終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい   作:オカノヒカル

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第6話 避難ではなく、味わいに

 

 目が覚めた時、口の中が甘かった。

 

 甘いというより、べたべたしていた。舌の上には、もう溶けきった飴の名残みたいなものが残っている。喉の奥は乾き、唇も少し張りついていた。

 

 私は、机に突っ伏したまま顔を上げた。

 占い研究会の部室。昨日と同じ部室。

 けれど机の上には、飴の包み紙が散らばっていた。レモン味、ミルク味、いちご味。どれも小さく丸められている。

 

「おはようございます、モブ子さん」

 

 そよぎ先輩は椅子に腰かけていた。昨日と同じ制服。同じサイドテール。同じ、妙に落ち着いた顔。

 

「……寝てたんですか、私」

 

 問いかけながら、ふと気づく。口の中の飴はとうに溶けてなくなっている。なのに足元の結界は、昨夜と同じ確かな手応えでそこにあった。

 

 ……あれ。飴、食べてなくても消えてない?

 昨夜、あんなに必死に飴を噛み砕き、顎が痛くなるまで食べ続けたのは、もしかして無駄だったのだろうか。

 

「ええ。よだれを垂らしながら」

「嘘ですよね?」

「半分くらいは」

「その半分、どっちですか」

「知りたいの?」

「やっぱりいいです」

 

 私は袖で口元を拭った。よだれがあったかどうかは、考えないことにした。

 

 外は静かだった。静かすぎた。

 学校の朝は、もっと音がするはずだった。廊下を歩く生徒の声。教室の椅子を引く音。先生の怒鳴り声。チャイム。全部、ない。

 

 あるのは、蛍光灯の小さな唸りと、そよぎ先輩がチョコの銀紙を丁寧に畳む音だけだった。

 私は体を起こす。背中と首が痛い。机で寝るのは、やっぱり良くない。

 口の中の甘さをごまかすために、ペットボトルを手に取る。

 

 軽い。

 

 昨日より、明らかに軽かった。

 

「……水、だいぶ減ってますね」

「ええ」

「お菓子も」

 

 机を見る。飴は残り少ない。チョコも一つ。クッキーはもうない。ミニバウムは、そよぎ先輩が半分に割って、紙の上に置いていた。

「モブ子さん」

「はい」

「この部屋は安全ですわ。ですが、食べ物は増えません。水も増えません。情報も入ってきません」

「……はい」

「安全地帯に閉じこもるのは悪手ですわ。食料が尽きれば、ここは安全な棺桶になりますもの」

「言い方」

「わかりやすいでしょう?」

「わかりやすさと、聞きたくなさは両立するんですよ」

 

 私は部室のドアを見た。

 鍵は、まだかかっている。ドアの下には、昨日にじんできた黒っぽい汚れが乾いて残っていた。その汚れは、部室の内側にはほとんど入ってきていない。

 

 私が飴を舐めたことでできた、あの見えない境目。そよぎ先輩が勝手に【イートインの結界】と名づけたもの。

 あれが本当に私たちを守っていたのなら、このドアの向こうに出るのは、かなり怖い。

 

「……出るんですか」

「出ますわ」

「今?」

「今です」

「もう少し様子を見てからじゃ駄目ですか?」

「様子を見るためにも、外を見なければ」

「正論っぽい」

「正論ですわ」

「先輩が言うと、なぜか罠みたいに聞こえるんですよね」

「日頃の行いかしら」

「自覚あるんですね」

 

 そよぎ先輩は、残ったミニバウムを半分こちらに差し出した。

 

「食べておきなさい」

「今ですか」

「結界が必要になるでしょう?」

 

 私は差し出されたミニバウムを見た。昨日までなら、少し乾いているおやつ、くらいにしか思わなかったと思う。

 でも今は、それが命綱に見えた。大げさじゃなく、本当に。

 

「……いただきます」

 

 小さくかじる。

 甘い。少しぱさつく。

 でも、口に入るだけで、部室の空気がほんの少し張り直された気がした。足元に、うすい膜のようなものが広がる。昨日よりはっきりわかる。私とそよぎ先輩の周りを囲む、小さな安全地帯。

