灰被りの街で、猫は九度泣く 作:バスケ部キャプテン
朝の光が路地を白く染める。
雨はやんだ。アスファルトから湯気が立っている。冷たい空気と、温まり始めた地面が混ざって、変な匂いがする。
俺は鼻を地面につけて歩く。
小さいのが後ろからついてくる。足音がとんとんと聞こえる。さっきより元気だ。寝たからだろう。
「ねこちゃん、どこいくの」
俺は答えない。代わりに尻尾を立てて、道を示す。
こっちだ。
鼻が記憶を呼び起こす。昨夜、小さいののコートに染みついていた匂い。柔軟剤。タバコ。それと、母親の匂い。あの三つが混ざった空気を、俺は覚えている。
今はまだ薄い。雨がほとんど洗い流した。でも、かすかに残っている。
俺の鼻はくっきりとそれを掴んでいる。
道を左に曲がる。細い路地だ。ゴミ袋が積んである。生ゴミの匂いが強い。でもその下に、探している匂いが隠れている。
俺はゴミ袋の間をすり抜ける。小さいのは鼻をつまんでついてくる。
「くさい」
知ったことじゃない。匂いを追うのが俺の仕事だ。
路地を抜けると、小さな公園に出た。
滑り台とブランコがある。誰もいない。朝早いからだ。ベンチに新聞紙をかぶった男が寝ている。酒の匂いがする。でも動かない。大丈夫だ。
俺は公園の縁を歩く。匂いがここで一度、濃くなる。小さいのが昨日、ここを通ったんだ。母親と一緒に。
「かあさん、ここにいたかも」
小さいのがベンチに触る。俺はその手を舐める。やめろ。時間がない。
先を急ぐ。
公園を出て、また路地に入る。今度は古い商店街だ。シャッターが下りた店が並ぶ。魚屋の前を通ると、小さいのが立ち止まった。
「おさかなのにおい」
俺も知っている。ここはいいメシが手に入る場所だ。若い頃、よくここでアジの頭をもらった。でも今は誰もいない。
俺は魚屋のシャッターの下をくぐり、裏口へ回る。
ゴミ箱がある。
蓋が半分開いている。中から魚の骨と、発泡スチロールの欠片の匂い。それと、まだ食える刺身の切れ端。
俺は飛び乗って、ゴミ箱の中に頭を突っ込む。
あった。
サーモンの切れ端だ。人間には小さいかもしれないが、俺には十分だ。
俺はそれをくわえて、小さいのの前に落とす。
「え、くれるの?」
俺は尻尾を振る。食え。
小さいのはしゃがんで、サーモンをつまんだ。少し汚れているけど、気にしないらしい。口に入れる。
「おいしい。ねこちゃん、ありがと」
小さいのは笑った。
俺は自分の分はない。腹は減っているが、小さいのに食わせるのが先だ。
子猫を育てたときと同じだ。
◆◆◆
商店街を抜けると、大きな通りに出た。
車がたくさん走っている。うるさい。排気ガスの匂いが鼻を刺す。俺は耳を伏せる。
ここは嫌いだ。
何年も前、ここで仲間が車に轢かれた。黒い猫だった。名前はもう忘れた。
小さいのは平気な顔で歩こうとする。
俺は小さいのの前に回り込む。通せんぼだ。
「どうしたの?」
ダメだ。ここは危ない。
俺は小さいのの脚にすり寄り、それから横断歩道のほうへ歩く。あっちだ。白い線が引いてある場所。あそこを渡るのがまだマシだ。
信号が赤から青に変わる。車が止まる。
俺は走り出す。
「まって!」
小さいのが後ろから走ってくる。短い脚で必死だ。
俺は横断歩道の真ん中で立ち止まり、振り返る。小さいのが追いつくのを待つ。
車の運転手がクラクションを鳴らした。
うるさい。
でも俺は動かない。小さいのが来るまで。
小さいのがやっと追いついた。俺はまた走り出す。向こう側の歩道に着く。
「こわかった」
小さいのは息を切らしている。俺は小さいのの脚に額をこすりつける。
大丈夫だ。ここまで来れば安全だ。
