灰被りの街で、猫は九度泣く   作:バスケ部キャプテン

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残飯の匂い

 メシの匂いがする。

 

 焼けた小麦だ。それと砂糖。なにか甘いものが混ざってる。

 

 いつもの生ゴミとは違う。

 

 俺は裏通りの塀から飛び降りた。着地で前足に少し響いたが、気にしない。もう歳だ。若い頃みたいには動けない。でも、メシの匂いには逆らえない。

 

 夜の空気は冷たい。冬が近い。俺の毛は厚くなり始めているが、それでもコンクリートの冷たさが肉球から伝わってくる。

 

 匂いの元を探して歩く。鼻が地図を描く。

 

 ゴミ置き場の青いシートの向こうに、小さいのが立っていた。

 

 小さいの。二本足。子どもだ。

 

 五つか六つ。たぶんメス。コートを着ている。赤いコートだ。俺には色の名前はわからないけど、暗闇の中でそれがやけに目立った。街灯の黄色い明かりに照らされて、浮かび上がっている。

 

 小さいのは泣いていた。

 

「かあさん」

 

 そういう声を出している。

 

 涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。手にはなにか握っている。クッキーだ。欠けたクッキー。そこから甘い匂いがしている。

 

 俺は尻尾を立てて近づく。

 

 小さいのは俺に気づいた。泣き止む。

 

「ねこちゃん」

 

 涙の跡が残った顔で、小さいのはしゃがんだ。手を伸ばしてくる。

 

 俺は一歩、下がる。

 

 まだ触らせない。

 

 先にメシだ。

 

 ポケットにクッキーが入っている。コートの右ポケットだ。匂いでわかる。俺は小さいのの脚にすり寄りながら、ポケットの位置を確認する。

 

 小さいのは俺の背中を撫でようとした。俺は身をかわす。ポケットに鼻先を押し付ける。

 

 ここだ。ここにメシがある。

 

「おなかすいたの?」

 

 小さいのはポケットからクッキーの欠片を取り出した。俺の前に置く。

 

 俺はすぐに食いついた。

 

 小麦の味。砂糖の甘さ。それと、チョコレートのかけら。苦い。でも食える。俺は三口で平らげた。

 

 もっとあるはずだ。

 

 俺はもう一度ポケットに鼻を押し付ける。

 

 小さいのは首を振った。

 

「もうないよ。ごめんね」

 

 嘘だ。匂いがまだ残っている。でも小さいのは立ち上がり、また歩き出した。

 

 俺はその場に座って、小さいのを見送る。

 

 縄張りの端まであと少し。ここから先は俺の知らない通りだ。野良犬の匂いがする。ここでやめておけ。

 

 尾を巻いて帰れ。

 

 ◆◆◆

 

 小さいのは転んだ。

 

 道路の割れ目に足を取られた。膝を擦りむいて、大声で泣き始める。

 

「かあさん! かあさん!」

 

 泣き声が夜の路地に響く。誰かの家の窓に明かりがついた。

 

 俺は耳を伏せる。うるさい。それに、あの声はまずい。他の連中が来る。

 

 野良犬。カラス。それから、二本足の悪い奴ら。

 

 小さいのは泣き続けている。膝から血が出ている。匂いでわかる。鉄の匂いだ。

 

 俺はまた、小さいのに近づいた。

 

 今度は自分からだ。

 

 小さいのは俺を見て、手を伸ばした。俺は逃げなかった。小さいのの指が俺の頭に触れる。冷たい手だ。

 

「ねこちゃん、いたい」

 

 俺は小さいのの脚に額をこすりつける。俺の匂いをつける。

 

 それから膝の傷を舐めてやった。

 

 子猫にやるのと同じだ。舐めれば少しはマシになる。俺の唾が傷を塞ぐわけじゃないけど、小さいのは泣き止んだ。

 

「くすぐったい」

 

 小さいのは笑った。

 

 涙の跡が残った顔で笑う。二本足はよくわからない顔をする。

 

 俺は舐めるのをやめて、歩き出す。

 

 自分の縄張りへ戻るために。

 

 しかし小さいのは俺の後をついてきた。

 

「まって」

 

 俺は振り返る。小さいのは泣きそうな顔で俺を見ている。

 

「どこいくの」

 

 知ったことじゃない。俺は俺の場所に帰るだけだ。

 

「こわい。くらいよ」

 

 知ったことじゃない。

 

「かあさんはどこ」

 

 知ったことじゃない。

 

 俺はまた歩き出す。小さいのはついてくる。

 