 

 部室の中では、それが机や椅子を含むくらい広がっていた。けれどドアへ近づくと、少し揺らぐ。

 

「……移動したら、狭くなるかもしれません」

「問題ありませんわ」

「ありますよ」

「わたくしとモブ子さんが入ればよろしいのですから」

「他の人を助ける気、最初からないですよね」

「今のところ、席は二名様ですもの」

「イートイン扱い、続けるんですね」

「名前をつけた以上、運用しませんと」

 

 そよぎ先輩は、部室の鍵をゆっくり開けた。

 

 かちり。

 

 その小さな音が、やけに大きく聞こえた。

 ドアノブに手をかける。私は息を止めた。

 

 そよぎ先輩がドアを開ける。

 廊下の空気が、部室に入り込んできた。

 

 まず、匂い。

 埃。汗。鉄みたいな臭い。それから、何かが腐り始めたような、鼻の奥に張りつく臭い。

 私は反射的に口元を押さえた。

 

「……う」

「慣れなさい」

「無理です」

「では、慣れる努力を」

「こういうの、努力でどうにかするものじゃないです」

 

 廊下は、昨日とは違っていた。

 電気は半分ほど消えている。点いている蛍光灯も、じじ、と時々揺れていた。床にはプリントが散らばっている。誰かの筆箱。片方だけのスリッパ。壁には、指でこすったような赤黒い跡が伸びていた。

 

 教室の扉は、いくつか開いたままになっている。

 中は見たくなかった。それでも視界の端に、倒れた机や椅子が映る。

 誰かのスマホが、廊下の隅で鳴っていた。

 

 着信音。明るいメロディ。

 それが、この廊下ではひどく場違いだった。

 

「……学校ですよね、ここ」

「昨日までは」

「今も学校です」

「機能していなければ、ただの建物ですわ」

「そういう言い方、やめてください」

「では、学び舎の残骸」

「もっと嫌です」

 

 私はミニバウムの残りを口に押し込んだ。足元の膜が、少しだけ濃くなる。

 

 部室を出た途端、その安全地帯はかなり狭くなっていた。私とそよぎ先輩が並んで歩けるくらいで、少し離れると、境目から出てしまいそうになる。

 

「先輩、近いです」

「あら。照れているの?」

「違います。結界が狭いんです」

「では、仕方ありませんわね」

「楽しそうに言わないでください」

 

 私たちは廊下を歩いた。足音を立てないようにしても、完全には無理だった。床に散らばったプリントが、靴の下でこすれる。

 

 どこか遠くで、机を引きずるような音がした。

 

 ぎい。

 ぎい。

 

 私は肩を震わせる。

 

「先輩」

「何かしら」

「いますよね」

「いるでしょうね」

「見に行かないですよね」

「目的地によりますわ」

「目的地ってどこですか」

「まずは購買です」

「この状況で購買?」

「食べ物と飲み物が必要ですもの」

「正しい。正しいんですけど、なんか嫌です」

 

 そよぎ先輩は廊下の角で足を止めた。指を一本立てて、私に黙るよう合図する。

 私は息を殺した。

 角の向こうから、音がする。

 

 ずる。

 ずる。

 

 何かが足を引きずっている。そして、うめき声。低くて、濁った声。人の喉から出ているのに、人の声ではない。

 

 口の中に残ったミニバウムの味が、一気に消えた気がした。

 角の向こうから、それが現れた。

 

 白いシャツ。よれたネクタイ。肩にかかった笛の紐。

 生活指導の先生だった。

 

 名前は知っている。何度か廊下で注意されたこともある。スカート丈とか、放課後に廊下でお菓子を食べるなとか。正直、少し苦手な先生だった。

 

 でも、今目の前にいるものを見て、そんなことはどうでもよくなった。

 先生だったものは、首を不自然な角度に傾けていた。片方の靴がない。口元が汚れている。目は開いているのに、こちらを見ている感じがしない。

 

