終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
ピピピピピ。
音は、棚橋さんがくれた袋の中から鳴っていた。高くて、細かい電子音。さっき食べた高級チョコの甘さがまだ舌の奥に残っているのに、その余韻は一瞬で冷えた。
処方せん受付の前にいたゾンビたちが、ゆっくりこちらを向く。
一体。二体。三体。四体。
白衣のゾンビの首が、ぎこちなく傾いた。
「先輩」
私は紙袋を持ったまま固まった。
ピピピピピ。
音は止まらない。ゾンビたちは、こちらへ歩き始めている。
結界はある。さっきチョコを食べたばかりだから、私たちの周りにはまだ薄い安全圏が張られている。でも、音に反応してゾンビが集まってくる光景は、何度見ても慣れなかった。
「え、何の音ですか、これ!」
「袋ですわね」
「それはわかります!」
そよぎ先輩は、まったく焦っていなかった。紙袋を私の手から取ると、中を覗き込む。
高級チョコの空箱。金色の包み紙。それから、黒いタバコのケース。
先輩は迷わず、そのタバコケースを取り出した。
「タバコ?」
「モブ子さん、開けなかったでしょう?」
「開けませんよ。吸いませんし」
「でしょうね」
そよぎ先輩はケースを開けた。
中には、タバコではなく、小さなキッチンタイマーが入っていた。表示はゼロ。音だけが、しつこく鳴り続けている。
「……タイマー?」
私は一瞬、頭が追いつかなかった。
どうしてチョコの袋にタイマーが入っているのか。どうして、それが今鳴っているのか。どうして棚橋さんは「音を立てるな」と言っていたのか。どうしてあの人は裏口を見に行くと言って、私たちをここに残したのか。
答えは、考えたくないくらい簡単だった。
「モブ子さん」
そよぎ先輩が言った。
「はい」
「結界を維持なさい」
「え、はい!?」
「返品しますわ」
先輩は、鳴り続けるタバコケースを持ったまま、処方せん受付の方を見た。
ゾンビたちは、もう数歩先まで来ていた。腐った指先が結界の境目に触れる。
ぱちん。
弾かれる。
また触れる。
ぱちん。
私は反射的に、ポケットから飴を取り出した。包装を破って口に入れる。ぶどう味。さっきの高級チョコの余韻が、安っぽい甘さに塗り替えられていく。
それでも、結界は少しだけ濃くなった。
そよぎ先輩は一歩前に出た。そして、タバコケースを投げる。
白い処方せん受付のカウンターを越えて、その奥、調剤室の入口付近へ。
ピピピピピ。
音が、奥へ移動した。
ゾンビたちの顔がそちらへ向く。私たちに向かっていた足が止まり、一体がふらりと方向を変えた。もう一体も。白衣のゾンビも音に引っ張られるように、調剤室の方へ歩き出す。
その奥で、何かが動いた。
棚橋さんだった。
調剤室の内側。薬棚の前。彼は白い薬の箱を手にしていた。
裏口から入ったのだろう。最初から、入れる場所を知っていたのだろう。
棚橋さんは、足元に飛んできたタバコケースを見て、顔を引きつらせた。
「なっ――」
ピピピピピピピピ!
