終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
世界が終わり始めた日の放課後、私は占い研究会の部室で、レモン味の飴を選んでいた。
机の引き出しには、私が少しずつ持ち込んだお菓子が入っている。チョコ、飴、小袋のクッキー。あと、コンビニで買ったまま忘れていた個包装のミニバウム。
部室に置き菓子をしていると聞くと、ものすごく部活に馴染んでいるように思えるかもしれない。けれど、占い研究会は部員が多いわけではない。普段からこの部室にいるのは、ほとんど私とそよぎ先輩だけだった。
だから私は、いつの間にかこの部屋を、こっそりお菓子を食べる場所として認識していた。
「モブ子さん」
窓際の席でタロットカードを並べていた戦技《そよぎ》先輩が、こちらを見た。
「はい」
「その引き出し、いつの間にそんなに充実したのかしら?」
「充実ってほどじゃないですよ。ただのおやつです」
「非常食ではなく?」
「非常時になる予定なんてありませんから」
「予定はなくても、非常時は来るものですわ」
そよぎ先輩は、意味ありげにそんなことを言った。いつものことだ。この人は何でもない言葉を、やけに不吉に聞こえる言い方で口にする。
「先輩、そういう占い師みたいなこと言うのやめてください」
「あら。わたくし、占い研究会の部長ですわよ」
「そうでしたね。占い師というより、相談者を論破する人って印象ですけど」
「失礼ね。論破ではありません。整理ですわ」
「相手の心を?」
「相手の勘違いを」
「だいぶ怖いです」
そう言いながら、私はレモン味の飴の袋を開けた。安い匂いがした。懐かしいというほどでもないけれど、口に入れると少し落ち着く味だ。
その時、私のスマホが震えた。
画面を見る。クラスのグループチャットが、ものすごい勢いで流れていた。
『駅前やばい』
『人が噛まれたって』
『動画見た?』
『救急車来てる』
『いや、救急車も襲われてるって』
私は、飴を口に入れかけた手を止めた。
「……先輩」
「何かしら?」
「駅前で、変なことが起きてるみたいです」
「変なこと?」
「人が、人を噛んでるとか」
言ってから、自分でも馬鹿みたいだと思った。そんなこと、本当にあるわけがない。動画の切り抜きか、悪質な冗談か、何かの撮影かもしれない。
そう思いながら、私は流れてきた動画を再生した。画面が揺れている。駅前のロータリーらしき場所。叫び声。倒れた自転車。誰かに覆いかぶさっている人影。
次の瞬間、撮影者が悲鳴を上げて、動画はそこで終わった。
背中が冷たくなった。映像が荒くて、細かいところはよく見えない。けれど、冗談にしては空気が変だった。
「人間は、追い詰められるとずいぶん品のない動きをしますのね」
そよぎ先輩が、私のスマホを覗き込みながら言った。
「感想そこですか?」
「では、どう言えばよろしいの?」
「怖いとか、危ないとか」
「危ないのは見ればわかりますわ。怖いかどうかは、もう少し情報が欲しいですわね」
「先輩って、そういうところ本当に先輩ですよね」
「褒めているのかしら」
「褒めてないです」
その時、校内放送のチャイムが鳴った。いつもなら、放課後の連絡か、どこかの部活への呼び出しだろう。けれど、その日の放送は、最初から少し声が硬かった。
『生徒の皆さんに連絡します。本日の部活動は中止とします。生徒は教室、または現在いる部室で待機してください。校門付近には近づかないようにしてください。繰り返します――』
放送の声が、そこで少し乱れた。遠くで、誰かが何かを言っているような音が入る。
『――現在、学校周辺で混乱が発生しています。詳細を確認中です。生徒の皆さんは、教職員の指示があるまで校外に出ないでください』
放送が切れた。部室の中が、急に静かになった。
「……これ、帰っちゃ駄目なやつですよね」
「そうでしょうね」
「親に連絡します」
私はすぐにメッセージを送った。
『今日、学校で待機になった。駅前で何かあったみたい』
送信。少し待つ。既読はつかなかった。通話も押してみた。呼び出し音は鳴る。でも、つながらない。
