ただ少し、同年代と比べて料理が得意……かもしれないと自負している。
そんな彼の最近の悩みは自分の作った料理を食べた人間が軒並み謎の激重感情を向けてくることだ。
——人生における転機は得てして唐突に、そしてさり気なく訪れるものである。
真城慶治郎にとってのそれもそうだった。
物心ついたときには母親のいなかった慶治郎が大変そうにしている父を手伝おうとして始めた料理。
それは義母ができてもなお変わらず続いていて、もはや趣味となっている。
少しでも父を楽にさせたい、父に笑っていてほしいという幼く淡い想いが慶治郎にとっての第一の転機だった。
そして、今。
第二の転機が訪れていた。
「真城の弁当、いつも思ってたけど美味そうだよなぁ」
「そうか?」
友人である永井一秀の一言。
クラスで4か5番目にイケメンと噂されるノリの良い茶髪の好青年は慶治郎と何となく仲がいい。
互いに先約がなければ——最も、慶治郎は然程親しい友人がいないためほぼないに等しいが——こうして昼飯を一緒に食べるくらいには。
「なんか冷食とか入ってなさげな感じするし」
地下購買で買ってきた焼きそばパン(257円)をもそもそと食べながら、永井は慶治郎の弁当を見ている。
だし巻き卵に目が止まっているところを見るに、好物なのだろうか。
「入れてないからなぁ」
「え、それ真城が作ってるのか?」
「ああ。……といっても、手間暇をかけているわけではないよ」
弁当が慶治郎手作りということに永井は目を見開き、大げさなほどに驚いている。
世の男子高校生の大半が購買かもしくは親の作る弁当である中、珍しくも弁当を自作しているのである。
慶治郎の義母も弁当を作ろうと申し出ようとしたことはあったのだが、すぐに台所の全権を明け渡していた。
慶治郎の作った料理を食べ、諦めたように儚い笑顔を浮かべていたのは何故なのだろうか。
そして一筋の涙を流していたのは何だったのか。
未だに慶治郎にはよく分かっていないが、何か深刻な感じではなかったので流している。
それはそれとして。
未だ衝撃から立ち返っていない永井に対し、慶治郎はだし巻き卵を指した。
「気になるなら食べてみるか?」
「……いいのか?」
「うん。不味くはないだろうが、あまり過度な期待も止してくれよ」
普段から料理をしている身である。
両親も義理の姉妹たちも大絶賛してくれてはいるが、それは家族の贔屓目というものであろう。
その辺を差し引きしてもそれなりに食べられるものを作れている自負はあった。
だし巻き卵に目を奪われていた永井はやがて破顔した。
「じゃあ、ありがたくもらうわ」
「ああ」
「けど箸が……あ、待てよ」
永井は鞄をごそごそと探り、奥の方から割り箸とクシャッとなったお手拭きを取り出した。
有名なコンビニチェーン店のものだ。
何かの折についてきたものを鞄に入れて忘れていた気がしたのである。
こうやって役に立つこともあるんだなぁと永井は割り箸をぱきと割り——箸は上の方が歪に割れた——慶治郎の弁当から一つ、だし巻き卵を拝借した。
「おお……」
それは、黄金であった。
この教室にある他の卵焼きとは一線を画す、陽光に輝ける焦げ目一つない黄金の塊。
その黄金は決して薄いメッキではなく、ずしりと重量を感じさせる中身の入った黄金。
見た目と味が違うということは往々にしてよくあることであるが、このだし巻き卵に至ってはそのようなことはないと永井一秀は直感した。
ごくり、と。
ただ飯を食べるだけなのに緊張のあまり生唾を飲みこむ。
「……これ、は……っ!!」
舌から鼻腔へと抜けていく豊かな出汁の香り。
恐らくはかつお節出汁だろうか。
柔らかな魚介の香りと旨みが溢れる。
次に訪れるのは卵の甘み。
しかしそれは出汁を追いやるものではなく、互いに調和し、深みを生み出す協力関係である。
