終末世界の迷惑在庫(ゾンビ)は即廃棄!〜人でなしお嬢様とモブ後輩は、世界が滅んでも甘いものが食べたい 作:オカノヒカル
ファミレスに戻ってきた時、私はようやく息を吐いた。
『ファミリーグリル・オレンジベル』
傾いた看板は、夜の中で半分だけ見えている。もちろん、もう営業はしていない。けれど今の私たちにとっては、一番まともな寝床だった。
ガラス扉を押して中に入る。
客席には倒れた椅子や、前に片付けたゾンビの痕跡が残っている。それでも、ここにはテーブルがある。ソファ席がある。厨房がある。そして何より、私が「ここは食べる場所だ」と思える。
そのせいか、店内に入った瞬間、飴で無理やり張っていた移動用の結界が客席へ薄く広がっていった。外のうめき声が、一枚壁を挟んだみたいに遠くなる。
「戻ってきた、って感じしますね」
「ええ。ただいま、ですわね」
「ファミレスに言う台詞じゃないです」
「今のところ、一番まともな我が家ですわ」
そよぎ先輩は、何でもない顔でそう言った。
私は抱えていた袋をテーブルに置く。ドラッグストアから持ち帰ったものが、がさりと音を立てた。
消毒液。絆創膏。ガーゼ。胃薬。解熱鎮痛薬。経口補水液の粉末。栄養補助ゼリー。それから、低糖質プロテインクッキー。
並べてみると、それなりに頼もしい。けれど、安心だけは来てくれなかった。
棚橋さんの顔が、頭の隅に残っている。
親切そうに笑って、高級チョコを渡してきた男。その袋の底で鳴り出したキッチンタイマー。私たちを囮にして、調剤室の薬を持ち出そうとした人。
ゾンビはわかりやすい。うめく。歩く。噛もうとする。近づいてきたら危ない。
でも、人間は違う。
チョコをくれる。道を教える。心配そうな顔をする。その後で、袋の底に罠を仕込む。
「モブ子さん」
「はい」
「顔が渋いですわ」
「そりゃ、渋くもなりますよ」
私は椅子に座った。
「結界って、ゾンビは止められるんですよね」
「ええ」
「でも、親切そうな人が置いていった紙袋までは止めてくれなかった」
そよぎ先輩は、少しだけ目を細めた。
「結界は、悪意そのものを弾くものではありませんわ」
「ですよね」
「もし悪意を弾けるなら、モブ子さんはわたくしの隣にいられませんし」
「自覚あるなら直してください」
「嫌ですわ」
「即答しないでください」
そよぎ先輩は向かいの席に座ると、テーブルの上を見た。
「では、棚卸しを始めましょう」
「薬をスーパーの在庫みたいに言わないでください」
「生き延びるとは、在庫管理ですわ」
「急に正しいこと言わないでください」
先輩は消毒液を手に取り、ラベルを読んだ。
「これは使えますわね。胃薬と解熱鎮痛薬も期限内です。ただし、用法は守りなさい」
「急に保健室の先生みたいなことを」
「知らない薬は、名前の長い毒と同じですわ」
「……たまに、すごくまともですね」
「わたくしは常にまともです」
「そこはまともじゃないです」
棚橋さんが欲しがっていた処方薬には、結局手を出さなかった。あの時は少しもったいない気もしたけれど、何に使う薬なのかわからないものを非常時だからと抱え込むのは、便利というより危険なのだろう。
「棚橋さん、また来ますかね」
私は低糖質プロテインクッキーの袋を見ながら言った。
「来るでしょうね」
「嫌な断言」
「ああいう方は、自分が失敗したことより、自分が損をしたことを覚えますの」
「すごく嫌な人間理解ですね」
「人間理解とは、だいたい嫌なものですわ」
先輩はさらっと言って、立ち上がった。
「ついでに、この店の奥も見ておきましょう」
「また探索ですか」
「前は夜を越す場所を確保するので精一杯でした。拠点として使うなら、倉庫と事務室の確認は必要ですわ」
「急にサバイバルっぽい」
「違います。スイーツ巡礼を続けるための休憩所整備です」
「言い方変えただけですよね」
「言い方は大事ですわよ」
仕方なく、私は手近にあった飴を口に入れた。安いレモン味が舌に広がり、結界が私たちを中心に少しだけ強くなる。
厨房の奥は、前よりも冷えていた。
冷蔵庫は信用しない方がいい。そよぎ先輩も扉を少しだけ開けて、すぐ閉めた。
「これは廃棄ですわね」
「全部ですか」
「だいたい全部です。香りがもう敗戦処理ですわ」
