銀髪のアルテミス 作:イセカイタヌキ
視界の端で、赤い髪が動いた。
灼光の刃が、俺のいた場所を薙いだ。頬に、風の圧だけが残る。
「──アルト、下がれ!」
リゼットの声。俺は反射的に飛び退いた。
「なぜだ、カイン」
俺は問うた。
「なぜ、お前が来る」
カインは答えなかった。剣を構え直す手が、微かに震えている。
「時間がない」
リゼットが、俺の袖を強く引いた。
「あの男の後ろに、まだ十人はいる。ここで長話をしてる場合じゃない」
俺は、カインから目を離せなかった。
「一つだけ答えろ。お前は、俺を捕まえたいのか」
沈黙。
カインの喉が、ごくりと動いた。
「──捕まえたくない」
「なら退け」
「退けない。俺が退いたら──」
そこで、言葉が止まった。言ってはいけないことを、寸前で飲み込んだように。
俺は、その飲み込み方を見た。カインは昔から噓が下手だ。だが今のは、噓を隠したんじゃない。**何かを、庇っている**目だった。
「行け」
掠れた声だった。剣が、わずかに逸れる。
「東の水路が開いてる。行けよ、アルト」
「アルト」
リゼットの声が、鋭くなった。
「今は、あの男の言葉を信じるしかない。来い」
俺は、走り出した。
◆◆◆
女側の街を、リゼットの背中を追って駆けた。
昼間なら賑わっているはずの通りが、夕暮れ時のこの時間、女たちの帰路で埋まっていた。仕事帰りだろう、月影領の制服を着た娘たちが、井戸端で立ち話をしている。すれ違いざま、俺の耳に、その一部が届いた。
「聞いた? 灼光の縁談、また流れたって」
「あそこの家、月影の嫁が来ないと格が落ちるって噂よ」
「贅沢な話。あたしらは月影しか使えないのに、灼光の男から選ばれる側でしょ」
彼女たちは、俺に気づいてすらいなかった。ただの世間話だ。だが、その一言一言に、「選ぶ」のは常に男で、「選ばれる」のは女、という前提が、当たり前の顔で埋め込まれていた。
俺は今朝まで、選ぶ側だった。
その事実に、初めて、居心地の悪さを覚えた。
「膝を抜け」
走りながら、リゼットが言う。
「あんた、まだ男の走り方をしてる」
「指図される覚えはない」
「じゃあ、そこで捕まってろ」
舌打ちして、言われた通りにした。腰を落とし、膝の力を抜く。驚くほど身体が軽くなった。
「追跡魔法だ」
彼女が足を止めた。
「あんたの魔力を追ってる。撒くぞ」
彼女は左手を上げた。包帯を巻いた、その手を。
「月影の初級術は使えるか。『影渡り』」
「習ってない」
「今は使える。あんたの身体は、両方通す。あたしが道を視る。あんたは、あたしの言う通りに魔力を流せ」
差し出された手を、俺は見た。
信じる理由は、一つもない。会って数分の、正体不明の情報屋だ。
だが──信じない理由も、今はなかった。
俺はその手を取った。細く、乾いた手だった。
「右に灼光、左に月影。混ぜるな。ただ、道を照らすだけだ」
金と銀の光が、彼女の手のひらの上で灯る。
だが、リゼットの眉が、微かに寄った。
「──待て」
「どうした」
「視えにくい。この辺り一帯、月影の残滓が濃すぎる。生活魔法の跡が多すぎて、追跡の気配と紛れる」
「視えないのか」
「完全にじゃない。だが、いつもより時間がかかる」
彼女は、目を閉じて集中し直した。数秒が、やけに長く感じられた。
「──視えた。こっちだ、たぶん」
「たぶん、か」
「文句があるなら、自分で視ろ」
足元の影が、口を開けた。
◆◆◆
抜けた先は、石造りの地下水路だった。
俺は膝をつき、荒く息をした。転移の負荷で、胃の奥がひっくり返りそうだった。
「悪い、少し外れた」
リゼットが、周囲を見回して言った。
「予定の出口より、一本手前だ」
「──さっき視えにくいって言ってたな」
「言った。文句あるか」
「いや」
俺は立ち上がった。
「完璧じゃないんだな、その目」
「完璧なら、あたしはとっくにこの生活を抜け出してる」
彼女は、少し不機嫌そうに言った。だがそれ以上は、深掘りさせなかった。
「聞かせてもらうぞ。お前は何者だ。なぜ俺を助けた」
リゼットは、しばらく黙っていた。
包帯を巻いた左手首を、無意識に撫でる。
「あんたのその紋章。『始まりの鍵』って呼ばれてる」
「鍵?」
「千年前、この世界に噓が一つ、仕込まれた。男は灼光、女は月影。その分離は、神の秩序なんかじゃない。誰かが、人間の魔法を性別に縛りつけた。ただの、呪いだ」