「……出ない」
「回線が混んでいるのかもしれませんわね」
「先輩は? 家に連絡しないんですか?」
「しましたわ」
「早い」
「繋がりませんでした」
「じゃあ、もっと焦ってくださいよ」
「焦ったところで、回線は繋がりませんもの」
そよぎ先輩は、タロットカードを一枚ずつ重ねて片付け始めた。その動作がいつも通りすぎて、逆に落ち着かなかった。
「先輩。外、どうなってるんですかね」
「見に行くのは下策ですわ」
「珍しくまともなこと言いますね」
「珍しくは余計です」
先輩は窓の外を見た。夕方の光が校庭に落ちている。部活中止の放送があったからか、校庭にはほとんど人がいなかった。けれど、遠くの校門の方だけが騒がしい。
何人かの生徒が集まっているように見えた。教師らしき人が、両手を広げて止めている。でも、その向こう側から、さらに別の生徒たちが出ようとしている。
「みんな、帰りたいんでしょうね」
「当然ですわ。人は危険を感じると、自分の巣へ戻りたがりますもの」
「巣って」
「家と言った方がよろしかった?」
「いえ、もういいです」
私はスマホを握ったまま、画面を見続けた。グループチャットは、さらに混乱していた。
『校門閉められた』
『先生が出るなって』
『親が迎えに来るって言ってるんだけど』
『さっき悲鳴しなかった?』
悲鳴。
その文字を見た瞬間、廊下の奥から本当に悲鳴が聞こえた。
「――っ!」
私は椅子から立ち上がった。その直後、廊下を走る足音がした。一人ではない。何人もいる。
誰かが「こっち来るな!」と叫んだ。続いて、何か大きなものが倒れる音。机か、椅子か。それとも、人か。
私は反射的に部室のドアを見た。鍵は、かかっている。でも、鍵がかかっているからといって安全なのかは、わからない。
「先輩……」
「静かに」
そよぎ先輩の声が、低くなった。それだけで、私は口を閉じた。
部室の外で、足音が通り過ぎる。また悲鳴。今度は近い。廊下の向こうで、誰かが泣きながら叫んでいる。
「先生! 先生、開けて!」
それから、何かを叩く音。
どん。
どん。
どん。
返事はない。
少しして、叫び声が途切れた。途切れた、というより、途中で押し潰されたみたいに消えた。
私は息を止めていた。いつ息を吐けばいいのかも、わからなかった。
「……何が起きてるんですか」
「わかりませんわ」
そよぎ先輩は、そう言った。
この人が「わからない」と言うのは珍しい。でも、その顔には恐怖がない。ただ、未知のものを見ている顔だった。
「ですが、少なくとも校内の秩序は壊れ始めていますわね」
「そんな冷静に言わないでください」
「冷静でなくなったところで、壊れた秩序は戻りませんもの」
また校内放送が入った。
『生徒は――』
声が揺れている。
『生徒は、教室から出ないでください。繰り返します。教室から――』
そこで、放送の向こうから別の声が入った。怒鳴り声。何かが倒れる音。マイクにぶつかったような雑音。
『――っ、やめ――』
放送は、そこで切れた。
部室の蛍光灯が、じじ、と小さく鳴った。
私は机の引き出しを開けた。なぜか、食べ物を確認していた。飴、チョコ、クッキー、ミニバウム。こんなものがあっても、何の役にも立たない。そう思うのに、引き出しの中に甘いものがあるだけで、少しだけ現実から距離を置ける気がした。
「モブ子さん」
「はい」
「そのお菓子、数を把握しておきなさい」
「え?」
「閉じこもる場合、食べ物の数は大切ですわ」
「先輩、これただのおやつですよ」
「非常時になれば非常食ですわ」
「さっきと同じこと言ってる……」
文句を言いながらも、私はお菓子を机の上に並べた。数えてみると、あまりにも頼りない量だった。
「……これで一晩とか、無理ですよね」
「一晩なら十分では?」
「甘いものだけで?」
「水分は?」
「あ……」
私は部室の隅を見た。そよぎ先輩が勝手に持ち込んでいたペットボトルの水が二本ある。学校的にはたぶん駄目だ。でも、今だけは先輩の校則違反に感謝した。
「先輩、こういう時だけ準備いいですね」