「食べ物に敗戦処理って言わないでください」
ただ、倉庫の棚にはまだ使えるものがあった。
レトルトソース。乾麺。缶詰。砂糖。ガムシロップ。紅茶のティーバッグ。それから、豆乳パック。
「豆乳?」
私はパックを手に取った。
「メニューの豆乳ラテ用かしらね。終末においては、健康志向もたまには役に立ちますわ」
「先輩が健康志向を褒めた」
「味を犠牲にしなければ、褒めます」
「犠牲にしたら?」
「五十五点です」
「プロテインクッキーを思い出しながら言わないでください」
事務室には、シフト表や書類がそのまま残っていた。世界が壊れる前の、普通の職場の残骸だ。
机の上にはメモが置かれていた。
『店長へ
キャンプ道具、また置きっぱなしです。
防災用品じゃないんですから片付けてください。
副店長』
「……店長さん、キャンプ好きだったんですかね」
「終末において、趣味人は文明の保存庫になりますわね」
「それ、褒めてます?」
「かなり」
メモの通り、奥にはキャンプ用品らしきものがまとめて置かれていた。
折りたたみ椅子。ランタン。カセットボンベ。小さな鍋。
それから、黒い四角い箱。
「これ、ポータブル電源じゃないですか?」
ボタンを押すと、緑色のランプが二つだけ点いた。
「生きてます」
「文明の残り火ですわね」
「かっこいい言い方ですけど、残量は少なそうです」
さらに、搬入口近くの屋外用ボックスには、小型の発電機が置かれていた。隣には小さな燃料携行缶。
私は一瞬、明るい気分になりかけた。
「これで電気、使えますよね?」
「ここでは使えませんわ」
「なんでですか」
「音。排気。光。そして、野犬への開店告知ですわ」
「発電機を呼び込み君みたいに言わないでください」
「実際、最悪の呼び込み君ですわ」
言われて、私はスーパーで聞いたあの音楽を思い出した。呼び込み君の音に集まっていたゾンビたち。
もし、このファミレスの近くで発電機を動かしたら。
音が鳴る。ゾンビが集まる。窓を叩く。扉を壊す。
安全な席が、最悪の集客会場になる。
「……別の場所で使うしかないですね」
「ええ。充電するなら、拠点から離れた場所で短時間。集まり始めたら撤退ですわ」
「面倒ですね」
「文明とは、面倒なものです」
とにかく、ポータブル電源だけは客席へ運んだ。発電機は重いし、うるさいし、今すぐ使えるものではない。でも、ある。それだけで少し心強い。
客席に戻ると、そよぎ先輩がもう一つ、黒くて古い機械をテーブルに置いた。
「ついでに、これもありましたわ」
「ラジオですか」
「短波も入るようです」
「短波?」
「遠くの電波を拾えることがありますの。天気や時間帯にもよりますけれど」
「先輩、そういうの詳しいんですね」
「占い研究会ですもの」
「絶対関係ないです」
先輩がアンテナを伸ばし、つまみを回す。
ざざっ。
ざり。
ざああああ。
雑音ばかりだった。
たまに、音楽の切れ端みたいなものが入る。でも、すぐに消える。
『……避難……指示……』
ざざっ。
『……不要不急の……』
ぶつり。
あとは、何もない。
公式っぽい声は、どれも途中で途切れていた。
「普通のラジオ局、もう駄目なんですかね」
「少なくとも、こちらから聞こえる範囲では、まともに機能していないようですわね」
「警察とか、自衛隊とかは」
「わかりません」
そよぎ先輩は、あっさり言った。
「わからないんですか」
「わからないものは、わからない棚に置いておくしかありませんわ」
「棚?」
「賞味期限も、産地も、原材料名も読めない商品を、今ここで評価する必要はありません」
「世界情勢を商品扱いしないでください」
私は、ポケットからスマホを取り出した。
画面をつける。端には、もう見慣れた文字が出ていた。
圏外。
母からの最後のメッセージは、世界が壊れ始めた日の夕方で止まっている。
『学校にいる? 無理に帰らないで』
その先はない。
何度も電話をかけた。メッセージも送った。でも、つながらなかった。送れなかった。
今さら、かけ直す気にもなれない。
スマホはもう、薄い板になりかけている。
「先輩って、こういう時でも家に迎えが来たりしないんですか。お嬢様っぽいし」
「来ませんわよ」
「即答」
