翌朝、五番道路のゲートには人が集まっていた。
昨日まで閉じていた北側の扉が開いている。その前に旅人と作業員が入り混じって並び、係員が順番に通していた。
「跳ね橋、通行再開しました。強風のため、手すりから離れないでください」
同じ言葉が何度も繰り返される。
シンは列の中でそれを聞きながら、昨日カミツレが言ったことを思い出していた。ジムリーダーの名前は、こういうときのためにある。本当にその通りになった。
「フタチ」
足元のフタチマルが、前を見上げる。
「そうだな。行けるみたいだ」
順番が来て、扉を抜けた。
その瞬間、風が真横から吹きつけた。
ホドモエの跳ね橋は、想像より遥かに長かった。
歩道が向こう岸まで一直線に伸びている。両側は高い手すりと金網。その向こうは何もない。ただ空気があるだけだ。
下を見ると、水面が遠かった。
橋そのものは太い鋼材で組まれていて、頑丈なのは見て分かる。だが、風が絶えず吹いている。真横から、時折り真下から巻き上げるように。歩いているだけで体が押される。
「うわ……」
シンは思わず声を漏らした。
スカイアローブリッジも高かった。だがあれは海の上で、風はもっと素直だった。ここは違う。谷を通り抜ける風が、橋の構造にぶつかって渦を作っている。
「フタチ!?」
フタチマルが横風にあおられて、二歩ほど流された。
「掴まれ」
シンがしゃがんで手を出すと、フタチマルはその腕にしがみついた。
「戻すか?」
「フタチ」
首を振る。歩くという意思表示だった。
「なら、俺の風下を歩け」
フシデは風の影響が少なかった。体が低いぶん、真横の風はほとんど当たらない。それでも足の運びは慎重で、鉄板の継ぎ目のたびに前脚で確かめている。
シンは少し考えてから、三つ目のボールを取り出した。
橋の上は人が少ない。作業員が数人と、旅人が前後にまばらにいるだけだ。舞台も屋台もない。目立つことを気にする必要は、ここではあまりない。
「出るか」
白い光が、風の中で弾けた。
ケルディオが現れる。
四本の脚で橋の鉄板に立ち、まず耳を動かした。風の音。橋の下から巻き上がる気流。金網の鳴る音。全部を確かめてから、こちらを見る。
「揺れるけど、落ちはしない」
シンは言った。
「無理そうなら戻す」
ケルディオは動かなかった。そのまま数秒立って、それから一歩前へ出る。
歩けるらしい。
橋の上を歩きながら、シンはあらためて周囲を見た。
向こう岸はまだ遠い。だが、うっすらと街の輪郭が見えている。低い建物が並び、その奥に大きな屋根がいくつか。港のようなものも見えた。
ホドモエシティ。
その手前で、橋が一度だけ大きくくびれている。跳ね橋の可動部分だろう。船を通すときには、あそこが持ち上がるのだ。
「これが上がってたのか」
想像すると、確かに人が渡れる状態ではない。
風がまた強く吹いた。
金網が鳴る。フタチマルがシンの脚にしがみつき、フシデが体を低くする。ケルディオは脚を踏ん張って耐えた。
風が抜けたあと、シンはふと足を止めた。
音がした気がした。
風とは違う。金網の鳴る音でもない。もっと細く、断続的な音。
「……いま、何か聞こえたか」
フタチマルが顔を上げる。フシデの触角が動いた。
そして、ケルディオの耳が、はっきり一方向へ向いた。
橋の下だ。
歩道の脇、手すりの下のあたりに、細い格子状の隙間がある。そこから覗くと、橋の構造材が組み合わさっているのが見えた。
そのさらに下に、通路のようなものがある。
点検用だろう。歩道より一段下、鋼材の梁に沿って細い足場が渡されている。普段は作業員しか使わない場所だ。
その足場の上に、白い塊が見えた。
「……ポケモンか」
動いている。だが、まともに動いていない。
翼のような部分をばたつかせて、立ち上がろうとして、そのたびに崩れる。
「コアルヒーだ」
シンはすぐに手すりを掴んだ。
歩道から下の通路へ降りる方法を探す。少し先に、点検用の梯子があった。鎖で簡単に塞がれているだけで、鍵はかかっていない。
「フタチマル、ここで待て」
「フタチ!?」
「風が強い。下はもっと強い」
「フタチッ」
首を振る。行く、と言っている。
シンは少し考えて、それから頷いた。