◆◆◆
通りの向こうは、住宅街だった。
一軒家が並んでいる。庭のある家。駐車場のある家。犬を飼っている家。犬の匂いには気をつけろ。
俺は鼻で空気を探る。
母親の匂いが、さっきより少し強い。
こっちだ。
俺は足を速める。小さいのも速足になる。
三軒目の家の前を通ったとき、小さいのが突然立ち止まった。
「このおうち、なんかしってる」
俺も立ち止まる。
白い壁の家だ。門に花が植えてある。郵便受けに「タナカ」と書いてある。
小さいのは首をかしげる。
「ちがう。かあさんのおうちじゃない。でも、きたことある」
俺は家の周りの匂いを嗅ぐ。
柔軟剤の匂いがする。それと、小さいののコートと同じ匂い。ここに小さいのが来たことがあるのは確かだ。でも母親の匂いは薄い。
友達の家か、なにかだ。
先を急げ。
俺はまた歩き出す。
小さいのは名残惜しそうに白い家を見ていたが、やがてついてきた。
◆◆◆
太陽が高くなる。
昼が近い。気温が上がってきた。俺の毛が少し暑い。冬の毛に生え変わりかけているからだ。
小さいのもコートを脱ごうとしている。
「あつい」
俺は振り返って鳴く。
脱ぐな。まだ必要だ。
小さいのは意味がわからず、でもなんとなくコートを着たまま歩き続ける。
住宅街の端まで来た。ここから先は、古い団地がある。
団地の間を抜ければ、商店街の裏手に出る。あっちのほうが匂いが強い。
でも、団地には猫が多い。
俺の縄張りじゃない。他の猫の匂いが強い。特にボス猫の匂いだ。
オスの縄張りに入るときは、慎重にならなければならない。
俺は耳を立て、尻尾を低くする。戦う気はない。通してほしいだけだ。
団地の駐輪場を通り抜ける。
自転車の陰から、一匹の猫が出てきた。
白黒のオスだ。若い。二歳か三歳。傷がある。喧嘩慣れしている。
奴は俺を見て、低く唸った。
俺は立ち止まる。小さいのも立ち止まる。
「ねこちゃん、どうしたの?」
小さいのがしゃがんで、白黒猫に手を伸ばそうとする。
ダメだ。
俺は小さいのの前に立つ。尻尾を太くして、威嚇の姿勢をとる。
白黒猫は俺を見て、それから小さいのを見た。何かを考えている。
俺は奴の目をじっと見る。
俺は若くない。喧嘩も強くない。でも今は引けない。
白黒猫は、少ししてから、ふいと顔をそらした。それからゆっくりと駐輪場の奥へ消えていった。
通っていい、という意味だ。
猫の世界には猫の世界の掟がある。俺が威嚇した。奴は退いた。それだけだ。
俺は緊張を解いて、また歩き出す。
小さいのは不思議そうに白黒猫の消えたほうを見ていた。
「おともだち?」
ちがう。
でも説明できない。
俺はただ黙って、団地の通路を進む。
◆◆◆
団地を抜けたところで、小さいのが突然、立ち止まった。
「ねこちゃん、あし、いたい」
見ると、小さいのは足を引きずっている。靴擦れだ。かかとが赤くなっている。
「もうあるけない」
小さいのは座り込んだ。
俺は困った。
抱えて運ぶことはできない。背中に乗せることもできない。俺は猫だ。小さい。
どうする。
俺はあたりを見回す。
日陰になっているブロック塀の下がある。コンクリートが冷たい。でも直射日光よりはマシだ。
俺は小さいのに近づいて、顔を舐める。
こっちだ。
小さいのは泣きそうな顔で俺を見る。
「いたいの」
俺は小さいのの靴に鼻を近づける。血の匂いはしない。ただ擦れただけだ。
たいしたことはない。
でも小さいのにとっては大問題だ。
俺は小さいのの膝に乗る。重いと言われるが、知ったことじゃない。喉を鳴らす。
ゴロゴロ。
小さいのは俺の背中を撫でる。