 止まれ、とは言えない。俺は二本足の言葉を話せない。ニャーと鳴いてみるが、小さいのは嬉しそうに「ねこちゃん」と言うだけだ。

 

 ダメだ。通じない。

 

 俺は諦めて、少しだけ速度を落とした。

 

 小さいのはぴったりと俺の後ろを歩く。鼻をすすりながら。

 

 ◆◆◆

 

 五軒先まで歩いたとき、俺は匂いに気づいた。

 

 まずい匂いだ。

 

 野良犬の匂い。

 

 それも一匹じゃない。三匹。それと、尿の匂いが新しい。さっきマーキングしたばかりだ。

 

 ここは奴らの縄張りだ。

 

 俺は立ち止まる。

 

 小さいのも立ち止まる。

 

「どうしたの?」

 

 俺は尻尾を太くして、低く唸る。

 

 野良犬は嫌いだ。十年前、俺がまだ若かった頃、公園で追いかけられたことがある。左耳の先が少し欠けているのは、そのときにやられた傷だ。

 

 今の俺はもっと賢い。喧嘩はしない。逃げる。それが一番だ。

 

 でも小さいのは逃げられない。

 

 走れない。あの短い脚じゃ、野良犬に追いつかれる。

 

 俺は考える。

 

 小さいのをここに置いて、自分だけ戻るか。

 

 それとも。

 

 遠くで物音がした。爪がアスファルトを引っ掻く音。低い唸り声。

 

 野良犬だ。

 

 小さいのはまだ気づいていない。膝の痛みでそれどころじゃない。

 

 俺は決めた。

 

 こっちだ。

 

 俺は向きを変えた。縄張りの奥へは戻らない。違う方向へ歩き出す。

 

 駅のほうだ。

 

 あっちは猫が多い。でも野良犬は少ない。人間の数が多いからだ。危険な人間もいるけど、今は野良犬よりマシだ。

 

 小さいのは素直についてくる。

 

「どこいくの?」

 

 知ったことじゃない。俺にもわからない。でも、ここにいるよりは安全だ。

 

 俺は尻尾を高く上げて、ゆっくり歩く。小さいのが見失わないように。

 

 子猫を連れて歩くのと同じだ。

 

 ずっと昔、俺にも子猫がいた。

 

 今はいない。

 

 ◆◆◆

 

 駅前の通りに出た。

 

 明るい。人が多い。俺は足を速める。人混みを縫って歩く。小さいのは小走りでついてくる。

 

「ねこちゃん、まって」

 

 俺は一度だけ立ち止まる。小さいのが追いつくのを待つ。それからまた歩く。

 

 駅の入口から、温かい空気が吹き出している。

 

 人々が行き交う。誰も俺たちを見ない。

 

 二本足は夜になると忙しい。自分のことだけで精一杯だ。

 

 小さいのはまた「かあさん」と言った。

 

 でも今度は泣いていない。ただ言っただけだ。

 

 俺はベンチの下に潜り込む。小さいのも座り込む。コートの下から、さっきの膝の傷が見えた。血はもう止まっている。

 

「ねこちゃん、あったかいね」

 

 小さいのは俺に手を伸ばす。今度は俺も逃げなかった。

 

 指が俺の耳の後ろを撫でる。

 

 悪くない。

 

 撫でられるのは嫌いじゃない。若い頃はもっと嫌だった。でも今は歳だ。たまには撫でられてもいい。

 

 俺は目を閉じる。

 

 でもすぐに開ける。

 

 匂いが変わった。

 

 雨だ。

 

 ◆◆◆

 

 雨が降り出した。

 

 最初はぽつぽつだった。すぐに本降りになる。駅前の人々は傘をさしたり、走り出したりしている。

 

 俺はベンチの下から出ない。

 

 濡れるのは嫌いだ。毛が濡れると重くなる。体温が奪われる。

 

 小さいのはベンチの上で震え始めた。

 

「さむい」

 

 コートは防水じゃない。赤い布がじわじわと暗くなっていく。髪の毛が顔に張りついている。

 

 俺は小さいのを見上げる。

 

 震えている。

 

 この震え方を俺は知っている。子猫が寒さで死ぬときの震えだ。

 

 俺は立ち上がる。

 

 行くぞ。

 

 俺はベンチから飛び降りて、雨の中を歩き出す。小さいのは「やだ」と言ったけど、ついてくる。

 

 濡れたくないからだけど、ついてくる。

 

 俺は記憶の中の匂いを辿る。

 

 この近くに、雨をしのげる場所がある。何年も前に見つけた場所だ。今もあるはずだ。あれはなくならない。人間が作ったものじゃないから。

 

