銀髪のアルテミス 作:イセカイタヌキ
灼光の刃が、俺の首筋に触れた。
冷たい。それだけが、はっきり分かった。
数時間前、この国で最も名誉ある男だった俺は、今、自分の名前を「存在しなかったもの」として読み上げられている。
◆◆◆
朝、聖堂の空気は、香と、大勢の熱気で重かった。
「アルト・グレイヴェル。二十一歳。史上最年少にして──灼光位」
枢機卿マグナスの声が響く。緋色の勲章が、俺の胸に留められた。金属の重みが、鎖骨のあたりで小さく震える。
拍手が鳴った。俺は前だけを見ていた。振り返らなくても分かる。師が誇らしげに頷き、婚約者セリカが目を潤ませ、隣に立つカインが誰よりも大きな音で手を叩いている。
当然だ、と思っていた。この場所は、俺のために用意されたものだ。
「何か、言葉はあるか」
俺は立ち上がった。
「一つ、聞いてもいいですか」
ざわめきが起きる。マグナスの眉が、わずかに動いた。
「なぜ、男は灼光しか使えないんです。女は月影しか使えない。教科書には『神の秩序』とありますが、理由のない命令が、俺は昔から嫌いでね」
沈黙。マグナスは笑わなかった。
「若さだな。その問いは、いずれ答えが出る」
その答えが、こんなに早く来るとは、俺はまだ知らなかった。
◆◆◆
叙勲の褒美は、一日限りの禁書庫の閲覧権だった。
俺が向かったのは書庫じゃない。禁足地の遺跡だ。
聖堂を出て馬車を降り、灼光領の外れまで来ると、街の景色が変わった。石畳の道が舗装の粗い土道になり、道の脇に、古い井戸端があった。
女が二人、洗濯物を絞りながら話し込んでいる。
「うちの娘、月影の適性検査で満点だったのよ」
「あら、羨ましい。うちは息子ばかりで」
「灼光だって立派じゃない」
「そうだけど……いいわねえ、女の子は。月影は治せる魔法だもの。灼光は壊すだけ」
俺は、その会話をすれ違いざまに聞いた。何気ない世間話だ。だが、その中に、俺が今朝まで一度も疑わなかった前提が、当たり前の顔で転がっていた。
灼光は壊す魔法。月影は治す魔法。だから月影の方がいい。だから娘は羨ましい。
そんな風に、この世界のあらゆる場所で、性別と魔法の話が、天気の話のように交わされている。
俺はそれを、気にも留めていなかった。今朝までは。
「アルト、置いていくぞ」
カインの声に、俺は歩き出した。
◆◆◆
禁足地の入口で、カインが立ち止まった。
「本気か。叙勲されたその日に禁を犯すのか」
「規則は凡人のためにある」
「その言い方、いつか痛い目を見るぞ」
「そのときはお前が助けろ。親友だろ」
石段を下りると、空気が変わった。壁一面の古代文字。母音が多く、曲線的な筆致だった。学院で習ったどの文字とも違う。冷たく甘い、腐臭に似た匂いが鼻をつく。
最深部の広間で、俺の足が止まった。
高さ二丈の彫像。右半身は男、左半身は女。差し出された両手の上で、金と銀の光球が、ゆっくりと溶け合っている。
「両性具有の天使……教団が最も忌む姿だ。戻ろう、アルト」
「ここに答えがある」
俺は光球に手を伸ばした。
「触るな!」
間に合わなかった。
◆◆◆
熱が、指先から全身に広がった。
骨が軋む。肩幅が狭まっていく。喉から漏れたのは、悲鳴になり損ねた息だった。
手を見た。細く、白い手だった。俺の手じゃない。
「カ、イン……鏡を……」
声が高い。決定的に、違う。
差し出された鏡面に、女がいた。銀の長髪。細い顎。琥珀色の瞳だけが、変わらず俺のものだった。
掌を天に向けた。灼光を呼ぶ。何も出ない。代わりに、指先で青白い光が、勝手にちらついた。
遺跡が咆哮した。彫像の瞼が開く。右目は金、左目は銀。
「逃げるぞ!」
カインが手首を掴んだ。大きな手が、細くなった手首を、簡単に包み込む。
握られる側になったのは、初めてだった。
◆◆◆
崩れる遺跡から転がり出ると、夕暮れが近づいていた。
聖堂へ戻る道すがら、俺は息を切らせながら、周囲の景色を見た。
灼光領の街並みは、白い石造りの建物が並んでいる。窓から漏れる灯りの数だけ、人の暮らしがある。ふと、路地の奥で、幼い男の子が父親に手を引かれて歩いているのが見えた。
