銀髪のアルテミス 作:イセカイタヌキ
「お前がそれを言うのか」
俺の軽口に、リゼットが声もなく笑った、その直後だった。
彼女の足が、ふいに止まった。
「──待て」
「どうした」
「後ろ」
俺は振り返った。何もない。夜の路地に、猫の気配すらしない。
「誰もいないぞ」
「いた」リゼットの声が、硬くなった。「一瞬だけ。魔力の残滓が、まだ消えてない。……あんたを見張ってた奴と、同じ質だ」
「聖堂の声、か」
「断定はできない。だが、可能性は高い」
彼女は、しばらく暗闇を睨んでいた。それから、諦めたように息を吐いた。
「今夜はもう動くな。隠れ家に戻る」
◆◆◆
新しい隠れ家は、女側市街の外れにある、廃業した治療院だった。
薬棚の並ぶ部屋の隅に、俺たちは腰を下ろした。ランプの灯りが、埃の積もった床を照らしている。
「聞かせろ」
俺は言った。
「教団の五人。祭壇は七つ。順番に説明しろ」
リゼットは、床に指で線を引いた。粗い、大陸の輪郭だった。
「あんたが知ってる世界は、ここだけだ」彼女は、線の右端を指した。「境界都市ルクス=ウンブラ。灼光領と月影領の境目。大陸の東の端」
「東の端……?」
「大陸は広い。西には、灼光も月影も届かない辺境がある。北には、教団の直轄地じゃない自治都市がある。あんたは、灼光位として叙勲されるまで、そのどれも見たことがないだろう」
俺は、床の線を見つめた。今まで、自分の生まれた街と、通っていた学院と、この境界都市しか、頭の中になかった。
「祭壇は、その大陸全体に散らばってる」リゼットが、線の上に七つの点を打った。「東にここ。北に一つ。西の辺境に一つ。あとは、詳しい場所がまだ分からない」
「近いのはどこだ」
「北の自治都市──ヴェルダンだ。教団の直轄地じゃない分、あんたが指名手配されてても、まだ動きやすい」
「教団の五人については」
リゼットは、指を止めた。
「あたしが知ってるのは、階位の存在だけだ。名前までは視えない。手首から視た記録の断片は、断片でしかない」
「調べる方法は」
「一つある」
彼女は、俺の目を見た。
「あたしの左手首から、もっと深く記録を読む。だが、それには──代償がいる」
◆◆◆
彼女は、包帯を解いた。
傷痕が、ランプの灯りに晒される。
「終わりの鍵に、直接、魔力を流し込む。そうすれば、より深い記録が読める。だが、鍵は、あたしの身体に埋まってる。強引に起こせば、あたしの身体に負荷がかかる」
「──やめろ」
「まだ何も言ってない」
「言われる前に分かる」俺は言った。「危険な代償を払うつもりだろう」
「あんたには関係ない」
「関係ある。お前が壊れたら、始まりの鍵が単独で残る。俺の目的にとって、損だ」
リゼットは、少し黙った。それから、皮肉げに口の端を上げた。
「──さっきと同じ理屈だな。効率の話」
「そうだ」
「なら、効率で答えてやる」彼女は、包帯を巻き直した。「今すぐ深く読む必要はない。まずは、あたしの目で普通に視える範囲で十分だ。ヴェルダンに向かう道中で、少しずつ情報を集めればいい」
「本当にそう思ってるのか」
「思ってなくても、あんたが止めるなら、今はやらない」
彼女は、それだけ言うと、話を打ち切った。
俺は、その答えに、少しだけ引っかかりを覚えた。今はやらない、というのは、いずれやる、ということだ。
◆◆◆
翌朝、俺たちは北へ向かう街道に出た。
境界都市を離れると、景色が一変した。石畳が途切れ、赤茶けた土の道が続く。両側には、痩せた畑が広がっていた。
畑仕事をする人々の中に、一人の少女がいた。年の頃は十四、五歳。父親らしい男の目を盗んで、こっそりと指先に光を灯している。
金色でも銀色でもない、灰色がかった、弱々しい光だった。
「──あれは」
俺は、足を止めた。
「両方、練習してるのか」
リゼットも、目を細めた。
「灼光の家系の娘だろう。だが、月影にも興味があるんだろうな。禁じられてるわけじゃないが、女が灼光を練習してるところを見られれば、村八分になる。だから、こっそりやってる」
少女は、光を消すと、何事もなかったように鍬を握った。
俺たちは、それ以上、何も言わずに歩き続けた。だが、頭のどこかに、その光景が残った。
理不尽を嘆く者ばかりじゃない。理不尽の中で、こっそりと、自分のやりたいことをやる者もいる。
俺は、あの少女の光を、消させたくないと思った。それが、俺の目的とどう繋がるのか、まだ言葉にはできなかった。
◆◆◆
昼過ぎ、街道の途中に小さな宿場町があった。
食料を買い足すため、俺は下働きの女に化けて、市場を歩いた。リゼットは、離れた場所で周囲を警戒している。
「──アルテミス様の噂、聞いたか」
背後から、声が聞こえた。振り返らず、耳だけをそちらに向けた。
「灼光位を剥奪された女のことか」
