終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい   作:オカノヒカル

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第5話 世界の終わりと、部室の飴

 

 世界が終わり始めた日の放課後、私は占い研究会の部室で、レモン味の飴を選んでいた。

 机の引き出しには、私が少しずつ持ち込んだお菓子が入っている。チョコ、飴、小袋のクッキー。あと、コンビニで買ったまま忘れていた個包装のミニバウム。

 

 部室に置き菓子をしていると聞くと、ものすごく部活に馴染んでいるように思えるかもしれない。けれど、占い研究会は部員が多いわけではない。普段からこの部室にいるのは、ほとんど私とそよぎ先輩だけだった。

 

 だから私は、いつの間にかこの部屋を、こっそりお菓子を食べる場所として認識していた。

 

「モブ子さん」

 

 窓際の席でタロットカードを並べていた戦技《そよぎ》先輩が、こちらを見た。

 

「はい」

「その引き出し、いつの間にそんなに充実したのかしら?」

「充実ってほどじゃないですよ。ただのおやつです」

「非常食ではなく?」

「非常時になる予定なんてありませんから」

「予定はなくても、非常時は来るものですわ」

 

 そよぎ先輩は、意味ありげにそんなことを言った。いつものことだ。この人は何でもない言葉を、やけに不吉に聞こえる言い方で口にする。

 

「先輩、そういう占い師みたいなこと言うのやめてください」

「あら。わたくし、占い研究会の部長ですわよ」

「そうでしたね。占い師というより、相談者を論破する人って印象ですけど」

「失礼ね。論破ではありません。整理ですわ」

「相手の心を?」

「相手の勘違いを」

「だいぶ怖いです」

 

 そう言いながら、私はレモン味の飴の袋を開けた。安い匂いがした。懐かしいというほどでもないけれど、口に入れると少し落ち着く味だ。

 

 その時、私のスマホが震えた。

 

 画面を見る。クラスのグループチャットが、ものすごい勢いで流れていた。

 

『駅前やばい』

『人が噛まれたって』

『動画見た?』

『救急車来てる』

『いや、救急車も襲われてるって』

 

 私は、飴を口に入れかけた手を止めた。

 

「……先輩」

「何かしら?」

「駅前で、変なことが起きてるみたいです」

「変なこと?」

「人が、人を噛んでるとか」

 

 言ってから、自分でも馬鹿みたいだと思った。そんなこと、本当にあるわけがない。動画の切り抜きか、悪質な冗談か、何かの撮影かもしれない。

 

 そう思いながら、私は流れてきた動画を再生した。画面が揺れている。駅前のロータリーらしき場所。叫び声。倒れた自転車。誰かに覆いかぶさっている人影。

 

 次の瞬間、撮影者が悲鳴を上げて、動画はそこで終わった。

 背中が冷たくなった。映像が荒くて、細かいところはよく見えない。けれど、冗談にしては空気が変だった。

 

「人間は、追い詰められるとずいぶん品のない動きをしますのね」

 

 そよぎ先輩が、私のスマホを覗き込みながら言った。

 

「感想そこですか?」

「では、どう言えばよろしいの?」

「怖いとか、危ないとか」

「危ないのは見ればわかりますわ。怖いかどうかは、もう少し情報が欲しいですわね」

「先輩って、そういうところ本当に先輩ですよね」

「褒めているのかしら」

「褒めてないです」

 

 その時、校内放送のチャイムが鳴った。いつもなら、放課後の連絡か、どこかの部活への呼び出しだろう。けれど、その日の放送は、最初から少し声が硬かった。

 

『生徒の皆さんに連絡します。本日の部活動は中止とします。生徒は教室、または現在いる部室で待機してください。校門付近には近づかないようにしてください。繰り返します――』

 

 放送の声が、そこで少し乱れた。遠くで、誰かが何かを言っているような音が入る。

 

『――現在、学校周辺で混乱が発生しています。詳細を確認中です。生徒の皆さんは、教職員の指示があるまで校外に出ないでください』

 

 放送が切れた。部室の中が、急に静かになった。

 

「……これ、帰っちゃ駄目なやつですよね」

「そうでしょうね」

「親に連絡します」

 

 私はすぐにメッセージを送った。

 

『今日、学校で待機になった。駅前で何かあったみたい』

 

 送信。少し待つ。既読はつかなかった。通話も押してみた。呼び出し音は鳴る。でも、つながらない。

 