「じゃあ、俺の後ろだ。絶対に先に行くな」
フシデは自分から一歩下がって、待つ位置についた。梯子は多足の体に向いていない。それを自分で判断したらしい。
「ここ見ててくれ」
「フシ」
ケルディオは、梯子の前で足を止めていた。
四つ足では降りられない。降りようとして、下を見て、それから顔を上げる。
「無理だ。ここで待て」
シンが言うと、ケルディオの耳が動いた。
不服そうな動きだった。少なくとも、シンにはそう見えた。
「すぐ戻る」
鎖をまたぎ、梯子に足をかける。
下から吹き上げる風が、いきなり顔を叩いた。
点検通路は、想像していたより狭かった。
幅は人ひとり分。片側は橋の構造材、もう片側は手すりだけで、その向こうは何もない。足元は格子状の鉄板で、隙間から下の水面が見える。
「……最悪だな」
シンは手すりを掴んだまま、慎重に進んだ。
フタチマルは足元を歩いている。格子の隙間が気になるのか、時々足を止めて確かめていた。
十数歩進んだところに、その白い塊はいた。
コアルヒーだった。
まだ若い個体だ。体は小さく、羽毛も柔らかい。それが今、通路の隅で横向きに倒れていた。
「コア……」
弱い声だった。
シンはその場でしゃがんだ。すぐには近づかない。
「大丈夫か」
コアルヒーが顔を上げる。
見た瞬間、シンの息が止まった。
右の翼が、明らかにおかしな角度で曲がっていた。
自然に折れたのではない、とシンは直感した。
風に煽られて落ちたなら、体のどこかに擦り傷がつく。橋の構造材にぶつかったなら、打撲の跡が残る。
だが、この個体の傷は違った。
翼の付け根に、細い線状の跡がある。何かで縛られたか、引っ張られたかしたような痕だ。羽毛がその部分だけ不自然に抜けている。
そして、翼そのものが折れている。
「……お前」
シンは言葉を飲み込んだ。
誰かにやられている。
風が下から吹き上げて、コアルヒーの羽毛を揺らした。若い体には、この風は堪えるはずだ。しかも飛べない状態で、こんな場所にいる。
「動くな。触らないから」
シンはバッグを下ろした。
水。布。傷薬。ライモンで何日も使ったものが、そのまま入っている。
「フタチマル、風上に立ってくれ」
「フタチ」
フタチマルがコアルヒーと風のあいだへ移動する。体が小さいので完全には防げないが、それでも直接当たるよりはましだった。
シンは水筒のふたに水を注ぎ、コアルヒーから少し離れた場所に置いた。
「飲めるなら飲め」
コアルヒーは動かなかった。
怯えている。だが、逃げようとする力も残っていないらしい。
シンは近づかず、そのまま待った。
ライモンでの数日が、そのまま体に残っている。
近づかない。押しつけない。相手が決めるまで待つ。
やがてコアルヒーは、首を伸ばして水に嘴を寄せた。
「コ、ア……」
飲む。喉が鳴る音がした。
その音を聞いて、シンはようやく少し息を吐いた。
そのときだった。
背後で、小さな音がした。
爪が鉄板を掻く音。
シンは反射的に振り返った。
点検通路の奥、橋の構造材の影から、灰色がかった白い体が出てきていた。
小さい。細い。ふさふさした尾。
「……チラーミィ」
見覚えがあった。
いや、見覚えどころではない。
ライモンで何度も見た個体だ。路地の空き箱の上で耳を整えていた個体。埃を払っていた個体。三歩だけ近づいて止まった個体。
そして——資材置き場で、金属フレームの下敷きになりかけた個体。
「お前、なんでここに」
チラーミィはシンを見た。
警戒はしている。耳が後ろへ倒れ、体が半分横を向いている。だが、逃げなかった。
そして、シンの手元ではなく、コアルヒーのほうを見た。
「チラ」
短く鳴く。
コアルヒーが顔を上げた。
「コア……」
チラーミィはシンの横を大きく回り込んで、コアルヒーのそばへ寄った。
そこで初めて、シンは気づいた。
コアルヒーのそばに、細かい布切れが積まれている。それから、乾いた葉のようなものも。風で飛ばないように、鉄板の隙間へ端が押し込まれていた。
誰かが世話をしている。
「……お前がやったのか」
チラーミィは答えない。
代わりに、コアルヒーの体の下に敷かれていた布を、前脚で押して位置を直した。慣れた動きだった。