「モブ子さん。言葉遣いと家計簿は別物ですわ」
「急に庶民的」
「だいたい、わたくしの家に帰ったところで、執事もシェフもおりませんもの」
「いないんですか」
「冷蔵庫に半額シールのプリンが残っている可能性はありますけれど」
「お嬢様感が一瞬で死んだ」
「プリンに罪はありません」
「そこは一貫してるんですね」
そよぎ先輩は、またラジオのつまみを回した。
雑音が続く。
私は伏せたスマホを見ていた。
親はどうしているんだろう。生きているのか。家にいるのか。どこかに逃げたのか。
そこまで考えかけて、私はやめた。答えが出ない棚を、勝手に開けても仕方ない。そよぎ先輩の言い方は嫌だけど、たぶんそういうことだ。
その時だった。
ラジオの雑音が、少しだけ薄くなった。
『……えますか』
私は顔を上げた。
そよぎ先輩の指が、つまみの上で止まる。
『……聞こえている方、こんばんは』
知らない声だった。男か女かも、よくわからない。若いようにも、年を取っているようにも聞こえる。
『こちらは……臨時放送局、のつもりです』
「放送局……?」
『公式ではありません。公式は、たぶんもう寝ています』
「なんか、変な人ですね」
「なかなか良い言い回しですわ」
「そこですか」
声は、時々途切れながら続いた。
『水は大事に。音は控えめに。知らない人は、すぐ信用しないように』
私は、棚橋さんの顔を思い出した。
『あと、夜に発電機を回すのはやめた方がいいです。集まります』
そよぎ先輩が、発電機のある方をちらりと見る。
『音だけじゃなくて、光にも反応するものがいます』
ノイズが混ざる。
声が歪む。
『噛まれていないのに……変わった人を見たら……距離を――』
ざざっ。
ざああああああ。
声は消えた。
あとには、ただの雑音だけが残った。
「……今の」
私は、ラジオを見つめた。
「変わった人って」
「さあ」
「さあ、って」
「わからないものは、わからない棚に置いておくのです」
「また棚」
「便利でしょう?」
「便利なようで、ちょっと雑です」
でも、胸の奥がざわついていた。
噛まれていないのに変わった人。
私たちは、噛まれていない。でも、変わった。
私は食べると結界を張れるようになった。空っぽのスイーツ棚に、甘いものを呼び寄せられるようになった。
そよぎ先輩は、腐ったものや邪魔なものを見分けて、廃棄できるようになった。
それは、あの声の言う「変わった人」なのだろうか。
「モブ子さん」
「はい」
「今夜の議題は、世界の真相ではありません」
「……じゃあ、何ですか」
「温かいものですわ」
「優先順位がおかしい」
「おかしくありません。温かいものは冷めます」
そよぎ先輩は、金色のチョコレートの箱を開けた。
『ノーブル・カカオ ミルクプラリネ』
棚橋さんがくれた高級チョコ。罠の餌だったもの。
「それ、食べるんですか」
「ええ」
「罠の餌だったんですよ」
「でしたら、餌ではなく飲み物に作り替えましょう」
「……どういう理屈ですか」
「料理ですわ」
先輩は包丁を持った。
チョコレートが、細かく刻まれていく。
とん。
とん。
とん。
静かな客席に、包丁の音だけが響く。ゾンビを廃棄する時のパチンという音とは違う。もっと普通の、生活の音だった。
刻まれたチョコはボウルに入れられた。そこへ、さっき見つけた豆乳パックを注ぐ。
「豆乳ココアですか?」
「正確には、豆乳ショコラですわ。粉末ココアではなく、チョコレートを溶かしていますから」
「世界が終わっても分類が細かい」
「分類を諦めたら、世界はもっと早く終わりますわ」
「それっぽいこと言ってるけど、たぶん関係ないですよね」
そよぎ先輩は、ボウルを電子レンジに入れた。そして、ポータブル電源につなぐ。
「本当に使うんですか」
「一度だけですわ。文明の残り火を、甘味に変換します」
「言い方はかっこいい」
スイッチを押す。
電子レンジが、低く唸った。その瞬間、ポータブル電源の残量表示が一つ減る。
「うわ、減るの早」
「文明は甘くありませんわね」
「甘いもの作ってるのに」
短い加熱が終わる。
先輩はボウルを取り出し、スプーンでゆっくり混ぜた。
チョコが溶ける。豆乳に混ざる。ミルクプラリネの甘い匂いと、ナッツの香ばしい匂いがふわりと立った。