「……出ない」

「回線が混んでいるのかもしれませんわね」

「先輩は? 家に連絡しないんですか?」

「しましたわ」

「早い」

「繋がりませんでした」

「じゃあ、もっと焦ってくださいよ」

「焦ったところで、回線は繋がりませんもの」

 

 そよぎ先輩は、タロットカードを一枚ずつ重ねて片付け始めた。その動作がいつも通りすぎて、逆に落ち着かなかった。

 

「先輩。外、どうなってるんですかね」

「見に行くのは下策ですわ」

「珍しくまともなこと言いますね」

「珍しくは余計です」

 

 先輩は窓の外を見た。夕方の光が校庭に落ちている。部活中止の放送があったからか、校庭にはほとんど人がいなかった。けれど、遠くの校門の方だけが騒がしい。

 

 何人かの生徒が集まっているように見えた。教師らしき人が、両手を広げて止めている。でも、その向こう側から、さらに別の生徒たちが出ようとしている。

 

「みんな、帰りたいんでしょうね」

「当然ですわ。人は危険を感じると、自分の巣へ戻りたがりますもの」

「巣って」

「家と言った方がよろしかった?」

「いえ、もういいです」

 

 私はスマホを握ったまま、画面を見続けた。グループチャットは、さらに混乱していた。

 

『校門閉められた』

『先生が出るなって』

『親が迎えに来るって言ってるんだけど』

『さっき悲鳴しなかった?』

 

 悲鳴。

 その文字を見た瞬間、廊下の奥から本当に悲鳴が聞こえた。

 

「――っ!」

 

 私は椅子から立ち上がった。その直後、廊下を走る足音がした。一人ではない。何人もいる。

 誰かが「こっち来るな!」と叫んだ。続いて、何か大きなものが倒れる音。机か、椅子か。それとも、人か。

 私は反射的に部室のドアを見た。鍵は、かかっている。でも、鍵がかかっているからといって安全なのかは、わからない。

 

「先輩……」

「静かに」

 

 そよぎ先輩の声が、低くなった。それだけで、私は口を閉じた。

 部室の外で、足音が通り過ぎる。また悲鳴。今度は近い。廊下の向こうで、誰かが泣きながら叫んでいる。

「先生! 先生、開けて!」

 

 それから、何かを叩く音。

 どん。

 どん。

 どん。

 返事はない。

 少しして、叫び声が途切れた。途切れた、というより、途中で押し潰されたみたいに消えた。

 私は息を止めていた。いつ息を吐けばいいのかも、わからなかった。

 

「……何が起きてるんですか」

「わかりませんわ」

 

 そよぎ先輩は、そう言った。

 この人が「わからない」と言うのは珍しい。でも、その顔には恐怖がない。ただ、未知のものを見ている顔だった。

 

「ですが、少なくとも校内の秩序は壊れ始めていますわね」

「そんな冷静に言わないでください」

「冷静でなくなったところで、壊れた秩序は戻りませんもの」

 

 また校内放送が入った。

 

『生徒は――』

 

 声が揺れている。

 

『生徒は、教室から出ないでください。繰り返します。教室から――』

 

 そこで、放送の向こうから別の声が入った。怒鳴り声。何かが倒れる音。マイクにぶつかったような雑音。

 

『――っ、やめ――』

 

 放送は、そこで切れた。

 部室の蛍光灯が、じじ、と小さく鳴った。

 

 私は机の引き出しを開けた。なぜか、食べ物を確認していた。飴、チョコ、クッキー、ミニバウム。こんなものがあっても、何の役にも立たない。そう思うのに、引き出しの中に甘いものがあるだけで、少しだけ現実から距離を置ける気がした。

 

「モブ子さん」

「はい」

「そのお菓子、数を把握しておきなさい」

「え?」

「閉じこもる場合、食べ物の数は大切ですわ」

「先輩、これただのおやつですよ」

「非常時になれば非常食ですわ」

「さっきと同じこと言ってる……」

 

 文句を言いながらも、私はお菓子を机の上に並べた。数えてみると、あまりにも頼りない量だった。

 

「……これで一晩とか、無理ですよね」

「一晩なら十分では?」

「甘いものだけで?」

「水分は?」

「あ……」

 

 私は部室の隅を見た。そよぎ先輩が勝手に持ち込んでいたペットボトルの水が二本ある。学校的にはたぶん駄目だ。でも、今だけは先輩の校則違反に感謝した。

 