それから、シンが置いた水のふたを見る。
見て、少し考えるように首を傾けてから、コアルヒーの嘴のすぐ前まで押した。
飲みやすい位置に。
「……」
シンは何も言えなかった。
しばらく、シンは動かずにいた。
チラーミィはコアルヒーの世話を続けている。折れた翼には触らない。触ればもっと痛むと分かっているらしい。代わりに、風の当たる側へ自分の体を寄せ、布の位置を何度も直していた。
やることが、いちいち的確だった。
「お前……」
シンは小声で言った。
「ずっとやってたのか」
チラーミィが顔を上げる。
初めて、シンとまともに目が合った。
その目は、値踏みしているのではなかった。
点検している目だ。ライモンの路地で見たのと同じ。シンの服の汚れも、荷物の中身も、置いた水の量も、全部確かめている。
そして——シンの後ろを見た。
正確には、シンの背後、梯子のあるほうを。
「?」
シンも振り返る。
歩道の格子の隙間から、白い体が覗いていた。
ケルディオだった。
降りられないまま、上から見ている。梯子の縁ぎりぎりまで来て、首を下へ伸ばしていた。
チラーミィの動きが、そこで完全に止まった。
耳がぴんと立つ。尾の毛が膨らむ。
だが、それは警戒の膨らみ方ではなかった。
「チラ……?」
小さな声だった。
シンにはその意味が分からなかった。
分からなかったが、次の瞬間、チラーミィが動いた。
コアルヒーのそばを離れ、通路を数歩戻る。梯子の下まで来て、上を見上げる。
そして、もう一度鳴いた。
「チラッ」
さっきより高い声だった。
上のケルディオが、首をさらに伸ばした。
シンは、その二つを見比べていた。
そして、思い出した。
ライモンの資材置き場。
きらめく金属片に釣られて奥へ入り込んだチラーミィ。倒れかけた細長いフレーム。逃げ場を失って縮こまった小さな体。
その前に、ケルディオが割って入った。
肩でフレームを受けて、隙間を作った。
「……お前か」
シンの声が、自分でも驚くほど小さかった。
「あのときの」
チラーミィは答えない。
だが、上を見上げるその姿勢は、間違えようがなかった。
覚えている。
助けられたことを、この個体は覚えている。
風が下から吹き上げて、通路全体が細かく震えた。
シンは手すりを掴み、フタチマルを引き寄せた。
「フタチ……」
「大丈夫だ」
風が抜けたあと、シンはあらためてコアルヒーを見た。
このままにはしておけない。
翼が折れている。飛べない。しかも、こんな場所で夜を越せば、風と冷えで持たない可能性がある。
だが、動かすのも簡単ではない。折れた翼をどう固定するか。梯子をどう上げるか。
「フタチマル、そこの布取ってくれ」
「フタチ」
シンはバッグから包帯を出し、それを見た。
翼の固定は、素人がやると悪化させることがある。ライモンの看護師にそう言われたことを思い出した。
だが、何もしないでいれば、動くたびに骨がずれる。
「……せめて、動かないようにするか」
シンがコアルヒーへ手を伸ばそうとした、そのときだった。
チラーミィが戻ってきて、その手の前に立った。
「チラ」
低い声だった。
止めている。
「触るなってことか」
チラーミィは動かない。じっとシンの手を見ている。
シンは手を引いた。
「分かった」
そして、包帯をその場に置く。
「じゃあ、お前がやれ」
チラーミィの耳が、ぴくりと動いた。
「俺の手は大きすぎる。お前ならできるだろ」
言ってから、シンは一歩下がった。
チラーミィはしばらく包帯を見ていた。それから、前脚でその端を引き寄せる。
長さを測るように広げ、コアルヒーの翼の角度を見て、それからもう一度包帯を見る。
考えている。
やがて、チラーミィは包帯を使わなかった。
代わりに、さっきまで敷いていた布切れの中から、幅の狭いものを選び出した。それを翼の下に差し込み、翼が垂れ下がらないように支える形にする。
固定ではない。だが、動くたびに負担がかかることは減る。
「……上手いな」
シンが呟くと、チラーミィは一瞬だけこちらを見て、すぐ作業に戻った。
日が傾き始めたころ、シンは決断した。
「ここじゃ夜は越せない」
風が強すぎる。しかも、日が落ちれば気温が下がる。
「橋の向こうまで運ぶ」
