銀髪のアルテミス 作:イセカイタヌキ
目を閉じた瞬間、俺の中で二つの光が、初めて「意志」を持った。
◆◆◆
リゼットの指が、紋章の上で、微かに動いている。彼女には視えているんだ。俺の体内を巡る、金と銀の道筋が。
「右の経路に灼光、左に月影。混ぜるな。撚り合わせろ」
俺は、言われた通りにした。金の炎を、右腕の奥から引き出す。銀の影を、左胸の底から引き上げる。二つを、混ぜずに、絡める。
指先が、細い刃になった。
水路の両端から迫っていた灼光の刃を、俺は左右同時に受け止めた。衝撃が、腕を痺れさせる。だが、押し返せた。
「──嘘だろ」
黒衣の一人が、声を漏らした。
「調子に乗るな。あと十秒で、あの女が本気を出す」
彼女の視線の先で、ユーディットが杖を構え直していた。灰色の目に、明確な警戒の色が浮かんでいる。
「退避しろ。私が抑える」
彼女の杖から放たれた月影は、これまでと比べ物にならなかった。闇そのものが、俺たちを押し潰そうとする。
「まずい」
リゼットが、俺の腕を引いた。
「あれは受けるな。避けろ」
「じゃあ、どうする」
「影渡り。今度は、遠くまで飛ぶ。灼光で扉を灼き切って、月影でそこに潜り込め」
「さっきみたいに、外れないだろうな」
「──今度は外さない。文句は逃げてから聞け」
理屈は分からなかった。だが、身体が、勝手に理解した気がした。
俺は目の前の闇に穴を穿ち、二人分の身体を滑り込ませた。
視界が、暗転する。
◆◆◆
気づくと、俺たちは水路の外にいた。女側市街の、裏路地。
俺は膝から崩れ落ちた。頭の芯が、痺れている。
「──は……っ、はぁ……」
「大丈夫か」
「大丈夫、なわけ、あるか」
指先を見た。金と銀の残光が、まだ揺らめいている。
「一つ、気になることがある」
「なんだ」
「使うたびに」俺は自分の手を見つめた。「戻れなくなっていく気がする」
リゼットの表情が、一瞬、動いた。だが、すぐに元に戻った。
「気のせいだろう」
嘘だった。カインが噓をついたときと、同じ間の取り方だった。
だが今は、それを追及している場合じゃない。
「今夜は、ここまでだ。西の外れに、隠れ家がある」
◆◆◆
隠れ家までの道すがら、女側市街の夜は、思ったより静かだった。
灯りの点いた窓の下を通ると、母親らしい声が漏れ聞こえた。
「いい? 灼光の男に嫁いだら、家では月影を使うんじゃないよ。旦那の顔が立たないから」
「でも、月影の方が得意なのに」
「得意でも、隠すのが女の甲斐性ってもんさ」
会話は、そこで窓の内側に消えた。俺は、立ち止まりかけた足を、そのまま前に出した。
得意な魔法を、隠す。誰かの顔を立てるために。
そんな理不尽を、この世界の女たちは、日常として飲み込んでいる。
俺は今朝まで、その理不尽の、恩恵を受ける側にいた。
◆◆◆
翌朝。
鏡はなかった。だが、水を張った桶に映る自分の顔を、俺はしばらく見つめた。
昨日より、輪郭が丸い気がした。気のせいかもしれない。だが、確かめる術がない。
「何を見てる」
リゼットが、外から戻ってきた。手に、一枚の紙を持っている。
「見ろ」
貴族の紋章が入った、招待状の写しだった。日付は、三日後。差出人の名前を見て、俺の指先が、冷たくなった。
「セリカ……」
握る手に、無意識に力が入った。紙の端が、微かに歪む。
「あんたの元婚約者だな」
リゼットの声は、冷めていた。
「あんたの財産返納の手続きを、自分から教団に申し出たそうだ。証言つきでな」
「証言……?」
「『アルト様は、以前から禁忌に惹かれる、危うい方でした。私は何度もお止めしたのですが』──だとよ」
俺は、拳を握った。爪が、掌に食い込む。
三年、隣にいた女だ。半日前まで、俺の腕に手を絡めて笑っていた女だ。それが今、俺を「危険人物だった」と、平然と語っている。
胸の奥で、何かが焼けるように熱くなった。怒りだけじゃない。もっと、みっともない何か──裏切られたことへの、単純な痛みだった。
「その証言のおかげで、あの女は教団から新しい後ろ盾を得た。近々、灼光領の名家に嫁ぐらしい。これは、その婚礼の内示会の招待状だ」
俺を踏み台にして、次の階段を上っている。
「──決めたぞ」
声が、自分でも驚くほど、低かった。
「何を」
「最初の相手だ」
俺は、招待状を指でなぞった。指先が、まだ、微かに震えていた。
「あいつの噓を、あいつ自身の口から、崩す」
リゼットは、俺の顔を、しばらく観察するように見た。
「力で殴り込むつもりか。今のあんたの魔力量じゃ、教団の高官が集まる場で暴れれば、包囲されて終わりだぞ」
「力は使わない」
「じゃあ、何を使う」
「あいつの噓が、一番効く場所を教えろ」
リゼットは、少しの間、俺を見ていた。それから、招待状の隅を指さした。
「──ここだ。証人の欄。もう一人、名前がある」
◆◆◆
三日後の夜。灼光領の名家の屋敷は、灯りで煌々と照らされていた。
俺は、下働きの女に化けて、裏口から潜り込んだ。厨房の脇を抜けるとき、使用人たちの立ち話が耳に入った。
「今日の花嫁様、次で三度目の縁談だってよ」
「灼光の家に嫁ぐたび、持参金が増えてくらしいわ。うちらの給金は上がらないのに」
