BW素晴らしきイッシュ   作:もののふ教

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第83話 橋の下の風

翌朝、五番道路のゲートには人が集まっていた。

 

昨日まで閉じていた北側の扉が開いている。その前に旅人と作業員が入り混じって並び、係員が順番に通していた。

 

「跳ね橋、通行再開しました。強風のため、手すりから離れないでください」

 

同じ言葉が何度も繰り返される。

 

シンは列の中でそれを聞きながら、昨日カミツレが言ったことを思い出していた。ジムリーダーの名前は、こういうときのためにある。本当にその通りになった。

 

「フタチ」

 

足元のフタチマルが、前を見上げる。

 

「そうだな。行けるみたいだ」

 

順番が来て、扉を抜けた。

 

その瞬間、風が真横から吹きつけた。

 

ホドモエの跳ね橋は、想像より遥かに長かった。

 

歩道が向こう岸まで一直線に伸びている。両側は高い手すりと金網。その向こうは何もない。ただ空気があるだけだ。

 

下を見ると、水面が遠かった。

 

橋そのものは太い鋼材で組まれていて、頑丈なのは見て分かる。だが、風が絶えず吹いている。真横から、時折り真下から巻き上げるように。歩いているだけで体が押される。

 

「うわ……」

 

シンは思わず声を漏らした。

 

スカイアローブリッジも高かった。だがあれは海の上で、風はもっと素直だった。ここは違う。谷を通り抜ける風が、橋の構造にぶつかって渦を作っている。

 

「フタチ!?」

 

フタチマルが横風にあおられて、二歩ほど流された。

 

「掴まれ」

 

シンがしゃがんで手を出すと、フタチマルはその腕にしがみついた。

 

「戻すか?」

 

「フタチ」

 

首を振る。歩くという意思表示だった。

 

「なら、俺の風下を歩け」

 

フシデは風の影響が少なかった。体が低いぶん、真横の風はほとんど当たらない。それでも足の運びは慎重で、鉄板の継ぎ目のたびに前脚で確かめている。

 

シンは少し考えてから、三つ目のボールを取り出した。

 

橋の上は人が少ない。作業員が数人と、旅人が前後にまばらにいるだけだ。舞台も屋台もない。目立つことを気にする必要は、ここではあまりない。

 

「出るか」

 

白い光が、風の中で弾けた。

 

ケルディオが現れる。

 

四本の脚で橋の鉄板に立ち、まず耳を動かした。風の音。橋の下から巻き上がる気流。金網の鳴る音。全部を確かめてから、こちらを見る。

 

「揺れるけど、落ちはしない」

 

シンは言った。

 

「無理そうなら戻す」

 

ケルディオは動かなかった。そのまま数秒立って、それから一歩前へ出る。

 

歩けるらしい。

 

橋の上を歩きながら、シンはあらためて周囲を見た。

 

向こう岸はまだ遠い。だが、うっすらと街の輪郭が見えている。低い建物が並び、その奥に大きな屋根がいくつか。港のようなものも見えた。

 

ホドモエシティ。

 

その手前で、橋が一度だけ大きくくびれている。跳ね橋の可動部分だろう。船を通すときには、あそこが持ち上がるのだ。

 

「これが上がってたのか」

 

想像すると、確かに人が渡れる状態ではない。

 

風がまた強く吹いた。

 

金網が鳴る。フタチマルがシンの脚にしがみつき、フシデが体を低くする。ケルディオは脚を踏ん張って耐えた。

 

風が抜けたあと、シンはふと足を止めた。

 

音がした気がした。

 

風とは違う。金網の鳴る音でもない。もっと細く、断続的な音。

 

「……いま、何か聞こえたか」

 

フタチマルが顔を上げる。フシデの触角が動いた。

 

そして、ケルディオの耳が、はっきり一方向へ向いた。

 

橋の下だ。

 

歩道の脇、手すりの下のあたりに、細い格子状の隙間がある。そこから覗くと、橋の構造材が組み合わさっているのが見えた。

 

そのさらに下に、通路のようなものがある。

 

