楽屋にて。
おなかがすいた莉波とPはお寿司を食べることに。
そんな時、スタッフからの呼び出しを受けて
離席した莉波の中トロをPが食べてしまい…
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「わぁ……!」
楽屋に置かれた差し入れの寿司桶を見て、姫崎さんの声が少し弾んだ。
それは、普段の姫崎さんからは少し珍しい声だった。
面倒見がよくて、落ち着いていて、いつも誰かを優先する彼女が、目の前の寿司を見た瞬間だけ、年相応の女の子みたいに目を輝かせている。
「姫崎さん、お寿司好きですよね」
「はい。お寿司、大好きです」
にこり。
その笑顔はいつもの彼女だった。
柔らかくて、優しくて、少し大人びている。
けれど、その箸先は迷っていなかった。
狙いは明確だった。
桶の中央。
艶やかな赤身の中に、ひときわ脂の乗った一貫。
中トロ。
姫崎さんは、それを見つめていた。
ただ見つめていた。
静かに。
慈しむように。
まるで、長い旅の果てにようやく再会した大切な人を見るように。
「
「どうぞ」
頷くと、姫崎さんは嬉しそうに微笑んだ。
「♪」
彼女は箸を伸ばす。
その動きは丁寧だった。
焦らず、騒がず、けれど一切の無駄がない。
その一貫を掴み、醤油をほんの少しだけつけ、口元へ運ぶ―――その時だった。
「姫崎さーん、すいません。ちょっと確認したいことあるので、来ていただけますかー?」
「あ、はーい。 ごめんね、少し行ってくるね」
「わかりました」
まじめな彼女は食事よりも仕事を優先した。
そういうところが彼女の魅力であり、今後のアイドルとしての武器になるだろう。
「さて…ん?」
どこからか姫崎さんが食べようとして皿に置かれた中トロの上空をハエが旋回していた。
「一体どこから…!」
ハエを振り払おうにも結構しつこく粘着してくる。
幸いにも中トロは無事だが。
(クソ…姫崎さんが帰ってくる気配はないし…やむを得まい)
そして。
ぱくり、と。
食べた。
ドサ。
床に何かが落ちた音が聞こえた。
「………」
そこには俺を見下ろしている姫崎さんが。
絶望を目の当たりにしたような顔で。
「……あ」
俺は口の中で中トロを味わいながら、すぐに気づいた。
やった。
これは、やった。
人として、いや、プロデューサーとして、超えてはいけない一線を超えたのかもしれない。
「す、すみません。姫崎さん。ハエがいたので、つい」
「……」
彼女は何も言わない。
ただ、ゆっくりと元の席に座る。
ーーーギシ、リ。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「プロデューサー、」
「はい」
なぜか敬語になった。
いや、いつも敬語ではある。
だが違う。
温度がない。
声に、温度がない。
「今、何をしましたか?」
「……寿司を、食べました」
「誰のですか?」
「姫崎さんの、です」
「私が、食べようとしていたものですよね?」
「はい」
「私が、ちゃんと確認して、許可を取って、醤油までつけたものですよね?」
「……はい」
彼女は微笑んだ。
笑っている。
間違いなく笑っている。
けれど、俺の背筋はなぜか凍っていた。冷房のせいかもしれない。
「そうです、か」
「おねえちゃん……?」
こういう時に弟属性が出てしまう。
蛇に睨まれた蛙。姉を怒らせてしまった弟。
すでに、打つ手はないだろう。
「いえ。大丈夫です」
何が大丈夫なのか。
もはや大丈夫な人間の声ではなかった。
「お寿司は、また買えばいいから」
「そ、そうですね。今から買ってきま」
「でも、さ」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
そして、ゆっくりと俺を見る。
目が合った瞬間、俺ははっきりと理解した。
これは怒っている。
かなり怒っている。
いや、怒っているというより。
俺を…裁こうとしている。
「人が楽しみにしていたものを、無断で勝手に食べるのは、よくないことですよね?」
「イヤデモチガクテ」
「小さい子でも分かりますよね?」
「ァ、はい」
「では、プロデューサーくんは、小さい子よりも分からなかったということですか?」
「……はい」
「そうですか」
また笑った。
その笑顔が怖い。
同郷の、ましてや幼馴染。
彼女のことも、地元のこともよくわかっている。
てっきり博多弁で起こるかと思っていた。
怒ったら「なんしよーと?」とか言うのかと思っていた。
ちょっとかわいいなと現実逃避をしようと考えていた。
けど、違った。
姫崎莉波は、本当に怒った時、標準語になる。
丁寧に。
正確に。
逃げ道を一つずつ塞ぐように。
「プロデューサーくん」
「はい」
「私は、怒っていません」
嘘だ。
「ただ、確認したいだけです」
「確認?」
「プロデューサーさんは今後、私が食べようとしているお寿司を勝手に食べない。そういうことでよろしいですか?」
「はい。絶対に食べません」
「本当ですか?」
「本当です」
「中トロでも?」
「食べません」
「ウニでも?」
「食べません」
「炙りえんがわでも?」
「食べません」
「期間限定の大トロでも?」
「食べません」
「私が『一口どうぞ』と言っていないのに?」
「食べません」
「私が少し目を離したとしても?」
「食べません」
「たとえ私が、電話に出ていたとしても?」
「食べません」
「たとえ目の前に、最後の一貫が残っていたとしても?」
「食べません」
姫崎さんはじっと俺を見つめた。
「……よろしい」
許された。
そう思った。
が、次の瞬間。
「では、買ってきてください」
「え?」
「同じものを」
「あ、はい。もちろん」
「ううん」
莉波は首を横に振った。
「同じものでは足りない、かな」
「……足りない?」
「私は今、楽しみにしていた中トロを失いました」
「…はい」
「そして、きみへの信頼も少し失いました」
「はい……」
「なので、中トロだけでは足りません」
「何を買えば……?」
おねえちゃんは少し考えた。
それから、にっこり笑った。
「特上でお願いします」
「あ、特上…」
「うん。特上です。それから二人前で」
「二人前」
「ひとつは、私が食べます」
「もうひとつは?」
「私が、プロデューサーさんの目の前で食べます」
「そのあいだ俺は?」
「見ていてください」
終わった。
完全に終わった。
彼女は立ち上がると、いつもの優しい声で言った。
「急がなくて大丈夫ですよ。私は待てますから」
そして、少しだけ声を低くする。
「逃げなければ」
俺は財布を掴んだ。
人生で一番速く楽屋を出た。
背後から、莉波の穏やかな声が聞こえる。
「いってらっしゃい、プロデューサーさん」
その声は優しかった。
優しすぎて、怖かった。
そして俺は思った。
食い物の恨みは怖いということ。
彼女を怒らせてはいけないということ。
なぜなら、姫崎莉波は、福岡出身のアイドルである。
普段は上品で、面倒見がよくて、誰にでも優しい。
けれど。
最後の中トロだけは、奪ってはいけない。
彼女は奪う側であるということ。
数年後、俺の貞操も奪わた。
父親になっても、この時のことを掘り起こされ、子からの信頼も奪われることになる。
そんな、怒らせるとかわいい彼女は現役最強 全人類にとって特上のおねえちゃんである。