美味い。
味蕾から直接脳髄に届けられるような暴力的美味さではない。
しかし、どこまでも優しく柔らかくしっとりとした旨みが、噛む度にじゅわりと溢れ出る。
率直に言って、ものすごく美味い。
永井は静かに黄金を飲み込み、天を仰いだ。
ものすごく美味いからこそ惜しい——と感じてしまう。
そう、このだし巻き卵には一つ足りないものがあった。
大根おろしだ。
優しく柔らかいこの味わいだけでも確かに美味いのだが、大根おろしの辛みが合わされば更に纏まり、調和し、この黄金は完成へと至るだろうと確信していた。
「っふー……真城、今から無理を言うんだが」
「……なんだ?」
「大根おろしをくれ」
……いや、大根おろしを弁当に入れるのは早々ないだろう。
分かってはいる。
分かってはいる……のだが。
永井は悟りを開いたような、しかし僅かな可能性に縋らずはいられない顔で慶治郎に強請っていた。
「いいよ」
「だよな……いいのォ!?」
驚愕。
真城慶治郎は弁当にも大根おろしを入れる系男子だった。
望外の歓びに固まる永井に対して、弁当の中を指し示す。
片隅に窮屈そうな様子で収まるギザギザとしたプラスチックがあった。
そしてその中に——流石にある程度水気を切ったものではあるが、確かに白い名脇役の姿があった。
「だし巻き卵って大根おろしとセットみたいなところあるよな」
「それはそうなんだけど普通弁当に大根おろし入れなくない?」
「そうかなぁ」
真城慶治郎。
やはりこの男、理解っている。
それはそれとして普段の弁当にそこまで力入れてるのはどうなんだい? と永井は思った。
「……まあ、じゃあ。ありがたく」
半分ほど残るだし巻き卵の上に大根おろしを載せる。
……美しい。
黄金の上に降り積もる雪のようだ。
侘び寂びとはこういった光景のことを指すのだろう。
この国に産まれてよかったと、永井一秀は心底思う。
しかしこれは鑑賞すべき芸術ではない。
鑑賞にも堪えうる美しさはあるが、賞味してこそのものである。
——いざ。
「ぬぅっ!!?」
衝撃。
やはりというべきか、その黄金は新雪が如き大根おろしが合わさることで完成へと至った。
出汁の香り、卵の甘み、それらを纏めるような大根おろしの辛み——。
美味い。美味すぎる。
知らず知らずのうちに永井は涙を流していた。
しっかりとこの黄金の味を噛み締め、ごくりと嚥下し——
瞬間。
永井一秀の脳裏に溢れ出す、
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そこは居酒屋であり、永井一秀の行き付けだ。
高校卒業後に真城慶治郎が建てた城。
昼間は小料理屋としても営業しており、中々予約が取れないほどの名店としてこの辺りでは有名になっている。
すでに暖簾は外され、完全に営業は終わっている様子。
その玄関先で灯りを落とそうとしていた男——慶治郎が人の気配に気付いて振り返り、それが開店当初からの常連だと認識すると口の端を持ち上げた。
「……いらっしゃい」
「悪いな、時間外なのに」
「いいさ。こんな時間まで働き詰めなんて、名監督さんも大変だな?」
「止せよ。実際頑張ったのは選手のあいつらだ」
「……と、言いつつ?」
「……俺の采配もあったと思う。ちょっとだけ」
だと思った、と笑いながら若旦那は店内に入れてやる。
まずはビールとお通しの茄子の煮浸し。
それから。
「いつもの?」
「いつもので」
永井一秀は普通の人間だった。
高校在学中はプロになることを目指して部活に励んでいたが、一握りの天才のようにはなれない。
大学に入っても諦めきれずにだらだらと惰性のように続けていたが、卒業が近付けばいよいよ目も逸らせなくなる。
結局、打ち込み続けたそれから完全に離れることも出来ずに、地元の少年チームの監督として働くことにした。