だが、コアルヒーは自分では歩けない。抱えるしかない。
「フタチマル、先に上がれ」
「フタチ」
「フシデ、上で待ってるはずだ。位置を確認しといてくれ」
フタチマルが梯子を上っていく。
シンはコアルヒーの前にしゃがんだ。
「運ぶ。触るぞ」
コアルヒーが怯えた目でこちらを見る。
チラーミィが、その前に立った。
「チラ」
「分かってる。乱暴にはしない」
シンは自分のシャツを脱ぎ、それを広げた。抱え上げるより、布ごと支えたほうが翼への負担が少ない。
「……いいか」
チラーミィはしばらくシンの顔を見ていた。
そして、上を見た。
梯子の上。今もこちらを覗いている白い影。
それを確かめてから、チラーミィは横へ退いた。
通した、ということだった。
コアルヒーを布ごと支え、片手で梯子を掴む。
これが一番きつかった。
風は絶えず吹いている。片手しか使えない。抱えているものは動かせない。
「……くそ」
一段ずつ、慎重に上る。
途中で風にあおられて体が傾いたとき、上から何かが伸びてきた。
フタチマルの腕だった。梯子の縁に足を固定して、身を乗り出している。
「フタチッ!」
「危ないだろ」
「フタチ!」
聞かない。
シンはその腕を掴んで、なんとか体勢を戻した。
最後の一段を上りきったとき、シンは歩道に膝をついた。
コアルヒーは無事だ。翼の位置もずれていない。
「……助かった」
フタチマルが得意そうに胸を張り、それからすぐにふらついた。さすがに無理をしたらしい。
フシデが駆け寄ってくる。
「フシ、フシッ」
「大丈夫だ。誰も落ちてない」
そして、シンは顔を上げた。
ケルディオが、すぐそこに立っていた。
梯子の脇から動いていない。ずっとそこで見ていたのだ。
その視線が、シンの腕の中のコアルヒーへ向く。
それから、下へ。
チラーミィが梯子を上ってきていた。小さな体で、爪を引っ掛けながら器用に上る。
歩道に出ると、まず自分の毛並みを一度だけ整えた。それから、シンの腕の中を確認する。
コアルヒーが、そこにいるかどうか。
確認して、ようやく耳の力が抜けた。
そして、チラーミィは顔を上げた。
目の前にケルディオがいる。
小さな体が、じっと見上げる。
ケルディオも見下ろす。
二匹のあいだで、何が交わされたのかは分からなかった。
言葉はない。鳴き声もない。
ただ、チラーミィが一歩前へ出て、ケルディオの前脚のすぐ横まで来た。
そこで止まる。
触れはしない。
けれど、ライモンの路地でシンに対して見せた三歩の距離より、ずっと近かった。
ケルディオは動かなかった。逃げもしない。ただ、首をわずかに下げて、その小さな体を見た。
風が吹く。
橋の金網が鳴り、二匹の毛が同じ方向へ流れた。
シンは、それを黙って見ていた。
「……行くぞ」
しばらくしてから、シンは言った。
日が傾いている。橋を渡り切るには、まだ距離がある。
コアルヒーを抱え直し、歩き出す。
フタチマルが左、フシデが右。ケルディオはその少し後ろ。
そして、チラーミィは。
シンの足元から、少し離れた位置を歩いていた。
ついてきている。
「……来るのか」
シンが横目で見ると、チラーミィは前を向いたまま歩いていた。
答えない。
だが、シンの腕の中を、時々確認するように見上げる。
コアルヒーが心配なのだ。
「そうか」
シンは前を向いた。
それでいい。理由が自分でなくても構わない。
橋を渡り切るころには、日はほとんど落ちていた。
ホドモエシティの明かりが、前方に見えている。港町らしく、水辺に沿って灯りが並んでいた。ライモンのような派手さはない。もっと低く、生活の匂いのする明かりだった。
だが、シンはその街へすぐには入らなかった。
橋のたもと、風の当たらない構造物の陰で足を止める。
「ここで一度、見る」
コアルヒーを下ろし、布の上に寝かせた。
チラーミィがすぐに近寄って、翼の下の支えを直す。
シンはあらためて、その傷を見た。
翼の付け根の線状の跡。抜けた羽毛。
風に煽られてできる傷ではない。
「……縛られたな」
口に出すと、はっきりした。
「しかも、たぶん一度捕まって、そのあと逃げてる」
チラーミィが顔を上げた。
シンを見る。