「ねこちゃんはいつもあったかいね」
俺はしばらく、そうしていた。
でも、ずっとはいられない。
日が暮れるまでに家を見つけなければならない。夜になれば、また寒くなる。それに、昨日のような雨が降らないとも限らない。
俺は小さいのの膝から飛び降りた。
歩くぞ。
小さいのは嫌がったが、ゆっくり立ち上がった。
「ちょっとだけなら」
それでいい。
俺はゆっくり歩く。小さいのがついてくる速度に合わせる。
◆◆◆
しばらく歩くと、小さいのが「かあさんのにおい」と言った。
俺も気づいている。
匂いが急に強くなった。
柔軟剤。タバコ。それと母親の匂い。
ここだ。
ここに住んでいる。
でも家はまだ見えない。匂いは風に乗って、あっちこっちから来る。
俺は風向きを読む。
北西の風だ。匂いは南東から流れてきている。
こっちだ。
俺は方向を変える。小さいのもついてくる。
住宅街の中をジグザグに進む。行き止まりにぶつかっては引き返す。塀を飛び越え、小さいのを迂回させる。
「ねこちゃん、すごいね。どうしてみちがわかるの」
鼻だ。
それだけだ。
そしてようやく、それらしい家の前に出た。
二階建てのアパートだ。一階の端の部屋。表札に「サトウ」と書いてある。窓にカーテンがかかっている。
小さいのはその家を見て、走り出した。
「かあさん!」
でも、家の中は静かだ。誰もいない。
小さいのはドアを叩く。
「かあさん! あけて!」
返事がない。
俺は家の周りを嗅ぐ。
母親の匂いは確かにある。でも弱い。今朝出かけたばかりの匂いだ。それに、靴の跡が新しい。ドアの前に、慌てて出ていったような足跡がある。
それから、別の匂い。
知らない大人の匂い。男だ。優しい匂いじゃない。警察の匂いでもない。もっと別の。
俺は耳を立てる。
遠くでサイレンが聞こえる。
いや、近い。
サイレンはどんどん大きくなる。このアパートに向かっている。
俺は小さいのの脚にすり寄る。
隠れろ。
でも小さいのはドアを叩き続ける。
「かあさん! かあさん!」
サイレンが止まった。
アパートの前に、白と黒の車が停まる。パトカーだ。中から警官が二人、降りてくる。
俺は身を隠す。警察は嫌いだ。前に一度、捕まりかけたことがある。
小さいのは警官を見て、泣きそうな顔で言った。
「おじちゃん、かあさんは?」
警官の一人がしゃがんで、優しい声で言う。
「君がユイちゃんか。お母さん、君をずっと探してたんだよ。昨夜からずっと」
小さいの──ユイは、警官の言葉を聞いて、わっと泣き出した。
「かあさん、どこ」
「大丈夫、すぐに会えるよ。さあ、一緒に行こう」
警官はユイの手を引いて、パトカーに乗せようとする。
俺は塀の陰からそれを見ていた。
仕事は終わった。
ユイは見つかった。親元に帰るだろう。
俺の役目はここまでだ。
それでいい。
俺は尻尾を下げて、その場を離れようとした。
「ねこちゃん!」
ユイが叫んだ。
振り返ると、ユイがパトカーの窓から身を乗り出して、俺を指さしている。
「あのねこちゃんが、わたしをまもってくれたの! いっしょにつれてきてくれたの!」
警官が俺を見る。
「猫?」
まずい。
俺は走り出した。
「まって! ねこちゃん!」
ユイの声が聞こえる。
でも俺は振り返らない。
走って、走って、路地の奥に消える。
パトカーのサイレンがまた鳴る。でもそれは遠ざかっていく。
俺は古い物置の裏に隠れて、息を整える。
終わった。
終わったんだ。
俺はその場に座り込む。
腹が減った。喉が渇いた。体中が痛い。右の前足もまだ引きずっている。
でも悪くない。
悪くはない仕事だった。