点検用だろう。歩道より一段下、鋼材の梁に沿って細い足場が渡されている。普段は作業員しか使わない場所だ。

 

その足場の上に、白い塊が見えた。

 

「……ポケモンか」

 

動いている。だが、まともに動いていない。

 

翼のような部分をばたつかせて、立ち上がろうとして、そのたびに崩れる。

 

「コアルヒーだ」

 

シンはすぐに手すりを掴んだ。

 

歩道から下の通路へ降りる方法を探す。少し先に、点検用の梯子があった。鎖で簡単に塞がれているだけで、鍵はかかっていない。

 

「フタチマル、ここで待て」

 

「フタチ!?」

 

「風が強い。下はもっと強い」

 

「フタチッ」

 

首を振る。行く、と言っている。

 

シンは少し考えて、それから頷いた。

 

「じゃあ、俺の後ろだ。絶対に先に行くな」

 

フシデは自分から一歩下がって、待つ位置についた。梯子は多足の体に向いていない。それを自分で判断したらしい。

 

「ここ見ててくれ」

 

「フシ」

 

ケルディオは、梯子の前で足を止めていた。

 

四つ足では降りられない。降りようとして、下を見て、それから顔を上げる。

 

「無理だ。ここで待て」

 

シンが言うと、ケルディオの耳が動いた。

 

不服そうな動きだった。少なくとも、シンにはそう見えた。

 

「すぐ戻る」

 

鎖をまたぎ、梯子に足をかける。

 

下から吹き上げる風が、いきなり顔を叩いた。

 

点検通路は、想像していたより狭かった。

 

幅は人ひとり分。片側は橋の構造材、もう片側は手すりだけで、その向こうは何もない。足元は格子状の鉄板で、隙間から下の水面が見える。

 

「……最悪だな」

 

シンは手すりを掴んだまま、慎重に進んだ。

 

フタチマルは足元を歩いている。格子の隙間が気になるのか、時々足を止めて確かめていた。

 

十数歩進んだところに、その白い塊はいた。

 

コアルヒーだった。

 

まだ若い個体だ。体は小さく、羽毛も柔らかい。それが今、通路の隅で横向きに倒れていた。

 

「コア……」

 

弱い声だった。

 

シンはその場でしゃがんだ。すぐには近づかない。

 

「大丈夫か」

 

コアルヒーが顔を上げる。

 

見た瞬間、シンの息が止まった。

 

右の翼が、明らかにおかしな角度で曲がっていた。

 

自然に折れたのではない、とシンは直感した。

 

風に煽られて落ちたなら、体のどこかに擦り傷がつく。橋の構造材にぶつかったなら、打撲の跡が残る。

 

だが、この個体の傷は違った。

 

翼の付け根に、細い線状の跡がある。何かで縛られたか、引っ張られたかしたような痕だ。羽毛がその部分だけ不自然に抜けている。

 

そして、翼そのものが折れている。

 

「……お前」

 

シンは言葉を飲み込んだ。

 

誰かにやられている。

 

風が下から吹き上げて、コアルヒーの羽毛を揺らした。若い体には、この風は堪えるはずだ。しかも飛べない状態で、こんな場所にいる。

 

「動くな。触らないから」

 

シンはバッグを下ろした。

 

水。布。傷薬。ライモンで何日も使ったものが、そのまま入っている。

 

「フタチマル、風上に立ってくれ」

 

「フタチ」

 

フタチマルがコアルヒーと風のあいだへ移動する。体が小さいので完全には防げないが、それでも直接当たるよりはましだった。

 

シンは水筒のふたに水を注ぎ、コアルヒーから少し離れた場所に置いた。

 

「飲めるなら飲め」

 

コアルヒーは動かなかった。

 

怯えている。だが、逃げようとする力も残っていないらしい。

 

シンは近づかず、そのまま待った。

 

ライモンでの数日が、そのまま体に残っている。

 

近づかない。押しつけない。相手が決めるまで待つ。

 

やがてコアルヒーは、首を伸ばして水に嘴を寄せた。

 