ゾンビたちが、彼の方へ向かう。
「うわっ、こっちに投げるなあああ!」
情けない声が、調剤室の奥に響いた。
がしゃん。
棚が倒れる音。ばらばらと薬の箱が床に散らばる音。
「来るな! 来るなって! くそっ!」
棚橋さんの声が奥へ逃げていく。ゾンビたちも、それを追うように調剤室の奥へ流れていった。
さっきまで私たちの前にあった危険が、ぽっかり移動した。
ドラッグストア全体が安全になったわけではない。ただ、私たちの前だけが、不自然なくらい空いている。
「……先輩」
「何かしら」
「もしかして、あの人」
「ええ」
「私たちを囮にするつもりだったんですか?」
「もしかしなくても、ですわね」
即答だった。
私は紙袋を見た。さっきまで、ありがたいと思っていた袋。高級チョコが入っていた袋。
甘くて、上品で、少しだけ世界を忘れさせてくれたチョコ。その下に、タイマーが入っていた。
「高級チョコくれたのに」
「餌には、味の良いものを使う方が効果的ですもの」
「餌って……」
「言い方を変えましょうか?」
「お願いします」
「足止め用の甘味ですわ」
「もっと嫌です」
調剤室の奥で、棚橋さんの声がまだ聞こえた。
「くそっ、覚えてろよ!」
声は遠ざかっていく。裏口の方へ逃げたのだろう。
生きている。逃げた。また会うかもしれない。
そう思うと、喉の奥が少し重くなった。
「追わないんですか?」
「なぜ?」
「いや、だって、また悪いことをするかも」
「するでしょうね」
「するんだ」
「小悪党は、一度転んだ程度では学びませんもの」
そよぎ先輩は調剤室の奥を見た。冷たい目だった。でも、怒っているわけではなさそうだった。値札と商品の
ズレを確認している時みたいな顔。
「ですが、今追う必要はありませんわ」
「どうしてですか?」
「わたくしたちは、終末の風紀委員ではありませんもの」
「嫌ですね、終末の風紀委員」
「それに、彼はまだ生きています」
「はい」
「生きているものを、わたくしは簡単には廃棄しません。期限が切れていないなら、棚に残る権利はあります」
「……意外と優しいんですか?」
「いいえ。面倒なだけですわ」
「台無しだ」
奥の方で、ドアが乱暴に開く音がした。そのあと、棚橋さんの足音と、ゾンビのうめき声が遠ざかっていく。
少なくとも、彼は薬をゆっくり持ち出せる状況ではなくなったらしい。それだけは、少しだけ安心した。
「いつから気づいてたんですか?」
私が聞くと、そよぎ先輩はチョコの空箱を拾い上げた。
「完全に気づいていたわけではありません」
「そうなんですか?」
「ただ、不自然ではありました。あの方は、裏口を“見に行った”のではありません。最初から入れると知っていた顔ですわ」
「顔でわかるんですか」
「人は、知らない扉を見る時と、開け方を知っている扉を見る時で、目の置き方が違いますもの」
「怖い観察力」
「それに、調剤室を見た時の目」
そよぎ先輩は、調剤室の方へ視線を向けた。
「彼は薬が欲しかった。特に、抗生物質のようなものを」
「腕の怪我ですか?」
「それもあるでしょう。あの傷は大したものではありません。ですが、病院が機能しない状況では、悪化すれば命取りですわ」
「じゃあ、本当に困ってたんですね」
「困っていることと、他人を餌にすることは別問題です」
「……はい」
「それに、おそらく自分の傷だけが目的ではありません」
「え?」
「薬は軽く、小さく、価値が高い。水や缶詰と違って、どこにでもあるものではありません。病院が止まった世界では、強い交換材料になりますわ」
「物々交換ってことですか?」
「ええ。あの方にとって、薬は治療道具である前に、在庫なのでしょう」
在庫。
その言葉が、妙に嫌だった。
水も、食べ物も、薬も。全部、生きるために必要なものだ。でも、棚橋さんにとっては、たぶん違う。
集めるもの。隠すもの。持っていることで、自分が少しだけ上に立てるもの。
「嫌な人ですね」
「小粒ではありますが、よく育った小悪党ですわね」
「評価しないでください」
「点数はつけていませんわ」
「つけないでくださいよ」
私たちは、調剤室の奥には入らなかった。ゾンビが流れ込んだ先だし、そもそも処方薬なんて、私たちが適当に持っていいものではない。
そよぎ先輩も、そこははっきりしていた。
「抗生物質は取りません」
「いいんですか?」
「素人が適当に飲むものではありませんわ。量も期間も、判断を誤れば害になります」
「本当にまともなこと言ってる」
「失礼ですわね。わたくしはいつでも合理的です」
「合理性と倫理が別売りなだけですよね」
「よくわかっていますわ」
「褒めないでください」
私たちは、一般薬の棚から使えそうなものだけを拾った。