 駅から十分ほど歩いた。

 

 小さいのはだんだん遅くなる。

 

「もうあるけない」

 

 それでも歩かせる。止まったら終わりだ。

 

 子猫を育てたときに覚えた。弱い奴はすぐに諦める。でも諦めさせたら死ぬ。

 

 俺は振り返らずに歩く。尻尾だけを立てて。

 

 小さいのは泣きながらついてくる。

 

 やがて、見えてきた。

 

 廃工場だ。

 

 崩れかけた壁に、波板の屋根。半分は落ちているけど、端のほうはまだ雨を凌げる。

 

 俺は廃工場の中に入る。

 

 小さいのも続く。

 

 中は暗い。でも俺の目にはよく見える。

 

 埃っぽい。機械油の匂い。鼠の糞の匂い。それと、別の猫の匂い。少し前まで誰かここにいた。でも今はいない。

 

 安全だ。

 

 隅にダンボールが積んである。俺はその上に飛び乗った。

 

 小さいのは床に座り込む。

 

「くらくてこわい」

 

 声が震えている。

 

 俺は喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

 暗闇の中で、俺の喉の音だけが響く。小さいのは耳を澄ませている。

 

「なに、それ」

 

 ゴロゴロ。

 

 俺はダンボールから飛び降りて、小さいのに近づく。

 

 濡れたコートは冷たい。でも、コートの下からはまだ体温が感じられる。

 

 俺は小さいのの膝の上に乗った。

 

「おもい」

 

 知ったことじゃない。

 

 俺は丸くなり、喉を鳴らし続ける。

 

 ゴロゴロ。

 

 ゴロゴロ。

 

 小さいのは俺の背中に手を置いた。冷たい手だ。でも、だんだん温かくなってくる。

 

「ねこちゃん、あったかい」

 

 俺は目を閉じる。

 

 外ではまだ雨が降っている。でもここは濡れない。風もしのげる。小さいのの心臓の音が聞こえる。早い。でも少しずつ落ち着いてきた。

 

 俺は眠らない。眠っている場合じゃない。

 

 外の音を聞いている。

 

 雨の音。遠くの車の音。それから──

 

 人の足音。

 

 近づいてくる。

 

 俺は目を開ける。

 

 足音は一つだけ。重い。男だ。それも酔っている。足取りがふらついている。

 

 俺は小さいのの膝から飛び降りた。

 

 入口を見る。

 

 男が立っていた。

 

「お、誰かいるのか」

 

 酒の匂いが強烈だ。俺の鼻がひりつく。男は千鳥足で近づいてくる。

 

 俺は毛を逆立てて、唸る。

 

 フーッ。

 

 威嚇だ。これ以上近づくな。

 

 男は俺を見て、汚い言葉を吐いた。

 

「なんだ猫か。びっくりした」

 

 男は俺を蹴ろうとした。俺は飛び退く。酔っているから動きが遅い。簡単に避けられる。

 

 でも小さいのは違う。

 

 男は小さいのに気づいて、にやっと笑った。

 

「お嬢ちゃん、こんなところでなにしてるの? 迷子か?」

 

 小さいのは黙っている。俺の後ろに隠れた。

 

「おじさんが家まで送ってやろうか」

 

 違う。

 

 この男の匂いは違う。

 

 何年も野良をやってきた俺にはわかる。いい人間と悪い人間の匂いの違いが。

 

 この男は後者だ。

 

 男は小さいのに手を伸ばした。

 

 俺は迷わなかった。

 

 俺は跳んだ。

 

 爪を出す。牙を剥く。

 

 男の手首に噛みつき、思い切り爪を立てて引っ掻いた。

 

「ぐあっ!」

 

 男は悲鳴を上げて後退る。俺は離さない。もう一度、深く噛む。

 

 血の味が口に広がる。まずい。鉄の味。

 

「この野郎!」

 

 男は腕を振り回す。俺は振り落とされて壁に叩きつけられた。

 

 肋骨に鈍い痛み。でも骨は折れていない。

 

 俺はすぐに立ち上がる。また唸る。

 

 今度は男が怯んだ。

 

「くそっ、気味悪い猫だ」

 

 男は手首の血を見て、何かぶつぶつ言いながら廃工場を出ていった。

 

 足音が遠ざかる。雨の中に消えていく。

 

 俺は唸るのをやめた。

 

 痛い。

 

 右の前足と、あばらが痛む。でも立てる。歩ける。

 

 小さいのは泣き出した。

 