「あれ……先生、ですよね」

「元、ですわね」

「そういう言い方やめてください」

 

 先生だったものが、こちらに気づいた。

 喉の奥で濁った音を立て、腕を伸ばして近づいてくる。

 

 私は足がすくんだ。

 逃げなきゃ。

 

 そう思うのに、足が動かない。昨日まで普通に廊下に立っていた先生が、今は別のものになっている。その事実に、頭が追いつかなかった。

 

 腐った手が、私たちの方へ伸びる。

 その指先が、見えない膜に触れた。

 

 パチン。

 静電気みたいな音がした。

 先生だったものの腕が、弾かれる。でも、それは止まらなかった。

 もう一度、腕を伸ばす。

 

 パチン。

 また弾かれる。

 けれど、痛みを感じている様子はない。何度も、何度も、同じ場所を叩き始めた。

 

 ぺたん。

 ぺたん。

 湿った音がする。

 私はミニバウムの紙を握り潰した。

 

「先輩……」

「なるほど」

 

 そよぎ先輩は、先生だったものをじっと見ていた。

 怖がっていない。哀れんでいる様子もない。ただ、冷蔵庫の奥で膨らんだ牛乳パックを見つけた時みたいな顔をしていた。

 

「何が、なるほどなんですか」

「見えますわ」

「何がですか」

「これは、もう駄目ですわね」

 

 先生だったものが、また結界を叩く。

 ぺたん。

 ぺたん。

 結界が揺れる。私の足元の膜が、少し薄くなった気がした。

 

「先輩、結界が」

「ええ。食事中にこの音は、品がありませんわ」

「そこじゃないです」

「では、片付けましょう」

 

 そよぎ先輩が一歩前に出た。

 私は慌てて袖を掴む。

 

「待ってください。何する気ですか」

「邪魔ですもの」

「邪魔って、先生ですよ」

「元先生ですわ」

「だから、それで納得できるわけじゃ――」

「あら。もう消費期限が切れていますわ」

 

 そよぎ先輩が、指を持ち上げた。

 その仕草は軽かった。いつものように、何かを思いついた時みたいに。

 そして、指を鳴らした。

 

 パチン。

 乾いた音が、廊下に響いた。

 次の瞬間、先生だったものの体が崩れた。

 

 倒れたのではない。ほどけた。

 肩から、腕から、胸から。輪郭がぼろぼろとほどけて、灰色の粉みたいになって床に落ちていく。ネクタイも、シャツも、髪も。全部が、古い紙みたいに崩れていく。

 

 最後に、笛の紐だけが少し遅れて床に落ちた。

 それも、すぐに灰の中に埋もれた。

 

 そこにはもう、先生はいなかった。先生だったものも、いなかった。

 赤黒い跡と、灰色の粉が少し残っただけだった。

 

 私は、声が出なかった。

 息もできなかった。

 そよぎ先輩は指先を見ていた。まるで、初めて使った文房具の書き心地を確認しているみたいに。

 

「……今、何したんですか」

 

 やっと声が出た。自分の声なのに、遠く聞こえた。

 

「廃棄しました」

「人を?」

「元人間ですわ」

「そこ、訂正しても倫理は戻りませんよ」

「もう、戻る状態ではなかったと思いますけど」

「そういう問題じゃないです」

「では、どういう問題かしら」

「それは……」

 

 言葉が出ない。

 先生だった。怖かった。襲ってきた。たぶん、もう助からなかった。

 

 それでも、そよぎ先輩が指を鳴らして消した。そのことを、どう受け止めればいいのか、わからなかった。

 そよぎ先輩は、床の灰を見下ろしていた。

 

「対象が、もう安全ではないかどうかがわかりますわ」

「安全?」

「ええ。触れてよいか。残してよいか。近づけてよいか。そういう分類です」

「人間を食品基準で分類しないでください」

「人間だったものですわ」

「それ、便利な言葉みたいに使わないでください」

「便利ですもの」

「ほんと、そういうところですよ」

 

 私は、床に残った灰から目をそらした。

 でも、そらした先にも、壊れた学校があるだけだった。

 

