポポポ。
音が鳴るたびに、何体かがぴくりと反応する。
「これは……行かない方がいいやつでは?」
「そうですわね」
「ですよね」
「ですが、音を止めれば入れます」
「結論だけ都合よく前向き」
「問題は、あの音源の周りに期限切れの皆様が密集していることです」
「まとめて廃棄できないんですか?」
「一体ずつですわ。賞味期限の確認は、雑に行うものではありません」
「ゾンビ相手に検品の丁寧さを出さないでください」
そよぎ先輩は、店内をじっと見た。青果売り場の方に、音源らしき呼び込み君が置かれている。その近くに、ゾンビが固まっていた。
「密度を下げます」
「どうやって?」
先輩は、店内の手前を指差した。季節商品コーナーの横に、もう一台、白い販促機が置かれている。顔の描かれた丸い頭。左右に広げた手。胸元の黒いセンサーと、腹のあたりにある丸いスピーカー穴。電源は落ちていた。
「呼び込み君には、呼び込み君をぶつけます」
「最悪の同族対決みたいに言わないでください」
作戦は単純だった。手前の呼び込み君を起動して、ゾンビの一部を引き離す。密度が下がったところで、そよぎ先輩が本命の音源周辺にいるゾンビを一体ずつ廃棄する。最後に、私が本命の呼び込み君のスイッチを切る。
「待ってください」
「何かしら?」
「最後、私ですか?」
「モブ子さんの結界なら、多少近づかれても保ちますわ」
「多少の定義が怖い」
「大丈夫。わたくしが掃除します」
「掃除される前提で近づくの、かなり嫌なんですけど」
私は新しい飴を口に追加した。ぶどう味とメロン味が混ざって、あまりおいしくない。でも、結界は少し強くなった。
バリケードの端をくぐり、店内に入る。青果の甘い匂い、冷蔵ケースの冷気、床にこぼれた総菜の油。その全部が、腐りかけた空気に混ざっていた。
私は手前の呼び込み君へ近づいた。白い筐体に、妙に愛嬌のある顔。薄い丸い頬と、こちらへ差し出すように広げられた両手。胸元の黒いセンサーが、じっとこちらを見ているみたいだった。
いつもはなんとも思わない笑顔が、今は少し怖い。
「音量は最大で」
「正気ですか?」
「小声で呼び込みをする販促機など、存在意義がありませんわ」
「今は存在意義を発揮しないでほしいんですけど」
私は深呼吸して、スイッチを入れた。
ポポーポポポポ。
店内に、二つ目の陽気な音が鳴る。近くにいたゾンビが、一斉にこちらを向いた。
「うわ、こっち見た!」
「人気者ですわね、モブ子さん」
「嬉しくない!」
数体のゾンビが、こちらへふらふら歩き出した。結界の境目に触れた腕が、ぱちん、と弾かれる。私は呼び込み君の横で固まった。
「先輩!」
「ええ。十分ですわ」
そよぎ先輩が動いた。奥のゾンビの密度は、少し下がっている。先輩はその隙間を通り、指を鳴らした。
パチン。
一体が崩れる。
パチン。
二体目。
パチン。
三体目。
呼び込み君の陽気な音と、ゾンビが灰になって落ちる音が、同じ売り場で混ざる。
ポポーポポポポ。
パチン。
ポポーポポポポ。
パチン。
「なんですか、この地獄の販促イベント」
「在庫一掃セールですわ」
「言うと思った!」
私の方にもゾンビが寄ってくる。結界は弾いてくれる。でも、見た目は怖い。腐った顔が、目の前で止まる。私は思わず、呼び込み君の後ろに半歩隠れた。
「守って、呼び込み君……」
「販促機に守護を求めないでください」
「じゃあ早くしてください!」
先輩は本命の呼び込み君の周囲を片付け終えると、こちらを見た。
「モブ子さん、今ですわ」
「はい!」
私は結界をまとったまま走った。床に転がる野菜や買い物かごを避けながら、本命の呼び込み君へ向かう。
途中、制服姿のゾンビが一体、横からふらついてきた。
私は息を呑む。
学校の制服。うちの高校の制服だった。その一瞬の遅れで、ゾンビの手が結界に触れる。
ぱちん。
弾かれる。
そよぎ先輩が、静かに指を鳴らした。
パチン。
制服のゾンビは、灰になった。
「モブ子さん。今は、音を止めなさい」