「大きくなったら、灼光位になるんだ」
男の子が、誇らしげに言った。
「そうか、頑張れ」
父親が、頭を撫でる。
俺は、それを見て、足を止めそうになった。
半日前の俺だ。あの子が言っていることは、今朝までの俺の全てだった。だが今の俺は、灼光を失った。あの子が目指す場所に、俺はもう立てない。
「アルト、急げ!」
カインの声で、俺は我に返った。
◆◆◆
聖堂に駆け戻ると、黒衣の一隊が待っていた。
先頭に立つ女──灰色の目に、温度がない。羊皮紙を読み上げる声も、同じだった。
「灼光位アルト・グレイヴェル。本日午後、禁忌に触れ性を転じ、灼光を喪失。同時刻、その身に古代紋章の発現を確認」
なぜ、それを知っている。誰にも言っていない。
隣を見た。カインは目を合わせなかった。
「灼光位を剥奪。婚約を解消。財産を教団へ返納。アルト・グレイヴェルなる術師は、本日をもって存在しなかったものとする」
「──待て。事故だ」
「男は灼光。女は月影。それが神の秩序」
朝、マグナスに問うた言葉が、そのまま返ってきた。
師は目を逸らした。仲間は後退った。セリカの目に浮かんでいたのは、汚物を見る目だった。
俺は、聖堂の隅々を見渡した。誰も、俺と目を合わせない。半日前、俺のために拍手をしていた同じ顔が、今は俺の存在そのものを消そうとしている。
「拘束しろ」
灼光の刃が、俺の首筋に迫った。
◆◆◆
灼光の刃が、俺の首筋に触れた。
冷たい。
数時間前、俺はこの声を発した女の名前すら知らなかった。今、その女は俺の名前を、亡霊の名前のように読み上げている。
刃が、皮膚に食い込む寸前だった。
──ふざけるな。
その一言が、頭の中で弾けた瞬間、右腕が灼けた。
銀色の紋章が、脈打っていた。身体の奥から二つの光が噴き上がる。金の灼光。銀の月影。失ったはずの炎と、押しつけられた影が、螺旋を描いて絡み合い、俺を中心に炸裂した。
審問官たちが吹き飛ぶ。聖堂が静まり返った。
俺は自分の手を見下ろした。金と銀が、指の間で踊っている。
先頭の女だけが、灼光の盾で光を受け止め、後退していた。灰色の目が、初めて揺れる。
「両性魔法……本物か」
俺は立ち上がった。膝が笑っている。だが、立った。
「アルト・グレイヴェルは存在しない、だったな」
女の声で、俺は笑った。
「なら好都合だ。存在しない奴が何をしても、教団は文句を言えない」
女が杖を構える。
「面白い。だが、その前に──お前は捕まる」
俺は、女の目を見た。
「一つだけ、教えろ。俺を『生きたまま捕らえろ』と命じたのは、お前じゃないな。もっと上のはずだ」
女の目が、微かに揺れた。答える気配はなかった。だが、揺れたこと自体が、答えだった。
「答える義理はない」
「そう来ると思ったよ」
俺は右手を掲げた。両性魔法が、指先で唸る。
女の杖から、闇が滲み出した。
◆◆◆
最初の一撃で、分かった。
規格が違う。俺はまだ、この力の使い方を知らない。彼女の月影は、俺の刃を真正面から受け止めて、押し返してくる。
「くっ……!」
後退る。膝が笑う。使うほど、身体が重くなる感覚があった。何かが、少しずつ、削られていくような。
二度目の激突は、あっさりと弾かれた。石畳に叩きつけられる。息が詰まる。
「終わりだ」
女が、杖を振り上げた。
その瞬間だった。
聖堂の高窓から差し込む夕日が、一瞬、陰った。
雲が動いただけだ。誰も、それに気づかなかった。だが俺は、その陰りの中に、微かな違和感を覚えた。まるで、誰かが窓の外で、この光景を見ているような。
気のせいだ。今はそれどころじゃない。
「あんたが、生涯の恥をここで晒す前に」
俺は、力を振り絞った。
「一つだけ言っておく。俺は今日、頂点から突き落とされた。だが、突き落とした奴らの正体を、俺は絶対に暴く。お前も、その一人だ」
女の杖が、止まった。ほんの一瞬。
その隙を、俺は見逃さなかった。
◆◆◆
──だが、隙をついた一撃は、彼女の盾に阻まれた。