「コ、ア……」

 

飲む。喉が鳴る音がした。

 

その音を聞いて、シンはようやく少し息を吐いた。

 

そのときだった。

 

背後で、小さな音がした。

 

爪が鉄板を掻く音。

 

シンは反射的に振り返った。

 

点検通路の奥、橋の構造材の影から、灰色がかった白い体が出てきていた。

 

小さい。細い。ふさふさした尾。

 

「……チラーミィ」

 

見覚えがあった。

 

いや、見覚えどころではない。

 

ライモンで何度も見た個体だ。路地の空き箱の上で耳を整えていた個体。埃を払っていた個体。三歩だけ近づいて止まった個体。

 

そして——資材置き場で、金属フレームの下敷きになりかけた個体。

 

「お前、なんでここに」

 

チラーミィはシンを見た。

 

警戒はしている。耳が後ろへ倒れ、体が半分横を向いている。だが、逃げなかった。

 

そして、シンの手元ではなく、コアルヒーのほうを見た。

 

「チラ」

 

短く鳴く。

 

コアルヒーが顔を上げた。

 

「コア……」

 

チラーミィはシンの横を大きく回り込んで、コアルヒーのそばへ寄った。

 

そこで初めて、シンは気づいた。

 

コアルヒーのそばに、細かい布切れが積まれている。それから、乾いた葉のようなものも。風で飛ばないように、鉄板の隙間へ端が押し込まれていた。

 

誰かが世話をしている。

 

「……お前がやったのか」

 

チラーミィは答えない。

 

代わりに、コアルヒーの体の下に敷かれていた布を、前脚で押して位置を直した。慣れた動きだった。

 

それから、シンが置いた水のふたを見る。

 

見て、少し考えるように首を傾けてから、コアルヒーの嘴のすぐ前まで押した。

 

飲みやすい位置に。

 

「……」

 

シンは何も言えなかった。

 

しばらく、シンは動かずにいた。

 

チラーミィはコアルヒーの世話を続けている。折れた翼には触らない。触ればもっと痛むと分かっているらしい。代わりに、風の当たる側へ自分の体を寄せ、布の位置を何度も直していた。

 

やることが、いちいち的確だった。

 

「お前……」

 

シンは小声で言った。

 

「ずっとやってたのか」

 

チラーミィが顔を上げる。

 

初めて、シンとまともに目が合った。

 

その目は、値踏みしているのではなかった。

 

点検している目だ。ライモンの路地で見たのと同じ。シンの服の汚れも、荷物の中身も、置いた水の量も、全部確かめている。

 

そして——シンの後ろを見た。

 

正確には、シンの背後、梯子のあるほうを。

 

「?」

 

シンも振り返る。

 

歩道の格子の隙間から、白い体が覗いていた。

 

ケルディオだった。

 

降りられないまま、上から見ている。梯子の縁ぎりぎりまで来て、首を下へ伸ばしていた。

 

チラーミィの動きが、そこで完全に止まった。

 

耳がぴんと立つ。尾の毛が膨らむ。

 

だが、それは警戒の膨らみ方ではなかった。

 

「チラ……?」

 

小さな声だった。

 

シンにはその意味が分からなかった。

 

分からなかったが、次の瞬間、チラーミィが動いた。

 

コアルヒーのそばを離れ、通路を数歩戻る。梯子の下まで来て、上を見上げる。

 

そして、もう一度鳴いた。

 

「チラッ」

 

さっきより高い声だった。

 

上のケルディオが、首をさらに伸ばした。

 

シンは、その二つを見比べていた。

 

そして、思い出した。

 

ライモンの資材置き場。

 

きらめく金属片に釣られて奥へ入り込んだチラーミィ。倒れかけた細長いフレーム。逃げ場を失って縮こまった小さな体。

 

その前に、ケルディオが割って入った。

 

肩でフレームを受けて、隙間を作った。

 

「……お前か」

 

シンの声が、自分でも驚くほど小さかった。

 

「あのときの」

 

チラーミィは答えない。

 

