終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
北側のスーパーを出てから、私は何度も後ろを振り返った。
追われているわけではない。ゾンビの数は、さっきより減っていた。呼び込み君の音も止まり、駐車場に残ったゾンビたちは、何を探すでもなく白く煙った朝の中をふらふらしているだけだった。
それでも、私は振り返ってしまう。
スーパーの衣料品コーナーで見た、うちの学校の制服。校章のついた布。まだ人間の顔に近かった、知らない上級生。
そよぎ先輩が指を鳴らしたら、その人は灰色にほどけて消えた。
もう人間ではなかった。それはわかっている。
でも、わかっていることと、胸の奥が冷たくなることは別だった。
「モブ子さん」
前を歩いていたそよぎ先輩が足を止めた。
「はい」
「さきほどから、後ろばかり見ていますわ」
「……すみません」
「謝る必要はありません。後ろを確認するのは悪いことですか?」
「いえ」
「では、よろしい。ただし、見ているものが現在ではなく過去なら、あまり実用的ではありませんわね」
「刺し方が的確すぎません?」
「検品ですわ」
「心を検品しないでください」
そよぎ先輩は、スーパーで手に入れた袋を抱え直した。
水。紙皿。ウェットティッシュ。乾電池。缶詰。レトルト粥。飴とチョコを少し。
今日を少しだけ長くするためのものが、袋の中でがさがさ鳴る。先輩はその中身を見て、わずかに眉を寄せた。
「足りませんわね」
「え、まだ何か足りないんですか?」
「薬です」
「ああ……」
それは確かに足りない。
消毒液。絆創膏。胃薬。風邪薬。痛み止め。
世界が普通だった頃には、家の救急箱にあるだけで安心していたものが、今は急に重く見える。
「薬は大事ですね」
「ええ。甘味と同じくらい」
「同列なんですか?」
「場合によっては、甘味の方が上ですわ」
「下げてください。薬の地位を上げてください」
「ですから、ドラッグストアへ行きましょう」
そよぎ先輩が道路の先を指差した。
スーパーの駐車場を抜けた向こうに、緑色の看板が見える。
『ドラッグ北町』
その下に、小さく文字があった。
『処方せん受付』
調剤薬局併設のドラッグストアだった。
「処方せん受付……」
「期待できますわね」
「先輩、処方薬を勝手に取るのは駄目ですよ」
「当たり前ですわ。薬は素人が雑に扱うものではありません」
「そこはまともなんですね」
「薬を雑に扱う方は、在庫管理者を名乗る資格がありませんもの」
「名乗る予定だったんですか?」
「ありませんわ。棚を見ると、つい」
ドラッグストアへ向かう途中、電柱に貼られた紙が目に入った。
白いコピー用紙に、黒いマジックの字。
『北側スーパーは危険』
その下に、小さくこう書いてある。
『音に集まる。近づくな』
「……また警告ですね」
「同じ筆跡ですわね」
「ファミレスで見つけたやつと?」
「ええ」
私は紙を見上げた。少し右上がりの文字は急いで書いたようだけれど、読めないほどではない。
「親切な人がいるんですね」
「親切にしては、少し主張が強いですわね」
「主張?」
「警告と縄張り札は、紙一重ですもの」
「また不穏なこと言う」
その時、ドラッグストアの駐車場の奥で何かが動いた。
私は反射的に身構える。でも、それはゾンビではなかった。
人だった。
作業用のベストを着た、四十代くらいの男の人。少し腹は出ているけれど、肩と腕は意外と太い。顔は丸く、笑うと目尻にしわが寄りそうな、人の良さそうな顔をしていた。
背中にはリュック。片手には、折りたたみ式の買い物バッグ。左腕には白い包帯が巻かれている。
その人は私たちを見ると、目を丸くした。
「おいおい……君たち、生きてるのか」
普通の人間の声だった。
私は思わず、息を止める。
ゾンビではない。話が通じる人間。
「あ、はい」
「よかった。いや、本当に。こんなところに女子高生が二人なんて……」
男の人は、周囲を警戒するように見回した。
「君たち、北側のスーパーに行ったのか?」
「えっと……はい」
「行ったのか。あそこは危ないって書いてあっただろ。よく生きて戻ったな」
「もしかして、あの警告を書いたのって」
「ああ。俺だよ」
男の人は、少し照れたように笑った。
「仕事でこの辺りの店を回ってたからさ。どこが危ないか、だいたいわかるんだ。知らずに入ったらまずいだろ? だから書いておいた」
「……そうだったんですね」
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
生きている人間。警告を書いてくれていた人。
それだけで、この人がいい人みたいに見えた。