「ねこちゃん、けがした!」

 

 俺は血のついた口を舐める。

 

 たいしたことはない。

 

 何年も野良をやっている。これくらいは何度もある。

 

 でも、小さいのは違う。

 

 小さいのは俺のところに来て、血まみれの俺の頭を抱きしめた。

 

「ねこちゃん、ありがと」

 

 俺はじっとしている。

 

 小さいのの腕の中で、じっとしている。

 

 痛い。でも、悪くない。

 

 撫でられるのも、抱きしめられるのも、たまには悪くない。

 

 俺は目を閉じる。

 

 喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

 外の雨はまだ止まない。夜は長い。でも今は、ここでいい。

 

 小さいのの体温が、俺の腹に伝わってくる。

 

 俺はしばらく、こうしていた。

 

 ──-

 

 雨が少し弱まった頃。

 

 俺は小さいのの腕から抜け出した。

 

 まだ夜は終わっていない。小さいのをここに置いていくわけにはいかない。

 

 どうするか。

 

 俺は鼻で空気を探る。

 

 雨に混じって、いろんな匂いがする。排気ガス。土。鼠。遠くの焼き魚。

 

 それと、小さいののコートに染みついた匂い。

 

 母親の匂いとは違う。

 

 柔軟剤だ。洗濯したばかりの匂い。それと、タバコの匂い。父親か。兄弟か。

 

 俺はこの匂いを記憶する。

 

 明日、この匂いを辿れば、小さいのの家がわかるかもしれない。

 

 でも今夜はダメだ。雨がすべてを洗い流している。

 

 俺は決めた。

 

 朝まで待つ。

 

 雨が止むまで、ここで小さいのを守る。

 

 それから匂いを辿って、家に送り返す。

 

 簡単なことじゃない。何時間もかかるかもしれない。野良犬の縄張りを通るかもしれない。もっと危険な二本足に会うかもしれない。

 

 でも俺はやる。

 

 別に小さいののためじゃない。

 

 俺がやりたいからやるだけだ。

 

「ねこちゃん、どこいくの」

 

 小さいのが不安そうに俺を見ている。

 

 俺は何も言えない。

 

 代わりに、小さいのの脚に額をこすりつける。俺の匂いをつけ直す。

 

 もう一回、喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

 それは約束だ。

 

 言葉じゃないけど、約束だ。

 

 俺は廃工場の入口に向かう。雨を見張る。外の音を聞く。危険が来ないか、ずっと見張っている。

 

 小さいのはやがて、疲れて眠った。

 

 俺は眠らない。

 

 夜が明けるまで、俺が守る。

 

 ◆◆◆

 

 朝が近い。

 

 雨がやんだ。空が白み始めている。

 

 小さいのはまだ寝ている。コートに包まれて、小さく丸まっている。寝息が聞こえる。規則正しい。大丈夫だ。

 

 俺は体を伸ばす。あばらがまだ痛む。右の前足も少し引きずる。

 

 でも動ける。

 

 さあ、仕事だ。

 

 俺は小さいのに近づいて、顔を舐める。ざらざらの舌で、額を舐める。

 

 小さいのは目を覚ました。

 

「ねこちゃん、おはよう」

 

 小さいのは笑った。

 

 昨夜よりも顔色がいい。

 

 俺は歩き出す。小さいのも立ち上がる。

 

 廃工場を出る。

 

 夜明けの街は静かだ。誰もいない。鳥の声だけがする。

 

 俺は鼻を地面につけて、匂いを探る。

 

 雨に流されて、多くの匂いは消えている。でも、小さいののコートについた匂いはまだある。柔軟剤。タバコ。それと──ほんの少し残った、母親の匂い。

 

 かすかだ。

 

 でも俺の鼻なら追える。

 

 俺は尻尾を立てて、歩き出す。

 

 こっちだ。

 

 小さいのはその後ろをついてくる。

 

「どこいくの?」

 

 俺は答えない。代わりに、振り返って一度だけ鳴く。

 

 ニャー。

 

 ついてこい。

 

 小さいのは嬉しそうに走り寄ってくる。

 

 俺たちは朝の街を歩く。

 

 たった一夜を越えただけだ。まだ何も終わっていない。家は遠い。危険もある。

 

 でも、今は。

 

 俺は前を向く。

 

 鼻が地図を描く。

 

 耳が危険を聞き分ける。

 

 目が道を見つける。

 

 これが俺の仕事だ。

 

 小さいのを、家に帰す。

 

 俺がやる。

 

 ◆◆◆

 

 俺たちの夜は、まだ終わらない。




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