だが、上を見上げるその姿勢は、間違えようがなかった。

 

覚えている。

 

助けられたことを、この個体は覚えている。

 

風が下から吹き上げて、通路全体が細かく震えた。

 

シンは手すりを掴み、フタチマルを引き寄せた。

 

「フタチ……」

 

「大丈夫だ」

 

風が抜けたあと、シンはあらためてコアルヒーを見た。

 

このままにはしておけない。

 

翼が折れている。飛べない。しかも、こんな場所で夜を越せば、風と冷えで持たない可能性がある。

 

だが、動かすのも簡単ではない。折れた翼をどう固定するか。梯子をどう上げるか。

 

「フタチマル、そこの布取ってくれ」

 

「フタチ」

 

シンはバッグから包帯を出し、それを見た。

 

翼の固定は、素人がやると悪化させることがある。ライモンの看護師にそう言われたことを思い出した。

 

だが、何もしないでいれば、動くたびに骨がずれる。

 

「……せめて、動かないようにするか」

 

シンがコアルヒーへ手を伸ばそうとした、そのときだった。

 

チラーミィが戻ってきて、その手の前に立った。

 

「チラ」

 

低い声だった。

 

止めている。

 

「触るなってことか」

 

チラーミィは動かない。じっとシンの手を見ている。

 

シンは手を引いた。

 

「分かった」

 

そして、包帯をその場に置く。

 

「じゃあ、お前がやれ」

 

チラーミィの耳が、ぴくりと動いた。

 

「俺の手は大きすぎる。お前ならできるだろ」

 

言ってから、シンは一歩下がった。

 

チラーミィはしばらく包帯を見ていた。それから、前脚でその端を引き寄せる。

 

長さを測るように広げ、コアルヒーの翼の角度を見て、それからもう一度包帯を見る。

 

考えている。

 

やがて、チラーミィは包帯を使わなかった。

 

代わりに、さっきまで敷いていた布切れの中から、幅の狭いものを選び出した。それを翼の下に差し込み、翼が垂れ下がらないように支える形にする。

 

固定ではない。だが、動くたびに負担がかかることは減る。

 

「……上手いな」

 

シンが呟くと、チラーミィは一瞬だけこちらを見て、すぐ作業に戻った。

 

日が傾き始めたころ、シンは決断した。

 

「ここじゃ夜は越せない」

 

風が強すぎる。しかも、日が落ちれば気温が下がる。

 

「橋の向こうまで運ぶ」

 

だが、コアルヒーは自分では歩けない。抱えるしかない。

 

「フタチマル、先に上がれ」

 

「フタチ」

 

「フシデ、上で待ってるはずだ。位置を確認しといてくれ」

 

フタチマルが梯子を上っていく。

 

シンはコアルヒーの前にしゃがんだ。

 

「運ぶ。触るぞ」

 

コアルヒーが怯えた目でこちらを見る。

 

チラーミィが、その前に立った。

 

「チラ」

 

「分かってる。乱暴にはしない」

 

シンは自分のシャツを脱ぎ、それを広げた。抱え上げるより、布ごと支えたほうが翼への負担が少ない。

 

「……いいか」

 

チラーミィはしばらくシンの顔を見ていた。

 

そして、上を見た。

 

梯子の上。今もこちらを覗いている白い影。

 

それを確かめてから、チラーミィは横へ退いた。

 

通した、ということだった。

 

コアルヒーを布ごと支え、片手で梯子を掴む。

 

これが一番きつかった。

 

風は絶えず吹いている。片手しか使えない。抱えているものは動かせない。

 

「……くそ」

 

一段ずつ、慎重に上る。

 

途中で風にあおられて体が傾いたとき、上から何かが伸びてきた。

 

フタチマルの腕だった。梯子の縁に足を固定して、身を乗り出している。

 

「フタチッ!」

 

「危ないだろ」

 

「フタチ!」

 

聞かない。

 

シンはその腕を掴んで、なんとか体勢を戻した。

 

最後の一段を上りきったとき、シンは歩道に膝をついた。

 

コアルヒーは無事だ。翼の位置もずれていない。

 