「……わかってます」
私は本命の呼び込み君に手を伸ばした。スイッチは裏側にある。指先が少し震えた。
ポポーポポポポ。
うるさい。
明るすぎる。
こんな世界で、何を呼んでいるのだろう。
私はスイッチを切った。音が止まる。二台目の呼び込み君も、そよぎ先輩が止めた。
店内が、急に静かになった。遠くで冷蔵ケースが低く鳴っている。
「……止まりました」
「ええ。よくできましたわ」
「二度と呼び込み君を囮にしたくないです」
「良い経験でしたわね」
「良い経験にしないでください」
それから私たちは、補給を始めた。
水、紙皿、ウェットティッシュ、乾電池。缶詰、レトルト粥、栄養補助食品。スーパーは、やっぱりすごい。誰かが荒らした後でも、探せばまだ使えるものがある。
カートを一台見つけ、そこに必要なものを入れていく。そのカートの中には、もともと誰かが選んだものが残っていた。
水のペットボトル。カップ麺。トイレットペーパー。子供用のお菓子。みかん。
私は少しだけ手を止めた。
「……これ、誰かのですよね」
「買い物カートは、小さな意志ですわ」
「また始まりましたね」
「人は、最後に何を選んだかで、少しだけ顔が見えます。水を選んだ人。紙を選んだ人。子供用のお菓子を入れた人。甘いものを忘れなかった人」
「重くないですか」
「重いですわ。だからカートには車輪がついているのです」
「そういう話じゃないです」
けれど、少しわかった。カートの中には、その人が助かろうとした形が残っている。
私はそのカートから、子供用のお菓子だけは取り出さなかった。
「モブ子さん」
「はい」
「和菓子棚ですわ」
そよぎ先輩の声が、少し弾んでいた。
和菓子棚は、冷蔵スイーツの奥にあった。どら焼き、大福、桜もち、みたらし団子。値札だけはきちんと並んでいる。ただし、棚の上はほとんど空だった。
残っていたのは、潰れたみたらし団子のパックと、袋が破けたどら焼きだけ。タレが棚にこびりつき、どら焼きは乾いて端が反っている。
「これは……」
「未練ですわね」
「前も言ってましたよ、それ」
「未練は、どの棚にも発生します」
「棚の怪異みたいに言わないでください」
「食べます?」
「食べません」
「では、廃棄ですわ」
パチン。
潰れた団子と乾いたどら焼きが、容器ごと消えた。棚が完全に空になる。
私は、空っぽの和菓子棚に手を伸ばした。値札だけが残っている。
どら焼き。
大福。
桜もち。
みたらし団子。
季節の果実大福。
「……和菓子なら、何でもいいです」
そう呟いた瞬間、棚の値札が、かた、と揺れた。
どら焼き。
大福。
桜もち。
みたらし団子。
季節の果実大福。
文字が順番に目に入る。いや、目に入ったというより、棚の奥で何かが選んでいるみたいだった。
「え、今、回ってません?」
「回っていますわね」
「やっぱりガチャなんですか、これ」
「だから最初からそう申し上げております」
「認めたくない……」
かた。
値札の揺れが止まった。最後に残ったのは、季節商品の札だった。
『陽だまり不知火大福』
その直後、棚の奥で音がした。
ことん。
もう一つ。
ことん。
白い包みが二つ、空だった棚に現れる。丸い大福。透明なパック越しに、白い餅の中から、かすかに橙色が透けていた。
「陽だまり不知火大福……当たりですわね」
「まだ食べてないのに判断早いです」
「名前がすでに勝っていますもの」
「不知火って、あれですよね。頭にこぶがある、デコっとしたみかんみたいなやつ」
「ええ。見た目に少し主張のある柑橘ですわ」
「果物の形にまで性格を見出さないでください」
「でも、素晴らしいではありませんか。和菓子棚は、警告文に勝ちました」
「勝たせないでください」
そよぎ先輩は大福を一つ手に取り、じっと見た。
「鮮度は少し落ちていますが、問題ありません」
パチン。
大福の表面に、柔らかさが戻ったように見えた。