「先輩、こういう時だけ準備いいですね」

「こういう時のためではありませんわ。占いには喉の潤いが必要ですもの」

「それ、絶対嘘ですよね」

「半分くらいは」

 

 そう言って、先輩は一本を私に渡してくれた。私は受け取って、少しだけ飲む。喉が乾いていた。思っていたよりずっと。

 

 外の足音は、少しずつ減っていった。代わりに、別の音が増えた。引きずるような音。壁を爪でこするような音。遠くで誰かが泣いているような声。でも、それが本当に泣き声なのか、もうわからなかった。

 

 窓の外は暗くなっていく。夕焼けが消えて、校舎の中に夜が入ってくる。蛍光灯の白い光だけが、部室の中を白く照らしていた。

 

「今日は、夕焼けを撮り損ねましたわね」

 

 そよぎ先輩が、ぽつりと言った。

 

「今それですか?」

「大事なことですわ。同じ夕焼けは二度とありませんもの」

「同じ今日も二度とないですよ」

「あら。モブ子さんにしては詩的ですわね」

「皮肉です」

「皮肉にしては、悪くありません」

 

 そう言って、先輩は少しだけ笑った。

 外で何かが鳴いた。人の声に似ていた。でも、人の声ではなかった。

 私は、机の上に置いた飴を一つ手に取った。レモン味。さっき食べようとして、そのまま忘れていたものだ。

 袋を破ろうとした時だった。

 部室のドアが叩かれた。

 

 どん。

 

 私は固まった。

 どん。

 もう一度。今度は、少し強い。

 

「……誰か、います」

「ええ」

 

 そよぎ先輩は、ドアを見ている。表情は変わらない。でも、タロットカードを持つ指先だけが、少し止まっていた。

 

「……あけ……て」

 

 声がした。女の子の声に聞こえた。

 

「……おね、が……あけ……」

 

 私は立ち上がりかけた。その瞬間、そよぎ先輩が私の手首を掴んだ。

 

「駄目ですわ」

「でも、誰かが」

「待ちなさい」

 

 ドアの向こうの声が、また聞こえた。

 

「あけて」

 

 さっきより、平坦だった。

 

「あけて」

 

 同じ高さ。同じ間。同じ音。

 

「あけて」

 

 お願いしている声ではなかった。ただ、喉に残った言葉の形だけが、壊れた機械みたいに繰り返されている。

 私は、背筋が冷たくなった。

 

 ドアの下の隙間から、何か黒っぽいものがにじんできた。血なのか、泥なのか、わからない。それが床の上を、ゆっくり広がる。

 

「先輩……」

「下がって」

 

 そよぎ先輩の声は静かだった。私は一歩下がった。

 ドアノブが、がちゃがちゃと鳴る。外から回されている。鍵がかかっていなければ、開いていたかもしれない。

 

「あけて」

 

 がちゃがちゃ。

 

「あけて」

 

 がちゃがちゃ。

 

「あけて」

 

 どん。

 どん。

 どん。

 

 叩く音が強くなる。

 

 私は、息がうまく吸えなくなった。手の中の飴の袋が、くしゃりと音を立てる。何かしていないと、頭の中まであの声でいっぱいになりそうだった。

 

 私は、ほとんど無意識に袋を破った。レモン味の飴を口に入れる。甘酸っぱい味が舌に広がった。

 その瞬間。

 部室の音が、少し遠くなった。

 

「……え?」

 

 ドアを叩く音は、まだ聞こえる。でも、厚いガラスの向こうから聞こえているみたいに、輪郭がぼやけていた。がちゃがちゃというドアノブの音も、少し鈍い。

 

 床に広がっていた黒いものが、私たちの机の手前で止まっている。いや、止まっているというより、見えない線に押さえられているように見えた。

 

 机の端から落ちたタロットカードが一枚、床を滑る。それは私の足元に向かってきたが、途中でぴたりと止まった。何かに引っかかったみたいに。

 

 見えない境目。

 部室の中に、そういうものができていた。

 

「モブ子さん」

 

 そよぎ先輩が、私を見た。その瞳が、少しだけ輝いている。怖がっているのではない。面白いものを見つけた時の顔だ。

 

「今、何をしましたの?」

「何って……」

 

 私は、口の中の飴を舌で転がした。

 

「飴を、舐めただけですけど」

「素晴らしいですわ」

「何がですか」

「貴女、シェルターを作りましたのね」

「意味がわかりません」

「わたくしにも、詳しい理屈はわかりませんわ」

 