俺の膝が、限界を訴えて崩れる。
「口だけは達者だな」
女が、静かに言った。杖の先が、俺の額に向けられる。
終わった。頭のどこかで、その言葉が響いた。
「そこまでにしておけ、ユーディット」
低い声が、聖堂に響いた。
女──ユーディットの動きが、ぴたりと止まった。
声の主は、姿を見せなかった。壇上の陰から聞こえたその声に、周囲の審問官たちが、明らかに動揺している。
「今日のところは、退け」
ユーディットは、忌々しげに舌打ちした。杖を下ろす。
「運がいいな、アルト・グレイヴェル」
「今のは、誰だ」
彼女は答えなかった。
「教団は、お前を諦めたわけじゃない。次は、あの声のかからないところで、決着をつける」
黒衣の一隊が、静かに引いていく。
俺は、石畳に膝をついたまま、遠ざかる背中を見送った。
◆◆◆
聖堂を這うように出ると、夕暮れの街が広がっていた。
半日前まで、俺の凱旋を待っていたはずの街。今は、追手から逃げるための迷路だ。
境界都市ルクス=ウンブラ。男の領と女の領を、光の壁が分かつ街。女側に潜り込めば、教団も簡単には手が出せない。
俺は壁の裂け目を目指した。歩くたび、身体の節々が痛む。慣れない重心に、何度もつまずいた。
裂け目の近くで、露店の女たちが、こちらを気にも留めずに商売を続けていた。灼光領の男たちが決して足を踏み入れない、女だけの一角だ。並んでいるのは、俺が見たこともない道具ばかりだった。
裂け目を抜け、路地裏に転がり込む。壁にもたれ、自分の手を見た。細い指。白い肌。まだ、現実だと思えない。
朝、俺は世界一だった。
今、俺は指名手配された穢れだ。
失ったものを数えれば、きりがない。位。名声。婚約者。仲間。身体。声。
だが──と、俺は思った。
失ったものの中に、俺が自分から捨てたものは一つもない。全部、奪われたんだ。あいつらに。この世界に。
なら、話は簡単だ。
奪い返す。一つずつ。
俺は、壁に背をつけたまま、天を仰いだ。喉が渇いていた。腹が減っていた。今夜、どこで眠るかさえ分からない。
世界一だった男が、今、路地裏で行き倒れる寸前だった。
「──笑えるな、これは」
声が、震えていた。恐怖か、怒りか、自分でも判断がつかなかった。
◆◆◆
「そのままだと、あと十分で死ぬぞ」
路地の奥から、声がした。
俺は弾かれたように顔を上げた。暗がりに、一人の女が立っていた。痩せている。紫がかった黒髪。青灰色の目が、俺を値踏みするように見ていた。左手首に、古い包帯。
「あんたの魔力、駄々漏れだよ。灼光の残り滓と月影が混ざってる。そんな波形、この世界に一つしかない」
俺は身構えようとして、腕が上がらないことに気づいた。限界だった。
「……お前、何者だ」
「壁の抜け道を知ってる。教団の噓の正体もな」
女は左手首を、無意識に撫でた。
「あたしはリゼット。噓を視るのが仕事の情報屋だ」
彼女は、俺の全身を、じっと観察した。ボロボロの制服。震える脚。それでも立とうとしている、その様を。
「──あんた、まだ立つ気か」
「立たなきゃ、死ぬんだろ」
「賢明だ」
彼女は、初めて、口の端をわずかに上げた。
「で、あんたはいつまで、そこで途方に暮れてるつもりだ? 世界一の魔法使いさん」
◆◆◆
俺がその手を取るべきか迷ったのは、ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬を、世界は待ってくれなかった。
路地の入口で、光が弾けた。灼光の刃。黒衣の影。
聖堂の女とは、別の追手だった。数が多い。
その先頭に、一人の男が立っていた。剣を構え、こちらを見据えている。夕闇の中でも、その赤い髪だけは、はっきりと分かった。
「……アルト」
カイン・アッシュワースが、灼光の刃を構えたまま、俺の名を呼んだ。
俺を追ってきた、たった一人の親友が。
その目に浮かんでいたのは──憎しみでも、正義感でもなかった。
追い詰められた者の目だった。
「なぜ、お前が」
カインは答えなかった。ただ、剣を握る手が、微かに震えていた。