 そよぎ先輩は少し考え込むように、顎に手を当てた。

 

「名前が必要ですわね」

「今ですか」

「今です」

「名前をつける余裕があるの、ほんと怖いです」

「名前がないと、扱いづらいでしょう?」

「扱う気満々じゃないですか」

「ええ。扱えるものは扱うべきですわ」

 

 そよぎ先輩は、床の灰をもう一度見た。

 

「消費期限の審判」

「……はい?」

「わたくしの能力名ですわ。対象が期限内か、期限切れかを見極め、不要なものを廃棄する。実にわかりやすいでしょう?」

「わかりやすさと倫理のなさが同時に来てます」

「モブ子さんの【イートインの結界】と並べると、飲食店のバックヤードみたいですわね」

「並べないでください。私まで共犯感が出るので」

「実際、二人で生き残っておりますもの」

「言い方」

 

 そよぎ先輩は、何事もなかったかのように歩き出した。

 私は一歩遅れてついていく。床の灰を踏まないよう、少し大きく避けた。

 

 そよぎ先輩は避けなかった。いや、灰そのものを気にしていないのではなく、靴が汚れない場所をきちんと選んで歩いている。そういうところは、本当にそよぎ先輩だった。

 

「購買は一階ですわね」

「行くんですね」

「行きますわ。食べ物は必要です」

「さっき先生だったものを消した直後に、食べ物の話できるの、すごいですね」

「食べ物の話は、いつでも重要ですわ」

「先輩の中で、人命より重要そうに聞こえます」

「命は、今のところありますもの」

「その言い方、すごく嫌です」

 

 その後も、そよぎ先輩は近づいてくるものだけを、最低限の動作で片付けた。

 

 パチン。

 その音に、私は少しずつ慣れていく自分が怖かった。でも、慣れなければ進めない。そう思ってしまう自分もいた。

 

 購買は、半分シャッターが下りていた。斜めに曲がっていて、下に隙間がある。昨日の混乱で誰かがこじ開けようとしたのかもしれない。

 

 私は床に膝をつき、シャッターの下を覗いた。

 中は暗い。でも、棚が見える。パンの袋。紙パック飲料。倒れたカゴ。誰かが落としたのか、床にクリームパンが転がっている。

 

「……食べ物、あります」

「素晴らしいですわ」

「ただ、床に落ちてるやつもあります」

「それは避けましょう」

「そこはまともなんですね」

「食に関して、わたくしは誠実ですわ」

「食以外にも誠実でいてください」

 

 私は、シャッターの隙間をくぐった。狭い。制服のスカートが引っかかりそうになる。

 内側から、シャッターの歪んだ部分を持ち上げる。そよぎ先輩が外から手を添えると、通れるくらいの隙間ができた。

 

「やればできるじゃありませんか」

「先輩も手伝ったからですよ」

「ええ。わたくしもやればできます」

「褒めてほしいんですか」

「多少は」

「今は無理です」

 

 購買の中には、昨日までの学校の匂いが少しだけ残っていた。

 

 パン。紙パックの甘い飲み物。ビニール袋。そこに、廊下から流れてくる嫌な臭いが混ざっている。

 棚には、まだいくつか商品が残っていた。あんぱん。焼きそばパン。チョコチップメロンパン。クリームパン。紙パックのいちごオレ。小袋のチョコ。飴。

 

 昨日までなら、何も考えずに買っていたものばかりだ。今は、全部が宝物に見える。

 

「食べ物だ……」

 

 思わず呟くと、そよぎ先輩が棚を眺めたまま言った。

 

「食料ですわね」

「食料ならいいじゃないですか」

「違います」

「何がですか」

「今わたくしが求めているのは、食料ではなく甘味です」

「この状況でその分類いります?」

「この状況だからこそ必要ですわ」

 

 そよぎ先輩は、棚からチョコチップメロンパンを一つ取った。袋の表面をじっと見る。

 