消毒液。絆創膏。ガーゼ。胃薬。解熱鎮痛薬。経口補水液の粉末。栄養補助ゼリー。小さな水。
どれも、棚の奥や下段に残っていたものばかりだった。
人は焦ると、目立つ場所から奪っていく。そよぎ先輩は、そういう取りこぼしを見つけるのがうまい。
「先輩」
「何かしら」
「これ、薬局というより、宝探しですね」
「宝ですわよ。終末における絆創膏は、かなり上質な宝です」
「言われてみれば」
「そして、宝探しには甘味が必要です」
「またですか」
「モブ子さん、こちらをご覧なさい」
そよぎ先輩が指差した先に、棚があった。他の棚より少しだけ小さい。上には、ピンクと緑のポップが貼られている。
『罪悪感オフのおやつ』
『低糖質スイーツ』
『プロテインで、からだ想いの甘味時間』
私は嫌な予感がした。
棚は、ほとんど空だった。残っているのは、破れた箱と値札だけ。
低糖質ブラウニー。糖質オフチョコバー。おからフィナンシェ。プロテインクッキー。ギルトフリーどら焼き。
「……先輩」
「空ですわ」
「ですよね」
「スイーツ棚ですわね」
「これ、スイーツ棚なんですか?」
「棚自身がそう名乗っています」
「自己申告制なんですね」
「少なくとも、甘味を志す棚ではあります」
「志だけで許していいんですか?」
「試す価値はありますわ」
そよぎ先輩は、棚に残っていた破れた箱を見た。中身はない。値札だけが残っている。完全に空。
私は空棚を見た。
いつもの、胸の奥が少しざわつく感じがした。空っぽの場所に、何かを戻したくなる。
それが私の能力だ。先輩が勝手に【スイーツ・ガチャ】と呼んでいるもの。
「……出なくても、文句言わないでくださいよ」
「出なければ縁がなかっただけですわ」
「出た場合は?」
「検品します」
「食べるって言ってください」
私は、空っぽの低糖質スイーツ棚に手を伸ばした。
「……甘いものなら、何でもいいです」
呟いた瞬間、棚の値札が、かた、と揺れた。
低糖質ブラウニー。糖質オフチョコバー。おからフィナンシェ。プロテインクッキー。ギルトフリーどら焼き。
文字が順番に目に入る。いや、目に入ったというより、棚の奥で何かが選んでいるみたいだった。
「……また回ってます」
「ええ。回っていますわね」
「今回は、なんか嫌な予感がします」
「ガチャとは、期待と不安の容器ですわ」
「名言っぽいけど、外れが出そう」
かた。
値札の揺れが止まった。
最後に目に入ったのは、
『からだ想いの低糖質プロテインクッキー カカオアーモンド味』
だった。
棚の奥で、音がする。
ことん。
もう一つ。
ことん。
白と緑のパッケージが二つ、空だった棚に現れた。
私はしばらく黙った。
「……これは当たりなんですか?」
「ガチャとしては正解ですわ」
「スイーツとしては?」
「食べてから判断します」
「もうだいたいわかってません?」
「先入観で評価を下すのは、作り手への侮辱ですわ」
「急に真面目」
そよぎ先輩は、プロテインクッキーを一袋手に取った。パッケージには、筋肉質な腕のイラストとカカオ豆の絵が並んでいる。なんだか、甘味と筋肉が握手しているみたいだった。
「開けますわ」
「お願いします」
中には、丸いクッキーが二枚入っていた。普通のクッキーより少し厚くて、表面に細かい粉がついている。
香りは、ちゃんとカカオだった。でも、さっきの高級チョコのような華やかさはない。
私は一枚を口に入れた。
噛む。
固い。
もう一度噛む。
ぼそっ。
口の中の水分が、一気に持っていかれた。
「んぐ」
「水を飲みなさい」
「はい」
私はさっき拾った小さな水を開け、どうにか飲み込んだ。
甘い。確かに甘い。でも、甘さより先に、健康という文字が口の中に押し寄せてくる。
「どうですか、モブ子さん」
「体に良さそうです」
「味の感想から逃げましたわね」
「逃げたくなる味なんですよ」
そよぎ先輩も一枚かじった。表情は変わらない。でも、ほんの少しだけ眉が動いた。
「なるほど」
「どうですか?」
「甘さはあります。香りもあります。ですが、すべてが“罪悪感の削減”に奉仕していて、幸福感が薄いですわ」
「低糖質ですからね」
「糖を減らした結果、夢まで減っています」
「そこまで言います?」
「カカオの香りは悪くありません。アーモンドの気配もあります。ですが、口の中でほどける楽しさがありません。これはクッキーというより、健康志向を焼き固めた板ですわ」
「板扱い」
「四十八点」
「低い」
「ただし、終末補正で五十五点です」
「補正込みでも低い」
「水があれば五十八点ですわ」
「水、強いですね」
「この菓子において、水は調味料です」
「名言みたいに言うことですか?」