「女は嫁ぎ先の格が全部だもの。仕方ないわよ」
俺は、それ以上聞かずに先へ進んだ。だが、その一言が、頭のどこかに残った。
セリカにとって、この縁談は、単なる裏切りじゃない。この世界で女が生き延びるための、ただ一つの手段なのかもしれない。
だからといって、俺を売った事実は変わらない。
◆◆◆
大広間の中央で、セリカが、着飾って立っていた。三年前と、何も変わらない顔で笑っている。隣に、教団の高官の姿があった。
「アルト様は」セリカの声が響いた。「以前から、禁忌に惹かれる、危うい方でした。私は何度もお止めしたのですが……お聞き入れいただけず」
高官が、痛ましげに頷いた。
「それは、さぞお辛かったでしょう」
「ありがとう存じます」セリカは、目元を拭う仕草をした。「私は、ただ、彼を止められなかった自分を、責めるばかりで──」
俺は、フードを外した。
「何度も止めた? いつだ、セリカ。日付と場所を言ってみろ」
広間が、凍りついた。
セリカの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……あ、あなた……」
「わからないか。半日だけ、お前の婚約者だった男だ」
「この女の証言には、証拠がありません」
俺は、高官に向き直った。
「俺が禁忌に惹かれていたと言うなら、その現場を『何度も止めた』日付を、記録から出してください。一件でも出れば、俺は、この場で黙ります」
沈黙が落ちた。記録は存在しない。あるはずがない。
「──記録は」
「そ、それは……」
セリカの唇が、震えた。
「そういえば、証人にもう一方、お名前があります。この場に──いらっしゃいますね」
俺は、広間の隅に立つ、一人の初老の男を見た。セリカの叔父にあたる、灼光領の書記官だ。招待状の証人欄に、彼の名がある。
「あなたは、セリカ様の証言を、いつ、どこで確認されましたか」
書記官の顔が、強張った。
「わ、私は……姪から、そう聞いただけで……直接、見たわけでは……」
「では、証人としての署名は、何を根拠にされたのですか」
「それは……姪の頼みで、形式的に……」
高官の表情が、変わった。
「──証言だけでなく、証人まで、形式だけだったと」
セリカの顔が、真っ青になった。
「ち、違います、私は本当に……!」
「本当に、何を見たんだ」
俺は、一歩、詰めた。
「日付。場所。誰が同席していた。一つでも言えるなら、言ってみろ」
セリカは、答えられなかった。
「言えないなら、その証言は、お前の想像にすぎない」
「──違います!」
「じゃあ、証明しろ。今この場で」
セリカの目に、追い詰められた光が浮かんだ。彼女は口を開いたが、言葉は出てこなかった。何度も、開いては閉じる。
俺は、それ以上、何も言わなかった。ただ、彼女が自分の口で答えを出すのを、静かに待った。
長い沈黙のあと、セリカは、小さく震える声で言った。
「……仕方ないでしょう。あなたはもう、灼光位じゃない。女になった男と、この先どうやって暮らしていけと」
その一言で、広間の空気が変わった。
高官が、低く言った。
「──今、ご自分で、証言の理由をおっしゃいましたね」
セリカが、崩れるように後退った。書記官が、彼女から一歩、距離を取った。血縁の男が、この場で初めて、自分の姪を庇わなかった。
「縁談は、証言の裏づけを、改めて精査するまで、保留とします」
「そんな……」
俺は、彼女を見た。
「一つだけ言っておく。俺はお前を憎んじゃいない。憎むには、お前は俺にとって、軽すぎる存在だ」
セリカの表情が、崩れた。
「私は、これで」
俺は、背を向けた。
派手な力は、何一つ使っていない。ただ、噓を支えるものが何もないことを、その場にいる全員の前で、明らかにしただけだ。
だが、それで十分だった。
◆◆◆
屋敷の外に出ると、リゼットが待っていた。
「──やるじゃないか」
「証人まで引きずり出すとはな。あたしは、あんたが力で解決するかと思ってた」
「力は、いつでも使える。だが、噓を崩すのに一番効くのは、噓の方だ」
リゼットは、少し黙ってから言った。
「一つ、言っておく。今のは、小さな噓を一つ崩しただけだ。あんたが暴きたい世界の噓は、その何万倍もでかい」
「上等だ」
俺は言った。
「一つずつ崩す。次はセリカより上を狙う」
リゼットの表情が、ふいに強張った。青灰色の目が、屋敷の入口の方を見つめている。
「──まずい」
「どうした」
「あの女、さっき、審問官らしい男に何か囁いた。あんたの顔と魔力波形、もう、売られたぞ」
屋敷の扉が、静かに開いた。
現れたのは、灰色の目をした、長身の女だった。
「見つけた」
彼女は言った。
「存在しないはずのアルト・グレイヴェル。まさか、こんなところで、また噓を暴いているとはな」
「今度は、逃がさない」
彼女の背後で、黒衣の一隊が、屋敷を静かに取り囲み始めていた。
俺は、リゼットと顔を見合わせた。
「──逃げ場は」
「ある」
リゼットが、周囲を睨みながら言った。
「だが、今度は、あの女の本気を、真正面から受けることになる」
灰色の目が、月明かりの下で、静かに光っていた。