「……助かった」

 

フタチマルが得意そうに胸を張り、それからすぐにふらついた。さすがに無理をしたらしい。

 

フシデが駆け寄ってくる。

 

「フシ、フシッ」

 

「大丈夫だ。誰も落ちてない」

 

そして、シンは顔を上げた。

 

ケルディオが、すぐそこに立っていた。

 

梯子の脇から動いていない。ずっとそこで見ていたのだ。

 

その視線が、シンの腕の中のコアルヒーへ向く。

 

それから、下へ。

 

チラーミィが梯子を上ってきていた。小さな体で、爪を引っ掛けながら器用に上る。

 

歩道に出ると、まず自分の毛並みを一度だけ整えた。それから、シンの腕の中を確認する。

 

コアルヒーが、そこにいるかどうか。

 

確認して、ようやく耳の力が抜けた。

 

そして、チラーミィは顔を上げた。

 

目の前にケルディオがいる。

 

小さな体が、じっと見上げる。

 

ケルディオも見下ろす。

 

二匹のあいだで、何が交わされたのかは分からなかった。

 

言葉はない。鳴き声もない。

 

ただ、チラーミィが一歩前へ出て、ケルディオの前脚のすぐ横まで来た。

 

そこで止まる。

 

触れはしない。

 

けれど、ライモンの路地でシンに対して見せた三歩の距離より、ずっと近かった。

 

ケルディオは動かなかった。逃げもしない。ただ、首をわずかに下げて、その小さな体を見た。

 

風が吹く。

 

橋の金網が鳴り、二匹の毛が同じ方向へ流れた。

 

シンは、それを黙って見ていた。

 

「……行くぞ」

 

しばらくしてから、シンは言った。

 

日が傾いている。橋を渡り切るには、まだ距離がある。

 

コアルヒーを抱え直し、歩き出す。

 

フタチマルが左、フシデが右。ケルディオはその少し後ろ。

 

そして、チラーミィは。

 

シンの足元から、少し離れた位置を歩いていた。

 

ついてきている。

 

「……来るのか」

 

シンが横目で見ると、チラーミィは前を向いたまま歩いていた。

 

答えない。

 

だが、シンの腕の中を、時々確認するように見上げる。

 

コアルヒーが心配なのだ。

 

「そうか」

 

シンは前を向いた。

 

それでいい。理由が自分でなくても構わない。

 

橋を渡り切るころには、日はほとんど落ちていた。

 

ホドモエシティの明かりが、前方に見えている。港町らしく、水辺に沿って灯りが並んでいた。ライモンのような派手さはない。もっと低く、生活の匂いのする明かりだった。

 

だが、シンはその街へすぐには入らなかった。

 

橋のたもと、風の当たらない構造物の陰で足を止める。

 

「ここで一度、見る」

 

コアルヒーを下ろし、布の上に寝かせた。

 

チラーミィがすぐに近寄って、翼の下の支えを直す。

 

シンはあらためて、その傷を見た。

 

翼の付け根の線状の跡。抜けた羽毛。

 

風に煽られてできる傷ではない。

 

「……縛られたな」

 

口に出すと、はっきりした。

 

「しかも、たぶん一度捕まって、そのあと逃げてる」

 

チラーミィが顔を上げた。

 

シンを見る。

 

その目に、さっきまでの点検するような色とは違うものが混じっていた。

 

知っている、という目だった。

 

「お前、何か見たのか」

 

チラーミィは答えない。

 

だが、視線が一度だけ、橋の向こう——ホドモエの街のほうへ流れた。

 

シンの背筋が冷えた。

 

ライモンの西搬送路B。エモンガを網で捕ろうとしていた男たち。黒に近い制服。

 

カミツレの言葉も思い出す。

 

——ホドモエは今、少し面倒なことになってる。

 

「……こっちにもいるのか」

 

誰にともなく言った。

 

答えるものはいない。

 

けれど、足元でフシデが体を低くし、ケルディオの耳が街のほうを向いていた。

 

「今日はここまでだ」

 