俺は前足を舐める。傷口に唾をつける。
さあ、自分の縄張りに帰ろう。
俺は立ち上がる。
そして匂いに気づいた。
ユイの匂いが、まだ俺の鼻の奥に残っている。
柔軟剤。タバコ。それと、泣き止んだときの、あの安堵の匂い。
俺はもう一度、アパートのほうを見る。
誰もいない。
静かな昼下がりだ。
俺はゆっくりと、自分の縄張りへ向かって歩き始めた。
来た道を戻る。
団地の駐輪場を通りかかると、さっきの白黒猫がまだいた。
奴は俺を見て、今度は威嚇しなかった。
ただじっと見ているだけだ。
俺も何も言わずに通り過ぎる。
猫の世界では、こういうことはあまりない。縄張りを越えて、戻ってくる猫なんて普通はいない。
でも今日は特別だ。
俺は自分の縄張りに戻る。いつもの裏通り。いつものゴミ置き場。いつもの塀の上。
全部、昨日と同じだ。
でも何かが違う。
俺は塀の上で丸くなり、目を閉じる。
夕方まで寝よう。
疲れた。
遠くでまたサイレンが聞こえる。
それから、子どもの声。笑い声。
俺の耳は、その中にユイの声を探している自分に気づく。
いや、そんなはずはない。
ユイはもう帰った。
俺の仕事は終わった。
それだけだ。
俺は耳を伏せて、眠りにつく。
夢の中で、ユイが笑っていた。サーモンを食べて、おいしいと言った顔だ。
俺はその夢を、悪くないと思いながら見ていた。
◆◆◆
夕方、俺は目を覚ました。
腹が減った。
いつものゴミ置き場に行く。今日は燃えるゴミの日だ。生ゴミがたくさんある。
青いシートをめくって、中を探る。
魚の骨。食べかけのパン。それと、なにかの煮物の残り。
俺はパンをくわえる。
そのとき、匂いがした。
ユイの匂いだ。
それと、母親の匂い。
俺は顔を上げる。
裏通りの入口に、女の人が立っていた。ユイと同じ柔軟剤の匂いがする。それに、タバコの匂い。母親だ。
母親は俺を見ている。
手に何か持っている。缶詰だ。猫用のツナ缶。
母親はしゃがんで、缶を開けた。ツナの匂いが広がる。
「あなたが、ユイを助けてくれた猫さん?」
俺は答えない。
母親はゆっくり近づいて、ツナ缶を地面に置いた。
「ありがとう。娘が、ずっとあなたのことを話してるの。黒くて、耳が欠けてて、すごくかっこいい猫だって」
俺はツナ缶を見る。
「どうぞ。お礼です」
母親は下がって、俺が食べるのを待っている。
俺は用心しながら近づく。
ツナの匂い。間違いない。本物だ。
俺は食べ始める。
うまい。
最高にうまい。
母親は俺が食べるのを、にこにこしながら見ている。ユイと同じ笑い方だ。
「本当にありがとう。あなたがいなかったら、ユイは野良犬に襲われてたかもしれないって、警察の人が言ってた」
俺は知っている。
でもたいしたことじゃない。
俺がやりたいからやっただけだ。
ツナを食べ終わると、母親は立ち上がった。
「もしよかったら、うちに来ない? ユイが待ってる」
俺は耳を立てる。
家。
人間と暮らすこと。
昔、俺にも家があった。老女がいた。温かい膝と、ミルクと、窓辺の日溜まり。
でも老女は死んだ。家は空き家になった。
俺はそれから野良になった。
もう一度、家を持つなんて考えたこともなかった。
俺はツナ缶を舐め終えて、母親を見上げる。
母親はまだ待っている。
俺は尻尾を立てた。
それから、ゆっくりと母親のほうへ歩き出す。
一歩。
二歩。
どうなるかはわからない。
でも今は、ついていく。
それも悪くない。
俺は母親の後ろをついて、裏通りを出た。
夕焼けが街を赤く染めている。
今日も夜が来る。
でも今夜は、いつもと違う夜になるかもしれない。
俺はそう思いながら、歩き続けた。