「これは菓子パンですわね」

「見ればわかります」

「菓子パンは、食事と甘味の境界にあります」

「今、境界の話をしてる場合ですか」

「境界は大切ですわ。人間と野犬。食事と甘味。避難と巡礼」

「最後のやつ、まだ聞いてませんけど」

「いずれ聞くことになりますわ」

「不吉な予告やめてください」

 

 私は、紙パックのいちごオレを手に取った。

 賞味期限を見る。まだ大丈夫。たぶん。少なくとも、昨日買ったとしても不思議ではない日付だった。

 

「これ、飲んでも大丈夫ですかね」

「拝借しますね」

 

 そよぎ先輩が紙パックを見る。その表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

「大丈夫そうですわね」

「わかるんですか」

「なんとなく」

「その"なんとなく”、昨日までの”なんとなく”と違いますよね」

「そうかもしれませんわ」

 

 そよぎ先輩は、棚に残っていたパンや飲み物を手早く選び始めた。床に落ちたものは避ける。袋が破れているものも避ける。潰れているけれど密封されているものは残す。その判断が妙に早い。

 

「先輩、便利ですね」

「あら。さっきモブ子さんも便利扱いされて怒っていませんでした?」

「撤回します。便利って言われるの、ちょっと嫌ですね」

「でしょう?」

 

 私たちは購買のレジ袋を何枚かもらった。

 もらったというか、勝手に使った。もう会計する相手はいなかった。それが少しだけ胸に引っかかったけれど、今は考えないことにした。

 

 私はチョコチップメロンパンを開けた。

 少しつぶれている。でも、甘い匂いがした。昨日の夜から、まともな食べ物らしい食べ物を食べていない。

 一口かじる。

 ぱさついている。チョコチップが、少し安っぽい。でも、甘い。

 

「……これ、ちょっと安心しますね」

「あら」

「何ですか」

「モブ子さんが自分の感想を言いましたわ」

「言いますよ、それくらい」

「記録しておきたいですわね。モブ子さん、購買のメロンパンで自我の芽を出す」

「やめてください。あと芽を出す場所が安すぎます」

「安いところから始まる自我もありますわ」

「名言っぽくしないでください」

 

 私はもう一口食べた。

 結界が、少しだけ張り直される。購買の中は飲食する場所ではないからか、部室ほど安定しない。それでも食べている間は、私たちの周りに薄い膜ができる。

 

 それだけで、少し息がしやすかった。

 

「先輩も食べます?」

「いただきます」

 

 そよぎ先輩は、チョコチップメロンパンを一口食べた。少し考える。

 

「五十八点」

「この状況で採点するんですか」

「この状況だからこそ、味を雑に扱ってはいけませんわ」

「低くないですか?」

「非常時における安心感を加点して五十八点ですわ」

「加点してそれなんだ」

「甘味としては弱いです。食料としては優秀ですけれど」

「分けるなぁ」

「分けますわ」

 

 そよぎ先輩は、紙パックのいちごオレを手に取った。

 

「これは?」

「それは、私が飲みたいです」

「あら」

「何ですか」

「また自己主張を」

「いちごオレくらいで珍獣発見みたいに言わないでください」

「では、どうぞ」

 

 先輩はあっさり渡してくれた。

 私はストローを刺して飲む。

 甘い。安っぽい。でも、喉が少し楽になる。昨日までなら、少し甘すぎると思ったかもしれない。今は、それがありがたかった。

 

「……おいしい」

 

 また声に出ていた。

 そよぎ先輩は、にやりと笑った。

 

「な、何ですか」

「いえ。良いことですわ」

「今の、絶対からかう流れでしたよね」

「たまには見逃して差し上げます」

「ありがとうございます?」

 

 購買で持てるだけの食べ物と飲み物を袋に入れた。

 多くはない。けれど、部室に残っていた飴だけよりはずっとましだ。

 

 それから私たちは、昇降口へ向かった。

 昇降口は、ガラスが割れていた。下駄箱の扉がいくつも開いている。上履きとローファーが散らばり、誰かのスクールバッグが倒れて、中身が床にこぼれていた。

 