その目に、さっきまでの点検するような色とは違うものが混じっていた。
知っている、という目だった。
「お前、何か見たのか」
チラーミィは答えない。
だが、視線が一度だけ、橋の向こう——ホドモエの街のほうへ流れた。
シンの背筋が冷えた。
ライモンの西搬送路B。エモンガを網で捕ろうとしていた男たち。黒に近い制服。
カミツレの言葉も思い出す。
——ホドモエは今、少し面倒なことになってる。
「……こっちにもいるのか」
誰にともなく言った。
答えるものはいない。
けれど、足元でフシデが体を低くし、ケルディオの耳が街のほうを向いていた。
「今日はここまでだ」
シンはバッグから残りの水を出し、コアルヒーの前へ置いた。
「街に入るのは明日にする」
理由はいくつかあった。
コアルヒーを連れて夜の街を歩けば、目立つ。もし本当にプラズマ団が関わっているなら、見つかったほうが危ない。それに、この個体を今日中に医者へ連れて行けるかも分からない。
だが、一番の理由は別だった。
チラーミィが、離れない。
コアルヒーのそばから動かず、布の位置を直し続けている。街に入れば人が増える。そうなれば、この個体は距離を取るだろう。
「……もう少しだけ、ここでいい」
シンはそう言って、構造物の陰に腰を下ろした。
フタチマルが隣に座り、フシデはその足元で丸くなる。
ケルディオは、少し離れた場所で立ったまま、街のほうを見ていた。
夜になって、風は少し弱まった。
橋のたもとには、時折り作業員が通る。だが、こんな端まで来る者はいない。
シンは膝を抱えて、コアルヒーとチラーミィを見ていた。
チラーミィは、まだ働いていた。
布を直す。位置を変える。風の来る方向が変われば、自分の体をそちら側へ移す。コアルヒーが少し身じろぎすると、すぐに顔を上げて確かめる。
「よく面倒見るな」
シンが言うと、チラーミィは一瞬だけこちらを見て、すぐ視線を戻した。
「……偉いよ、お前」
その言葉に反応はなかった。
けれど、耳の角度が少しだけ変わった。
夜が深くなってから、シンは一度だけ立ち上がった。
ケルディオがまだ街のほうを見ている。
「何か見えるか」
近づかずに聞く。
ケルディオは振り返らない。耳だけがわずかに動いた。
シンもそちらを見た。
ホドモエの明かり。港の灯り。倉庫らしい大きな建物の影。
何も見えない。少なくとも、ここからは。
けれど、明日あの街に入る。
トウヤがいるかもしれない。ベルがいるかもしれない。プラズマ団もいる。カミツレが「面倒なことになっている」と言った場所だ。
そして、腕の中には翼を折られたコアルヒーがいる。
「……明日だな」
シンは呟いた。
戻って腰を下ろすと、フタチマルがすでに眠りかけていた。フシデも動かない。
チラーミィだけが、まだ起きていた。
コアルヒーの隣に丸くなり、それでも耳だけは立てている。
その姿を見て、シンは少しだけ笑った。
「見張りは交代でいいぞ」
チラーミィが顔を上げる。
「俺も起きてる」
言葉が通じたのかどうかは分からない。
けれど、チラーミィはそのあと、少しだけ耳の力を抜いた。
橋の下で、水の音がしている。
風はまだ吹いているが、昼間ほどではない。
シンは背中を構造物に預け、目を閉じないまま、ホドモエの明かりを見ていた。
明かりの数は多くない。ライモンとは比べものにならない。それでも、あの一つ一つの下に人が住んでいて、生活があって、そしてどこかに、ポケモンの翼を折るような人間もいる。
「……変な話だな」
小さく言った。
同じ街の同じ明かりの中に、両方がある。
ライモンでもそうだった。観覧車が回っている裏手に、水を置くしかない場所があった。表と裏は別々にあるのではなく、地続きで並んでいる。
だとしたら、明日入る街も同じだろう。
シンは膝の上で手を組み直した。
腕はまだ少し震えていた。梯子を片手で上ったせいだ。明日には残らない程度の疲れだが、今は残っている。
「……もう少し、うまくやれたかもな」
誰にともなく呟く。
もっと早く音に気づいていれば。もっと早く下を覗いていれば。
考えても仕方のないことだ。
けれど、次に同じ場面が来たら、今日より早く動ける。
それが自分のやり方だと、シンはもう知っていた。