銀髪のアルテミス 作:イセカイタヌキ
「逃げ場は、ある」
リゼットが言った。
「だが今度は、あの女の本気を、真正面から受けることになる」
黒衣の一隊が、屋敷の周囲を静かに固めていく。
◆◆◆
「二手に分かれる」
リゼットが小声で言った。
「あたしが囮になる。あんたは裏から抜けろ」
「馬鹿を言うな」
「あんたが捕まったら、全部終わりだ」
言い返す間もなかった。リゼットはもう走り出していた。
俺は舌打ちして、反対方向へ駆けた。
◆◆◆
裏庭の塀を越えたところで、道を塞がれた。
灰色の目。長身。杖を構える、影を纏った女。
「一人か」
「お前が来ると思ってたよ」
「私は部下に任せられるほど、暇じゃない」
ユーディットは、距離を、じりじりと詰めてきた。
「アルト・グレイヴェル。灼光位を剥奪された当日に、教団の縁談に殴り込むとはな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めていない」
彼女の杖から、闇が滲み出した。
俺は右手に、金と銀を呼んだ。
◆◆◆
最初の一撃で、分かった。
規格が違う。
さっきの部下たちとは、比べ物にならない。彼女の月影は、こちらの刃を真正面から受け止めて、消さない。押し返してくる。
「くっ……!」
俺は後退った。膝が笑っている。使うほど、身体が重くなる。指先が、少し痺れている。
「なぜ、そこまで俺を追う」
問いながら、距離を取った。
「捕まえろと命令されたからだ、じゃないんだろ。お前の目、そんな目じゃない」
ユーディットの動きが、一瞬、止まった。
「──お前ごときに、何が分かる」
「分からないから、聞いてる」
彼女は、杖を下ろさないまま、言った。
「私は、月影しか使えない女だ。灼光の男どもが頂点を独占する教団で、私はここまで登った」
「それが?」
「この秩序の中で、私は勝者になった。それを、お前は壊そうとしている」
「壊すさ」
俺は即答した。
「その秩序、噓だからな」
「噓でも」
彼女の声が、低く沈んだ。
「噓の中で、私は生きてきた」
「知らねえよ、そんなの」
俺は言った。
「支えを失うのが怖くて、他人を苦しめる秩序にしがみつくなら、それはお前の弱さだ」
「──生意気な」
杖が、大きく振り上がった。
◆◆◆
闇の奔流が、俺を飲み込みかけた。
とっさに両性魔法を全開放する。拮抗した。だが、長くは持たない。
「アルト!」
リゼットの声が響いた。片手を押さえ、こちらへ走ってくる。追手を一時的に振り切ったらしい。
「加勢はいらん」
「加勢じゃない」
彼女は、ユーディットとの距離を保ったまま、早口に言った。
「あの女の杖、視た。限界がある。三十秒以上、あの闇を維持できない。だが、それだけじゃ足りない」
「──どういう意味だ」
「あの女の魔力、闇の密度が均一じゃない。左肩の一点だけ、薄い。杖を握る腕の負担が、そこに出てる」
俺は、闇の向こうのユーディットを見た。言われてみれば、彼女の左肩だけ、わずかに下がっている。
「そこを、突けるか」
「今のあんたじゃ、狙って当てるのは無理だ。だから、あたしが視る。あんたは、あたしの合図で、そこだけに刃を集中させろ」
◆◆◆
十秒。
腕が痺れる。
二十秒。
「──今だ! 左肩!」
リゼットの声。
俺は、拮抗させていた力の全てを、一点に集約させた。金と銀が、細く尖った刃になって、闇の薄い一点を貫く。
ユーディットの闇が、砕けた。
彼女が、後方によろめく。
◆◆◆
「……肩を、狙ったな」
彼女は、片膝をついたまま、俺を見上げた。灰色の目に、驚きが浮かんでいる。
「一人でやったわけじゃない」
俺は正直に言った。
「あいつの目がなきゃ、届かなかった」
ユーディットは、立ち上がった。杖を構え直そうとして、しかし、その手が、微かに震えていることに、俺は気づいた。
限界だ。
「今日は、退く」
彼女は、静かに言った。
「だが、次はない。次に会ったときは、お前とその女、両方を、生きたまま連行する」
「その前に、一つ答えろ」
俺は言った。
「聖堂で、俺を止めた声。あれは誰だ」
ユーディットの表情が、初めて、明確に動いた。警戒でも怒りでもない。それは──狼狽に近かった。
「──なぜ、それを聞く」
「答えたくない、ってことは、お前より偉いんだな」
彼女は、しばらく黙っていた。それから、低く言った。
「教団に、私より上の階位は五人しかいない。その全員が、お前の紋章を『生かしたまま確保しろ』と命じている。声の主が誰かは、その五人のうち、私には分からない一人だ」
「五人のうち、四人は分かるのか」
「──喋りすぎた」
ユーディットは、それ以上答えなかった。だが、彼女の視線が、一瞬だけ、聖堂の方角──教団本部がある方角に流れたのを、俺は見逃さなかった。
「これを渡しておく」
彼女は、懐から一枚の紙を取り出した。それが、風に舞い、俺の足元に落ちた。