私はもう一口食べた。やっぱり、ぼそぼそしていた。
でも、嫌いではなかった。少なくとも食べられる。お腹にはたまりそうだ。
高級チョコみたいに、一粒で空気を変える力はない。でも、終末のドラッグストアで持ち帰るなら、こっちの方が役に立つのかもしれない。
それが少しだけ悔しかった。
「……さっきのチョコ、おいしかったですね」
「ええ。八十二点ですわ」
「でも、罠の餌だったんですよね」
「そうですわね」
「こっちは五十五点ですけど、罠じゃない」
「その通りです」
「なんか、変ですね」
「世の中、味と善性は比例しませんもの」
「スイーツから道徳の話に行かないでください」
「では、クッキーの話ということで」
「絶対クッキーの話じゃない」
私は、空になった高級チョコの箱を思い出した。
金色の箱。上品な甘さ。棚橋さんの人の良さそうな笑顔。「音を立てるなよ」と言った声。
その袋の底から鳴った、タイマーの音。
ゾンビは怖い。でも、ゾンビは嘘をつかない。ただ、まっすぐこちらへ来る。
棚橋さんは笑って、チョコを渡して、私たちを囮にしようとした。
「先輩」
「何かしら」
「ゾンビって、嘘はつかないんですね」
「ええ。吠えるだけですわ」
「生きている人間は、笑ってチョコを渡すんですね」
「包装紙が綺麗なものほど、中身の確認は必要ですわ」
「人間をチョコみたいに言わないでください」
「では、クッキーの話ということで」
「さっきから、その逃げ方ずるいです」
そよぎ先輩は、低糖質プロテインクッキーの袋をひらひらと振った。
「ちなみに、あのおじさまの逃げ足は三十五点ですわ」
「人間に点数つけた」
「逃走姿勢だけです」
「限定しても駄目です」
「情けなさは高得点でしたけれど」
「採点項目を増やさないでください」
私は思わず笑った。
笑ってから、自分で少し驚いた。
怖かった。生きている人間に騙されかけた。親切そうな人が、私たちを餌にしようとした。
それなのに、そよぎ先輩が低糖質プロテインクッキーに点数をつけていると、少しだけ呼吸が戻る。
おかしい。
かなりおかしい。
でも、たぶん私はもう、このおかしさに助けられている。
私たちは、必要な薬と衛生用品を袋に入れた。それから、低糖質プロテインクッキーも二袋。
五十五点でも、食べ物は食べ物だ。水があれば五十八点になるらしいし。
ドラッグストアを出る時、入口のガラスに貼られたチラシが目に入った。
『健康応援フェア』
『糖質オフで、毎日を軽やかに』
世界が重すぎる今、その文字は少しだけ場違いだった。
「毎日を軽やかに、ですって」
そよぎ先輩がチラシを見て言った。
「軽やかですかね、今」
「少なくとも、あのおじさまの逃げ足は軽やかでしたわ」
「まだ言う」
「逃走姿勢三十五点。捨て台詞二十八点。高級チョコの選択は八十二点」
「項目別にするのやめてください」
「総合点は?」
「出さなくていいです」
「では、保留ですわね」
「再登場しそうで嫌なんですけど」
「するかもしれませんわね」
そよぎ先輩は、さらりと言った。
私はドラッグストアの裏手の方を見た。棚橋さんはもういない。でも、どこかで生きている気がした。そして、たぶんまた、どこかで何かを集めている。
水。食べ物。薬。人の信用。
そういうものを、棚に並べるみたいに。
「モブ子さん」
「はい」
「帰りましょうか」
「ファミレスに戻るんですか?」
「ええ。薬の整理が必要です。それに、水と一緒に食べるべきものが増えましたわ」
「プロテインクッキーですね」
「五十五点ですけれど、保存性は悪くありません」
「夢は少ないですけどね」
「終末には、夢の少ない甘味も必要ですわ」
私はもう一度、低糖質プロテインクッキーの袋を見た。
高級チョコほど甘くない。口どけもよくない。水がないと食べづらい。
でも、罠ではない。
自分たちで引いた、外れ気味の甘味だ。
私は袋をしまって、小さく言った。
「ごちそうさまでした」
そよぎ先輩がこちらを見る。
「律儀ですわね」
「こういうのは、言った方がいい気がしたので」
「ええ。悪くありませんわ」
先輩も、空になった袋に向かって軽く頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
その声は、やっぱり意外と真面目だった。
世界は終わっている。
ゾンビは吠える。
生きている人間は笑う。
甘いものは、罠にもなる。
けれど、五十五点のクッキーでも、食べれば少しだけ結界が張れる。
私はぶどう味の飴を舌の上で転がしながら、そよぎ先輩の隣を歩いた。
逃げるためではなく。
誰かを裁くためでもなく。
次に食べる甘いものを、まだ少しだけ探すために。