私たちは、補給用の紙皿をさっそく使った。スーパーの通路の端。倒れたカートの横。結界の内側で不知火大福を食べる。なんだか、いけないことをしている気分だった。
「いただきます」
私は大福をかじった。
餅がやわらかい。歯を立てると、もちっと伸びて、その奥から柑橘の果汁がじゅわっと出てきた。
酸っぱい。
甘い。
白餡のやさしい甘さの中に、不知火の明るい酸味が入ってくる。さっきまでのスーパーの生臭さが、口の中で一気に遠ざかった。
「……うわ。おいしい」
「あら」
「これは、かなり好きです」
「モブ子さん、最近ずいぶん早く感想を出しますわね」
「いいじゃないですか。おいしいんですから」
「ええ。大変よろしい」
そよぎ先輩も一口食べ、目を細める。
「白い餅の中に、柑橘の明るさを閉じ込めている。小さな太陽ですわね」
「大福を天体扱いしないでください」
「不知火。火を知らぬ、と書くのに、果肉は陽の色をしている。面白い名前ですわ」
「急に綺麗なこと言いましたね」
「八割くらい本気です」
「残り二割は?」
「語感ですわ」
「台無しだ」
先輩は大福の断面を眺める。
「大福とは、包む菓子です。選んだものを、白い餅で包み、手のひらに収まる形にする」
「また哲学が始まった」
「買い物カートと同じですわ」
「同じではないです」
「人はカートに必要なものを入れる。大福は餅の中に果実を入れる。どちらも、持ち運べる小さな意志です」
「……ちょっと上手いのが腹立ちます」
「でしょう?」
「褒めてません」
私はもう一口食べた。不知火の薄皮が、少しだけ舌に残る。それが嫌ではなかった。ちゃんと果物を食べている感じがする。
「採点に入りましょう」
「お願いします」
「八十五点」
「高い」
「餅の柔らかさ、白餡の控えめな甘さ、不知火の酸味。どれも良いですわ。特に、終末のスーパーで食べる柑橘の明るさは加点対象です」
「状況補正入りました?」
「もちろん。味とは、舌だけでは決まりませんもの」
「先輩が言うと説得力ありますね」
「ただし、果汁が逃げやすい。食べる際に少し覚悟が必要です」
「それは大福側の責任ですか?」
「包むなら、最後まで包み切る覚悟を持ってほしいですわ」
「大福に覚悟を求めないでください」
食べ終えた後、私たちは必要な物資をカートに積み直した。水、紙皿、ウェットティッシュ、乾電池。缶詰とレトルト。それから、少しだけ飴とチョコ。
帰ろうとした時だった。
衣料品コーナーの奥で、何かが動いた。
ゾンビが一体。
制服を着ていた。うちの学校の制服だった。顔は、まだそこまで崩れていない。知らない顔だった。たぶん、上級生。
私は足を止めた。
「……先輩」
「三年の方ですわね」
「知ってるんですか?」
「名前くらいは。廊下で何度か見ました」
「そうですか」
そよぎ先輩の声は、いつも通りだった。冷たいというより、遠い。
同じ学校の生徒だった。でも、今は期限切れのゾンビ。そよぎ先輩にとっては、たぶんそれ以上でも以下でもない。
制服のゾンビが、こちらへ一歩近づく。私は結界の内側にいるのに、胸の奥が冷たくなった。
あの日。
学校にも、こんなふうに動くものがたくさんいた。まだ人間の顔をしているのに、もう人間ではなくなったものたち。
「モブ子さん」
先輩の声で、私は現実に戻った。
「見ていても、戻りませんわ」
「……はい」
パチン。
そよぎ先輩が指を鳴らす。制服のゾンビは、灰色にほどけた。校章のついた布も、髪も、指先も、床に落ちる前に崩れていく。
私は、それを見ていた。不知火大福の甘さが、まだ少し舌に残っている。なのに、喉の奥が苦かった。
「行きましょう」
先輩が言った。私は頷く。
スーパーの外では、朝の光が煙に滲んでいた。カートには、水と紙皿と乾電池と、今日を少しだけ長くするためのものが積まれている。
北側のスーパーには行くな。
あの警告は、間違っていなかった。
でも、私たちは行った。和菓子を食べた。補給もした。そして、学校の制服を見た。
あの日。
学校がまだ学校だった、最後の日のことを、私は思い出していた。