 先輩はニヤリと笑う。

 

「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなんですか」

「理屈がわからなくても、現象は観察できますもの」

 

 そよぎ先輩は、床に落ちたタロットカードを拾おうとして、手を止めた。カードは境目の向こう側にある。

 先輩は机の上にあったペンを一本取ると、カードの方へ軽く転がした。ペンは、カードと同じあたりで止まった。

「なるほど」

「なるほどじゃないです」

「飲食中のモブ子さんを中心に、小規模な安全地帯が発生していますわね」

「急にファンタジーみたいなこと言わないでください」

「現実の方が急にファンタジーになりましたもの。言葉も合わせるべきですわ」

 

 ドアの外では、まだ何かが叩いている。でも、その音はもう、さっきほど近くない。

 

 私は飴を舐めながら、自分の足元を見た。そこに線が見えるわけではない。けれど、確かに何かがある。外と内側を分けるもの。私たちがいる場所だけを、世界から少し切り取るもの。

 

「……これ、何なんですか」

「結界ですわね」

「結界」

「ええ。モブ子さんが飴を食べることで作った、安全な飲食空間です」

「飲食空間って」

「では、名前をつけましょう」

「今ですか?」

「名前がないと、扱いづらいでしょう?」

 

 そよぎ先輩は、真剣な顔で考え込んだ。

 外では何かがドアを叩いている。校内はたぶん、もうひどいことになっている。私は、わけのわからない力を出している。そんな状況で、先輩は能力名を考えていた。この人、本当にすごい。いろんな意味で。

 

「イートインの結界」

「急にコンビニみたいにしないでください」

「悪くないと思いますわよ。飲食中にだけ展開される、小さな安全圏。まさにイートインですわ」

「イートインって、もっと平和な言葉ですよ」

「では、サナトリウム・スペース」

「急にそれっぽくするのもやめてください」

「注文の多い後輩ですわね」

「状況が状況なので」

 

 そよぎ先輩は、くすりと笑った。その笑い声が、部室の中に馴染んだ。

 外の音は遠い。ドアの向こうの声も、もう言葉には聞こえない。ただ、何かがいる。何かが、こちらに入りたがっている。でも、入ってこられない。

 

 私は、ようやく息を吐いた。

 

「……これ、飴がなくなったらどうなるんですか」

「試してみます?」

「嫌です」

「賢明ですわ」

 

 私は机の上の飴を見た。急に、それがとんでもなく大切なものに見えた。

 

「先輩」

「何かしら」

「飴、節約した方がいいですよね」

「そうですわね。けれど、少し妙ですわ」

「妙?」

「もう、かなり経っていますのに、境目が消えていません」

 

 言われて、私は足元を見た。たしかに、さっきより弱くなっている感じはしない。むしろ、部室の床や机や椅子に、膜が馴染み始めているように見えた。

 

「……なんでですか」

「ここが、モブ子さんにとって食べる場所だからではなくて?」

「部室ですよ」

「でも、こっそりお菓子を食べる場所だったのでしょう?」

「それは……そうですけど」

「なら、この部屋はもう、貴女の中で小さなイートイン席なのですわ」

「最悪の認識ですね」

「けれど、助かっていますわ」

 

 外では、まだ何かがドアを叩いている。でも、その音は遠い。私は口の中の飴を転がした。甘さはほとんどなくなっている。それでも、結界は消えなかった。

 

 先輩は、机の上のクッキーを一袋取る。

 

「これも使えるかしら」

「人のお菓子を勝手に実験材料にしないでください」

「人命がかかっていますのよ」

「急に正論を使わないでください」

 

 そよぎ先輩は袋を開け、クッキーを一枚こちらに差し出した。

 

「食べなさい、モブ子さん」

「今ですか」

「ええ。飴だけでは口が疲れるでしょう」

「そういう理由?」

「食べることが条件なら、味の変化も大切ですわ」

 私は、差し出されたクッキーを受け取った。

 外では、まだ何かがいる。部室の中には、私とそよぎ先輩しかいない。それなのに、クッキーの袋を開ける音が、やけに普通だった。

 私は小さくかじった。乾いた甘さが口の中に広がる。その瞬間、足元の空気が少しだけ張り直された気がした。ドアの向こうの音が、また一段遠くなる。

 

「……効いてます」

「やはり」

「やはりって言えるほど、まだ何もわかってないですよね」

「だから観察しているのですわ」

 