でも、そよぎ先輩は何も言わなかった。ただ、その男の人をじっと見ている。スイーツ棚を見つけた時よりも、ずっと冷めた目で。
「俺は棚橋っていうんだ。君たちは?」
「あ、私は――」
「名乗る必要はありませんわ」
そよぎ先輩が、私の言葉を遮った。
棚橋さんの眉が、ほんの少しだけ動いた。けれど、すぐに笑う。
「……警戒するのはいいことだ。今はそういう時だからな」
「ご理解いただけて何よりですわ」
そよぎ先輩は、にこりと笑った。綺麗な笑顔だった。
でも、私は知っている。先輩がこういう笑い方をする時は、だいたい相手を信用していない。
「ドラッグストアに行くのか?」
棚橋さんが聞いてきた。
「はい。薬と衛生用品を少し」
「なら、一緒に行こう。俺も中を見たかったところだ。女の子だけじゃ危ない」
「助かり――」
言いかけて、私は先輩の視線に気づく。
「……助かるかどうかは、まだわかりません」
「あら」
そよぎ先輩が嬉しそうに目を細めた。
「モブ子さん、成長しましたわね」
「褒められてる気がしない」
「観測値の追加です」
「言い方」
棚橋さんは、私たちのやり取りを見て苦笑いした。
「仲がいいんだな」
「そう見えますか?」
「こんな世界で一緒に動いてるなら、そうだろ」
「まあ……そうかもしれません」
そよぎ先輩と仲がいい。そう言っていいのかは、今でも少し迷う。
先輩は私をモブ子と呼ぶし、平気で危険な場所へ連れていくし、倫理をショートケーキに負けさせる人だ。
でも、私は今、その隣にいる。
ドラッグストアの自動ドアは、半分開いたまま止まっていた。
入口のガラスは割れている。店内の棚は、遠目にも荒らされていた。床には、箱入りのマスクや湿布薬の外箱が散らばっている。
レジの奥で、何かがゆっくり動いた。
棚橋さんが声をひそめる。
「中に数体いる。音を立てるなよ」
「音に集まるんですよね」
「ああ。スーパーもそれでやばかった。呼び込みの機械が鳴りっぱなしでな」
私は思わず、そよぎ先輩を見た。
呼び込み君。
あの地獄の販促イベント。
「青果の方に集まってただろ? 入口のバリケードも、あれじゃ長くもたない。あそこはもう駄目だ」
「詳しいんですね」
そよぎ先輩が、やわらかい声で言った。
「仕事で回ってたからな。スーパーも、ここのドラッグストアも。棚の場所くらいは覚えてる」
「それは便利ですわね」
「便利ってほどじゃないさ。今は、知ってることを使って生き残るしかない」
「ええ。よく使っていらっしゃるようで」
棚橋さんは一瞬だけ黙った。
それから、何もなかったように笑う。
「じゃあ、行こうか。俺が先に見る」
店内に入る前に、私はポケットから飴を取り出した。
ミルク味。包みを破って口に入れると、舌の上に甘さが広がり、私たちの周りに薄い結界が張られた。
棚橋さんは気づいていない。たぶん、それでいい。
ドラッグストアの中は、薬品と埃と、少し腐ったものの匂いが混ざっていた。
棚はかなり荒れている。風邪薬の箱は空っぽで、痛み止めの棚もほとんど抜かれている。マスクや消毒液は、誰かが必死に持ち出したのだろう。値札だけが残っていた。
「やっぱり、ほとんどないですね」
「探せば残っていますわ」
そよぎ先輩は下の棚を覗き込み、すぐに小さな消毒液を一本見つけた。
「ほら」
「先輩、探索能力高くないですか?」
「売り場は視線の高さだけではありませんわ。人は焦ると、下段を見落とします」
「スイーツ棚で鍛えられた目ですね」
「甘味探索の副産物です」
私たちは使えそうなものを少しずつ集めた。
絆創膏。ガーゼ。小さな消毒液。胃薬。栄養補助ゼリー。
棚橋さんは、店内の奥を何度も見ていた。
そこには、処方せん受付のカウンターがある。白いカウンター。その奥に、調剤室。ガラス越しに、薬棚が並んでいるのが見えた。
けれど、その周辺にはゾンビがたむろしていた。
白衣を着たものが一体。待合椅子に座ったまま、首だけをだらりと揺らしているものが一体。受付の前を、同じ場所で行ったり来たりしているものが二体。
合計で四体。少なくはない。
「……あそこはまずいな」
棚橋さんが呟いた。
「処方せん受付の方ですか?」
「ああ。調剤室には近づかない方がいい」
その言い方が、少しだけ変だった。
近づかない方がいい。そう言いながら、棚橋さんの目は調剤室の奥を見ていた。
私は最初、気づかなかった。
でも、そよぎ先輩は初めから気づいていたと思う。
「怪我をされているのですね」
先輩が言った。
棚橋さんは、一瞬だけ左腕を見た。
「ああ。大したことない。ちょっと切っただけだ」
「そうですか」
「ただ、この状況だと、ちょっとした傷でも怖いからな。消毒はしてるんだが……」
棚橋さんは笑った。笑っているのに、目が笑っていない。