「取引だ。その女を差し出せば、お前の身柄は保証する。灼光位の地位こそ戻せないが、命だけは助けてやる」
「──ふざけるな」
「よく考えろ」
彼女は背を向けた。
「その女は、しょせん、お前が拾った鍵の片割れだ」
黒衣の影が、闇に溶けていく。
◆◆◆
俺は、足元の紙を拾った。取引の条件が、簡潔に書かれている。リゼットの引き渡し。それだけだ。
「──破って捨てるか」
リゼットが、隣で言った。声が、いつもより硬かった。
俺は、しばらく、その紙を見つめた。
破ることは、決まっている。だが、すぐに答えなかったのは、彼女がどんな顔でこの紙を見ているか、確かめたかったからだ。
リゼットの表情は、動いていなかった。ただ、彼女の左手が、無意識に、包帯の上をきつく握っていた。
「破るに決まってる」
俺は、その場で紙を握り潰した。
「即答か」
「取引の材料になる気か? お前が」
「──そういう意味で聞いたんじゃない」
彼女は、目を逸らした。
「あたしを信用するなと言ったのは、あたし自身だ。あんたが今の判断を変えても、あたしは文句を言えない」
「変えない」
俺は言った。
「効率の話をしてるだけだ。今、お前を失えば、始まりの鍵が単独で残る。祭壇は動かせない。俺の目的にとって、お前を切り捨てるのは損だ」
リゼットの表情が、微かに動いた。
「──ずいぶん、割り切った物言いだな」
「お前がそう言えって言ったんだろうが」
彼女は、少しの間、黙っていた。
それから、ふっと、小さく息を吐いた。それが笑ったのかどうか、俺には判断できなかった。
◆◆◆
紙は、その場で焚いた。
炎の中で、文字が黒く縮れていく。焚き火の暖を取りながら、俺は聞いた。
「一つ、聞いていいか。あの女が言った、『解析』ってのは、何だ」
リゼットは、少し間を置いてから言った。
「──生きたまま、身体を開くことだ。鍵の仕組みを、直接、調べるために」
俺は、黙った。
「あたしは、その手前で逃げた。四歳のとき」
彼女の声は、揺れていなかった。ただ、事実として、そう言った。
「鍵は、あと六つある」
俺は、顔を上げた。
「六つ?」
「あんたの紋章とあたしの鍵、この二つが揃う場所──祭壇は、一つじゃない。大陸中に、七つ、散らばってる」
「なぜ、それを知ってる」
「あたしの手首から、教団の解析記録の断片を、視たことがある。詳しいことは、まだ分からない。だが、確かに、七つある」
俺は、自分の右腕の紋章を見た。
一つの祭壇を暴くだけでも、これだけの追手だ。それが、あと六つ。加えて、教団の頂点に近い五人のうちの誰かが、この件に関わっている。
「──終わらないな、これは」
「終わらせるのか、終わらせないのか」
「終わらせる」
「一人でか」
「お前がいるだろ」
リゼットは、答えなかった。ただ、俺の言葉を、確かめるように、しばらく見つめていた。
◆◆◆
そのとき、リゼットが不意に、路地の奥を振り返った。
「──誰か、視てる」
「敵か」
「分からない。魔力の質が、審問官のものじゃない。もっと、薄くて、遠い」
俺も目を凝らした。だが、何も見えなかった。
「気配だけ残して、消えた」リゼットが、眉を寄せた。「妙な奴だ。……あんたが聖堂で聞いた声と、同じ質かもしれない」
「教団の五人の誰かが、直接見に来てるってことか」
「まだ断定はできない。だが、今のあんたには、敵が二種類いる。表立って追ってくるユーディットみたいな連中と、姿を見せずに見てる奴らだ」
俺は、その両方を、頭の中で並べた。
「上等だ」
俺は言った。
「見てるだけの奴に、興味はない。動いた奴だけ相手にする」
◆◆◆
その夜、俺たちは新しい隠れ家を探して、路地の奥へと歩いた。
途中、小さな広場を横切った。夜の露店が一つだけ、まだ灯りを点けていた。年老いた女が、ひとりで店番をしている。売り物は、古びた月影用の護符ばかりだった。
「今日はもう店じまいかい」
女が、通りすがりの誰かに声をかけられていた。
「息子が灼光の家に婿入りしてね。嫁の実家の月影の品なんて、恥ずかしくて置いておけないんだと」
「それは、災難だね」
「災難さ。婿に出すってのは、こういうことだよ」
俺は、それを聞きながら、通り過ぎた。
婿に出す。灼光の男が女の領に婿入りすることもある。だが、それすらも、格の話で語られる。この世界は、男と女、どちらの側にいても、誰かの格のために、何かを恥じさせられている。
朝、俺は世界一だった。
今、俺は指名手配された身の上で、正体不明の何かに見張られ、六つの祭壇を探す羽目になっている。
笑えるくらい、状況は悪化していた。
だが──と、俺は思った。
昨日の俺は、行き倒れる寸前だった。今の俺は、少なくとも、自分の足で立っている。
隣を歩くリゼットの横顔を見た。乾いた横顔だ。だが、彼女は、俺を売らなかった。それだけは、確かだった。
「──何を見てる」
「別に」
「気持ち悪い奴だな」
「お前がそれを言うのか」
リゼットが、初めて、声を出さずに笑った。