俺は、さっき聞いた井戸端の会話を思い出した。選ぶ男、選ばれる女。その根っこにある呪いの話が、ようやく繋がった。
「なぜ、そんなことを知ってる」
「あんた、さっきから左手首を庇ってる」
俺は言った。
「その傷と、この話は、繋がってるんだろ」
彼女の目から、光が消えた。
長い沈黙のあと、リゼットは、包帯を少しだけずらした。
無数の傷痕があった。注射の痕。何かを、体内に注ぎ込まれた痕。
「詳しい話は、あとだ」
彼女は、包帯を巻き直した。
「今は、あんたに教えることがある。あんたの紋章は、鍵だ。だが、鍵は一つじゃ足りない。祭壇を動かすには、対になる鍵がいる」
「対の鍵は、どこにある」
リゼットは、答えなかった。ただ、俺の目を見た。
「──それを話す前に、確かめさせろ」
「何をだ」
「あんたが、その鍵を持つに値するかどうかを」
◆◆◆
彼女は、水路の壁に手をついた。
「あの女──聖堂で最初に会った審問官だ。首席審問官ユーディット。あんたを『生きたまま捕らえろ』と命じたのは、あの女じゃない。もっと上だ」
「聖堂で、俺もそれを確かめた」
俺は言った。
「ユーディットに直接聞いた。答えなかったが、目が揺れた」
リゼットが、初めて驚いた顔をした。
「──あんた、劣勢の最中にそんなことを聞いたのか」
「他にできることがなかった」
「馬鹿か。いや、褒めてる」
彼女は、少し呆れたように言った。
「その反応は使える。あの女が答えられない相手がいる、ってことは、教団は一枚岩じゃない。あたしがあんたを助けたのは、優しさじゃない。あんたの鍵が、あたしの目的に必要だからだ」
「目的とは」
「あたしを実験体にした奴らを、壊すことだ」
即答だった。感情のない声で、しかし、その底に、氷のように硬い何かがあった。
俺は、彼女の目を見た。
嘘は、なかった。少なくとも、この一点に嘘はない。
「上等だ」
俺は言った。
「善意で助けられるより、そっちの方が信じられる。俺もお前を利用する。お前のその目が、いる」
差し出した手を、リゼットはしばらく見つめていた。
握り返してはこなかった。代わりに、指先だけで軽く払うように握った。握手というより、契約の確認に近かった。
「一つ、条件がある」
「言ってみろ」
「あたしを信用するな」
俺は、少し面食らった。
「情に流されて、大事な場面であたしを庇うような真似はするな。あんたが目的を果たすのに、あたしが邪魔になったら、切り捨てろ」
「──変わった奴だな」
「実利の話をしてるだけだ」
「アルトでいい。位はもうない」
「アルト、か」
彼女は、笑わなかった。ただ、覚えておく、というように、小さく頷いた。
◆◆◆
その、束の間の静けさを、切り裂いたのは──水の匂いに混じった、灼熱だった。
リゼットの表情が、一瞬で強張った。
「……嘘だろ。追跡魔法は撒いたはずだ」
「どうした」
「前後、両方から。挟まれてる」
水路の両端。暗がりの奥から、灼光の光が滲み出す。黒衣の影が、水面に映る。
「──さっき、出口を一本外したのが響いたか」
「かもな。文句は後で聞く」
それを率いる、影を纏った長身の女。
灰色の目が、暗闇の中で、まっすぐに俺を捉えた。
「首席審問官、ユーディット」
「見つけた」
彼女の声は、水路に反響しても、少しも温度を持たなかった。
「アルト・グレイヴェル。そして──実験材料の、生き残り。二つの鍵が揃って逃げているとはな。手間が省けた」
その言葉に、リゼットの肩が、微かに震えた。
「二つの鍵……?」
「あの女の左手首を、丁重に確保しろ。骨まで傷つけるな」
ユーディットが、淡々と命じた。
「──そこには、『終わりの鍵』が、埋まっている」
始まりの鍵が、俺の腕に。
終わりの鍵が──リゼットの、その手首に。
俺は彼女を見た。リゼットは、俯かなかった。ただ、包帯を巻いた左手首を、きつく握りしめていた。
「話は、あとだ」
彼女の声は、揺れていなかった。
「アルト、あんた、さっきの暴発──もう一回、できるか」
「あれは、無意識だった」
「なら、覚えろ。今すぐ」
彼女は俺の右手を掴み、紋章の上に、自分の手を重ねた。青灰色の目が、燃えるように光る。
「あたしが視る。あんたの魔力の通り道、全部、視えてる。あたしの言う通りに流せ。今度は、道じゃない。武器だ」
水路の両端から、灼光の刃が、一斉に振り上げられた。
その白い光が、俺たちを包み込もうとする、その刹那──
「──流せ、アルト。今だ!」