薬品の匂いでも、血の匂いでもない。ちゃんと、甘い匂いだった。
そよぎ先輩は、ファミレスのドリンクバー用のカップを二つ出して、そこに豆乳ショコラを注いだ。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
カップは温かかった。両手で持つと、指先の冷たさがほどけていく。
でも、私はすぐには飲めなかった。
棚橋さんの顔が浮かぶ。金色の箱。鳴り出したキッチンタイマー。処方せん受付前から歩いてきたゾンビたち。
「モブ子さん」
「はい」
「味に罪はありませんわ。ただし、記憶は残ります」
「……消えないんですね」
「消えません。けれど、上書きはできます」
私は、カップに口をつけた。
甘い。
少しだけ豆乳の青い匂いがある。チョコレートのまろやかさの奥に、ナッツの香ばしさが残っている。粉末ココアみたいななめらかさではなく、時々、小さな粒が舌に触れた。
でも、温かい。
それだけで、体の奥が少しゆるんだ。
「……おいしい」
声に出すつもりはなかった。でも、出た。
そよぎ先輩が、少しだけ口元を緩める。
「モブ子さんが、また自分の感想を言いましたわ」
「もう珍しくないでしょ」
「まだ希少です」
「絶滅危惧種みたいに言わないでください」
先輩もカップに口をつけた。
目を閉じる。味を測っている顔だった。
「単体の完成度では、元のチョコレートに劣りますわね」
「いきなり厳しい」
「豆乳の青さが少し残っていますし、プラリネの粒感が飲み物としては雑味になります。なめらかさも足りません」
「けっこう言いますね」
「ですが、温かい。甘い。香ばしい。そして、罠だったものを、こちらの食卓に引き戻した。終末の夜に飲むものとしては、悪くありません」
「点数は?」
「七十六点。ですが、今夜に限り八十一点ですわ」
「補正が強い」
「夜は、補正がかかるものです」
私は、もう一口飲んだ。
ラジオの声。圏外のスマホ。母からの最後のメッセージ。棚橋さんの罠。発電機の音に集まるゾンビ。噛まれていないのに変わった人。
考えることは山ほどあった。けれど、今はカップが温かい。
それだけで、少しだけ目の前に戻ってこられる。
世界の全部は、もうわからない。でも、この豆乳ショコラが甘いことはわかる。
「明日は、どうします?」
私は聞いた。
「甘いものを探しに行きますわよ」
「世界の状況、だいぶ駄目そうですけど」
「ええ」
そよぎ先輩は、空になったカップをテーブルに置いた。
「ですから、駄目ではないものを探すのです」
「それ、スイーツのことですか」
「他に何がありますの?」
「……まあ、そう言うと思いました」
先輩は、ポケットから一枚のチラシを取り出した。
『春の駅前スイーツ案内』
端は少し折れている。でも、まだ読める。
苺ショート。桜もち。苺クリームデニッシュ。濃厚ピスタチオプリン。春限定アイス。
「次はベーカリーですわね」
「菓子パン棚ですか」
「ええ。甘いパン系の何かが欲しい気分ですわ」
「雑ですね」
「ガチャとは、本来そういうものでしょう?」
「それはそうかもですけど」
「空っぽの棚に、何が戻るか。そこに期待と失望とカロリーがありますの」
「カロリーを並べないでください」
私は少しだけ笑った。
外では、まだ世界が終わっている。ラジオはノイズしか返さない。スマホは圏外のまま。親がどうしているのかも、警察や自衛隊がどうなったのかも、何もわからない。
でも、テーブルの上には空になったカップが二つある。
豆乳ショコラの甘さが、まだ舌に残っている。
それだけは、今ここにある。
「ごちそうさまでした」
私は小さく言った。
そよぎ先輩も、空のカップに向かって軽く頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
その声は、やっぱり意外と真面目だった。
罠だったチョコレートでも、温めれば甘い飲み物になる。たぶん、今夜はそれで十分だった。
逃げるためではなく。
助けを呼ぶためでもなく。
世界が駄目になっても、まだ駄目ではない甘いものを探すために。
明日は、ベーカリーの棚を見に行く。
何が出るかは、空っぽの棚に聞くしかない。