「こういう時のためではありませんわ。占いには喉の潤いが必要ですもの」
「それ、絶対嘘ですよね」
「半分くらいは」
そう言って、先輩は一本を私に渡してくれた。私は受け取って、少しだけ飲む。喉が乾いていた。思っていたよりずっと。
外の足音は、少しずつ減っていった。代わりに、別の音が増えた。引きずるような音。壁を爪でこするような音。遠くで誰かが泣いているような声。でも、それが本当に泣き声なのか、もうわからなかった。
窓の外は暗くなっていく。夕焼けが消えて、校舎の中に夜が入ってくる。蛍光灯の白い光だけが、部室の中を白く照らしていた。
「今日は、夕焼けを撮り損ねましたわね」
そよぎ先輩が、ぽつりと言った。
「今それですか?」
「大事なことですわ。同じ夕焼けは二度とありませんもの」
「同じ今日も二度とないですよ」
「あら。モブ子さんにしては詩的ですわね」
「皮肉です」
「皮肉にしては、悪くありません」
そう言って、先輩は少しだけ笑った。
外で何かが鳴いた。人の声に似ていた。でも、人の声ではなかった。
私は、机の上に置いた飴を一つ手に取った。レモン味。さっき食べようとして、そのまま忘れていたものだ。
袋を破ろうとした時だった。
部室のドアが叩かれた。
どん。
私は固まった。
どん。
もう一度。今度は、少し強い。
「……誰か、います」
「ええ」
そよぎ先輩は、ドアを見ている。表情は変わらない。でも、タロットカードを持つ指先だけが、少し止まっていた。
「……あけ……て」
声がした。女の子の声に聞こえた。
「……おね、が……あけ……」
私は立ち上がりかけた。その瞬間、そよぎ先輩が私の手首を掴んだ。
「駄目ですわ」
「でも、誰かが」
「待ちなさい」
ドアの向こうの声が、また聞こえた。
「あけて」
さっきより、平坦だった。
「あけて」
同じ高さ。同じ間。同じ音。
「あけて」
お願いしている声ではなかった。ただ、喉に残った言葉の形だけが、壊れた機械みたいに繰り返されている。
私は、背筋が冷たくなった。
ドアの下の隙間から、何か黒っぽいものがにじんできた。血なのか、泥なのか、わからない。それが床の上を、ゆっくり広がる。
「先輩……」
「下がって」
そよぎ先輩の声は静かだった。私は一歩下がった。
ドアノブが、がちゃがちゃと鳴る。外から回されている。鍵がかかっていなければ、開いていたかもしれない。
「あけて」
がちゃがちゃ。
「あけて」
がちゃがちゃ。
「あけて」
どん。
どん。
どん。
叩く音が強くなる。
私は、息がうまく吸えなくなった。手の中の飴の袋が、くしゃりと音を立てる。何かしていないと、頭の中まであの声でいっぱいになりそうだった。
私は、ほとんど無意識に袋を破った。レモン味の飴を口に入れる。甘酸っぱい味が舌に広がった。
その瞬間。
部室の音が、少し遠くなった。
「……え?」
ドアを叩く音は、まだ聞こえる。でも、厚いガラスの向こうから聞こえているみたいに、輪郭がぼやけていた。がちゃがちゃというドアノブの音も、少し鈍い。
床に広がっていた黒いものが、私たちの机の手前で止まっている。いや、止まっているというより、見えない線に押さえられているように見えた。
机の端から落ちたタロットカードが一枚、床を滑る。それは私の足元に向かってきたが、途中でぴたりと止まった。何かに引っかかったみたいに。
見えない境目。
部室の中に、そういうものができていた。
「モブ子さん」
そよぎ先輩が、私を見た。その瞳が、少しだけ輝いている。怖がっているのではない。面白いものを見つけた時の顔だ。
「今、何をしましたの?」
「何って……」
私は、口の中の飴を舌で転がした。
「飴を、舐めただけですけど」
「素晴らしいですわ」
「何がですか」
「貴女、シェルターを作りましたのね」
「意味がわかりません」
「わたくしにも、詳しい理屈はわかりませんわ」
先輩はニヤリと笑う。
「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなんですか」
「理屈がわからなくても、現象は観察できますもの」