 ノート。ペンケース。小さな鏡。

 それから、開封されていないチョコ菓子。

 私は一瞬、拾うか迷った。

 

「モブ子さん」

「はい」

「拾うなら、状態を確認してからにしなさい」

「拾うの止めないんですね」

「甘味は資源ですもの」

「倫理だけじゃなくて、衛生観念もギリギリですね」

「密封されていれば問題ありませんわ」

「そういう問題かなぁ」

 

 外へ出る。

 

 朝の光がまぶしかった。でも、爽やかな朝ではなかった。

 校門の方に、自転車が何台も倒れている。片方だけのローファーが、花壇のそばに落ちている。校門の外では、何体かがふらふら歩いていた。制服姿もいる。スーツ姿もいる。

 

 遠く、駅前商店街の方から煙が上がっていた。

 昨日まで見慣れていた街が、知らない場所みたいに見えた。

 

「……これから、どこに行くんですか」

 

 私は訊いた。自分の声が、思ったより小さかった。

 

 家に帰る。避難所へ行く。警察署。病院。

 どれも正しそうで、どれも無理そうに思えた。スマホは、まだつながらない。母からの返信もない。

 

 私はそれを考えないようにしていた。考えたら、足が動かなくなりそうだったから。

 

「そうですわね」

 

 そよぎ先輩は、校門の向こうを見た。少し考えるように、顎に手を添える。

 

 普通なら、避難先を考える場面だ。

 安全な場所。人がいる場所。水や食べ物がある場所。

 

 なのに、そよぎ先輩は、まったく違うことを言った。

 

「駅前商店街に、ケーキ屋がありましたわね」

「今、その話します?」

「今しないで、いつしますの?」

「今じゃない時はいっぱいあると思います」

「世界がこうなった以上、今しかないかもしれませんわ」

「避難するんじゃないんですか」

「避難して、どうしますの?」

「どうって、安全な場所に……」

「安全な場所で、何を食べるのです?」

「そこからですか?」

 

 そよぎ先輩は、本気で不思議そうな顔をした。

 この人は、本当にそこから考えている。

 

 安全かどうか。生き残れるかどうか。もちろん、それも考えているのだろう。でも、そよぎ先輩の中心には、別の基準がある。

 

「世界が終わったからといって、味覚まで終わらせる義理はありませんわ」

「命が先では?」

「命は今のところあります」

「その言い方、やっぱりすごく嫌です」

「けれど、春限定のケーキは待ってくれません」

「ケーキは待たないですけど、ゾンビも待ってくれませんよ」

「なら、急ぎましょう」

「そういう意味じゃないです」

 

 校門の外にいた一体が、こちらに気づいた。ゆっくりと近づいてくる。

 

 私は慌てて、購買で拾った飴を口に入れた。

 いちご味。安っぽい甘さが舌の上に広がる。私とそよぎ先輩の周りに、頼りない膜が張られた。

 外用の結界は、やっぱり狭い。でも、ないよりはずっといい。

 

 ゾンビの手が、結界に触れた。

 パチン、と弾かれる。

 

 そよぎ先輩は、校門の外へ一歩踏み出した。

 

「あら。期限切れですわね」

 

 パチン。

 指の音。

 目の前のゾンビが、灰色にほどける。

 私はもう、叫ばなかった。ただ、喉の奥が少し重くなっただけだった。

 

「行きますわよ、モブ子さん」

「どこへですか」

「避難ではありません」

「じゃあ、何ですか」

 

 そよぎ先輩は、商店街の方を見た。

 煙が上がっている。遠くで、サイレンのような音がまだ鳴っている。

 壊れた街。壊れた学校。壊れた朝。

 

 その中で、そよぎ先輩だけが、いつものように少し楽しそうだった。

 

「味わいに、ですわ」

 

 私は、口の中の飴を転がした。

 いちご味。

 安っぽくて、少し懐かしい味。

 

 その時の私は、まだわかっていなかった。

 

 私たちは助かるために学校を出たのではない。

 

 甘いものを探すために、世界の終わりへ歩き出したのだ。

 

 

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