夢は諦めたが、この地元においてそこそこに仲の良い友人程度だった慶治郎が店を開いてくれたのは望外の歓びだった。
心奪われて久しいあの黄金を。
これからは心置きなく味わうことができるのだ。
毎日破れた夢の残滓を見せ付けられながら、自分の理想としていたものが才能の一言で片付けられてしまうことに泣いて、いつしか希望を見ることもなくなって。
それでも惰性のように人生を続けている。
その人生の合間を埋めるように店に通い詰め、いつの間にか気のおけない友人となっていた彼とくだらない話題で盛り上がり、そうして——。
「あいよ、だし巻き一つ」
「——ああ」
これだ。
この黄金なのだ。
いつかの日と同じように割り箸をぱきり、と——まるで焼き直しのように上半分が歪に割れた——割ると、黄金の塊を二つに分ける。
断面からだし汁がとろとろと溢れる姿さえ美しい。
側に添えられた瑞々しい大根おろしをそっと載せればなんとも手軽に、至高の芸術の完成である。
辛口の日本酒で口内をリセット。
そしてだし巻き卵を、ぱくりと。
「……ああ」
美味い。
高校の時のそれと変わらない、どころか更に美味くなっている。素材の違いか? 腕が上がったせいか?
分からないが、ただ一つはっきりとしているのは。
やはり——真城慶治郎、この男理解っている。
このだし巻き卵は美味い。美味すぎる。
そこを辛口のきりりとした日本酒で口内に残り続ける幸福を押し流してやる。それにより緩急が生まれ永久機関が完成する。
胃袋の限界まで、否。
その限界すら超えて食べて飲み続けられる。
「ああ、本当に……最高だなぁ」
「大袈裟なやつだ」
「友人の心からの感想だぞ? 泣いて喜べよ」
「はいはい嬉しいね。おかわりいるか?」
夢は破れた。
理想は砕けた。
希望も堕ちた。
それでも、まだ。
生きていたいと思い続けられるのは、惰性のような人生に終止符を打とうと思わないのは。
真城慶治郎という天才が作る料理が、この黄金が、そこにあるからなのだ。
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「……おーい? 永井?」
「はっ」
永遠にも思える時間の果て、永井一秀は現在へと帰ってきた。
慶治郎はなんだこいつ……と言いたげな顔で永井を見ていた。それもむべなるかな、だし巻き卵を食べたかと思ったら涙を流しながら固まったのである。
だし巻き卵が破茶滅茶に好きだったんだとしても変な人だ。
目の前の友人にそんな顔を向けられていた永井は涙を払うと過去最高に真剣な顔で口を開いた。
「真城——お前は居酒屋をやれ」
「カスのドラ◯ン桜?」
「マジの話だから茶化すな」
「えぇ……? 店とかやるほどやる気ないしなぁ」
「は? ないの? やる気が? これで?」
……真城慶治郎は料理が好きだ。
より正確に言うならば、自分の作った料理で誰かが喜ぶ姿を見るのが好きだ。
だから別に料理することそのものが好きというわけではないので店とかやるほどのやる気はない。
故に。
彼は自分の作った料理がどれほどのものなのかということに、それほど興味がない。
長く父子家庭だったことが災いして外食の機会もほぼなく、世の中の料理を知らない。
義母たちは慶治郎の作った料理以外味気なく感じてしまい、外食はしなくなった。
——結果、真城慶治郎という少年は自らの味覚と家族の喜び涙する姿だけを頼りにして、極致へ至ったのである。
げに恐ろしきは彼の非現実的なまでの才能か、あるいは彼のもつ、ただ誰かの——基本的には家族の——喜ぶ姿を見たいと願う想いの強さか。
ただ、美味すぎる料理を作る。
それだけで彼の周囲は狂わされていく。
本人の自覚がないままに。
こいつはリハビリです
少しでも誰かが腹減ったわちくしょうめってなってくれたら俺の勝ちなのです