そよぎ先輩は、床に落ちたタロットカードを拾おうとして、手を止めた。カードは境目の向こう側にある。
先輩は机の上にあったペンを一本取ると、カードの方へ軽く転がした。ペンは、カードと同じあたりで止まった。
「なるほど」
「なるほどじゃないです」
「飲食中のモブ子さんを中心に、小規模な安全地帯が発生していますわね」
「急にファンタジーみたいなこと言わないでください」
「現実の方が急にファンタジーになりましたもの。言葉も合わせるべきですわ」
ドアの外では、まだ何かが叩いている。でも、その音はもう、さっきほど近くない。
私は飴を舐めながら、自分の足元を見た。そこに線が見えるわけではない。けれど、確かに何かがある。外と内側を分けるもの。私たちがいる場所だけを、世界から少し切り取るもの。
「……これ、何なんですか」
「結界ですわね」
「結界」
「ええ。モブ子さんが飴を食べることで作った、安全な飲食空間です」
「飲食空間って」
「では、名前をつけましょう」
「今ですか?」
「名前がないと、扱いづらいでしょう?」
そよぎ先輩は、真剣な顔で考え込んだ。
外では何かがドアを叩いている。校内はたぶん、もうひどいことになっている。私は、わけのわからない力を出している。そんな状況で、先輩は能力名を考えていた。この人、本当にすごい。いろんな意味で。
「イートインの結界」
「急にコンビニみたいにしないでください」
「悪くないと思いますわよ。飲食中にだけ展開される、小さな安全圏。まさにイートインですわ」
「イートインって、もっと平和な言葉ですよ」
「では、サナトリウム・スペース」
「急にそれっぽくするのもやめてください」
「注文の多い後輩ですわね」
「状況が状況なので」
そよぎ先輩は、くすりと笑った。その笑い声が、部室の中に馴染んだ。
外の音は遠い。ドアの向こうの声も、もう言葉には聞こえない。ただ、何かがいる。何かが、こちらに入りたがっている。でも、入ってこられない。
私は、ようやく息を吐いた。
「……これ、飴がなくなったらどうなるんですか」
「試してみます?」
「嫌です」
「賢明ですわ」
私は机の上の飴を見た。急に、それがとんでもなく大切なものに見えた。
「先輩」
「何かしら」
「飴、節約した方がいいですよね」
「そうですわね。けれど、少し妙ですわ」
「妙?」
「もう、かなり経っていますのに、境目が消えていません」
言われて、私は足元を見た。たしかに、さっきより弱くなっている感じはしない。むしろ、部室の床や机や椅子に、膜が馴染み始めているように見えた。
「……なんでですか」
「ここが、モブ子さんにとって食べる場所だからではなくて?」
「部室ですよ」
「でも、こっそりお菓子を食べる場所だったのでしょう?」
「それは……そうですけど」
「なら、この部屋はもう、貴女の中で小さなイートイン席なのですわ」
「最悪の認識ですね」
「けれど、助かっていますわ」
外では、まだ何かがドアを叩いている。でも、その音は遠い。私は口の中の飴を転がした。甘さはほとんどなくなっている。それでも、結界は消えなかった。
先輩は、机の上のクッキーを一袋取る。
「これも使えるかしら」
「人のお菓子を勝手に実験材料にしないでください」
「人命がかかっていますのよ」
「急に正論を使わないでください」
そよぎ先輩は袋を開け、クッキーを一枚こちらに差し出した。
「食べなさい、モブ子さん」
「今ですか」
「ええ。飴だけでは口が疲れるでしょう」
「そういう理由?」
「食べることが条件なら、味の変化も大切ですわ」
私は、差し出されたクッキーを受け取った。
外では、まだ何かがいる。部室の中には、私とそよぎ先輩しかいない。それなのに、クッキーの袋を開ける音が、やけに普通だった。
私は小さくかじった。乾いた甘さが口の中に広がる。その瞬間、足元の空気が少しだけ張り直された気がした。ドアの向こうの音が、また一段遠くなる。
「……効いてます」
「やはり」
「やはりって言えるほど、まだ何もわかってないですよね」
「だから観察しているのですわ」