「君たちは、ここで待っててくれ。俺は裏口から入れないか見てくる」
「裏口?」
「出入り業者用の通用口があるんだ。昔、何度か納品で使った。開くかどうかはわからないけどな」
「一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。むしろ、大人数で動く方が危ない。音を立てないことが大事だから」
棚橋さんは、リュックから小さな紙袋を取り出した。
金色のロゴが入った、場違いなくらい綺麗な袋だった。
「これ、少しだけど甘いもの。ここで待ってる間に食べな。腹に入れといた方がいい」
私はそれを受け取った。
中には、金色の箱が入っている。
『ノーブル・カカオ ミルクプラリネ』
高級そうなチョコレートだった。
箱の下には、黒いタバコのケースも見えた。でも、私はそこには触らなかった。吸わないし、必要もない。
「こんなもの、いいんですか?」
「いいんだよ。若い子には、こういう方が元気出るだろ」
棚橋さんは、人の良さそうな顔で笑った。
「ただ、音は立てないように。奥の連中、音に寄ってくるから」
「はい」
「じゃあ、ちょっと見てくる。ここから動くなよ」
そう言って、棚橋さんは裏口の方へ向かった。棚の角を曲がり、その背中が見えなくなる。
私は手元の紙袋を見下ろした。
金色の箱。高級チョコ。終末のドラッグストアには、似合わないくらい綺麗だった。
「……いい人、なんですかね」
「今のところ、高級チョコを渡す人ではありますわね」
「それ、かなりいい人じゃないですか?」
「餌の質が高いことと、野犬の性格は別問題ですわ」
「野犬って言わないでください」
私は箱を取り出した。包装は少しだけ擦れていたけれど、中身は無事そうだった。蓋を開けると、二粒のチョコが並んでいる。丸くて、つやがあって、上に細い線の模様が入っていた。
甘い香りがする。薬品と埃と腐ったものの匂いが、一瞬だけ遠ざかった。
「……おいしそう」
「あら」
そよぎ先輩が、少しだけ目を細めた。
「モブ子さんが素直に言いましたわ」
「高級チョコを前にして見栄を張るほど、私は強くありません」
「よろしい。では、検品しましょう」
「食べるって言ってください」
先輩は、私がつまみ上げた一粒と、自分の分の一粒を交互に凝視した。
「保管状態は悪くありませんが……表面の光沢がわずかに退色していますわね。せっかくの高級品を、妥協した鮮度で味わうのは失礼ですわ。戻しますわね」
お馴染みの乾いた音が、静まり返った店内に響く。
次の瞬間、チョコの表面を覆っていたわずかな曇りが消え、宝石のような深い艶が蘇った。冷えた薬品の空気の中で、ショコラティエが意図したであろう本来の香りが、一段と強く立ち上がる。
「わたくしが審判を下しました。今が、この子の最高の食べ頃ですわ」
「……いただきます」
二人同時に、口に入れる。チョコは、すっと溶けた。
甘い。やわらかい。ミルクのまろやかさと、ナッツの香りが広がる。さっきまでの血の匂いも薬品の匂いも遠くなり、たった一粒なのに、口の中だけが別の場所になったみたいだった。
「……おいしい」
私は、素直に言った。
「ええ」
そよぎ先輩も、珍しくすぐに頷いた。
「悔しいですが、きちんとおいしいですわ」
「悔しいんですか?」
「善意かどうかわからないものに、味で負けるのは少し癪です」
「そこまで疑います?」
「疑うというより、保留ですわ」
先輩は、チョコの余韻を確かめるように少し黙った。
「香りは上品。甘さも過不足なし。口溶けも悪くありません。ナッツの香ばしさが、甘さを平坦にしていない。箱の見栄えもよろしい」
「褒めてる」
「八十二点ですわ」
「高い」
「一粒で空気を変える力があります。これは立派なスイーツです」
私は空になった箱を見た。
こんな時に、こんなものを分けてくれる人。
やっぱり、いい人なのかもしれない。少なくとも、悪い人なら、こんな高級チョコをくれたりしないんじゃないか。
そう思いかけた時だった。
ピピピピピ。
音が鳴った。
私は固まってしまう。
ピピピピピ。
高くて、細かい電子音。
紙袋の底から聞こえている。
「……え?」
処方せん受付の前にいたゾンビたちが、ゆっくりこちらを向いた。
一体。二体。三体。四体。
白衣のゾンビの首が、ぎこちなく傾く。
棚橋さんの言葉を思い出す。
音は立てないように。
奥の連中、音に寄ってくるから。
「先輩」
私の声は、チョコの余韻よりもずっと冷えていた。
そよぎ先輩は、まだ金色の包み紙を指先で持っていた。
ピピピピピ。
音は、棚橋さんがくれた袋の中から鳴り続けている。
そして、処方せん受付の前にいたゾンビたちは、こちらへ向かって歩き出した。