「ああ。教団の縁談を潰したらしい。証拠一つで、貴族の噓を暴いたって話だ」
「大した女だな」
「大したもんさ。だが、教団に目をつけられて、生きていけるとは思えん」
俺は、市場の陰で、口元だけで笑った。
噓を暴いた話が、既に噂になっている。数日前まで存在を消された俺が、今度は「アルテミス」という名で語られている。
これは使える。
「アルト」
リゼットが、俺の横に来た。表情が、緊張している。
「どうした」
「あんたの噂、思ったより早く広がってる。それ自体は問題ない。だが──」
彼女は、市場の奥、教団の紋章を掲げた馬車を見た。
「見ろ。あれ、ただの巡察じゃない」
馬車の周囲に、黒衣が数人。だが、先頭に立つ人物の格が、明らかに違った。若い男だ。着ている法衣が、審問官のそれより格上だった。
「あれは……」
「あんたの紋章の反応を、追跡できる術式を持ってる馬車だ。あたしの魔力視でも、それくらいは分かる」
「ユーディットの上か」
「かもしれない。だが、あの男の魔力、視たことのない質だ。灼光でも月影でもない。……両方、混ざってる」
俺は、その男を見た。両性魔法。俺と、同じ質の力を持つ人間。
「まさか、教団が──」
「あんたと同じ力を、他にも作ってるのか。それとも、あんたより先に、持ってる奴がいたのか。どっちにしても、厄介だ」
若い男が、こちらを向いた。距離があった。だが、その目が、まっすぐに、俺を捉えた気がした。
◆◆◆
「行くぞ、アルト」
リゼットが、俺の袖を引いた。
俺たちは、市場を離れ、裏路地に入った。だが、背後で、馬車の車輪の音が止まった。
「──止まった」
「気づかれたか」
「分からない。だが、確かめてる余裕はない」
俺たちは、宿場町を出る裏道を急いだ。街道に戻る前に、小さな森を抜ける必要があった。
森に入ると、周囲が急に静かになった。木々の間から差し込む光が、まだらに地面を照らしている。
「──もう見えないな」
俺は、後ろを確認した。だが、リゼットの足が、また止まった。
「アルト」
彼女の声が、低かった。
「前だ」
森の奥、木々の隙間に、人影が立っていた。
一人ではない。数人。教団の黒衣ではない。装いが違う。もっと粗末な、旅装束だった。
「山賊か」
「違う」リゼットが、目を細めた。「魔力の質を視てる。……教団の魔力じゃない。だが、統率されてる。素人の集団じゃない」
先頭の男が、一歩、進み出た。
「アルト・グレイヴェル。そして、リゼット・ヴェスペリア」
その名を、正確に呼んだ。
「お前ら……何者だ」
「教団の犬でもなければ、山賊でもない」
男は、フードを少し上げた。中年の、傷だらけの顔だった。
「俺たちは、鍵を狙う者たちの中でも、教団とは別の筋だ。あんたらの鍵を、いただきに来た」
リゼットの表情が、初めて、明確に強張った。
「──教団だけじゃなかったのか」
「当然だろう」男が、低く笑った。「千年隠された噓に、目をつけてるのは、教団だけだと思ってたのか。世の中には、噓を暴くより、噓を利用したい奴らの方が多い」
彼らの手に、武器が構えられた。金属の刃ではない。何か、魔力で編まれた縄のようなものだった。
「抵抗するなら、鍵ごと痛めつける。生かして連れて帰れとしか、言われてない」
俺は、リゼットと目を合わせた。
彼女の目には、これまでにない色があった。恐怖ではない。予想外の事態への、純粋な警戒だった。
「アルト。あたしの魔力視でも、こいつらの数と力量、正確には視えない。統率された連中の中に、こういう手合いがいるってことは──」
「教団以外にも、俺たちを狙う勢力がいる、ってことか」
「それだけならまだいい。問題は──」
彼女は、言葉を切った。
「あの、両性魔法を使う教団の男。あれと、この連中。もし、繋がってるとしたら」
森の四方から、旅装束の男たちが、じわじわと距離を詰めてきた。逃げ場は、既にない。
俺は、右腕の紋章に意識を集中した。
「──上等だ」
俺は言った。
「誰であろうと、俺の鍵を奪おうとする奴は、全員相手にしてやる」
先頭の男が、笑った。
「威勢がいいな。だが、あんたはまだ知らない」
彼は、フードを完全に外した。
その顔に、見覚えがあった。何度か、灼光学院の資料で見た顔だ。
「かつて、教団から逃げた、実験体の一人だ」男は、傷だらけの手を掲げた。「あんたのお仲間の、先輩ってやつだな」
リゼットの顔から、血の気が引いた。
「──生きて、たのか」
「驚いたか。あんたが四歳のとき廃棄処分になりかけたのと同じ実験、俺たちも受けた。何人かは、生き延びた」
男の手のひらに、灰色の光が灯った。灼光でも月影でもない、あの若い教団士と同じ質の光だった。
「今からあんたらを、丁重に、俺たちの依頼主のもとへ送ってやる。抵抗するなよ、後輩」