そよぎ先輩は、床の境目をじっと見ている。怖いものを見る目ではない。綺麗な夕焼けや、よくできた手品を見るような目だった。
「モブ子さん」
「はい」
「貴女、なかなか便利ですわね」
「この状況で便利扱いされるの、すごく嫌なんですけど」
「褒めていますのよ」
「余計に嫌です」
それでも、少しだけ落ち着いた。そよぎ先輩がいつも通りだから。この人が平気な顔でおかしなことを言っているから、私まで少しだけいつも通りに戻れる。
ドアの外の何かは、しばらく叩き続けていた。でも、やがて音は小さくなった。離れていったのか、そこにいるまま動かなくなったのか。それはわからない。
わからないまま、私たちは部室の中にいた。
蛍光灯は途中で一度、細く点滅した。私はそのたびにびくっとした。そよぎ先輩は、机の上に飴とチョコを並べて、真剣な顔で配分を考えている。
「先輩、何してるんですか」
「夜食の計画ですわ」
「夜食って言い方、やめません?」
「では、結界維持用の補給計画」
「急に作戦っぽくなった」
「モブ子さんは、レモン味とミルク味、どちらが長く持ちそうですか?」
「知りませんよ。能力初心者なんですから」
「では、順番に試しましょう」
「実験動物みたいに扱わないでください」
「実験後輩ですわね」
「もっと嫌です」
そんな会話をしながら、私はミルク味の飴を口に入れた。甘い。さっきより少し、安心する味だった。
スマホを見る。まだ母からの返信はない。クラスのグループチャットも、途中から更新が止まっていた。画面を見ていると、胸の奥が冷たくなる。だから私は、スマホを伏せた。
「見ないのですか?」
「見ても、何もできないので」
「賢明ですわ」
「先輩に賢明って言われると、なんか嫌ですね」
「なぜかしら」
「日頃の行いじゃないですか」
そよぎ先輩は否定しなかった。ただ、少しだけ笑った。
夜は長かった。
廊下からは時々、足音が聞こえた。何かを引きずる音もした。遠くでガラスが割れる音。誰かのスマホの着信音。それから、聞き取れない声。
でも、その全部が、結界の外側でぼやけていた。
部室の中だけは、変に静かだった。机、椅子、タロットカード、安物の水晶、飴の包み紙。それから、そよぎ先輩。
世界が終わり始めているのに、この小さな部屋だけは、まだ放課後の延長みたいだった。
「モブ子さん」
「はい」
「眠れる時に眠りなさい」
「先輩は?」
「わたくしは、少し観察しています」
「寝てくださいよ」
「あら。心配してくださるの?」
「先輩が寝不足で変なことを言い出したら困るので」
「わたくしは寝不足でなくても変なことを言いますわよ」
「自覚あるんですね」
私は、机に突っ伏した。眠れるわけがないと思った。でも、体は思っていたより疲れていた。
口の中には、まだミルク味の甘さが残っている。外の音は遠い。そよぎ先輩が、飴の包み紙を小さく畳んでいる音がする。
私は目を閉じた。
「先輩」
「何かしら」
「これ、本当に大丈夫なんですか」
「わかりませんわ」
「そこは嘘でも大丈夫って言ってくださいよ」
「嘘は必要な時に使うものです」
「今、必要じゃないんですか」
「今必要なのは、飴を切らさないことですわね」
「ロマンがない」
「生存には、ロマンより糖分ですわ」
私は少しだけ笑ってしまった。こんな状況で笑うなんて、たぶんおかしい。でも、そのおかしさに救われた気もした。
しばらくして、そよぎ先輩の声がした。
「モブ子さん」
「はい」
「どうやら、ここはもう部室ではありませんわ」
「……じゃあ、何なんですか」
目を閉じたまま、私は訊いた。そよぎ先輩は、いつものように少し楽しそうな声で言った。
「イートイン席です」
「……最悪の席ですね」
「けれど、今夜は満席ですわ」
「二人しかいませんけど」
「だから満席なのです」
口の中に、もう飴は残っていない。それでも、外の音は遠かった。
世界が終わり始めた夜。
私は占い研究会の部室で、机に頬をつけていた。そこがただの部室ではなくなっていることだけは、なんとなくわかった。
それだけで、なぜかまだ生きていた。