 そよぎ先輩は、床の境目をじっと見ている。怖いものを見る目ではない。綺麗な夕焼けや、よくできた手品を見るような目だった。

 

「モブ子さん」

「はい」

「貴女、なかなか便利ですわね」

「この状況で便利扱いされるの、すごく嫌なんですけど」

「褒めていますのよ」

「余計に嫌です」

 

 それでも、少しだけ落ち着いた。そよぎ先輩がいつも通りだから。この人が平気な顔でおかしなことを言っているから、私まで少しだけいつも通りに戻れる。

 

 ドアの外の何かは、しばらく叩き続けていた。でも、やがて音は小さくなった。離れていったのか、そこにいるまま動かなくなったのか。それはわからない。

 

 わからないまま、私たちは部室の中にいた。

 蛍光灯は途中で一度、細く点滅した。私はそのたびにびくっとした。そよぎ先輩は、机の上に飴とチョコを並べて、真剣な顔で配分を考えている。

 

「先輩、何してるんですか」

「夜食の計画ですわ」

「夜食って言い方、やめません?」

「では、結界維持用の補給計画」

「急に作戦っぽくなった」

「モブ子さんは、レモン味とミルク味、どちらが長く持ちそうですか?」

「知りませんよ。能力初心者なんですから」

「では、順番に試しましょう」

「実験動物みたいに扱わないでください」

「実験後輩ですわね」

「もっと嫌です」

 

 そんな会話をしながら、私はミルク味の飴を口に入れた。甘い。さっきより少し、安心する味だった。

 スマホを見る。まだ母からの返信はない。クラスのグループチャットも、途中から更新が止まっていた。画面を見ていると、胸の奥が冷たくなる。だから私は、スマホを伏せた。

 

「見ないのですか?」

「見ても、何もできないので」

「賢明ですわ」

「先輩に賢明って言われると、なんか嫌ですね」

「なぜかしら」

「日頃の行いじゃないですか」

 

 そよぎ先輩は否定しなかった。ただ、少しだけ笑った。

 夜は長かった。

 廊下からは時々、足音が聞こえた。何かを引きずる音もした。遠くでガラスが割れる音。誰かのスマホの着信音。それから、聞き取れない声。

 

 でも、その全部が、結界の外側でぼやけていた。

 部室の中だけは、変に静かだった。机、椅子、タロットカード、安物の水晶、飴の包み紙。それから、そよぎ先輩。

 

 世界が終わり始めているのに、この小さな部屋だけは、まだ放課後の延長みたいだった。

 

「モブ子さん」

「はい」

「眠れる時に眠りなさい」

「先輩は?」

「わたくしは、少し観察しています」

「寝てくださいよ」

「あら。心配してくださるの?」

「先輩が寝不足で変なことを言い出したら困るので」

「わたくしは寝不足でなくても変なことを言いますわよ」

「自覚あるんですね」

 

 私は、机に突っ伏した。眠れるわけがないと思った。でも、体は思っていたより疲れていた。

 口の中には、まだミルク味の甘さが残っている。外の音は遠い。そよぎ先輩が、飴の包み紙を小さく畳んでいる音がする。

 私は目を閉じた。

 

「先輩」

「何かしら」

「これ、本当に大丈夫なんですか」

「わかりませんわ」

「そこは嘘でも大丈夫って言ってくださいよ」

「嘘は必要な時に使うものです」

「今、必要じゃないんですか」

「今必要なのは、飴を切らさないことですわね」

「ロマンがない」

「生存には、ロマンより糖分ですわ」

 

 私は少しだけ笑ってしまった。こんな状況で笑うなんて、たぶんおかしい。でも、そのおかしさに救われた気もした。

 しばらくして、そよぎ先輩の声がした。

 

「モブ子さん」

「はい」

「どうやら、ここはもう部室ではありませんわ」

「……じゃあ、何なんですか」

 

 目を閉じたまま、私は訊いた。そよぎ先輩は、いつものように少し楽しそうな声で言った。

 

「イートイン席です」

「……最悪の席ですね」

「けれど、今夜は満席ですわ」

「二人しかいませんけど」

「だから満席なのです」

 

 口の中に、もう飴は残っていない。それでも、外の音は遠かった。

 

 世界が終わり始めた夜。

 私は占い研究会の部室で、机に頬をつけていた。そこがただの部室ではなくなっていることだけは、なんとなくわかった。

 

 それだけで、なぜかまだ生きていた。

 

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