シンはバッグから残りの水を出し、コアルヒーの前へ置いた。

 

「街に入るのは明日にする」

 

理由はいくつかあった。

 

コアルヒーを連れて夜の街を歩けば、目立つ。もし本当にプラズマ団が関わっているなら、見つかったほうが危ない。それに、この個体を今日中に医者へ連れて行けるかも分からない。

 

だが、一番の理由は別だった。

 

チラーミィが、離れない。

 

コアルヒーのそばから動かず、布の位置を直し続けている。街に入れば人が増える。そうなれば、この個体は距離を取るだろう。

 

「……もう少しだけ、ここでいい」

 

シンはそう言って、構造物の陰に腰を下ろした。

 

フタチマルが隣に座り、フシデはその足元で丸くなる。

 

ケルディオは、少し離れた場所で立ったまま、街のほうを見ていた。

 

夜になって、風は少し弱まった。

 

橋のたもとには、時折り作業員が通る。だが、こんな端まで来る者はいない。

 

シンは膝を抱えて、コアルヒーとチラーミィを見ていた。

 

チラーミィは、まだ働いていた。

 

布を直す。位置を変える。風の来る方向が変われば、自分の体をそちら側へ移す。コアルヒーが少し身じろぎすると、すぐに顔を上げて確かめる。

 

「よく面倒見るな」

 

シンが言うと、チラーミィは一瞬だけこちらを見て、すぐ視線を戻した。

 

「……偉いよ、お前」

 

その言葉に反応はなかった。

 

けれど、耳の角度が少しだけ変わった。

 

夜が深くなってから、シンは一度だけ立ち上がった。

 

ケルディオがまだ街のほうを見ている。

 

「何か見えるか」

 

近づかずに聞く。

 

ケルディオは振り返らない。耳だけがわずかに動いた。

 

シンもそちらを見た。

 

ホドモエの明かり。港の灯り。倉庫らしい大きな建物の影。

 

何も見えない。少なくとも、ここからは。

 

けれど、明日あの街に入る。

 

トウヤがいるかもしれない。ベルがいるかもしれない。プラズマ団もいる。カミツレが「面倒なことになっている」と言った場所だ。

 

そして、腕の中には翼を折られたコアルヒーがいる。

 

「……明日だな」

 

シンは呟いた。

 

戻って腰を下ろすと、フタチマルがすでに眠りかけていた。フシデも動かない。

 

チラーミィだけが、まだ起きていた。

 

コアルヒーの隣に丸くなり、それでも耳だけは立てている。

 

その姿を見て、シンは少しだけ笑った。

 

「見張りは交代でいいぞ」

 

チラーミィが顔を上げる。

 

「俺も起きてる」

 

言葉が通じたのかどうかは分からない。

 

けれど、チラーミィはそのあと、少しだけ耳の力を抜いた。

 

橋の下で、水の音がしている。

 

風はまだ吹いているが、昼間ほどではない。

 

シンは背中を構造物に預け、目を閉じないまま、ホドモエの明かりを見ていた。

 

明かりの数は多くない。ライモンとは比べものにならない。それでも、あの一つ一つの下に人が住んでいて、生活があって、そしてどこかに、ポケモンの翼を折るような人間もいる。

 

「……変な話だな」

 

小さく言った。

 

同じ街の同じ明かりの中に、両方がある。

 

ライモンでもそうだった。観覧車が回っている裏手に、水を置くしかない場所があった。表と裏は別々にあるのではなく、地続きで並んでいる。

 

だとしたら、明日入る街も同じだろう。

 

シンは膝の上で手を組み直した。

 

腕はまだ少し震えていた。梯子を片手で上ったせいだ。明日には残らない程度の疲れだが、今は残っている。

 

「……もう少し、うまくやれたかもな」

 

誰にともなく呟く。

 

もっと早く音に気づいていれば。もっと早く下を覗いていれば。

 

考えても仕方のないことだ。

 

けれど、次に同じ場面が来たら、今日より早く動ける。

 

それが自分のやり方だと、シンはもう知っていた。

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